「これ、どうすんのよ!?」
アンティークと言い張るには年季の入りすぎた木製のテーブルに、ちなみは容赦なく新聞を叩きつけた。
「ちょっと。それ、うちの新聞」
「あ、すみません」
古びたテーブルと共に数々の重みを支えてきた歴戦の椅子は、今にも折れそうな腐りかけの脚で、それぞれゆかりたち三人のプリキュアと忍の体重を健気に受け止めていた。
それらを擁する部室の扉にも、ところどころに棘や隙間が目立ち、ちなみの大声を室内に留めることに苦労している。仮に木の妖精なるものがちなみに声のボリュームを下げるようお願いしたとしても、今回ばかりは彼女もその要請を受諾することはできなかっただろう。
「あの、私も読んでいいですか……?」
恐る恐るといった様子でテーブルに置かれた新聞に手を伸ばすと、一面に載せるにはあまりにもお粗末なぼやけた写真と、でかでかと印刷された見出しがゆいの目をくぎ付けにした。
「何て書いてあるの?」
彼女の肩越しに紙面を覗いたゆかりは、“平和な町を巨人が襲う”という見出しを認めると、それに続く小さな文字を素早く読み進め、“怪我人はいなかった”と締めくくられている文章にほっと一息吐いた。
「夕べ、捨てようとしてまとめてるときに見つけたんだけど、数日前の夕刊ね。いつもは朝刊しか読まないから気付かなかったんだけど」
着替えを済ませて練習の準備に向かう部員たちが部室から出ていく中、ゆかりたちだけを呼び止めた忍がかばんから取り出したのは、彼女たち女子中学生が興味を抱くにはいささか面白みに欠けた地方のスポーツ大会や地域のふれあいを報じる地方紙だった。
ゆかりは一面の記事に目を通しながら、よくもこんな現実離れした話をのどかな地方紙の一面で扱うことに編集長がゴーサインを出したものだと、半ば呆れ半ば感心していた。
「やっぱり、問題になりますよね……」
困ったようにゆいは呟いて、タリアが入っているゆかりのかばんをちらりと見た。
先日のイカリングとの戦いによりオコリンボーが及ぼした被害は、町の住人にとって看過できないものであった。目撃者も多数いるなかで、このような記事が書かれることは十分に想定できたはずなのに、彼女たちはこの件について話し合うのは今回が初めてだった。
「壊れた場所が直ったからって、全部が元通りになるわけじゃないんだよね」
幸運にも関係のない人を巻き込まずに済んだこれまでの戦いとは違い、今回は恩田姉弟をはじめとする多くの人を危険に晒すことになった。後日、全校集会が開かれ生徒全員の無事が確認されたとき、忍と優輝が大きなストレスや不安を抱えることなく過ごせるならそれでいいと安心しきっていた考えの浅はかさを、ゆかりは思い知らされた。
「今まで気にしなかったの? その……プリキュア? とか妖精とか、大変なことだって」
「もちろん思いましたよ! でも、当人があの調子ですし……」
ため息まじりに言う忍に対して、まるで無罪を主張するような口調で否定するちなみは、責任の所在をゆかりのかばんに押しつけようとしていた。
彼女の意見ももっともだと判断したゆかりは、かばんを開けてタリアを証言台に召喚する。どうやら気持ちよくお昼寝していたらしいタリアは、寝ぼけ眼でとぼけた声を出した。
「おやつの時間リア?」
「そんなものありません!」
叱りつけるような口調のちなみから守るようにタリアを引き取って膝の上に置いたゆいは、部室という名の法廷におけるタリアの弁護人であった。
「タリアに当たらなくても……。悪いのはあの人たちじゃないですか」
「別にタリアを悪者にしようってつもりはないけどさ、そろそろはっきりさせたいことが山ほどあるわけよ」
しばらく前にゆかりも多くの疑問を抱いてタリアを質問攻めにしたことがあったが、収穫は得られなかった。その後もトラブルが続いたせいで有耶無耶になっていたが、先日の騒動でオコリンボーの存在が世間に認知され、やがてはプリキュアやイカリング達が注目の的になるかもしれない。
それまでに決着をつけなければ、話がこじれる一方だ。いい機会だと思い、ゆかりは自ら進んで尋問役を請け負った。
「ねぇ、タリア。お母さんを捜してはるばる心の国から来たって言ってたけど、どうしてお母さんがこっちにいるって思ったの?」
「何となくそんな感じがしたリア!」
やはりと言うべきか、少しは話が進展するかもしれないと期待に膨らませていた胸は、タリアの能天気な一言によって萎んでしまった。ゆかりは更なる質問を諦め、背もたれに体を預ける。
「じゃあさ、私から三人に質問してもいい?」
唐突に忍が口を開き、そんな提案をした。詳細なことは何も知らない三人は戸惑い顔を見合わせたが、忍は彼女たちの返事を待たずに言葉を続ける。
「私の他に、このことを知ってる人は?」
「いませんけど……」
オコリンボーにされたときの記憶がそのままであれば、教頭や優輝はゆかりの正体を知っていることになるが、どちらも目を覚ましたときにはイカリングに光を吸い取られたことまでしか覚えていなかった。
ラクイーンと戦ったときは校内から彼女たち以外の人間がいなくなり、変身を解いた直後に悦ちゃんが現れたが、一切の動揺が感じられなかったことから彼女は何も目撃していないと判断していいだろう。
「じゃあ、誰にも言ってないってこと? 家族とかにも?」
「言えるわけないじゃないですか。私だって初めてゆかりがプリキュアとして戦ってるって知ったとき、やめさせようとしたくらいですから。親に話したら変に心配かけるだけですよ」
ちなみの言い分に頷きながらも腕を組んだ忍は、険しい目つきで三人の顔を順番に見ていき、やがて諦めるような溜め息を吐いた。
「まぁ、それが正しいと思うよ。私も助けてもらった恩があるからやめろなんて言えないけどさ、先輩としてあんたたちが心配なんだよ」
「ありがとうございます。でも、私だってタリアが心配なんです。放っておいたら、あの人たちに何をされるか……」
新学期の朝にみた、タリアが泣いている夢。いつも元気なタリアがどうして泣いていたのか。どうして、そんな夢を見たのか。ゆかりにとってそれらの謎は謎のままであったが、タリアと自分は不思議な縁があるのだと思わずにはいられない。
ゆいの膝の上で大人しくしているタリアの頭を優しく撫でると、ゆかりは穏やかな気持ちになれた。初めはただの奇妙な生き物だったタリアも、今では彼女の大事な友達であり、守るべき存在である。
「私たちがどうしてプリキュアとして戦ってるのかなんて、私たち自身もよく分かっていないんですけど……」
頬に手を添えられると、タリアはくすぐったそうに微笑む。そんな子どもらしい無邪気な様子を見ていると、ゆかりは嬉しくなる。
「でも、タリアのお母さんを見つけるって約束したんです。見つけてあげたいんです」
先日の優輝との一件で、タリアには父親がいないことも分かった。兄弟や親戚の存在はまだ明らかになっていないが、母親が唯一の身よりである可能性もある。単なるタリアの勘違いや行き違いだったなら、それでいい。
あの日の夢のように、タリアの笑顔が涙で消えてしまわないように、ゆかりは一応の努力はしてあげたかった。
「ま、乗りかかった船だしね。今さらほっぽりだすほど、私もひどい人間じゃないですから」
「わ……私もです!」
ちなみに続いて決意を表明したゆいは、意見をはっきり言えたことに満足してある種の自信を手に入れたようだったが、忍の視線を感じた途端に手に入れたばかりの自信は彼女の手からぽろぽろと零れ落ちた。
「どんな船に乗ろうと、あんたたちが好きでそうしてるなら私はいいんだけどね。ただ、帰るべき港があることも忘れないでほしいのよ」
「というと?」
聞き返したのはゆかりなのに、忍の視線は相変わらずゆいに向けられていた。そこにどんな意味が込められていたとしても、ゆいは居心地が悪くなり俯いてしまう。
「またこの前みたいなことがあって、あんたたちが行かなくちゃいけなくなったとき、部活中なら私がフォローできる。……ゆかりとちなみだけならね」少しの間、忍は言いにくそうに言葉を詰まらせた。「でも、一年生の恵原さんは難しいかも。咄嗟に言い訳を思いつけそうにない」
「そうなんですよね。この前も来るなって言っといたんですけど」
庇ってくれるわけでもなく忍に同調するちなみに対してゆいが抱いた反感は、ゆかりがフォローしてくれたことで心の内に留められた。
「でも、あのときゆいが来てくれなかったら私たち……」
「それはそうだけど、入部したての大事な時期なんだからさ。タリアのお母さん見つけるより、気の合う友達見つけるのが先じゃないのって私は思うわけ」
「別に私は……!」
三人のやり取りは、忍がテーブルを強く叩いたことによって収束した。尊い自己犠牲精神をもつ哀れなぼろテーブルの苦労など気にもかけない忍は、天板に手を置いたまま立ち上がり、彼女たちを落ち着かせるようゆっくりと話した。
「そもそも、あんな怪物が襲ってきたら部活どころじゃないわけだし。それに、恵原さんだけじゃない。ゆかりとちなみだって、練習には出てもらわないと。だってもうすぐ……」
誰かが走ってくる足音を敏感に察知して、ゆかりがタリアを素早くかばんに隠した直後、部室の扉が勢いよく開き志穂が入って来た。
「もう練習始める時間だよ、忍! もうすぐ大会だっていうのに、キャプテンが部室で何さぼってんの」
「あぁ……ごめん、志穂。すぐ行くから」
似合わない仏頂面の志穂に急かされるようにして、彼女たちはそれぞれラケットを持ち席を立った。最後に部室を出たゆいは、タリアの入っているかばんを気にしてちらりと後ろを振り返ったが、すっかりゆかりのかばんが気に入ったタリアが顔を出すことはなかった。
「さて、じゃあ気持ち切り替えて、やりますか」
大きく伸びをしながら、ちなみは誰にともなく言った。自分に気合を入れるためかもしれないし、ゆかりや先輩たちのモチベーションを高めようとする意図が含まれていたかもしれない。
ただ、少なくとも自分に向けられた言葉ではないとゆいは思った。
春の大会が近付いたところで、一年生の彼女には関係のないことだ。
呼吸する度に肺が締め付けられるような痛みを感じ、ゆいは校門を通過したところで走るのをやめた。
入部したばかりの頃と比べると、完走できたというのは大きな進歩に思えるが、そんなことを考える余裕などない彼女は、後ろに同じソフトテニス部の一年生がいるのを認めるとビリでないことにほっとした。
校舎の壁にかかっている時計を見ると、すでに前衛の基礎練習は終わっている時間だった。テニスコートに戻れば、素振りと声出しが待っている。それを思うと、歩調が遅くなった。
「まじでさ、やってらんなくない?」
不意に聞こえた声に驚き、ゆいの体は飛び跳ねる。いつの間にか、先ほどまで後ろを走っていたソフトテニス部の一年生が追いついてきて、彼女の隣を歩いていた。
「あ……」
ゆいは周りを見渡して自分たちの他に誰もいないことを確認すると、ようやく話しかけられたのは自分なのだと確信をもてた。しかし、返事をするには遅すぎたようだ。
「走り込み」
苛々した口調の彼女は、ゆいと同じクラスで悦ちゃんとよく一緒にいる子だった。
「え、あの……」
「陸上部に入ったんじゃないっつーね」
呼吸が乱れたままのゆいとは違い、彼女は涼しい顔をしている。これまで話したことのない相手に戸惑い、気が付くと何も言えないまま部室の前に着いた。
「
冷水器から顔を上げた悦ちゃんが二人を迎える。渡り廊下の影には、彼女たちより早く走り込みを終えた部員が座り込み、タオルで汗を拭っていた。
「お疲れって、悦子はあんま疲れてなさそうじゃん」
他の部員と比べて明らかに元気で汗もかいていない悦子を見て、彼女は疑うように言った。
「すごいんだよ。悦ちゃんってば、十分以上前に帰って来てたんだから」
校舎の入り口にある段差に腰かけた子はまだ走り終えたばかりのようで、タオルを肩にかけ額からは汗が滴っている。クラスでいつも悦子と行動を共にしている子で、名前はたしか
「へぇ、さすが悦子」
「美愉だって足早くなかった? 運動会でリレーの選手とかやってたし」
「いやぁ……ペース配分間違えてさ」
美愉の笑い方があまりにもわざとらしかったことにゆいは違和感を覚えたが、追求するつもりはなかった。そんなことよりも、部室で待っているタリアの様子を見なければならない。
彼女たちが自分を気にかけていないことを確かめて、ゆいは部室の扉に近づく。
「恵原さんもお疲れ! 私たちはもうコートに入るけど、恵原さんもゆっくり休んだら来てね」
悦子に話しかけられて、ゆいの体は飛び跳ねる。振り返ると、快実たちも立ち上がって体をほぐしていた。
「え、もう?」
「うん、私たちはもう休んだから」
「張り切ってるねぇ……。まぁ、頑張って」
他人事のように手を振る美愉の腕を掴んで、悦子はコートの方に向かって彼女を引っ張っていった。
「ちょっと、悦子。私まだ休憩してないんだけど」
「美愉は疲れてなさそうじゃん。ほら、行くよ」
コートに入っていく彼女たちを見送ったゆいは、部室に駆け込みかばんから取り出したタオルで汗を拭うと、すぐに悦子の後を追いかけた。
いつもなら一年生が走り込みを終えてコートに戻ったときには、基礎練習が終わり試合練習に入っているはずだったのだが、今日はこれから後衛練習が始まるところだった。
大会に備えて基礎練習を充実させているのか、一年生の彼女たちが走り込みから帰ってくる時間が早くなったのかは分からないが、素振りをするために持ってきたラケットを置いて声出しするように指示された美愉たちは不満そうであった。
一つのコートを囲むように散らばった一年生は、入部したての頃に教わった通りの声出しをする。志穂が慣れた手つきでボールをコートの左右に打ち、忍がそれを対照の位置に打ち返す。
「ファイトー!」
隣で声を出す悦子を見て、ゆいも躊躇いがちに口を開いた。
「ファイト……」
思っていたほどの声が出ないで、咳払いをして誤魔化す。ちょうど忍と入れ替わりでゆかりがコートに入ったところで、所定の位置につくと腰を落としてラケットを体の前で構え、志穂からのボールを待つ。
相変わらずゆいの隣では悦子が一生懸命に声出しをしている。志穂がボールを出し、ゆかりが走り出した。今度こそは、といった気概でゆいは大きく息を吸った。
「こら、一年! 声出てないよ!」
ゆかりのラケットがボールを打ち返す気持ちのいい打撃音と、ゆいが意を決して喉から出しかけた声援は、ちなみの怒声によってかき消された。
前衛であるちなみは球出しをする志穂にボールを手渡す仕事を他の部員に任せて、ゆいの方に近づいてきた。声出しができていない一年生代表は自分だと自覚のあったゆいは、ずかずかと迫ってくるちなみに思わず身構える。
「そこ! ちゃんと声出してる!?」
ちなみの標的になったのは、悦子の隣に立っていた美愉だった。
「えー、出してますよー」
「口が動いてるようには見えなかったけど!?」
怒られたのは自分でないと分かったゆいはほっとして、ルビーショットを撃たれたくないならその人に口答えはしないほうがいい、と心の中で美愉に忠告するだけの余裕をもてた。
「いい? 声出しも立派な練習なんだからね!」
そう言い放ってちなみがコートの中に戻った途端、美愉は小さく舌打ちをして快実に言った。
「何で私だけ……。恵原さんも声出してなかったじゃんね」
その言葉はゆいの耳にもはっきりと届いた。はっとして何か言い返そうと思ったが、それはできなかった。
「恵原さんは声出してたよ」
代わりに弁明してくれた悦子に感謝しつつ、ゆいは頷く。
「でも、聞こえなきゃ意味ないじゃん。快実は聞こえた?」
「ううん、聞こえなかったけど……」
気まずそうにゆいの顔色を窺いながら、快実は応えた。
「ほら。恵原さん、愛花先輩と仲いいから贔屓されてるんだよ」
「違うよ。別に贔屓なんて……」
今度はゆい自身がはっきりと否定した。たしかに自分も声は出ていなかったかもしれないが、出そうとしていなかったわけではない。美愉が怒られるのは当然のことであり、自分に文句を言うのは不条理だと彼女は思った。
「でも、恵原さんっていつも先輩たちといるじゃん。今日も練習始まる前、愛花先輩やキャプテンとずっと部室にいたし」
「それは……」
部室での忍の言葉を思い出す。ゆいがいなくなったとして、言い訳を咄嗟に思いつけそうにないといったこと。彼女自身ですらプリキュアであることを隠したまま、どんな説明をすればよいか分からず口ごもってしまったのだから、もっともな意見だったのだと感じる。
「ほら一年! お喋りは後!!」
ちなみに注意されて、ゆいはそのまま美愉に言い返す機会を失ってしまった。
「え、コート整備しなくていいんですか?」
辺りが夕闇に包まれた頃、最後の試合練習が終わるのを見届けてすぐにコートブラシを奪取した悦子は驚きの声を上げた。
「大会近いし、私たちはまだ残るから。練習はとりあえず終わりだから、一年生は帰っていいよ」
忍の指示を受けて、人数分あるはずもないコートブラシを勝ち取った一年生はほんの少し落胆した。練習後の片付けにおける役割の中で、球拾いよりもコート整備の方が優等だというイメージが彼女たちにはあったのだ。
「じゃあ帰ろうよ、悦子」
コートブラシの競争に参加していなかった美愉は、何でもないことのように言う。彼女以外の一年生はしばらく悦子の次の行動を見守っていたが、居残りをしてまで雑用をする必要はないだろうと各々で結論を出したようで、美愉に続いてぞろぞろとコートから出て行った。
「そういうわけだから、あんたもさっさと帰んなさい」
いつの間にか悦子と二人でコートに取り残されてしまったゆいは、ちなみの声にはっとして振り向いた。
「一年生は試合に出ないんだし、気を遣わなくてもいいから。ほら、悦子ちゃんも」
ゆかりに言われて、悦子は名残惜しそうに戦利品であるコートブラシから手を放す。
「分かりました。じゃあ、恵原さん、帰ろっか」
「あ、うん……」
今日の練習は終わった。これからの時間は先輩たちが大会に備えて自主的に練習するだけで、一年生は帰っても構わない。
それなのに、何となく後ろめたいような気分をゆいは感じていた。
正門から帰るグループと別れて、反対側の門から悦子たちのグループに混ざってゆいは学校を出た。
最後尾を歩きながら、会話に意識を集中させる。先頭では買ったばかりの新品のラケットをケースに入れたまま振り回し、美愉が愚痴をこぼしていた。
「あーあ、早くテニスやりたいなぁ」
「仕方ないよ。コート少ないし、男子のテニス部もあるんだから」
そう言ってなだめながらも、快実も不服に思っていそうだということがその口調からは感じられた。何人かは美愉の意見に素直に頷き、その内の一人が悪びれる素振りもなく言う。
「三年生の先輩たち、早く引退してくれたらいいのにね。そしたらコートが空くのに」
「素振りはともかく、走り込みとか声出しとか絶対意味ないよね」
あまりにも横柄な彼女たちの考え方に、ゆいは思わず顔をしかめた。誰も後ろにいる自分の表情なんて気にしていないだろうと思ってのことだったが、ちょうど美愉がこちらを振り返ったところで、ゆいの表情が彼女は気に入らなかったようだ。
「あれ? 恵原さん、何か言いたそうじゃん?」
「いや、あの……」
みんなの視線が一斉にゆいに向かられた。そのことを意識すると、喉が閉まるような感覚がして声が出なくなった。
「私は……走り込みとかも大事だと思う……」
「え? 何?」
ゆいが言い終わらないうちに、美愉は大きな声で聞き返してきた。
「ちょっと、美愉!!」
あまりにもわざとらしい意地悪をした彼女を悦子が咎めたが、美愉は笑って誤魔化した。
「だって、恵原さん声小さいんだもん。よく聞こえなかった」
その後、家路につながる曲がり角にさしかかるまで、ゆいは一言も発することはなかった。