再び体育館に戻ると、そこにタリアの姿はなかった。
そのかわり、体格のがっしりとした長身の男が、こちらに背を向けて立っていた。ゆかりは妖精の生態について詳しくはなかったが、タリアが変化した形態だったりしないことは何となく分かる。
「あのー……」
恐る恐る声をかけると、「あぁ!?」という乱暴な返事がきた。どうやら、新しく赴任してきた先生でもないようだ。
男はこちらを振り返ると、ゆかりに向かってゆっくりと歩み寄ってきた。思わず、後ずさる。
「さっき大きな音が聞こえたんですけど、何してたんですか……?」
声が震えているのが、自分でも分かった。悲しむことを知らない妖精の次は、キレ気味の大男ときた。この体育館の治安は、春休みの間にどうなってしまったのか。
「うるせぇ」
それだけ言うと、踵を返し窓の方に近寄ってカーテンを勢いよく開ける。換気や日光を浴びることが目的ではないようで、彼は舌打ちをして地団太を踏んだ。
自転車通勤でもしているのか、ものすごい力だった。男が床を強く踏む度に、体育館全体が揺れるほどの振動と、轟音が響く。さきほどの音の正体はこれだったのか。
「タリア! どこに隠れやがった!」
天井に向かって叫ぶ。すさまじい声量だ。その迫力にたじろぎ、一度は係わるまいとその場を離れようとしたゆかりだったが、男がタリアの名前を呼び、その口調から察するに二人の仲は険悪らしいと想像して、足を止める。
「タリア!?」
すると、それを聞いた男はゆかりを目の端で捉え、にやりとした。
「お前、あいつを知っているのか。それならちょうどいい」
ゆかりは、本能的にまずいと思った。これまでに彼女の人生では、幸運にも身の危険を感じる出来事に遭遇することはなかった。しかし、今日の運勢は最悪に違いない。
やはりと言うべきか、彼女は人質にされた。逃げようとしたところ、首根っこを掴まれ、そのまま腕を首にまわされ身動きがとれなくなってしまう。
「タリア! 出てこないと、こいつがどうなったって知らねぇぞ!」
お願い、出てこないで、なんてドラマのヒロインの思考を真似してみる暇もなく、タリアは用具入れから飛び出してきた。
「卑怯リア! イカリング、その子を放すリア!」
こんなベタな手に引っかかるなんて、もし漁業の妖精として生まれていたら、今ごろ世界中の魚は釣り上げられているかもしれない。そう、例えばイカとか……。
「イカリング……?」
どうしてタリアは、突然イカリングなどと言い出したのだろう。よほどお腹が空いていると、妖精は好きな食べ物が口癖になってしまうのか。
「ふん、そこにいたか」
役目を終えたゆかりを突き放すと、男は用具入れに歩み寄る。
「さあ、イカリング! 正々堂々とかくれんぼの続きをするリア!」
「かくれんぼじゃねぇ!!」
どうやら狙われているタリア自身には、まったくその自覚がないようだった。
「あの、イカリングって……?」
一人で悩んでいても正解は導き出せそうにないので、ゆかりは思い切って尋ねてみることにした。虹のビオレッタじゃあるまいし、どんな意図があってイカリングなどと言い出したのだろう。すると、男はにやっと笑い、拳で自分の胸をとん、と叩いた。
「俺のことだ」
「え、あなたが、イカリング?」
まったく意味が分からない。完全に人の姿はしているものの、その正体はタリアに食べられた恨みをもつイカの怨念とでもいうのだろうか。
「俺は心の国の“怒りの王”イカリング! イカすだろぉ?」ワイルドに言った。
「つまり、イカリングがあなたの名前ってこと?」
「鈍いやつだな、そう言ってんだろ!」
思わずゆかりは噴き出してしまう。人の名前を笑うなんて最低かもしれないが、さきほどまでの恐怖が一気になくなってしまった。
「何がおかしい!?」
「ごめんなさい……、つい」
ようやく笑いがおさまり顔をあげると、そこにはイカリングの強面があった。自分の名前をバカにされたと、頭に血が上り、タコのように真っ赤になっている。
「この俺を、怒らせたな」
はっ、と思ったときにはもう遅い。イカリングは拳を高く掲げ、勢いよく床に振り下ろした。すると、体育館全体が揺れるほどの衝撃が起こり、床は大きく凹んでしまった。逃げ遅れたゆかりの体は吹き飛ばされ、扉に衝突し止まった。
「いてて……」
頭を打ったのか、視界が少しぼやける。扉に背をもたれ落ち着こうとしたが、反対側から誰かが開けたせいで、ゆかりの体は仰向けに倒れてしまう。
「誰だ!? さっきから騒がしい……!」
入ってきたのは教頭だった。足元に転がっているゆかりに注意を引かれそうになったが、すぐに凹んでいる床とそのそばに立っている不審な男に目移りした。
「お前、何をしている!?」
教頭の髪がない頭がフル回転し、イカリングを様々な言葉で責めたてる。しかし、叱られている本人は悪びれた様子をまったく見せず、笑ってみせた。
「いい怒りだ」
イカリングは、掌を教頭の方に向ける。すると、教頭の体から赤い光のようなものが現れ、それはイカリングの手の中におさまった。その光が体から全て抜けると、教頭は気を失いその場に倒れた。
「先生!」
慌てて、ゆかりは教頭の体を支える。毛髪という防御力を失った頭をぶつけたりしたら、大変だ。
「先生に何をしたの!?」
「お前もタリアもむかつくからな。ビビらせてやるよ」教頭から吸い上げた赤い光を放つ右の拳を天井に向け、唱えた。「出てこい、オコリンボー!!」
赤い光は彼の右手から離れ、大きな塊となった。徐々に形が生成され、それは巨大な人の怪物となる。鬼のような恐ろしい顔をして、その体はゆかりの三倍はありそうだ。
「何、これ……?」
ゆかりは目の前に現れた巨人に圧倒され、しばらくはただ茫然としていたが、今度こそ無事では済まないと判断して、その場から逃げようとした。
「おう、逃げるなら逃げろ! タリアは連れて行かせてもらうぜ!」
恐怖ですっかり忘れていた。あの男の目的はタリアを捕まえることで、小さく無力な妖精は、まだ用具入れに隠れたつもりでいるのだ。
「もう、何なの……」
どうして自分がこんな目に合わなければならないのか、とゆかりは思った。たしかに今日はちなみとの約束を破って寝坊をした。ホームルームもさぼってしまっている。だけど、いいことだってしたはずだ。
妖精とのありえない出会いを経験し、到着が早すぎた新入生と知り合うことができた。今日は素晴らしい出会いだらけの、楽しい一日になるはずだった。
しかし、あのイカリングとかいう男のせいで、体育館の床は壊されてしまった。それに、巨大な怪物は、タリアを捕まえようと用具入れの中を荒らすだろう。
あそこには、みんなで協力して作った、花のアーチが――。
「やめて!」
無我夢中だった。気が付いたとき、ゆかりは怪物と用具入れの間に立っていた。
「何だ、戻ってきたのかよ?」
彼女の背後で、自分の陥っている危機を未だに理解できていないタリアが、物陰から顔を出した。
「ケンカはだめリア!」
「だめ、あなたは下がってて!」
この子は何も分かっていない。ゆかりは、そう判断した。心が幼すぎるのか、よほど無垢なのかもしれない。だからこそ、守らなければ。
「どうしてそいつをかばう? 何の事情も知らないくせによ」
「知ってるよ」
心を落ち着かせるため、息を吐くように言った。
「タリアは、お母さんに会いたがってた。もし、あなたがタリアを連れて行ったら、タリアのお母さんに会わせてあげられるの?」
夢の中で、タリアは泣いていた。あれが、ただの夢だとは思えない。きっと、何か理由があるはずだ。あのときは届かなかった手。しかし、今は現実に、手の届くところにいる。
それなら、今度こそ、悲しみから救い出せるかもしれない。
「あなたに邪魔はさせない! タリアのお母さん捜しも、入学式も!」
「ふざけんじゃねぇ!!」
イカリングは非難するように怒鳴り、オコリンボーをけしかけた。
「タリアは連れて行く! ついでに、その入学式ってのもぶっ壊してやるよ!」
巨大な手が、迫る。しかし、ここで退くわけにはいかない。退いてしまえば、みんなの思いが台無しになってしまう。
入学式にかける、みんなの思い。
つい先日、小学校を卒業したばかりの幼さの残る新入生たちが、緊張した面持ちで扉の前に立つ。家族の者も、早く入ってこないかとそわそわしているだろう。そして、それらは入場開始と同時に起こる大きな拍手により、喜びに変わる。
そんな瞬間を、ゆかりは心待ちにしていた。だからこそ、花のアーチをくぐるという演出を提案したのだ。
「お前には何もできやしねぇ!」
体が震える。巨人の攻撃をくらえば、自分は……どうなってしまうだろう。ゆかりはそんなことを思った。気持ちの強さだけではどうにもならない。たしかに、私は無力だ、と。
だけど、今日は新学期初日なんだ。桜は満開、新しいクラスには、笑顔が溢れていた。中には、友達と違うクラスになり残念がっている者もいたが、それを補うほど新たな出会いが待っている。
そんな、喜びに満ち溢れた日なのだから。入学式を無事に終えるという、当たり前の、小さな奇跡があったとしてもいいじゃないか。
「私はただ――!」
巨人の拳は、目と鼻の先まで迫っていた。不意に、どうしてこんなことをしているのだろうと、おかしくなる。
みんなの入学式のため? 違う、そうじゃない。ただ、自分がそうしたいから。それだけなんだ。
「私は! みんなの喜ぶ顔が見たい!!」
ゆかりの体から、ピンク色の閃光がほとばしった。それはまるで、彼女の心を映し出したかのように、優しく、穏やかな光だった。
「これは……!?」
あまりの眩しさに、イカリングは目を細める。
光はどんどんその強さを増し、見えないバリアとなってオコリンボーの攻撃から彼女を守った。
タリアは、ゆかりの纏う光を見てつぶやく。
「この光……」
しばらく、何かを思い出すようにじっと光を見つめていたタリアは、興奮して叫んだ。
「プリキュアに変身するリアー!!」
ゆかりの頭の上で、光は天使の環のような形をとった。自分に何が起こっているのか、さっぱり分からなかったが、どうすればよいのかは、直感で分かる。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!!」
そう唱えると、光の環は彼女の体がくぐれるほどに大きくなり、ゆっくりと頭からつま先へと下りていく。環が通過した部分は次々と変身していき、最後に靴を変化させると、光はゆかりの右手の薬指で集束し指輪となって現れた。
「みんなでつなぐ、喜びの
プリキュアに変身したゆかりは、体の内から満ち溢れるエネルギーと、たくさんの喜びを感じた。
「てめぇ……」
イカリングは彼女の姿を見て、驚きを隠せない様子だった。その声色は、虚しさと、微かな怒りを帯びていた。
「お母さん……」
懐かしむように、タリアが小さな声で言った。先ほどまでの能天気さはどこにもない。まっすぐにキュアリンクを見つめ、その存在をしっかりとらえようと、瞳をこらす。
「これは、何?」
ゆかりは変身した自分の姿を見て、戸惑う。制服や髪形も、まったく違うものになった。それに、この胸の高鳴り。今なら、どんなことだってできる気がする。
「プリキュアだと……。冗談じゃねぇ! やっちまえ、オコリンボー!!」
イカリングは激昂して、オコリンボーをたきつける。従順な巨人は、再びゆかりに向かってパンチを繰り出す。
ここでキュアリンクが攻撃を避けてしまえば、後ろにいるタリアに当たってしまう。ならば、するべきことは決まっている。一か八か、当たって砕けろだ。
リンクは巨人目がけて、思いきりジャンプした。すると、予想以上に勢いがついてしまい、コントロールを失う。
「ぶつかるーっ!!」
彼女の体は、巨人の顔面に激突した。しかし、痛みは大したことなかった。むしろ、ダメージを受けているのは巨人の方で、
「オコリンボー! 何やってんだ!」
そんなイカリングたちをよそに、タリアはゲームでもやっているかのように、楽しそうにリンクを応援する。
「今リア! 必殺技リア!」
「必殺技!? え、どうやるの?」
「喜びを感じるリア!」
そんなやりとりをしている間に、巨人は体勢を立て直し、再びリンクに襲い掛かってきた。
「キュアリンクだと!? 俺はイカリングだぞ!」
どうやら、迷っている暇はなさそうだ。変身したときのように、直感に従うしかない。
喜びを感じる……。タリアの助言に従い、今日のことを思い出した。
――私の思いつきに付き合ってくれた、みんな。約束を守って、朝早くから作業してくれたちなみちゃん。そして、あの新入生の子。あの子は、不安そうな顔をしていたけど、入学式では笑顔になってくれるかな。
そんなことを思った。すると、指輪が大きな光を放った。喜びの力、みんなの力を感じる。
リンクは、迫ってくる巨人に対し、右手を向けて構えた。
「プリキュア! リンクポーション!!」
彼女の手から放たれたピンクの光の束は、巨人の全体を包みこむ。攻撃を受けたというのに、巨人は安らかな表情をしていた。徐々に体から赤い光が現れ、教頭の元へ帰っていく。さらに、イカリングによって凹まされた床も、何も無かったかのように綺麗になった。
巨人は光が消えた後、完全に消滅した。
「バカな……、お前……!」
うろたえるイカリングを前に、リンクは構えを解いた。
「こんなこと、もうやめて」
変身も解き、ゆかりは真っ直ぐに相手を見つめる。その視線に耐えられなくなったのか、イカリングは「くそっ」と呟くと、瞬間移動のようなものでその場からいなくなった。
「キュアリンク、かっこよかったリア!!」
タリアが無邪気に、ゆかりに抱き着く。それと同時に、ゆかりは床にぺたんと座り込んだ。
「どうしたリア?」
「腰が抜けちゃって……」
夢じゃ、ない。プリキュアに変身して、巨大な怪物と戦ったんだ。まだ信じられない気持ちだった。
「全部ちゃんと説明してもらうからね」
両手でタリアの小さな体を抱き上げると、少しむくれた調子でゆかりは言った。
「プリキュアは――」
タリアが口を開いた瞬間、言葉は怒声にかき消された。
「ど、どこに行った!? あの男……!」
教頭だった。目を覚ました途端にこの様子では、よかった、怪我はしていないようだ。幸運にも、扉の方からではゆかりの体に隠れてタリアは見えない。
「君は何をしているんだ!? ホームルームはとっくに始まっているぞ!」
そして、ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴る。
「あぁ~~!!」
腰が抜けていたことも忘れて、ゆかりは立ち上がった。教頭に頭を下げると、教室に急ぐ。
タリアを抱えたままだということも忘れて。
「あんた、どこに行ってたの!!」
教室に入るやいなや、ちなみに怒鳴られる。既に、新しい担任の先生は職員室に戻り、生徒も何人かは帰っているところだった。
「寝坊の後はサボりって、何考えてるの! とりあえず保健室に行ってるって言い訳しといたけど。それに、そのぬいぐるみは何!?」
「えっ!? こ、これは……」
空気を読めない妖精タリアが喋らないよう、先んじて口を閉じカバンに突っ込んだ。
「まぁ、いいけどさ。それで? 時間は大丈夫なわけ?」
時刻は、十一時を少し回ったところだった。
「あっ! ごめん、すぐ帰らないと」
ちなみはやれやれといった様子でため息をつくと、ゆかりの肩に手を置く。
「明日、謝ってもらうから!」そして、笑顔をみせる。「アーチはオッケー?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、後は私たちに任せて、早く帰りな」そう言って、ウインクをする。
「ごめん、じゃあまた明日!」
それだけ言うと、ゆかりは急いで帰路についた。通行人が誰もいない道になると、タリアがカバンから顔を出す。
「何を慌ててるリア?」
走りながら、ゆかりは答える。
「今日は、おじいちゃんの一周忌なの。だから……」
「いっしゅうきって、何リア?」
「人が亡くなって、ちょうど一年後にやる行事というか……」
「亡くなるって、何リア?」
家についたため、その問いには答えられなかった。すでに、家族は準備のほとんどを終わらせているところだった。
「おかえりなさい、思ったより遅かったのね」
母が迎える。朝から家事に準備に追われ、少し疲れた顔をしている。
「うん、ただいま!」
玄関に入り、廊下を通ると、広げてある扉から和室が見えた。そこに、祖父の仏壇がある。
「人が亡くなるっていうのはね、その人がずっと遠くに行っちゃって、もう二度と会えなくなることだよ」
さきほどの質問に、ゆかりは答える。タリアを抱えたまま、仏壇の前に座った。
「遠くに行って、二度と、会えない……リア」
タリアは仏壇を前にして、そう繰り返した。
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