学校を出る最短のルートは、テニスコートの横を通らなければならなかった。
ゆいは悩んで挙句、まだ通ったことがない反対側の門から帰ることにした。少し遠回りになるが、仕方がない。ゆかりたちに見つかって、また一人で来たのかとがっかりされるくらいなら、どちらの道を選ぶべきかは明らかだ。
ただいつもと違う道から帰るだけのことなのに、それが彼女にはひどく罪悪なことに思えた。しかし、悪いのは自分ではなく、タイミングだと心の中で言い訳をする。
友達をつくろうと頑張った。他愛のない会話でいいから、そのきっかけを作ろうといつも周囲を窺っていた。しかし、彼女が口を開こうとする直前に誰かがそれを邪魔するのだ。
この前の部活見学だって、ゆいはもう一度ゆかりに会いたかっただけなのだ。この学校で、最初に話しかけてくれた人。自分を気にかけてくれて、中学校でもやっていけると思わせてくれた。ほんの少し言葉を交わせば、それで満足できたのに。
周囲が悪かった。自分の非も認めつつ、彼女はそんな結論に至った。
もう少し、私のことを考えてくれてもいいじゃないか。
目に見えるところにいるのに、どうしてクラスメイトは私ではなく友達に話しかける? 部活を見にきたなんて一言も言っていないのに、どうして決めつけた?
反対したのに、どうして引っ越しなんて――。
胸ポケットからロケットを取り出し、それを握りしめた。すると、彼女に影がさした。太陽に雲がかかったのかと思い顔を上げると、そこには長身の女性がゆいを見下ろすように立って、不気味な笑みを浮かべていた。
「あなた、学校は楽しい?」
「え……」
ゆいよりも頭二つ分ほど背の高いその女性は、じっと彼女の目をみつめ視線を逸らすことを許さない。その瞳には、苦悩や疲れを吸収してくれそうな魅力があり、このままこの見知らぬ女性に悩みを打ち明けてしまえば、どんなに楽だろうと思えた。
「いつも辛い思いをしながら生きているなんて可哀そう。よかったら、私があなたを楽にしてあげましょうか」
ゆいの中で、泡のようなものが弾けて消えた。すぐに、その泡は新しい学校への期待だったのだと分かる。
――みんな同じ気持ちだから、友達なんてすぐにできるわよ。
引っ越すとき母はそう言って、ゆいも頷いた。しかし、入学式の日に、それは間違いだったと知る。
彼女以外のみんなは、すでに友達だったのだ。公立の中学なのだから、考えてみれば当たり前のことだ。小学校の六年間で、“みんな”は友達や知り合いとよべる仲を確立していた。“みんな”は、新しい友達など必要としていなかった。
だから、テニス部の面々に迎えられたときは嬉しかった。本当はテニスに興味なんてなかったけど、初めてこの学校で居場所を見つけることができた。
それは自惚れに過ぎなかった。彼女たちが迎えてくれたのは恵原ゆい個人ではなく、あくまで“入部希望者”であり、そんな簡単な条件さえ満たしていれば誰でもいい。
どうして自分だけ頑張らないといけないんだ、とゆいは思った。一人で悩んで、たくさん考えているのに、誰もこの気持ちに気づいてくれない。中学校の付き合いなんて、どうせ三年限りじゃないか。友達くらい、高校になってつくればいい……。
「それでいいのよ」
これまでのゆいは、辛いことや悩みを飲み込んでしまう傾向にあった。それらは彼女の中に蓄積され、重荷になるばかりだった。果たせなかった責任や義務、周りからの期待。いずれどうにかなるだろうと問題から逃げ続け、逃げられるものではないと分かったときには、以前と比べものにならないほど面倒なことになっている。
「もういやだ……」
気が付くと、女性は目の前から姿を消していた。どこに行ったのだろう。学校を振り返ったゆいは、違和感を覚えた。
さきほどまであちこちから聞こえていたかけ声が、ばったりと止んだのだ。グラウンドで練習していたはずの野球部は、片付けも着替えもせずスポーツバッグを肩に担ぐと、ユニフォームのまま散り散りになった。こちらへ向かってくる集団もある。
今日はもう練習が終わったのかとゆいは思ったが、体育館から出てきた剣道部も道着の格好のまま帰ろうとしている。教員たちは次々と車に乗り込むと、迷うことなくアクセルを踏んで門から出て行ってしまった。
中学校教員の就労規則など、ゆいには知る由もなかったが、まだ勤務時間内であることは間違いなかった。そして、彼らが等しく浮かべていた空虚な表情が、安定を求めた挙句に、決して高いとはいえない賃金と多大なストレスを与えられる仕事によるものでないことは明らかだった。
「どうなってるの?」
小さいときに見たアニメを思い出す。主人公の女の子が母親と喧嘩して、お母さんなんていなくなっちゃえばいいのに、と呟くと本当にその通りになるのだ。いなくなって初めて分かる大切さを伝える教訓話だったが、それは多くの子どものトラウマとなっていた。
今の自分の状況をテレビで放送したら、視聴者のトラウマになるだろうか、とゆいは思った。
テニスコートの方向から、見覚えのある面々が現れる。忍たち、女子ソフトテニス部の先輩たちだった。やはり練習着のまま、カバンとラケットケースをだらしなく担ぎ、夢遊病のようにふらふらした足取りでこちらへ向かってくる。
「あの……、先輩! 何が……どうしたんですか?」
勇気を振り絞って、忍に聞いてみた。彼女はあからさまに興味のなさそうな目でゆいを見ると、まるでそこに厄介事が立って言葉を発しているのかと疑っているような顔になった。
「帰るの」
別人のように低い声だった。口を動かすのも、喉の筋肉を使うのも面倒くさいといった様子だ。ゆいはそんな彼女を、テニス部のキャプテンである忍だとは認めたくなかった。
「部活は、どうしたんですか?」
「疲れるし」
それだけ言うと、ゆいから視線を逸らして、再び門を目指してだらしなく歩きだした。
「どうなってるの……」
校内に残っている全員が、部活も仕事もほったらかしにして帰ろうとしている。いくら不審者が多い時代とはいえ、一斉下校にもほどがある。
中学生にもなれば、フィクションと現実の区別はつくと自覚していたつもりだったが、どんなに考えを巡らしたところで、思いつく原因はファンタジーやSFの要素を多分に含むものばかりだった。
自分以外のみんなが魔法にかかった? 宇宙人に洗脳された? ……ありえない。
そこでタリアの存在を思い出した。心の国から来た妖精。きっと、あの子が関係しているに違いない。そう確信した彼女は、女子ソフトテニス部の部室に急いだ。
本館の角を曲がり、中庭を横切る。部活紹介が終わっても普段の活動内容が不明なままだったボランティア部や、中庭の池で飼っている鯉にだけ菩薩のような笑みを浮かべる教頭の姿も、今はない。
昼間だというのに驚くほど校内は閑散としており、そのくせ塀の向こうにある国道からは、いつも通り車の騒音が聞こえる。この奇妙な現象は、学校だけでのことなのか。とにかく、誰でもいい、まともな人に会いたい。
部室に到着したとき、大した距離でもないのに彼女の呼吸は大きく乱れていた。そして、部室に入っていく二人の背中を見つけ、涙が出そうになる。
「ゆかりさん!」
嬉野ゆかりと愛花ちなみは、この前と変わらないままの表情で振り向いてくれた。ゆいを見て驚きはしたものの、決して呼び止められたことに嫌悪せず、喜んでくれているのが分かる。
「ゆい! ゆいは普通なんだね!?」
「はい、お二人も……その、いつものお二人ですよね?」
少し首を傾げて、困ったようにちなみは笑った。
「それはどうかな。いきなりみんな帰るって言い出したかと思えば、他の部活の人や先生たちまでいなくなるでしょ。ワケわかんないし、いつも通りではないかもね」
「とにかく、タリアに聞いてみよう。何か分かるかも」
ゆかりを先頭にして、部室の扉を開いた。ゆいを除いた二人には、タリアの他にこの現象を知るものに心当たりがあったため、細心の注意を払った。
ところが、部室の中では、いつも通りであり、かつ今の彼女たちがおかれている状況では不謹慎ともいえるやり取りが行われていた。タリアと中型犬が、戯れていたのである。
「あれ? みんな、どうしたリア?」
「どうしたじゃない!」
とぼけた質問に、ちなみが怒鳴る。三人が部室に入ると、最後尾のゆいは扉を閉めた。誰も入ってくるものはいないのだからその必要はないのかもしれないが、不気味な外界と平和な部室とを遮断できるような気がしたのだ。
「その犬は?」
ゆかりは犬を注意深く観察した。毛並みは整っており首輪もしていることから、飼い犬であると予想する。
「友達になったリア!」
体格差からして気性の荒い動物ならタリアは食べられていたかもしれない、とゆかりは思ったが、本人が気にしていないのであれば何も言うまいと決めた。彼女はここ数日で、タリアと上手く付き合うためには、細かい事情を無視する度量が必要だと悟っていた。
「今、外で不思議なことが起こってるの。突然みんなやる気がなくなって帰ちゃって……、タリア、何か知らない?」
「何かって何リア?」
こうして途方にくれるしかなくなった三人は、悩みとは縁のない二匹の生物を観察しながら、それぞれ思考を働かせた。しかし、彼女たちがどんなに考えたところで、解ける問題ではないのだ。常識の範疇をはるかに超えている。
結局のところ、タリアが分からないのであれば、待つしかない。ゆかりとちなみはそれを知っていたが、ゆいだけはその結論に達することができないでいた。その前に、最初に抱くべき疑問があったのだ。
「あの、どうして私たちだけ何ともないんでしょう?」
心当たりのある二人は、しばらく返答に詰まった。恐らくはプリキュアであることに関係しているというのが二人の見解だったが、その通りに答えるわけにはいかず、ゆかりはとぼけることにした。
「どうしてだろうね? 私たちにも分からないよ」
そして、ゆかりたちも同様の疑問について一考しなければならなくなった。自分たちがプリキュアだから、この現象の影響を受けていないことは間違いないだろう。しかし、どうしてゆいも変わりないのだろうか。
実は、彼女たちが知らないだけでプリキュアは世界中で平和のため密かに活動しており、ゆいもその一人なのか。そんなことを思い、すぐにばかげた考えだと打ち消すことにした。
犬の背中にタリアが跨り、どうしたらよいかお手上げとなったちなみが適当な椅子に腰を下ろしたとき、部室の扉が開かれた。
ようやく現れたかとちなみはすかさず立ち上がり、いつでも逃げられる準備をしたのだが、扉の向こうに立っていたのは、彼女が思う人物ではなかった。
「タリア、やっと見つけた」
「あなたは……」
ゆいが先ほど校門の所で出会った女性だった。思い返せば、学校に異変が起きたのはこの女性が現れてからのことだ。
「ゆいの知り合い?」
ゆかりは一瞬のうちに、様々なパターンの考察をした。現実的なのは、ゆいが知り合いにタリアの秘密を洩らしてしまい、妖精という珍種の生物を捕まえにきたというシナリオだ。またはイカリングの仲間か。そして、最も可能性が低いのは女性がタリアの母親であるという考えだが、これはタリアの反応によってやはり間違いであったと分かった。
「ラクイーン、久しぶりリア!」
「相変わらずね……」
ラクイーンと呼ばれた女性は、タリアの他に三人と一匹の存在を認めると、大げさにお辞儀をしてみせた。
「タリアが世話になったようで、ありがとうね。でも、私が責任をもって心の国に連れて帰るから」
「じゃあタリアのお母さんは、見つかったんですか!?」
そんな素朴な質問をぶつけてみただけなのに、ゆかりは鋭い目つきで睨まれることとなった。
「あなた、何を言っているの?」
「だってタリアのお母さんはいなくなったんですよね? 連れて帰るってことは、見つかったのかなって思ったんですけど……」
こちらの世界での保護者として、タリアを渡すには相手が善良な人物であると知る必要があった。ただでさえ得体の知れない相手だ。はっきりさせるためには、こちらも強く出るしかないとちなみは判断した。
「あなたは、どっちなんですか?」
「どっち、というと?」
「イカリングの側か、タリアのお母さんの側かってことです」
女性は僅かに不思議そうな表情を浮かべた後、小さく鼻で笑った。
「イカリング? あいつもこっちに来てたの」
ほとんど何の事情も知らずに二度も戦ってきたゆかりは、彼女の曖昧な態度に我慢できず、つい声を荒げる。
「あなたは、タリアを無理やり連れて帰りたいんですか? それとも、お母さんに会わせてあげられるの?」
ゆかりたちの質問の意図を理解した女性は、軽蔑するような目で二人を見ると大きなため息をついた。
「私は心の国の“楽のカリスマ”ラクイーン。そうね、タリアを無理やりにでも連れ帰りにきたのよ」
心の国がどんなところなのか、ゆかりは知らない。しかし、それにしても、あんまりじゃないか。どうしてお母さんに会いたい一心で健気に頑張っている幼いタリアを、こうも邪魔するのだ。
「あの、話がよく見えないんですけど……」
「タリアがお母さんを捜しに、こっちの世界に来たってのは聞いたんでしょ? どうしてかは知らないけど、前にも別の人がタリアを無理やり連れて行こうとしたんだ」
おどおどするしかなかったゆいに、ちなみが早口で説明した。そのやりとりを見て、ラクイーンは呆れたように言った。
「いいこと? 私たちには私たちの事情があるの。何も知らないのなら、首を突っ込まないでちょうだい」
「そうはいかない!」ゆかりは犬に跨ったままのタリアを抱きかかえる。「私は、タリアにお母さんを捜す手伝いをするって約束したの。だから……」
ラクイーンが唇を噛むのを見て、ゆかりは言葉につかえた。彼女は、ゆかりたちが知らない事情があると言った。もしかすると伝説の戦士プリキュアになり、イカリングと戦ったことによって誤った先入観を持っているのかもしれない。ゆかりが話し合いでの解決を試みようとしたとき、タリアが言った。
「ボクはお母さんを見つけるまで、心の国には帰らないリア!」
すると、ラクイーンはタリアの頬に右手を置き、優しい声になった。
「タリア、あんたは本当に哀れな子だね。今、楽にしてあげる」
右手が、ほんのりと白く光る。恐らくは、イカリングがオコリンボーを生み出すときに現れる赤い光と同種のものだろう。ゆかりは体をひねって、タリアをラクイーンの手から遠ざけた。
「何するの!?」
白い光を持て余したラクイーンは、右手の上でそれをボールのように弄び、風船のようにふわふわと浮かせた。
「言ったでしょう? 私は心の国の“楽のカリスマ”だって。私には、辛いことや苦しいことからみんなの心を解放してあげられる力があるの」
「それじゃあ、みんなが急に帰ってしまったのは、あなたのせいなの?」
異世界のことも、それぞれの思惑も理解できないままのゆいだったが、ラクイーンが現れてみんながおかしくなった。そのことを決定づけるには、今の説明だけで十分だった。
「あら、そういえばあなたよね? 楽の力の源さん」
「どういうこと?」
ゆかりが聞き返すと、ラクイーンはにやりと笑った。
「私だって、何もないところから人々の心は操れない。この世界の人間ったら、馬鹿みたいに真面目で、ちっとも隙をみせないんだから。都合のいいことに、その子の心は楽の感情で満ち満ちていた」
ゆいに向けられた指の先に、白い光が移動した。彼女の瞳にそれが映ると、さきほど自分が抱いた気持ちが頭の中に呼び起された。
「その子はね、学校にいるのが嫌だったの。楽しくなかったのよ」
「そんな……。でも、ゆいはこの前、部活に来てくれたとき楽しそうだった!」
「私はその子の心を見た。あなたなんかより、しっかりとね。本当にこの子は、楽しんでいたかしら?」
ゆかりは思い出した。見学に来たとき、ゆいが何度か表情を曇らせたことを。タリアと一緒にいるときと比べて、明らかにぎこちない態度。何かきっかけがあったはずだ。
「それは……、やっぱり一人だけで知らない人の中に混ざるのは居心地が悪かったかもしれないけど……」
どうして、ゆいは一人で来ていたのか。ゆかりに改めてお礼を言うためだ。しかし、普通そこまでするだろうか? 彼女を保健室に連れていったときに、感謝の言葉は確かに受け取った。それなのに、お礼を口実にしてゆかりに会いにきた。よっぽど、自分のことを気に入ってくれたのだろうか。
そんな自惚れた考えは捨てて、もっともらしい理由をさがす。しかし、まだよく知り合ってもいないのに、分かるわけがない。
「ゆい、どうしてあれから来てくれなかったリア? ボクはゆいのこと待ってたリア」
そんなことを言い出すタリアに、ちなみが注意する。
「そりゃタリアばっかり気にしてられないでしょうよ。クラスにも友達がいるんだから」
ゆいの表情が、たしかに曇った。どうして――ゆかりは思い出す。次に来るときは友達を誘ってと言われたとき、ゆいはそうなった。タリアが友達だと言えば、ゆいは微笑んだ。友達……、これがキーワードなのだろうか。
「やっと分かったようね」
ラクイーンの指先で、光はどんどんその輝きを増した。それは眩しいというより、ただ目を背けたくなるような、鈍い光だ。
「あの……! 私、実は……」
「いいのよ、無理しないで」ゆいの肩に手を置いて、ラクイーンは言葉を遮った。「これ以上、苦しむ必要はないの。さぁ、楽におなり」
白い光を近づけられ、ゆいの顔が薄暗い部室の中で浮かび上がる。恐怖と安堵の入り混じった表情を見たゆかりは、ポケットから指環を取り出して右手の薬指にはめた。
「ゆいから離れて!」
「あら、何をするつもり?」
「私たちには何の力もないと思ったら、大間違いだから」
ちなみも右の手首に真紅のブレスレットを装着した。しかし、武器を向けられたならともかく、ただ目の前で二人の女子中学生が装飾品を身に着けただけでは、ラクイーンは動じなかった。
「じゃあ、どんな力があるっていうのか、見せてもらいましょうか」
首輪を乱暴につかむと、犬を連れてラクイーンは部室の外に出た。手をかざすと、犬は鈍い白の光に包まれる。
「私のために働け、ナマケモーノ!!」
見る見るうちに巨大化し、おっとりとしていた犬は、凶暴そうな獣の怪物となった。
ゆかりとちなみは、お互いに目で合図して頷いた。ゆいに知られてしまうと少しばかり厄介だが、妖精や怪物を目の当たりにしているのだから、全てをさらけ出した方が手っ取り早い。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!!」
指環とブレスレットは、かけ声をきっかけにそれぞれ大きな光の環となって、彼女たちの体をくぐらせる。
「みんなでつなぐ、喜びの環! キュアリンク!」
「信じて振るう怒りの拳! キュアルビー!」
プリキュアに変身した二人は、果敢に怪物に立ち向かっていった。素早い動きをするナマケモーノに翻弄されながらも、二対一という状況を活かして上手く戦っている。ゆいにとってそれは、あまりにも現実離れした光景だった。
「変身した……?」
彼女は初めて会ったタリアの存在を、すんなり受け容れることができた。理屈では説明できないが、クラスメイトがいつの間にか友達になっているような、自然な流れだった。
しかし、学校中の人間が一斉にいなくなり、異世界からやって来た女性が犬を怪物に変え、二人の先輩は変身して戦っている。とても人間業ではない動きだ。これらのことは、決して彼女が許容できるものではなかった。
「“伝説の戦士”プリキュア……。なぜ、お前たちが……!」
「ゆかりは喜び、ちなみは怒りの力でプリキュアになったリア」
まるでラクイーンが連続ドラマを一話見逃してしまったかのような軽い口調で、タリアが説明した。
「喜び、怒り……」
先ほどまでの余裕が消え、ラクイーンの表情には憎しみが現れた。そのままの表情で笑い出したものだから、男が百人に一人くらいなら振り返ってもよさそうな顔立ちが、ひどくけばけばしくなった。
「だけど、私は“楽しみ”を司る者! そんな力で私に勝てると思う!?」
「思うリア!」タリアは物怖じすることなく叫んだ。「ゆいからも、強い“楽しみ”の心を感じるリア!」
ゆいの心に、何か重たいものがすとんと落ちた。
どうしてそんなことを言うのか。どうしてみんな、自分を追いつめることばかり言うのか。
私は自分の悪いところをちゃんと理解したうえで、私なりに頑張ろうとしている。それなのに、みんなは私の気持ちなんて無視して、自分たちだけで盛り上がっている。タリアだけは分かってくれていると思っていた。それなのにどうして……。
そんな彼女の気持ちを読み取ったラクイーンは、ひどく愚かで矮小なものを見るような目でゆいを見た。
「たしかに、その子の楽をしたいって気持ちは大したものだったわね。あんなに多くの人間を怠惰にさせ、強力なナマケモーノを生み出せた。でもね、タリア」怪物と戦っている二人の戦士を後目に、ラクイーンは言葉を続けた。「“楽しみ”の心というのは、強いものじゃない。むしろ弱い人間が持っているもの。仕事や勉強や人間関係、そんな面倒くさいものをやめて、ただ楽しいことだけをしたい欲求。それが“楽”であり“楽しみ”なの」
これまでゲームの中でしか戦った経験のない新米のプリキュアは、これまでとは違う怪物を相手に疲弊しきっている。人型のオコリンボーであれば攻撃の軌道は予想できるが、ナマケモーノは動物的な勘と動きで彼女たちをすっかり手玉に取っている。
「そのお嬢ちゃんは強い“楽”の心を持っているけれど、強い力にはなり得ない!」
その通りだと、ゆいは思った。自分は普通の人間。ほかの人よりちょっと勇気がなくて、少しばかり言い訳が上手いだけ。だから必然的に、こんな性格になった。でも誰かに迷惑をかけたりはしていない。自分が惨めになるだけ。
「そんなことない!」
怪物の顎に蹴りを食らわせたリンクは、部活で鍛えた喉を働かせ大声で叫んだ。急所に強烈な一撃を受けたナマケモーノは、仰向けに倒れる。
「誰だって、逃げ出したい、楽をしたいって気持ちはあるかもしれない。でも、ゆいは私に会いに来てくれて、一緒に部活をして、一緒に帰った。私はあの日、ゆいと過ごした時間がすごく嬉しかったし、すごく楽しかった!!」
呻き声を上げながら起き上ったナマケモーノは興奮した様子で、背後からリンクに飛びかかった。
「危ない!」
ゆいが悲鳴を上げて間もなく、その巨体の推進方向はルビーのパンチによって見当違いの方向へ変えられた。
「本当は今日来てくれるって楽しみにしてたんだけど……、明日でも明後日でも、来週でもいい。無理に急いで決める必要はないからさ。軽い気持ちでね、また見学に来てよ」
ルビーが拳を握って親指を立てると、手首のブレスレットが小さく揺れた。真紅に輝くそれは、ゆいにとってあまりにも眩しかった。
「何を言っているの。友達のいないその子を苦しめたのは、あなた達なのよ?」
彼女の心に落ちたもの。それは、胸ポケットにしまってあるロケットかもしれない、とゆいは思った。ひもがあったなら、首からぶらさがったままずっと身につけていられる。しかし、ひもが切れてしまった今、ちょっとでも気を抜いて手を放してしまえば、いともたやすく落ちてしまう。そんな簡単に落ちてしまうものなら、もう拾わなくてもいいじゃないか。
「友達なら、ボクがいるリア!」
心の中でロケットは微かに光り、自身の存在を主張した。ここにいるから、手を伸ばしてくれと言っているかのようだったが、ゆいは素直にそれに従うことはできなかった。
「私たちもだよ!」攻撃を避けながらリンクが言った。「私たち、きっといい友達になれる!」
躊躇っていた手を、伸ばしてもいい気がした。
「友達なんて、難しく考えるもんじゃない! 誰だって初めは他人なんだから!」
ルビーの力強い拳が、ナマケモーノの巨体を弾き飛ばす。
「ゆいの本当の気持ちを、教えてよ!!」リンクが大声で言った。
「私は……」
結局、ゆいはロケットを拾わなかった。ゆかりが拾ったのを手渡されただけ。それを受け取ったとき、二人の手はつながった。気がつくと、ちなみとタリアもそこにいた。忍たちもいたかもしれない。
どうしてこんなことを思うのか、答えは明らかだった。ゆいはみんなと一緒にいたかった。手が差しのばされるのを待っているだけではだめだと、ようやく分かった。勇気を出してゆかりとつないでいるのと反対の手を伸ばすと、タリアがつかんでくれた。ちなみも、それぞれ手をつなぐ。そこには、一つの環ができた。
楽しみを共有できる、小さな環だった。
「私は……楽しかった!」
その瞬間、ゆいの頭上に白い光の環が現れた。これまで自分の中に封印してきた感情が具現化したかのように、清々しい気分だった。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!」
自分が何をしているのか、言っていることの意味さえも解らなかったが、それでいいと思えた。これまでのゆいは、友達の家のインターフォンを押すだけでも、相手の親が出てきたときの対応を何度も反復していた。
だけど、楽しいという気持ち、素直な感情が現れるそのときには、余計なことを考える余裕などないのだ。自分がどうしたいか、重要なのはそれだけだ。
光の環は、ゆいを純白のコスチュームを身に纏った戦士に変身させる。首の周りで小さくなると、それはボールチェーンのペンダントとなって胸ポケットにあるロケットとつながった。もう二度と、落とさないで済むように。
「今を楽しむ、恵みの心! キュアプレジャー!」
二人の先輩プリキュアは、その様子を見て今さら驚きはしなかった。それは落ち着いたころに、遅れてやってくるのだろう。
それでいい、とリンクは思った。人生を楽しむ秘訣は、ノリだと誰かが言っていた。その誰かだって、辛いことや苦しいことを経験してきたに違いない。だけど、いつも辛いわけじゃない。楽しいことだって、たくさんある。
その気持ちが、リンクに力を与えた。
「プリキュア! リンクポーション!!」
彼女の掌から発射された光の束は、ナマケモーノの腹部を正確に捉え、動きを鈍くした。
「今だ、いけっ!」
ルビーの指示に従い、プレジャーは身につけたばかりのペンダントに、力を込める。すると、ボールチェーンの部分は複数のボールの形をした光となって浮かび上がった。
「どうして戦うの!? あなたはそんな人間じゃない。色んなことから、友達を作ることからさえ逃げて、楽ばかりしてきた。それがあなたの本性でしょう!?」
「たしかに私は、いつも逃げてた。でも、そんなのぜんぜん楽しくないよ!」
ラクイーンの言葉を受けて、はっきりと感じた。たしかに、辛い思いはできるだけしたくない。楽に生きられるなら、それが一番だ。だとしても、頑張るというのは決して悪いことではない。
「私はゆかりさんとちなみさんと、タリアと、これから友達になっていく人たちと、楽しみを分かち合いたい!」
人の性格なんて、簡単には変わらない。だから、この気持ちを抱くことができた心こそが、自分の本性なのだろう。ゆいは、もう迷わなかった。
「プリキュア! プレジャーブレス!!」
光の散弾が、ナマケモーノに降り注ぐ。悲鳴は次第に穏やかな鳴き声となり、獣の怪物から白い光が離れたとき、その中からごく普通の愛らしい犬が姿をあらわした。
「キュアプレジャー……“楽しみ”のプリキュア、私は認めない……!」
やはり瞬間移動のようなもので姿を消したラクイーンを見送り、三人は変身を解いた。ゆいにとって、今の出来事が現実だったか判断するのは容易だった。ラクイーンがいたはずの場所にばいばいと手を振っているタリアはそこにいて、自身の首にはネックレスがあったのだから。
ならば、自分の気持ちと正直に向き合う必要がある。それがどれほど情けなく、目を逸らしてしまいそうになることでも。彼女は二人の正面に立って、ゆっくりと口を開いた。
「私、この春休みに……引っ越してきて、それで、この学校にはまだ……友達がいないんです……」
これだけのことを言うために、ゆいは罪深い過去を告白する思いだった。きっとラクイーンのせいでばれていたに違いない。しかし、楽になるというのは、辛い感情を飲み込むのではなく、吐き出してしまえばいいと知った。
そして、先輩としてまだ一年生のゆかりは、ゆいが解放したその気持ちを処理することこそが、自分の役割だと思った。
「私たちがいるよ」
こんなとき、どんな顔をしたらいいか分からなかったゆいは、とりあえず笑うことにした。それはゆかりたちに伝染して、彼女たちのほかに誰もいない学校の一角は笑顔に溢れた。
忘れられていた一匹の犬は、ナマケモーノとなってプリキュアに倒された恨みなど光と共に消え去ってしまったのか、元気な調子で吠えている。一体どうしたのだろうと辺りを見渡すと、一人の女子生徒がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「もう、やっと見つけた」
制服のタイだけ外したラフな格好の女の子は、ゆいと同じクラスの、友達から悦ちゃんと呼ばれている子だった。彼女は、ゆいたちを見ると、深々とお辞儀をした。
「すみません。うちのココアが、ご迷惑をかけませんでした?」
走ってきたのか、息も絶え絶えで、頭を下げた拍子に一滴の汗が地面に落ちた。ココアという名前らしい犬は、飼い主に会えて嬉しい様子で尻尾を振っている。
「そんな、迷惑だなんて……」
素早くタリアを背中に隠して、できるだけ怪しまれないようにゆかりは気をつけた。まさか、おたくの犬が化け物にされて襲ってきましたが、私たちがやっつけて元に戻しましたなどと言えるわけがない。
顔を上げた悦ちゃんは、観察するようにゆいを見ると、いつもクラスで友達と接するのと変わらない態度で彼女に話しかけた。
「恵原さん、だよね? ソフトテニス部にしたんだ」
「えっ? あの……」
一瞬のうちに、何パターンもの回答が浮かんでは消えた。どんなことを言えば、話が盛り上がるだろう。うん、なんて返事だけは絶対にだめだ。何か上手いことは言えないか。そんなことを考えて、結局は二番目につまらなそうなものに決めた。
「うん、前にも見学させてもらって、ソフトテニス部に入ろうかな……って」
「そうなんだ! 私も興味あるけど、迷ってるんだよね」
同じ人間とは思えないほど素早く返してきた彼女に困惑するゆいは、自分が九十年代初期のコンピュータみたいだと感じた。これまで悩んでいたのは何だったんだ。こんなことなら、もっと早くに自分から話しかけたらよかったじゃないか。
悶々として自分が何も言葉を発してないことに気づいたときには、またも悦ちゃんに先を越されていた。
「この部活、楽しい?」
ゆいの頬がゆるんだ。そんなの、答えは決まっている。
「うん、楽しいよ!」
直に悦ちゃんは、どうして学校がこんなに静かなのか疑問に思うだろう。
ラクイーンが退散して、みんなは“楽”の支配から解放されたころだ。それからどんな行動をとるかで、その人の本性がわかる。
きっと誰にだって、楽をしたいという気持ちはある。楽しいことだけをしたいという気持ちも、同じくらいあるはずだ。それらは人として当たり前の感情だから、ほとんどの者はそのまま帰ってしまうかもしれない。
学校に戻ってくるのは、ほんの一握り。それはきっと、くそ真面目か、学校でみんなと一緒に過ごす時間を楽しいと感じている人だ。だから、しばらくしてゆいは、女子ソフトテニス部のメンバーとして歓迎されるはずだろう。
そんなみんなを、自分にとってどんな存在と認識するかは、彼女次第だ。
次の更新はしばらく後になると思います。