がっこうぐらし!―Raging World―   作:Moltetra

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大変長らくお待たせして申し訳ありませんでした。

最早何も言うまい。


20.撤退

「なに、これ―――」

 

 胡桃は目の前に広がる亡骸達を見て、戦慄と共に吐き気に催されていた。しかし吐く事はできず、口に手を当てては必死に耐えている。外も酷かったが、中は一層の地獄と化している。雅達が通った後がすぐにわかってしまう……その痕跡を辿りながら、度々立ち止まっては吐き気に耐えていた。

 

「イツキも……一緒だったんだよな」

 

 イツキなら止めるだろう。胡桃は内心そう思っていた。だが現実は悲惨だ。死体のいくつかは大きな風穴が空き、中には女までもが額を貫かれている。後頭部からは見えてはいけない物まではみ出していたりと、イツキですら雅と同じ様に一切の躊躇がなかったとわかってしまう。

 それもそうだ。実の妹を犯され、何ヶ月かぶりにようやく奪還できる。そんな時に戦えないなんて言えない。仮に全て雅に任せられるとしても、それはイツキ自身が許せない事だ。

 なら、イツキは仕方なくやったのか? そうでもないのかもしれない、むしろ喜々として―――復讐できると息巻いていたかもしれない。そこまで妄想が飛躍しそうになった所で、胡桃は思考を放棄していた。

 今は2人を探さなきゃいけない。人気のない校舎の中を、胡桃は血の匂いを頼りに奥へと進む。だが、その匂いと惨状は途中で途切れてしまった。

 

「……まさか?」

 

 2人はここで力尽きた? その場には大勢の男達が倒れている。なのに、死体がある場所以外に血痕はない。それなら捕まったと考える方が正しい。だとしたらここは危険だ。胡桃は今、未だに制圧できていない敵地の真っただ中にいる事になる。

 

「あなた、誰?」

 

「!?」

 

 背後からいきなり話し掛けられ、胡桃は慌てて振り返る。その様子に声をかけた方も驚き、お互いに1歩後ずさって訝し気な視線を向けた。

 

「……お前こそ、誰だ。名前は?」

 

 胡桃はシャベルを構えつつ、目の前に居る黒髪の少女に尋ねる。

 

「私は、美波」

 

「美波……! もしかして神崎美波か? 兄がいて、兄の名前は樹か!?」

 

「うん。そうだけど……お兄ちゃんを知ってるの?」

 

 まさかこんな所でイツキの妹に会えるとは。思わぬ収穫だと喜ぶ胡桃は、構えていたシャベルを下ろして少女に近付く。だが、警戒しているのか1歩踏み出すごとに2歩ずつ下がっていく。このままだといつか走って逃げられてしまうかもしれない。

 

「あたしは恵比寿沢胡桃。イツキと一緒にお前を助けに来たんだ」

 

「助けに……? お兄ちゃんはどこにいるの?」

 

「……わからない。最初はイツキともう1人あたし達の副隊長みたいなヤツと行ったんだけど、もう長らく戻ってない。何か物騒な声とか音とか、聞こえなかったか?」

 

「いっぱい聞こえた。お兄ちゃんがよくやってたゲームの……そう、銃声みたいな音。それと他の人が『片腕の悪魔』が来たって」

 

「その片腕ってのがうちらの副隊長だな。それにしても悪魔か……らしいっちゃらしい呼び方だけど、うーん……どちらかと言うと、鬼? あ、その2人が今どこにいるかわかるか?」

 

 少女は黙って首を振る。どうやら戦闘があったという事以外何も知らないらしい。樹が来ている事も今知ったとなると、あの2人は案外上手く逃げているのかもしれない。

 

「まあいいさ。とりあえず2人は後で探すとして、美波……あ、名前で呼んでいいかな?」

 

 少女は黙って頷く。あまり喋らない方なんだろうか? 表情もあまり変わらないし、なんだかアイツを相手にしてるみたいだと胡桃は感じた。

 

「じゃあ美波、あたしと逃げよう。あたし達の車まで行って、後は2人を回収してどこか遠くに行こう。もうこんな所で辛い思いはさせない」

 

「行かない」

 

「え?」

 

「私はここにいる。確かに嫌な事もされたけど、今は坂上さんが守ってくれてる。だから行かない」

 

「その……坂上ってのは、誰だ? 女か?」

 

「坂上さんはここの副隊長みたいな人。無口であまり笑わないけど、私を守るって約束してくれた。私が……唯一なんでもしてあげたいと思う、男の人」

 

 副隊長のポジションで、無口で無表情で守ると約束してくれた男の人? どこかにとてつもなく共通点の多いヤツが居た気がする、というかまんま雅じゃねえか!

 この感じだと何を言っても1人じゃここを出ないだろうし、坂上っていう雅モドキも一緒に連れ出すしかない。

 

「え、えーと……じゃあその坂上って男も一緒に行くとしたら、来るか?」

 

「うん、でも来ないと思う。前『俺の居場所は此処にしかない』って言ってた。だから、私はここに残る。お兄ちゃんに会ったらそう伝えてほしい」

 

「そ、そうなのか……いやいや! ここのリーダーとか体制は本気でヤバいって聞いてるけど、そこん所は……どうなの?」

 

「もう前みたいに乱暴な人は殆どいない。それに、皆死んじゃったから」

 

 胡桃の背後に大勢横たわる死体に美波は微かに目を細める。その様子を見るに、大して大切だとは思わない相手達なのだろう。それでもここまで無残な死体を見て取り乱さないという精神には素直に感心していた。

 

「でもここまで減ったら、きっと菊月さんが本気を出す。きっと、私も……」

 

「菊月……? 菊月ってのが、何をするんだよ」

 

「人を増やす。時間は掛かるけど、残った男の人を集めて私達と……」

 

「……まさか、無理矢理やるってんじゃないだろうな?」

 

「……」

 

 無言のまま俯く少女を見て、胡桃は強い憤りを感じた。その菊月とかいう男と、坂上という男。美波を守ると約束した後者はともかく、菊月はかなりの曲者だ。出来るのなら今すぐ残ってるリーダーをぶちのめしてやりたい所ではあるけれど、あの2人がいない今勝率は低い。

 そもそもその2人ですら、菊月と言う男に敗北した可能性だってあるんだ。だとすれば、あたし1人で勝てる可能性なんか絶対にない。

 

「あなた、逃げた方が良いよ。菊月に見つかったらきっと―――」

 

「いや、逃げない」

 

 下ろしていたシャベルを再び両手で握ると、胡桃は無理矢理闘志を燃え上がらせる。

 

「まず2人を見つける。そうすればこっちは3人、戦力は十分だ」

 

「3人じゃ勝てないよ。ここにはまだ生きてる人が10人はいるもの」

 

「大丈夫! 『片腕の悪魔』は5人分、イツキは3人分の戦力がある!」

 

「……じゃああなたは?」

 

「ダークホースだからな……状況によっちゃ100人以上の戦力になるぞ? それに『悪魔』もダークホースだ」

 

「ダークホースが多いのね。『悪魔』さんは名前通り強いみたいだけど」

 

「そうさ、だから……一旦あたし達の所に避難してくれればいいんだけど」

 

 美波はしばらく考えて、顔を上げる。

 

「必ず坂上さんを、連れてきてくれる?」

 

「……おう、必ず連れて行く。ちょっと半殺しになるかもしれないけどなっ」

 

 胡桃は右手を指切りするように小指を立てて突き出す。すると、美波はゆっくりと……自身の小指を絡めた。

 

「坂上さんは強いよ。あの人の剣は……きっとなんでもまっぷたつになっちゃうんだから」

 

「剣を使うのか……ま、まあとりあえず一旦戻ろう。流石にあたしも美波を連れたままじゃ戦えないからさ」

 

「……うん」

 

 絡めたままの右手で、そのまま手全体を握る。そしてそのまま、静かに、それでも可能な限り早く歩き始めた。

 

 

 坂上が去ってからかなりの時間が経った。時折窓から差し込む光を見ては、指定された時間が来るのを今か今かと待ち侘びている。

 

「……イツキ、そろそろ起きた方が良い。イツキ?」

 

 冷え切ってまともに動かなくなってしまった体を起こし、最早感覚のない手でイツキの肩を揺する。

 

「は、はい!? 時間ですか!? あ、コートありがとうございました」

 

 イツキはすぐに飛び起きると、すぐさま着ていたコートを脱ぎ、俺に手渡してくる。

 

「ああ。まだ時間じゃないが、寝起き早々に激しい動きをするのもキツいだろうと思ってな。寝ぼけてボーっとされるのも困る」

 

「なるほど、そういう事なら……雅さんは大丈夫ですか?」

 

「問題ない……と言いたい所だが、流石に冷えたらしい。悪いが体が温まるまで戦力にはならないだろうよ」

 

「え……そんなに?」

 

 イツキが恐る恐る俺の手を取ると、びくっと体を震わせた。そこまで冷たかったんだろうか? 体感ではそこまで寒いとは感じられないが……冷えすぎて感覚が麻痺でもしたかもしれない。

 

「だ、大丈夫なんですかこれ? まるで死人みたいになってますけど……」

 

「死人……か」

 

「いえそういう意味じゃないですよ? あくまで物の例えで……すみません、僕の為にコートを貸したから……ですよね」

 

「それもあるだろうが、何分俺は元から体温が低いんだ。冷え性なのも相まって手先は特に、な」 

 

 辛うじて手を握るが、感覚は愚かまともに手を握る握力もなかった。正直、自分でも驚いている。今までもまともに暖を取れない場所で夜を過ごす事はあった。コートを手に入れる前も、多少動き辛くとも動けたんだ。

 それなのに、何故だか上手く動いてくれない。まるで身体の節々が石になったかのように、まるで……俺はもう、まともな人間ではないんじゃないかと思えてしまう。

 

「あ、そういえば時間まであとどれくらいなんでしょうかね?」

 

「さあ、そんな長くはない。今まで大した騒ぎにもなってない所を見ると、胡桃達も大人しく待ってくれているらしいな」

 

「だといいんですけど……」

 

「先にお前の妹の方に行く。次に荷物だ。位置は2階の理科準備室……それなら、窓から飛び降りてそのまま逃げられる」

 

「いやぁ……皆雅さんみたいに身体能力高いと思わないでくださいよ……少なくとも僕は無理ですよ?」

 

「えぇ……?」

 

 思わず「マジかよ?」なんて顔をしてしまった。それに対し、イツキは「いや無理ですから」と念押ししてくる。確かにハードルは高いとは思う、だが出来ない事はないだろう?

 5m程度なら受け身を取ればなんとかなる物だ。人間とは思いの外柔軟で、20mの高さから落ちても擦り傷で済んだりする。その分1cmの段差に躓いて死んだり、最悪何の段差もない場所で転んで死ぬヤツもいるが。

 どちらにせよ、この状況をここまで生き残っている連中なら2階や3階から堕ちても死にはしないだろう。

 

「……消火栓のホース使えば出来るよな?」

 

「ま、まあロープ代わりになるものがあればなんとか……なるんですかね?」

 

「ならなくても蹴落とすからな。迂回する余裕はない、いつまでも幸運は続かないもんだ」

 

「お、お手柔らかにお願いします……」

 

 束の間の談笑で和んでいる中、どこかから足音が聞こえてくる。その音に2人して耳を澄ませ、無意識に扉がある壁に張り付いていた。

 足音は俺達が居る部屋の前で止まると、微かに3回ノックされる。そして、ゆっくりと鍵の開く音がした。

 

「……時間は?」

 

「ぴったり……です」

 

 イツキは床に付けられた傷を見て、気味悪そうに呟く。そして、足音が再び聞こえると、どこかへと遠ざかっていった。

 

「坂上か。とりあえず俺が開ける、考えたくはないが……罠だったら即死だな」

 

 ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回す。外の気配に集中するが、鉄の扉は殆どの感覚を遮断してしまう。今は己の勘だけが頼りだ。

 過去の教訓に習い、俺は扉の横で内開き式の扉を開け放った。そしてノブよりも低い位置から半ば滑り出す様に廊下へと出る。

 そして、俺は見た。恐らくこの状況で、一番見たくなかった……一番防ぎたかった光景を。

 

「……! クソが……菊月ィッ!!」

 

 目前にあるいくつもの銃口よりも、彼女達の方へと気が向いてしまう。そして、何故こんな事になっているのか。その説明をすぐ近くに居た男に求めようとする。

 

「吠えるなよ喧しい……俺は坂上の上司だぞ? わからない事なんてない。隠し事があるとこいつは目を合わせなくなるんだ。まあ元から人の目なんて見ないけど、まあ感覚ってヤツだな」

 

「どうやって……」

 

「ごめん、雅。あたしの……所為だ」

 

「……胡桃」

 

 両手を拘束された胡桃が、項垂れたまま詫びてくる。そうか、静かだから大丈夫だと思ったら、コトは最悪の方向に行ってたのか。それならまだ騒がしくなった方がマシだった。

 

「あたしが、1人で来たんだ。そしたら美波を見つけて……連れて帰ろうとした」

 

「何故だ、待ってろと言った筈だ! 何故かわかるだろ!? こうなるからだ! こうなったが最後、対抗手段が無くなるからだ!! わかってただろ……だから、待っていろと―――」

 

「じゃあいつまで待てばよかったのよっ!?」

 

 感情に身を任せた叫びに、悠里が顔を伏せたまま応える。

 

「あなたはいつもそうだった……ここにいろ、全部俺に任せろ、全部1人でやろうとして……私達は何も頼りにされなくて……」

 

「違う! 俺がそうするのは、お前達を危険な目に遭わせたくないからだ!」

 

「じゃあ何で私達と一緒に居るの!? どうせ私達を置いていくのなら、1人でいいじゃない! わざわざ重荷を背負い込む必要なんてないでしょ!?」

 

「違う……違うっ! 俺はお前達を重荷だと思った事はない! いや、違う……いけないのか……? 自分が大切だと判断した人間を身を挺してでも護るのは、お前達にとって重荷だったのか?」

 

 何故、俺は今こんな気持ちになっているんだろう。今までの行いが間違いだった? 所々に綻びはあろうとも、全てが間違っていたとは思わない。だけどそれは自分が思い込んでいただけで……自分のエゴを、押し付けていただけだったのか?

 

「……そうよ、私には重荷だった。無償で守ってくれるなんて、最初は信じてなかった。でも……本当にずっと、何の見返りもないのにずっといてくれるんだもの。何もしてあげられないから、余計に―――」

 

 それ以降を喋る前に、悠里は脇腹を銃口で小突かれる。……いや、違う? 奥底で願っていた間違いだと言う思いは、俺の思い込みだ。そうに違いないと見切りを付けているのに、どこか諦めきれない。

 あまりにも激昂していた所為か、俺は周辺確認を怠っていた事に気付く。今この場に居るのは恐らく此処の全戦力だ。武器も何もかもが男達や菊月と坂上が握っている。

 ……いや、そうでもない。俺達が持っていた自動拳銃と散弾銃がない? 狙撃銃はこの場に合わないから阻害されるとしても、近接で最強威力である散弾銃と貴重な自動拳銃は鹵獲するのが普通だ。

 それなのにないというのは、どうもおかしい。銃という強力なアドバンテージがあったとしても俺は諦めない、それは菊月本人が一度経験している。なら出来る限り火力を誇示しなければ、犬に噛まれてもおかしくはないんだ。

 それに加え―――奴ら、何人かは弾を装填していない。銃に覚えのない奴らなんだろう、よく見れば構えもなってなかった。

 

「……もう、限界なの。あなたとはこれ以上一緒にいられない」

 

 悠里は顔を伏せたまま涙を流し、別れの言葉を口にする。そこからは視線を合わせるどころか、表情さえも伺えなかった。

 

「そうか……お前達も、そうなのか?」

 

 胡桃や美紀、そして由紀に1人ずつアイコンタクトをしてみる。美紀は口を噛み締めたまま何も言わず、前髪で目は隠れている。胡桃も、微かに視線は逸らしているがその眼には悲壮な感情しか映っていない。

 ……なら、由紀は?

 

「うん……私も、ずっと……そう、思ってた」

 

 涙声でそう言った由紀の目は、酷く真っ直ぐだった。まるであの時……俺に夜警の依頼をしてきた時の様に。

 

「……そうか、わかった」

 

 微かに振り返ると、イツキが不安そうに俺達を見ている。それに対しイツキ以外に気付かれぬように、左手で人差し指と中指を交差させるハンドサインを出した。わかるかどうかはわからんが、賭けに出るしかない。

 

「終わったか? ったく長いんだよ……これでわかっただろ、お前はこいつらにとって『不要』だそうだ」

 

「……らしいな」

 

「ははっ、見事に心折れたって顔だな。じゃあちょっと面白い事してやろうか。坂上、銃渡してやれ。精々悔やみながら楽に死なせてやろうじゃないか、勿論1発だけ入れておけよ」

 

「わかった」

 

 坂上が持っていたサクラから弾を抜き、1発だけ込め直す。それを持って俺へ近づいてくると、シリンダーを持った状態で俺へと差し出した。

 

「……わかってるな?」

 

「―――勿論」

 

 銃を受け取り、ハンマーを起こす。そしてその銃をこめかみへと持って行く過程で、坂上の左胸へと突き付けた。

 

「全員動くな。誰かがぴくりとでも動いてみろ、こいつは死んで、ついでにその向こうに居るボスも死ぬぞ」

 

「お前……! ハッタリだ! あの銃にそこまでの威力はない、撃ち殺せ!」

 

「いいのか、正直そこで吠えてる輩より俺の目の前に居る方がよっぽど有能だと思うが。それと、貫通しないと本当に思うか? 俺はこの場の誰よりもこの銃については知ってるぞ……弾の抜ける位置も軌道も、全部だ。これが嘘だと思うか、菊月」

 

 勿論ハッタリだった。.38口径じゃまともな威力は出ない、精々坂上を殺す程度だ。運が悪ければ抜ける可能性もあるが、そこから先は人を殺せる威力は保っていないだろう。余程の急所に当たらない限りは。

 

「こちとら日常的に銃撃ってんだよ、素人で勝てると思うなよ?」

 

 低い声で、出来る限りの威嚇をする。それだけで何人かは怯んでくれたのか銃口が震え始めた。……これは、思いの外簡単に脱出できるな。

 

「……お前」

 

 坂上が微かに声を発する。横目で見れば、吐息だけで本当に微かな声を発声し始めていた。

 ……お前は右をやれ。繰り返して言われてやっと聞き取れた文章に、俺は何のこっちゃと首を捻りかける。

 

「時間だ」

 

 坂上の言葉と同時に、ばりんと廊下の窓が割れた。何事かと思えば、すぐさま赤い筒がいくつも投げ込まれる。

 

「なんだ……!?」

 

 その場にいるほぼ全員が突然の出来事に驚くが、唯一平常心を保つ男が居た。

 

「応援を頼んでおいた。ここには30本近くの発炎筒が投げ込まれる予定だ」

 

「多過ぎじゃないか?」

 

「なに、視界を塞ぐにはそれだけ必要だ」

 

 坂上がポケットから新しい銃を取り出し、俺に差し出す。それは大分馴染んできたと思い始めていたブローニングで、同時に替えのマガジンも2本、指の間に挟まれていた。

 

「じ、準備がいいな……怖いぐらいだ」

 

「ふっ、そうだろう。全員伏せろ!! 人質はいい、何があろうと頭を上げるな!」

 

 坂上が叫ぶ。その言葉に従ったのか、菊月以外の男達はすぐさま人質である悠里らも手放し、床に伏せる。ただ1人、菊月のみは今起こっている事に気付いているのか、気が動転しているのか……どちらでもいい事だが、立ったまま俺達2人に銃を向けていた。

 

「イツキ!」

 

「はいっ!」

 

 イツキへと声を掛けると同時に、坂上から銃口を外して盾にしたまま菊月へと照準を定める。

 

「坂上! 謀ったなッ!?」

 

「悠里達を連れて外へ行け! 俺は後で所定の場所で合流する!」

 

「了解っ!!」

 

 頭を狙ったまま、躊躇わずに引き金を引く。その瞬間、坂上は腕を払って狙いを外させた。同時に悠里達も伏せていたのが幸いし、銃弾はガラスに蜘蛛の巣状のヒビを作って外へと飛んで行ってしまう。

 

「っ!? 何で―――」

 

「悪いが、あいつは殺させない。曲がりなりにも俺の上司であり、親友なんだ」

 

 その間にも大量の発炎筒による煙で視界は悪くなっていく。その間に撤退を決め込んだのか、菊月は煙の中へと遁走していった。

 

「クソッ、折角の好機だったんだぞ!? お前も次はタダじゃ済まないってわかってるだろ!?」

 

「それでもだ。―――俺は、あいつのおかげで誰かを護れる立場になれた。心配するな、あいつは逃がさない。せめて相討ちまでは持って行く」

 

「駄目だッ!! げほっげほっ」

 

煙の中から、胡桃の声が聞こえてくる。

 

「美波はお前も一緒に行くって条件でここから出る約束をしたんだ! お前が死んだら約束が―――」

 

「……そうか、思いの外大切にされてるんだな。俺も」

 

「ならイツキ、こいつも纏めて連れて行け。菊月は俺が仕留める!」

 

 後ろから飛び出してきたイツキが悠里達の拘束を解いている中、坂上を押し出して菊月を追おうとする。まだ動きは鈍いが、走るくらいはできる筈だ。本格的な肉弾戦にならなければ勝機はある。

 

「それは出来ないな―――」

 

 坂上に背を向けた瞬間、後頭部に衝撃が伝わった。何が起きたのか、それを理解したくともそれ以上の思考が出来ず、すぐさま首に回された温かい感触が俺の呼吸を微かに阻む。

 

「さっきも言った通り、あいつは俺の親友とも言える相手だ。そいつを知り合ったばかりのお前に殺させるなど、許しはしない」

 

「雅さん!?」

 

「ふざ、けるなっ!! お前がいなきゃ、イツキの妹が……」

 

「……必ず戻る。だから待っていろ。車は校舎の前にある、追跡は容易だ」

 

 もがけばもがく程、首に回された腕はきつく締まっていった。呼吸はできるのに、段々体の自由が利かなくなる。そこでやっと、首に通る血管を押さえられている事に気付いた。

 

「必ず戻るだなんて……信用できる……訳が」

 

「それをお前は今まで散々やってきたんだよ、だからもう少し、彼女達に気を使ってやれ。それが年長者から言える唯一の助言だ。行く側よりも待つ側の方が……辛いものなんだ」

 

 ああ、クソ……なんで俺は、大事な所でいつもこうやって……倒れる結果になるんだ。最早声を発する余力すらなくなり、無意味に口を開け閉めするしかなくなってしまう。

 

「……君は、話に聞いた通りの男だった。今度会ったら“忍”によろしく伝えておいてくれ……」

 

「ま、さか……?」

 

 それきり、俺の身体は床に倒れ込んだ。目に映るのは、銃を持った男達を軒並み無力化していくイツキと胡桃の雄姿と、すぐさま駆け付けてくる悠里達。数秒して思考は正常に戻りつつあるが、長い間絞められていた所為か煙の影響か酸欠で思い通りに体は動かない。

 

「雅さん、掴まってください」

 

「イツキは警戒を……胡桃、悠里、すまないが肩を貸してくれ。車は校舎前にあると言っていた、とりあえずそこまで行く」

 

「了解!」

 

「おう!」

 

 情けない姿を晒しながら、俺達は真っ直ぐ正面玄関へと向かう。ふらつく足取りでもほぼ走っているのと変わらない速度で移動できたのは、肩を貸してくれた2人のおかげだ。

 途中何人かの女と遭遇したが、由紀がなんとか事情を説明すると蜘蛛の子を散らすかの如く方々へと走り去っていった。

 

「車が見えた! もう少しだからあとちょっと踏ん張れよ!」

 

「誰に向かって口利いてんだ……なんなら10kmでも走ってやる……イツキの妹、美波はどうした?」

 

「わからないわ……でもあの発炎筒を投げたのは……」

 

「ちっ、確認が面倒だな。報連相は大事だと教わらなかったのか、アイツ」

 

「あなたもしてないでしょ? いつも私達に黙ってたじゃない」

 

「リスクは承知の上だが、知らない方が良い事もあるっていうのをわかってくれ」

 

「もうっ! 後でお説教するからね?」

 

「年下から説教か……俺も焼きが回ったかな」

 

 無駄話をする間にも車への距離は縮まっていく。思えば、俺がまともに受け答えできるか確かめていたんだろう。イツキが扉を開けて中をクリアリングすると、すぐさま俺は指定席へと放り込まれる。

 

「一先ず撤退だ、武装と坂上、美波は後で回収する。誰か合流地点は漏らしたか?」

 

「いんや、誰も漏らしてない」

 

 運転席に飛び込んできた胡桃がキーを回しエンジンを掛けると、すぐさまアクセルを踏み込む。おかげでタイヤが空転して映画さながらの急発進になったが、一同は予期していたのか俺だけが車内の後方へと転がるハメになった。

 

「なら合流地点に行け、そこで―――はっ!?」

 

 そこで、俺は2つの出来事に驚愕した。1つは、神崎美波が俺の隣で転がってきた男にドン引きしていた事。もう1つは、リアガラスから見える校舎の屋上で菊月が狙撃銃を構えていた事だ。

 

「スナイパー! 右! いや左に舵切れ!!」

 

「はぁ!? どっちだよ!?」

 

「左!転がらない程度に射線ずらせ!!」

 

 美波の頭を胸に抱きつつ、少々強引に床へと伏せさせる。車が左へ曲がり、ドリフトした瞬間……2つの破裂音が外と、そしてかなり近い位置から聞こえた。

 

「うわうわうわっ」

 

「車体戻せ! そのまま突破!!」

 

「いや無理だって言う事聞かない!」

 

「よしわかった軽くブレーキ踏んで速度下げぇ! 安定したら突破!!」

 

「一気に言うなぁっ!!」

 

 そういいつつも胡桃は言った通りに速度を下げ、なんとか安定させた後校門へと突っ切る。だがおかしい、どうもごろごろ異音がすると思えば振動も大きくて、果てには常に左側へと傾いている。

 なるほどタイヤがパンクするとこうなるのか、なんて初めての感覚に胸を躍らせながらも、無免許でありながら卓越した運転で俺達は校門を抜けていった。

 

「雅! パンクしてないか!?」

 

「してるぞー! 頑張って合流地点まで向かってくれ、ここからは安全運転でな!」

 

「パンクしてるのに安全運転はできないだろ!?」

 

「大丈夫だこの車は四駆だ! 四駆なら大抵なんとかなる!」

 

「そっか! 四駆か!」

 

 そこで納得してしまう程心に余裕がないんだな。そんな分析をしつつ、揺れの激しい車内で美波が頭を打たない様にしっかりと体を支える。かなり窮屈だろうが、今は耐えて貰う他ない。

 

「あ、あの雅……さん? 口から血が……」

 

「大丈夫だ! この車は四駆だ!」

 

「え? え?」

 

 美波に何やら心配されるが、とりあえず四駆だと返答しておく。大抵どんな状況でも四駆ならなんとかなる、それは古今東西老若男女誰もが知る知識であり、全世界共通の信頼設計なんだからな。

 とりあえず子供相手でも「四駆はすごい、とりあえず四駆を選べば後悔はしない」と言っておけば納得する物だ。

 

「喋ると舌噛むぞ、今は歯食いしばって耐えろ」

 

「は、はい」

 

 ついでにディーゼルエンジンはすごいとも教えてやれば信頼性も上がるな、よし今度からそうしようか。

 

 15分ばかり揺られ、車はようやく合流地点へと到着した。誰かが弱音を吐く度、狂った様に車の駆動方式で励まし続けた結果、俺は4度舌を噛み激しい乗り物酔いに打ち負かされる事となった。

 

「大丈夫かよ雅」

 

「……まあ、本音を言えばまた後日出直したい気分だが……そうも言ってられない。ここは気張って後でたっぷりと休めばいい、その為にも―――あー……」

 

「確実に勝たなきゃいけません。ですよね、雅さん?」

 

 完全にグロッキーモードに突入し喋るのも億劫になっている俺の代わりに、イツキが代弁してくれる。それに対し微かに頷くと、イツキは両頬をぱちんと叩いて立ち上がる。

 

「確実に勝つにはしっかりとした編成をしなければなりません。だから、僕だけで行きます」

 

「はぁ!? イツキ、今自分で確実に勝てる編成って―――」

 

 胡桃が全力で反論し、丸腰のまま車を出ようとするイツキの前に立ち塞がる。

 

「胡桃の言う通りよ。それに何も持たずに1人で行くなんて、正気とは思えない。……誰の為に誰を助けに来たのか、忘れたの?」

 

 悠里の少々キツイ物言いにはイツキもたじろぐが、負けじと向かい合う。あの悠里相手に……あいつも恐れ知らずだな。双方の格差や気持ちは置いておくとして、悠里の言い分は正しい。つい先日まで俺達の全火力だった武器が、今じゃほぼ全て向こうに渡っている。

 残る物は何もない。もうかなりの付き合いになったあの斧も、今じゃ部屋の片隅で転がっている事だろう。

 

「でも、今の雅さんは正直に言って戦力外です! 睡眠時間も体力も……拷問だってされたんです! 悠里さんはそんな状態でも戦いに行かせるんですか!?」

 

「それは……でも……危険すぎるのよ。もう何度も言って、ずっと聞いて貰えなかったけど……できるのならこれ以上誰も危ない目に遭って欲しくない……そう思うのは間違っているの?」

 

「いえ、それは正しいです。でも駄目なんです。確かに僕は自分の事情で皆さんをここまで連れてきて……巻き込んでしまいました。妹も助けられて感謝してます。でもだからこそ! これは自分で決着をつけなくちゃいけないと思ってるんです!」

 

「その思いはよくわかるわ……わかるけど、それとこれとは話が別よ」

 

「行かせてやれ、悠里」

 

 傍から見ているだけの俺が口を出すのもどうかと思ったが、この先後悔をさせない為にも俺は立ち上がる。思いの外限界が近付いている身体に鞭を打ち、イツキの背に手を当てた。

 

「雅……まさか1人で行かせるのか?」

 

「それは俺も反対だ。だが、まあ……こいつの言う通り俺もそろそろでな、そんな俺を気にしながらやっても足を引っ張るだけだ。それなら、ここは1つ賭けてみるのも……違うか。不本意ながら、賭けるしかない」

 

「そろそろって……冗談だろ? 単に疲れて動けないって意味だよな?」

 

「それもある。皆にはいつも心配させて悪かった。自分でも非合理的だとわかっていても、それでもどうしても行かなくちゃならないと思う時は山の様にあるんだ。それを知っているからこそイツキを行かせてやって欲しい。例え死ぬとしても、後から後悔するよりはいい」

 

「……雅さん、自分が無謀だって自覚あったんですね」

 

「まあな。俺は馬鹿で強情で貪欲なんだ。言っても聞かないし、止まりもしない。だが、お前はしっかりと周りを見て人の話を聞ける。最善の道を行け、お前は立ち止まってしっかり考えるタイプだ」

 

 ゆっくりと背中を押してやると、やっと一歩を踏み出す事が出来る。目前で道を塞いでいた悠里と胡桃も、気迫に圧されたのか後ろに一歩下がった。

 

「1つ聞いておきたい事がある。お前は何をしにここまで来た?」

 

 背中越しにイツキへ問い掛けると、一瞬だけ体を震わせたイツキが足を止める。

 

「美波を……助ける為です」

 

「それはもう達成している。今ならまだ、失った物もあるが掛け替えのない存在を取り戻した……いい話で終わるんだけどな」

 

「それじゃ美波との約束が―――!」

 

 胡桃が奥の方で縮こまっている美波を気にしつつ、口を挟む。それは周囲の声であり、俺が黙らせる権限はない。

 

「美波は坂上と一緒がいいと言っていた。正直俺も……いけ好かない奴だがいくつか聞きたい事も出来た。だからお前はもう一度行くのか?」

 

「そう、です。ついでに僕達の武器も回収できれば何も失ってません。弾はちょっと使い過ぎましたけど」

 

「そうか、それが実現できるのなら最善の手だな。ただ、もし失敗すれば……武器はあいつら、坂上は生死不明、お前は死亡。ただ1人の家族すら失ったお前の妹は途方に暮れる。実際成功率はどの程度あると思っている?」

 

「………わかりません。でもやるしかないじゃないですか。こうしなきゃ……僕が皆さんを巻き込んでしまった償いにならないんですから」

 

「そうか」

 

 情けない事に、こうしている今も限界は刻一刻と近付いていた。下を見れば視界は歪み、雷でも落ちているのかと錯覚する程の明滅。極めつけに膝は笑って乗り物酔いのおかげで今にも吐きそうだ。

 

「正直な所、俺は成功率は高いと思っている。坂上はどうかわからないが、お前なら菊月を仕留めて体中に武器括り付けて帰って来るんじゃないかとな。美紀、そこの棚からアレ取って来てくれ」

 

「アレってなんですか……」

 

「俺の最終兵器だ」

 

「あぁ……」

 

 美紀は普段銃器が保管してある棚から、いつぞやの白鞘を取ってくる。

 

「これですね?」

 

「そうだ、イツキに渡してやってくれ。……『必ず帰ってこい』と上目遣いでな?」

 

「なんで上目遣い……?」

 

「生存率が上がるからだ」

 

 訝し気に眉を寄せた美紀は、両手で抱えた刀を持ったまま、イツキの前へと移動する。一連の会話は当然イツキにも聞こえているし、若干おどおどしているのが面白い。

 

「……必ず帰ってこい」

 

「違うだろぉ!?」

 

 思わずツッコミを入れてしまった美紀の行動に、イツキ共々ほぼ全員がぽかんとしていた。すぐさま美紀を呼んで少々奥まった場所に誘導すると、まるでどこかへカチコミに行く極道の様なシチュエーションを咎める。

 

「い、言われた通りにしましたよね?」

 

「違うんだよなぁ……そういうのじゃなくて、もっとこう女らしく、まるでラスボスへと挑みに行く主人公に伝説の聖剣を渡す感じで。メインヒロイン的な感じで」

 

「そんな事言われても……私そういうの得意じゃないですし」

 

「得意じゃなくてもやるんだよ。―――イツキの事は嫌いじゃないだろ?」

 

「嫌いじゃないですけど……何か勘違いしてませんか? 私はそんな好きとか……恋愛感情とかは」

 

 困惑する美紀の気持ちは分かる。別にイツキの事を好いてなかろうと、ただの友人としての好意だろうと正直どうでもいい。問題はイツキが美紀を好いているかどうかだ。

 妹の為、それはほぼ達成された。現時点で再びあそこに戻る利点はほぼないに等しい。仮に武器や美波の約束の為という名分はあろうと、目的としては薄い。そんな目的の為に命を懸けるのは馬鹿らしいとも言えるし、むしろ失敗しても美波が1人になる事以外はあまり問題がないと言える。

 だとすればもし窮地に陥った時、最悪自分の妹を助け出せたという結果に満足してしまうかもしれない。そうならない為にも好いた女からの「帰ってこい」はよく効く。俺が散々生き残っているのも、毎回帰ってこいと皆に言われているからだと思う。

 

「言ってやれ。少しでも、コンマ1mmでもあいつに死んで欲しくないと思うのなら。これは俺からの頼みでもある」

 

「……わかりました」

 

「俺は少し外の風に当たってくる。このままだと車を汚しそ―――うっぷ」

 

「だぁーっ中で吐くなぁっ!」

 

 胡桃に急いで引っ張られて外に連れ出された所で、俺は盛大にリバースした。直前に何かしら食べてなくてよかった、食材を無駄にするのはこのご時世罪深いからな。

 

「大丈夫か? 顔色めちゃくちゃ悪いけど……」

 

「あー……そうだな、正直限界だってのはさっきも言ったけど」

 

「その……限界ってのは体調的な面の話だよな? さっき『それもある』って―――」

 

「あぁ、それな……まあその話は追々しよう。今は色々立て込んでるのもある」

 

 吐いた所為で口の中がピリピリする。どうせ口の中切ってそこに沁みてるんだろう。揺られてる途中口から血が出てるとも言われた気がするし。

 

「なぁ、胡桃」

 

 横で俺の背中をさすってくれている胡桃に声を掛ける。すると少しだけ顔を覗かせて俺と目を合わせてきた。……ったく、可愛らしいな。

 

「もし、俺が成ったら……」

 

「やめろよそういうの」

 

「そろそろ考えなきゃならないんだ。なんでかはわからないが、俺はもう長くない気がする。俺の予感は大体当たるんだ、特に自分の不幸は」

 

 それは自分でも不思議な感覚だ。今より先が見える訳じゃない、夢で見る訳でもお告げがある訳でもない。ただ死ぬと―――どうあがこうが変えられない因果の様な物があるとだけわかる。

 

「……恐ろしい。こんな柄じゃないのはわかってるが……やっぱり怖いんだな。こんな感覚、久しくなかった」

 

「今までもあったのか」

 

「ああ。今までも何度か似たようなのはあった、でもこれは……絶対どうにもならない類いのものだ。俺は……死ぬのか?」

 

「……大丈夫だよ」

 

 背中から、肩に手を回される。ふわりと爽やかな香りが鼻腔をくすぐって、とてつもなくむず痒い。そんな事を考えている内に、ぐっと力を入れられて体が傾いた。

 

「胡桃?」

 

「大丈夫……あたしとイツキがいるんだから死なないって」

 

 左腕やら頬やらに柔らかい感触が当たる。……割と、着痩せするタイプなんだな―――ってのは前も考えたか。今なら思い出せる……そういえばあの時も胡桃にこうやって抱き締められていた。

 なんだかんだ……誰に一番助けられているかと言えば胡桃なのかもしれない。勿論他には誰にも助けて貰ってないとは言わないが、ここぞという時は胡桃に慰められている気がする。

 

「そう、なのかな」

 

「おう、絶対そうだ。……ふふっ、そういう話し方の方がいいと思うぞ」

 

「……離せ」

 

 ほんの少し暖かくなっていた感じが一気に冷めて体を起こそうとするが、胡桃は俺を抱く腕の力を強くする。流石に完全にホールドされている状態では成す術もなく、俺は少し力むだけでそれ以上の抵抗はしなかった。

 

「少しくらい甘えたってバチは当たらないと思うけど。それに頼ってもらえた方が、あたしもりーさんも安心するんだよ」

 

「年下に甘えるだなんて情けないだろ。それに、お前達を護るって大見栄切ったんだ、なのにしょっちゅう慰めて貰いにくる男なんて頼りないだろ」

 

「ははっ、それもそっか。でも、お前なら文句言われないよ。だっていつも死ぬほど頑張って、死にそうな顔しながら守ってくれてるじゃんか」

 

「そう、か。なら……あと30秒、いや10秒くらいこうして―――」

 

「30秒な、それかあたしが良いって言うまでこうする。じゃなきゃ……今にも死んじゃいそうだ」

 

 俺は今この状況で死ねたら本望なのかと思ってきてるよ。でもまだだな、まだまだ死ぬ訳にはいかない。この感覚があろうが、どれだけ怖かろうが運命だろうが、全部纏めてぶち壊してやればいい。

 

「……み、雅さん!? 大丈夫ですか!?」

 

「イツキ!?」

 

 背後でイツキの驚いた声が聞こえてくる。その瞬間胡桃は驚くべき速度で俺を反対側の地面まで押し退けてくれやがった。完全に身を任せていたのもあって地面に頭が激突して悶絶していると、車からイツキの声につられて全員出てきてしまう。

 

「雅さん!? どうしたの!?」

 

「いや、なんでもないっす」

 

 赤子の様に甘えていたなんて言えない。イツキも俺が完全にぶっ倒れてると思ったらしく、白鞘を右手に持ったまま俺の顔を覗き込んでくる。

 

「やっぱり……体が限界でしたよね……」

 

「い、いや……確かにまあ辛いっちゃ辛いがそれ程でもないぞ」

 

「でも今胡桃さんに―――」

 

「わーー!!! あー! イツキそれ以上は!!」

 

 胡桃が必死に隠そうとする。有り難い、非常に有り難いがリアクションが大きすぎる。おかげで悠里やら由紀が尋常じゃない事態だと勘違いして慌て始めたぞ。

 

「だ、大丈夫!? みゃーくん立てる? とりあえずベッドとかに―――」

 

「だ、駄目よ由紀ちゃん! 動かしたら悪化するかもしれないわ! えっと、こういう時どうしたらいいんだろう……」

 

「そっとしておいてくれ。それより―――」

 

 痛む右側頭部を押さえながら、俺はなんとか体を起こす。イツキが持つ白鞘を見るに……美紀はしっかり役目を成し遂げてくれたんだろうか。

 

「死ぬなよ、これは命令だ」

 

「……はい!」

 

「よし、行って来い。くれぐれも無理はするな、俺もマシになったら追う」

 

「そ、そんな! 雅さんは休んでてください」

 

「大丈夫だ。俺が行く時は十分動けると判断した時だからな。それに回復が間に合うかどうかも分からない、だから増援は期待するな。これはあくまで、お前単独の攻撃だ」

 

「……わかりました。くれぐれも無茶しないでくださいね」

 

「言われるまでもない。……行け、もうすぐ夜明けだ」

 

 イツキはしっかりと頷いて、歩き始める。……あいつの後ろ姿なんて見る時がくるとは思わなかったな。俺もいつか、こうして見送る立場になる日が来るんだろうか。

 確かに、辛い物がある。坂上の言う通り、俺は待つ側の気持ちも学ぶべきだ。こうして無事を祈る事しかできない不甲斐なさは……確かに、堪える。

 

「……悠里」

 

「なに?」

 

 俺と同じく、いつだって見送る側にいた悠里は……とてつもなく強いんだな。よく今まで俺を送り出してくれた。と言っても、いつも行くなとは言われてたか。

 

「今まですまなかった。生きてるからいいものの、もし帰らなかったら……そう考えると」

 

「……そうよ。いっつもいっつも黙って出てったり無理矢理出てったりしてたんだから、少しは反省して欲しいわ」

 

「ああ。……さて、誰か肩を貸してくれるか? 言った傍から申し訳ないが少し休んだら俺も出る」

 

「はぁー……もう何回言っても聞かないからそろそろ愛想尽きてきたかも……」

 

「えぇ、マジで?」

 

 そっぽを向く悠里だが、しばらくするといつもの微笑みに戻る。

 

「嘘よ。運ぶの胡桃も手伝ってくれる?」

 

「はいよー」

 

 ……ヤバい、今の笑顔には少しばかりドキッとした。落とされてから上げるのに弱いのか? だとしても心臓には悪いから勘弁願いたいな……いつ落ちるともかなわんし。

 しかし、徒歩で行けば20分弱掛かるか。だとしたら休めるのは30分もない。……秘蔵のブツを引っ張り出す他ないな。

 両側から支えられながら、俺はようやくまた指定席へとありつけた。そこで悠里に前々から貯蔵していたとっておきを出して貰う……これなら、今の俺でも行けるかもしれない。




今回では雅の身体に変化が訪れました。前々回は精神に、今回は身体にと来れば後は……

次回にご期待ください(丸投げ)

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