幼い天使には、荷が重すぎた。

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幼い天使には、荷が重すぎた。


フランダースの憂鬱

 あれから20年。

 わたしたちに子供はない。

 パパは去年病気で亡くなり、ママはそれがショックで寝込んだ。

 

 お金は凄い勢いで目減りしている。

 なんら実際的な仕事をするわけでもなく、絵ばかり描いている彼が、お金を稼ぐわけもない。

 わたし自身、もう何年着たか分からない古いドレスを着ている。綺麗に整えられていたはずの庭も、下男を雇えなくなって以来、雑草や、好き放題に伸びた枝やらで、荒れ放題なのだった。

 

 

 ああ、だけどどうしてだろう。

 この貧しさの中で、彼は活き活きとしており、こうしてカンバスに向かっている背中を見ていると、なんと幅広いのだろうと思う。

 昔はあんなにほっそりとした美少年だったのに――わたしはなんとも言えない心地になる――一度太ったら、もとに戻らない体質であるなんて、知らなかったのだった。

 

 

 夜風が部屋に舞い込んで来る。

 夏も終わる。涼しい風がレースのカーテンを揺らし、わたしはそっと窓際に座った。

 安楽椅子が揺れる。

 

 「あのね、わたしさっきね」

 指でカーテンをもてあそびながら、わたしは言った。

 夫は黙って絵の具を使っていたが、微かに相槌を打った。聞いているらしい。

 

 「未来からきたタイムパトロールとかいう人に連れられて、遙か未来を覗いてきたの」

 

 ふうん、と、夫は穏やかだが気のない返事を返す。しゅっしゅっと、パレットナイフで絵の具をのばしている。

 わたしはくるくるとレースのカーテンを指に巻き付けた。レース越しに、夫の姿を見つめた。

 

 「ちょうど20年前じゃない。アントワープ大聖堂で、なんとかいう画家が展示されていて……あの冬」

 なんとかじゃないよ、ルーベンスだよ、と、ほんの少し強い口調で夫は言う。だけど振り向こうともしない。一体何を描いているのやら。

 (見ない方がいいわ)

 結婚したての頃、一度、夫が描いているものを覗いたら、えっちな裸婦だったことがあり、それ以来二度と見るもんかと心に決めた。しかも、その裸婦は、若かりし頃の、わたしのママの顔をしていた。

 

 痩せにくい体質である上に、変態気質だなんて、ずっと知らなかった。

 あの絵を見たばっかりに新婚生活は暗いものになった。その延長線上に、いまのわたしたちはいる。

 

 「あなたは大雪の中を大聖堂まで歩いて、ついに絵の前で倒れたじゃない。そして、パトラッシュも」

 

 発見された時、老犬は息を引き取っていた。犬と寄り添うように目を閉じていた少年のほうは、なぜかばっちり生きていた。

 その少年こそ、今のわたしの夫なのであるが。

 

 

 「はるか未来ではね、あなた、犬と一緒に天使に持ち上げられて、天国に行ったことになってたのよ」

 極力、いつもと変わらない軽い調子で言ったつもりだった。だけど語尾が震えたかもしれない。

 わたしは見てしまったのだ。タイムパトロールとやらに見せられた、未来の書店で。

 

 綺麗な絵本の最後に描かれていた、あの絵。

 美しい金髪の少年と、ふっさふさの老犬が、小さな子供の姿の天使に抱き上げられて天国に運ばれている図だった。

 

 「どうしてかしらね」

 わたしは呟いた。

 夫は今も生きていて、しかも、どんどん恰幅がよくなっている。

 空気を吸っても太る体質なんだよと彼は笑っているけれど、そんなはずはない、きっとどこかで何かを食べているに違いないと、わたしは踏んでいる。

 

 タイムパトロールを名乗る人が言うには、「なにかちょっとおかしい」ので、ここを訪問したということだ。

 「どうも、おかしいことが起きているようで。一体なにが違ってしまったのか、調査中なんですよ奥さん」

 

 とっくの昔に亡くなっているはずの夫が生きていて、ぐうたらと引きこもって絵ばかり描き散らかしている。

 ぶくぶくと太る一方で、しかもどんどん加齢臭が強くなってきた。

 うちのお金を、どんなにうまく隠してもちょろまかしてしまい、何に使っているやら――たぶん、アントワープの夜のお店で遊んでいるのだろう――時々わたしは、夫の体に変な、縄状の結び目の跡を見つけるのだった。

 

 どんどん太ってきて、体臭もきつくなってきて、夫が入った後のトイレはすぐには使えない。

 お金は無駄遣いする上に、そのうち変な病気までもらってきそうな気がする。

 ……まさか、あの牛乳売りのやさしい少年が、こうまで崩れるなんて、誰が予想できただろうか。

 

 

 だが、レースのカーテンの向こうで、夫はこともなげに言ったのだった。

 「ああ、あの夜ね。あれは臨死体験だったのかな。ちょっと非現実すぎて、言ったら変な人扱いされそうだったから、今まで君にも黙っていたんだけど」

 

 しゃっ、しゃっ――パレットナイフが絵の具を塗りつけてゆく。

 わたしは無言で夫の背中を眺めた。なんてことだ、今気が付いたけれど、後頭部が剥げてきている。

 (でぶ、臭い、変態、剥げ……)

 まだ何か出てくるかもしれない。わたしは数えるのを止めた。

 

 「天井からさっと光がさしてね、背中に羽根をつけた赤ちゃん天使が何人も降りてきて、僕とパトラッシュをもちあげて運ぼうとしたんだよ」

 (うん。知ってる)

 未来の絵本を見て来たわたしは、無言で頷く。嫌な予感がしてきた。まさか。

 

 「さあ神様のところへ行きましょうねって、僕を抱き上げようとしたんだけど、連中、なかなか手間取ってさ」

 ……。

 

 

 ああっ、重いっ。どうしてこんなに重いんだろう。

 ああ、だめだ、これじゃあ持ち上げられないよっ。

 うえっ、しかもぶよっとして掴みどころがないんだよう。

 ……。

 

 「あはっ、お迎えの天使は、子供じゃなくて、マッスルな男の天使のほうが向いてるんじゃないかって思うんだけどね」

 夫はそう言った。なぜか、じゅるっと涎をすすり、舌なめずりする音が聞こえてきたが、気のせいだと思う事にした。

 うへへ、全裸のマッスル天使、うへへ、うへへ、へへ……じゅるじゅる。

 

 夜風に髪の毛をなでられる。そろそろ肌寒く感じる。わたしは立ちあがると窓をしめた。

 夫が三重顎に顔を埋めながら振り向き、にこにこと穏やかに言った。

 

 「ほら、君さ、僕が困っている時、時々手作りのお菓子を持ってきてくれたじゃない」

 あれ、また作ってくれないかな。たまに無性に食べたくなるんだよね。

 

 

 お砂糖どっさり。

 チョコレートを惜しげもなく使った、こってりまったりのケーキ。

 ホールごと、貧しい彼の元に運んだのはわたし。

 

 がりがりに痩せていた彼が、いつしか血色を取り戻し、おじいさんがやせ衰えようと、犬が疲れ果てようと、彼だけがぴんぴんしていたのは。

 

 「ほら、犬にチョコレートって毒じゃない。あの大きなケーキを、まるっと独り占めして平らげた、あの感じこそ天国だ」

 僕にとっての天国は地上にあるんだなって、その時から薄っすら思っていたのかもしれないよ、僕は。

 

 

 

 「体に毒よ、すごくカロリーが高いもの」

 わたしはそれでも台所に向かう。夫が望む品を作るために。

 

 「それにあなた、糖尿病で高血圧でしょう」

 

 夫は構うもんか、大丈夫だと笑い、また絵に向かうのだった。

 通り過ぎざまにちらっと見えてしまったが、なんだか毛の生えた裸の脛が描かれていたような。

 いやいやいや、わたしは何も見なかったよ?

 

 

 

 (数年のうちに死ぬな)

 小麦粉と、卵と牛乳、それと大量のバターと砂糖、チョコレートを台に並べながら、わたしは思う。

 材料を大きなボールに入れて、かたかたと軽快に混ぜ込んで行く。粉を入れたらさっくりと木のへらで混ぜるのだ。ふっくら、こってり、一口食べたらヤミツキの、特製のケーキ。

 

 釜の支度をする。

 火をどんどんくべて、中を温めて。

 生地をケーキ型に流し込み、落ち着かせる頃にはちょうどよく高温になっていることだろう。

 

 すでに甘い香りを放っている、どろどろねっとりの茶色い生地だ。

 市販のケーキの何倍も甘くて、美味しくて――きっと、体に悪い。

 

 フランダースの少年は伝説で語り継がれるので良い。

 生きていようと、夫は何か特別なことをするわけでもない。子も作らない。

 冗談でなく、数年内に、死ぬのに違いない。

 だからだろうか、タイムパトロールの人たちは、未だに何もしようとしない。この現状を放置している。

 

 この状態は、歴史的に特に問題はないということか。それはそうとして、わたしはとんだババを引いたのではないか?

 もし、ネロ少年があのまま、犬と一緒に召されていたとしたら。

 (別の人生もあったということよね)

 

 ごうごうと灼熱のかまどの中に、ケーキの型をぶちこみながら、わたしは思ったのだった。

 (天使、がんばれ)

 

 ……と。




ネロ少年は、太っていてはいけなかったのでした。

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