高町クロノという男の人生は、それこそ普通の人間が歩む正道を悉く踏み外した人ならざる人生だったのだと、客観的に見ても思い知らされる。
まだまだ物覚えがついたばかりの小さき少年だったクロノは、ある光景を目にした。今思えば、それが全ての始まりだったのだろう。
それが母の涙。悲しみに打ちひしがれた女の背中。
母、リンディ・ハラオウンは強い女性だ。多忙を極める中で、子である己に淀みなく愛情を注ぎこんでくれた。今でも感謝してもしたりないほどの寵愛を受けた。
そんな母は無論、自分の前で悲しい顔を見せたことなどなかった。どんなに辛いことがあっても子の前ではそれを悟られないように覆い隠していたのだ。
だが、子供とは不思議なものだ。自分が好いて止まない親の悲しみに敏感に気付く。気付いてしまう。それ故に、クロノは夜な夜な一人で泣いている母の姿を見つけてしまった。
言いようのない感情がクロノを襲った。
誰が泣かせた。誰があんな優しい人に涙を流させる。
疑問。疑念。疑心。
普通の子供であれば「なぜ母は泣いている」と本人に直接問うだろう。
悲しんでいる姿を見てしまったのなら、それを聞いて疑問を晴らすのが自然の流れ。
しかしクロノは違っていた。
彼は、あの子供は、母に何も聞かず、何も知らないフリをした。
母が自分の前で悲しみを隠しているのなら、その隠匿を自ら暴いて聞くようなことはしない。
だからその涙の理由は独自に調べようとした。
過去を遡り、因果を調べ、事実に結び付ける。
それを当然のように行ったクロノが、母の涙の理由に辿り着くのは当然の帰結だった。
かつて母に自分の父親は何処にいるのかと聞いたことがある。その時は遠い場所で一生懸命働いている、いつか帰ってくると言っていたのだが、それは嘘だった。
その
クロノが物心ついた時には既に死んでいた。虚無感はあった。悲しみもあった。父に認めてもらいたいという欲求以前に、父に会いたいという願いも叶わないと知った。
クロノにとって悲しい事実であり、母が夜な夜な泣くには十分な理由だった。
ただそれで終われば良かった。
母は悲しみ、涙して、いつかは本当に心の底から立ち直ればそれで良かったのだ。
しかし彼女は悲しみに暮れるだけでは終わらなかった。
愛する夫を奪った災害を、
普通の女ならば無謀と切って捨てる思い上がりだが、幸か不幸かリンディには力があった。
命投げ出せば
悲しみを増長させた先に待つのは憎しみである。
クロノの前では決して発露させなかったが、その思いが母の胸の中で燻っていた。
これ以上の被害を、自分のような思いをする人間を増やしてはいけないという使命感を持って。
母の涙。母の思い。母の決意。
子供でしかなかったクロノは全てを識った。全てを理解した。そして、思った。
この役割は母に担ってほしくないのだと。
別にリンディが犠牲になる必要などない。悲しみの果てが自身の死による復讐など、クロノは容認できなかった。許せるものではなかった。
クロノは生まれながらに誰かが傷つくのが苦手で、嫌いで、許せない感情を持っていた。
それは母であろうが赤の他人であろうが関係なく、純粋に人の悲しむ姿が許容できなかった。
そんなものを見るくらいなら、知るくらいなら、自分が代わりに受け入れようとする特殊な性格。
ならば、クロノの決意は実に明解だった。
多くの人を悲しませる
自身を犠牲にしようとするリンディ・ハラオウンの行動そのものの切除。
目的が定まった幼き少年の行動は迅速だった。あり得ないほど、現実的に動き始めたのだ。
嫌だ嫌だと駄々を捏ねても事態は好転しないどころか、一家庭の子供の泣き喚きでしかない。
故に、クロノは力を求めた。
物事を解決するには、それ相応の立場なり力なりが必要だ。ただの子供のままでは何一つ為せはしない。
力を手に入れ、地位を手にする。その為に何が必要か。
知識。魔力。結果。
魔導の何たるか、化学の何たるかを知識で取り入れ、恵まれた魔力でそれを再現し、成果を刻む。
地道な一歩。されども確かな一歩を刻んでいくクロノ。
その過程でリンディが自分を止めるだろうことは予想で来ていた。だから、母の記憶を奪った。
リンディ・ハラオウンに子供はいなかったと。ウソの記憶でコーティングした。
まさしく親不孝。倫理道徳を無視した悪徳。
それを理解した上で、クロノは決行した。その行いに迷いはなかった。
思えば、自分は初めから狂っていたのかもしれない。
他者の悲しむ姿を見たくないという目的のため、その過程で多くの禁忌を犯す。それに疑問を思い浮かべることなく淡々とこなす。傍から見ればその精神性は歪だっただろう。
他者を救う為に己を差し出す。それ即ち自己犠牲。
聞けば美徳と感じる者もいる。しかし、クロノのソレは人を愛するが故に自らの命を懸ける美談ではない。自分の存在を有意義に使えば、より効率的に事を為せるという滅私奉公の類い。もし少数を犠牲にして大多数を救えるのなら迷いなくその手段を選ぶ、そんな機械的な在り様。
違法なものに手を染めた。失われた遺物の復活もさせた。それらを使い、ヒトから記憶を抜き取り利用した。何も知らない人達を一つの手段として扱い、自分の記憶さえも最終的に捧げるに至った。
救えるはずがなかったのだ。そんなやり方で、何かを為そうなどと烏滸がましいにも程がある。
リンディは自分を犠牲にして災害を食い止めようとして、クロノはそれを容認できず。
しかしその実、クロノの取っている行動はリンディの後追いに他ならない。
結局、クロノが母を止める資格も、ましてや己の行動を正当化できるはずもない。
それでも突き進むしかなかった。後戻りも、道を踏み直すことも知らぬが故に。
クロノの本質は、自分への無関心。
自分がどうなろうと悲観的になることができず、何かを想うこともない。
大切な関わり、絆を自ら断ち、この世との後悔を生まずに生きてきた。
その行為こそ逃避だと知りながら。
ヒトは皆、何かを背負って生きている。誰かの助けを受け、そして誰かを助けながら生きている。一人で生きている人間などいるものか。
そんな簡単な真理に、クロノは辿り着けず、目の前の勝手に生み出した責務を全うするだけの歯車に成り下がった。
背負わない方が楽だから逃げていたにすぎない。誰もが当たり前にしていることを、していなかった人間未満。それがクロノ・ハーヴェイという子供だった。
高町なのは。
君の存在が、それまでのクロノの在り方を決定的に変えたのだ。
なのはにさえ出逢わなければ。高町家と関わらなければ。
短くも確かな充実した毎日を。
今まで経験したことのない関りを。
ああ、共に高町桃子の記憶を遡り、あの光景を目にしていなければ。
「きっと、こんな人生を経験することはできなかったんだろうね」
瞑想に浸り、原点に返る。それこそがクロノの日課。
今が如何なる過程を踏んで生まれた現実なのかを知る。
自分を蔑ろにしかねない己のサガを押さえつける鎖の役割。
「(システムは完成した。門を起動すれば、元の世界に帰れるだろう)」
クロノは機動六課の協力を経て、ジェイルに破壊された転移装置を完成させていた。
時間は掛かりはしたが、ようやく帰路が見えた。
起動させれば、全ては終わる。少なくとも、高町夫婦のドタバタ騒ぎは収束する。
ただし、ジェイル・スカリエッティを筆頭に大きな問題をこの世界に残すこととなる。
「約束は果たします。借りも返します。立つ鳥は、後を濁してはならない」
帰れるが、帰らない。何度も、何度でも自分の胸に刻む。
もうすぐあの科学者は動くだろう。世界を巻き込んだ大騒動を起こさんが為に。
それを分かってて帰るなどあり得ない。条約を破棄して自分達だけ保身のため元の世界に帰るなど論外。
だから、今は。この機械を封印する。
それはクロノの誓いだった。彼なりの責務をこの世界にて果たす為に。