国道140号線を秩父湖沿いに進むと、大きく古ぼけた橋がある。霊が出る場所――心霊スポットなる場所に制定されている影響か、夜になると、度々若者が連れ立って現れた。
人間とは不思議なものだ。霊が出ると知っていながら、怖いもの見たさに度々この地を訪れる。なので私も、その度胸に答えて化けて出る。世を知らぬ馬鹿狐。数百年昔、私を幻想郷なる場所へと招待しようとした女性がそう言った。
馬鹿狐ではなく、化け狐。私はそう言い返した覚えがある。狐が化けて出て、何が悪いというのだろう。
橋を渡ると落石があり、人はその先へは進めない。その更に先にある掘っ建て小屋が、私の家だった。ここは平和だ。かつて日本が空襲にあった際も、この地を焼かれた試しは無い。
小魚を山ほど籠に積んで帰ると、小屋の前に1人の姿があった。おや、落石を超えられたか。そう思ったのだが、そこにいたのは、数百年ぶりながら、その容姿を一切変えぬ1人の女性。
「あら、馬鹿狐」
名を、八雲紫と言った。
「化け狐です。なんの御用で? 生憎、魚は私一匹分しかありません」
私はそう言い返した。
「私、生魚は食べないの。……人との共存を願って人に化けながら、人とは一線距離を置く。化け狐である前に、貴方は大馬鹿狐よ」
そう言われて、私はムッとしてしまう。ムッとしてしまうが、上手い返しが見つからぬ。八雲紫の言う通りだ。私はかつて、人との共存を願った。その名残で、未だに人の姿に化けている。
「私は妖狐だ。化けて何が悪いのです」
「悪いなんて言ってないわ」
八雲紫はそう言って、クスクスと肩を揺らした。先刻の私の発言を取り消そう。数百年ぶりながらなんの変化もないと申したが、それは違う。八雲紫は、より一層妖艶であり、より一層胡散臭くなった。
「あれから大分経ったけど、まだ首は縦に振れないのかしら?」
大分なんてものでは無い。人の一生分を払い、また一生分おつりが出る程長い間、彼女は私の前に姿を見せなかった。
「何故私にこだわるのです? 魑魅魍魎の類なんて、そこら中におるでしょう」
そう言って、私は小屋の扉を開く。中にはやはり、長年住み込んだ小汚い空間が広がっていた。その中心に籠を置き、生魚をバリバリと口にする。八雲紫はまるで汚物でも見るかの様に、顔をしかめて目をそらした。
「私が初めて勧誘したのは、貴方なのよ。あの頃、幻想郷はただの箱庭だった。もっと言ってしまえば、断られたのも貴方が初めて。……この世界に未練でもあるのかしら?」
「ありませぬ。強いて言えば、まだ人の可能性を見てみたい」
私はとある事件で人に失望し、ここに移り住んだ。それでもなお、人の可能性は無限大だ。私は人が大層嫌いでありながら、大層尊敬の念を抱いていた。
「幻想郷にも人はいるわ」
「だが、その世界を作ったのは妖怪である貴女でしょう。この世界は人が作り、人が発展させた」
度々私が人との戯れを得る橋でさえ、人が作ったものだ。人が作り、人が畏れ、人が立ち入りを禁じた地だ。
「なら、こうしませんこと?」
そう言って、八雲紫は、再びクスリと微笑んだ。
「1年間、お試し期間を置きましょう。それでも気に入らなければ、この地へ返して差し上げます」
「……お試し期間、ですと?」
「ええ」
そう言って、八雲紫は私と対面する様に座り込む。
「悪い話では無いでしょう? ここには、嫌な思い出が染み付いている。貴女のお母様、お兄様……」
「おやめください。飯が不味くなる」
「元々、美味いものでは無いでしょう?」
「私にとってはご馳走です」
人間と同じく、妖怪にも母がいる。葛の葉。人間が唄う人形浄瑠璃にも名を残す程の大妖狐。観た人間なら分かると思うが、私の兄は、これまた世間に名を残す人間、安倍晴明その人である。
対して私は、母からしけた妖力を受け継いだだけの化け狐。並みの妖怪にすら敵わんだろう。
「て、どうかしら?」
「飲みましょう」
妖怪の住む土地、幻想郷。興味が無い訳では無かった。1年間で帰ればいい。愚かにも私は、そう思っていた。
「それでは馬鹿狐。……いや、信田弥彦。貴方を、幻想郷へ招待します」
そう言うと、八雲紫は大層華麗に扇子を振った。