偽りの花嫁   作:場末

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1_定章:まどろみの箱庭の主

夏の陽気を遮る重たい曇り空の下。コンクリート塀が規則正しく並ぶ閑静な住宅街を、一台のミニバンがゆっくりとした速度で通り過ぎていく。

一般社会の平日の昼下がりと言えば、無感情に蠢く働き蟻の行進でうねり、くだらない大事件に翻弄されては何かを忘れ去り、そんな瞬間をかき集めて積み上げた人間達の泡沫の狂乱で満ち溢れているが、小高い丘の上に広がるこの住宅街には、そんな喧騒とは無縁のゆったりとした涼しげな時間が流れている。

だからこそ平穏に惚けた「上流階級」たちに無用な刺激をもたらす事の無いよう、このミニバンの運転手はここに居ながら、一人下界の働き蟻と同様に神経を磨り減らして戦っているのである。

 

『四葉フラワーアレンジ店』と味気の無いありふれた書体で側面をラッピングされたこのミニバンがこれから向かう目的地は、この小高い丘の住宅街でも一際大きな屋敷で、このお屋敷の若奥様に注文された鮮花を配達するのがこの日の任務となっている。

とは言え実際に品物を受け渡すのはそこに住む女中の誰かであることが殆どで、奥様にお目にかかることはそれほど多くない。

お屋敷には古くからこの地域の権力者が住んでおり、最近までは某一流企業の重役様の邸宅だった。それを一人娘の結婚を期に、庭を含めた一帯の土地ごと、しかも使用人付きで若い夫婦に明け渡したと言うのだから、下界の働き蟻の王とはなるほど、いかにも別次元の世界の住民だ。そんな化け物に一人娘を嫁がせた現在の屋敷の当主がどんな魔法で奥さまを射止めたのか、一人の女としては是非とも聞いてみたいものだ。

 

いっそ財産目当ての詐欺師に騙されたとでも言われた方が、余程納得出来るものだ…

 

「っと」

 

そんな憶測とも妄想とも取れない邪推を巡らせている間に、目的の屋敷まで僅かの距離に迫っていた。「惚けた上流階級たち」に殆ど遭遇しなかった幸運と、それ故に綻びた集中力の糸に若干の反省を滲ませながら、フロントガラスに映り込む深緑の楓並木で現在地を確かめる。晩秋の頃には毎年美しく色付く並木道の中頃に、屋敷の門に続く道が見えてきた。

 

「こんにちは、いつもありがとうございます!」

 

臙脂色の割烹着に身を包んだ女性が駆け寄ってくる。

屋敷で花屋を迎えたのは女中の澄玲(すみれ)だった。物腰柔らかく丁寧で、けれども落ち着き過ぎていない愛嬌のある女性で、バンの到着を見据えるやいなや挨拶もそこそこに、いそいそと元気よくトランクから注文の品を取り出している。小柄であっても大きな花束を取り出す彼女の所作は自然で、まるで舞踊を舞っているようにすら見える。滑らかな髪はいかにも触り心地が良さそうではあるが、それ故に働き者の彼女の頭の上では右へ左へ翻弄され、行き場を失い顔に流れてはその都度澄玲の細く白い手にかき上げられている。縛るなり結うなりして纏めるには若干短くざっくばらんに切り揃えている為、実年齢よりも幼く見られがちではあるが、その所作や纏っている雰囲気に危うさは無く、見ていて心地のいい女性である。

 

「今日のご注文は薔薇でしたね。真っ赤な薔薇をこんなにたくさん。奥様から旦那様へのメッセージでしょうか?」

 

ここに来る途中、車内で巡らせた妄想の断片が、無意識に具現化し口から零れた。音になってすぐに後悔したが、澄玲は愛想の良い笑みを浮かべ、小さく長めに「さぁ...」と言っただけだった。それも当たり前である、オーダーは彼女の雇い主であり、彼女は従順に主の命を遂行しただけで、その真意を一端の女中が預かり知る所ではないのだ。

そんな小さなやり取り、とるに足らない日常の一時を平凡に過ごし、下界の花屋は車に乗り込み去って行った。夕刻というにはまだ早く、商いの終了には尚更早い昼下がり、働き蟻の末席には、この異界のような丘の上には居場所が無いのだ。

 

「あら、お花屋さんいらしてたの...まぁ、随分たくさん持ってきてくれたのね」

 

来訪者と入れ替わるように、小鳥のような軽やかでのびのびとした女性の声が澄玲の背後から囀ずる。

目の前の相手がたかが女中の一人であったとしても気取らず、職務を的確なリズムでこなす澄玲の意識を乱さないように配慮された控えめな問いかけ。一息ついて心地よい感謝の念を抱きながら振り返った視線の先で、まさしく屋敷の女主人である椿季(つばき)の穏やかな眼差しと交差した。

柔らかく問いかける眼は色素が深く、交わった視線は吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。絹の様に光を反射させる美しい黒髪は胸ほどの長さがあり、スレンダーでありながら全く貧相では無いボディラインを縁取っている。今日は髪を下ろして肩から下でウェーブさせているが、長くて聞き分けの良さそうな彼女の髪の毛は頻繁にその姿を変えていて、非凡な美的センスを持ち合わせる椿季のご機嫌パラメータとなっていた。長めのスカートの裾を纏めてわしっと掴んでいる仕草から、おそらく裏庭の手入れでもしている時に土を付けてしまったのだろうと想像できる。澄玲は女主人の見た目に似合わぬわんぱくっぷりに内心微笑みつつ、ゆったりと平和に流れる屋敷の時間を肌に感じた。

 

「四葉さんがいらしてました、お花はどちらに運びましょうか」

 

一つに纏めるにはやや多めの愛の象徴を両手に抱きながら、澄玲は椿季の後を付き添う。椿季は顎に手を当てながら「むー...」と呟いたあと、五本を寝室に、残りを適当に別けて適当な場所へ配置して、その中の好きな本数を貴女たちの部屋に飾るように。と指示を出した。

 

適当に。

 

深く考えたようでいて、結局仔細に関しては全く頓着していない事が明確過ぎる指示を受けて、何年経っても変わらない椿季の「お嬢様らしからぬ」立ち居振舞いに、澄玲は内心やれやれと一人ごち、同時に、まだ二人の間に身分の差が無かった頃の懐かしい記憶を呼び起こしていた。

澄玲は先代の主人である椿季の父親が雇っていた使用人の娘で、毎日出入りする母親に連れられて屋敷に来ては、堅苦しい英才教育に明け暮れた椿季の貴重な遊び相手になっていた。その後澄玲の母親は、椿季の結婚によって屋敷を離れた主人に付き従い屋敷を離れたので、その折りに椿季が自らの従者として澄玲を任命したのだ。よって二人は立場こそ違えども、今でも友人のまま、時に姉妹のように親しい関係を築いている。それ故に二人はお互いに絶大なる信頼を寄せており、日々移り行く世界の中でも普遍でいられる事の幸せと尊さに感謝しながら、瑞々しく穏やかな時間を過ごしている。

 

「寝室ですかぁ、では今夜はお楽しみですね?」

 

年頃の女性ならではの会話も、本来の主従関係を逸脱している二人だからこそとも言える。澄玲の問いかけの意図を一瞬で理解し耳まで真っ赤に染め上げた可憐な少女は、今は留守にしている自らの夫を思い浮かべ、気持ちをどこかに飛ばしたままはにかんだ。飛んだ気持ちがどこに向かっているかなど、このはにかみを見れば明白である。

 

そう、澄玲がどんなに椿季を愛しても、それと同じ気持ちが自分に還ってくるとは、必ずしもとは言い切れない。椿季には旦那がいて、その二人は紛れもなくお互いを愛し合っていて、澄玲はよき理解者で友人で、姉妹のようであろうとも、本物の旦那様を出し抜くことなど不可能であると、心のどこかでは客観的に理解している。

結婚の話を初めて聞かされたときは当然驚いた。幼少の頃から連れ添ってきた一番の友人に、実はもう一人知らないところで繋がっている人間がいて、しかもそれが男だったと判明したときは、裏切られた気持ちさえ湧いたものであったが、相手を知り、立場の違いを受け入れ、何より長年寄り添った椿季の、見たこともない美しく、何かを慈しむような柔らかい微笑みを目の当たりにして、驚きや疑念は祝福に変わり、むしろ相手の男に嫉妬すら覚えたものである。

薔薇の花を寝室に5本...花には花言葉というものがあり、薔薇に至ってはその本数によっても持つ意味が違う。屋敷での仕事の中で花に触れる機会は多いものの、特別に花に関する知識が深いわけではない澄玲にその意味は分からないが、椿季の正直すぎる反応を見れば、そこに秘められた想いは容易に察することができた。何も恥ずかしがることではない。若い夫婦なのだから当然である。

 

「いい香りのするヘアオイル、お貸ししましょうか?」

 

言うが早いか、澄玲の足の甲に椿季の細い踵が鈍く突き刺さる。

流石にからかいすぎたか、抱えていた薔薇の花を危うく落っことしそうになりながらも、顔を真っ赤に染め上げた椿季の粛正に遭い、この美しくもいじらしい、慎ましい女の真剣な想いに内心でお詫びした。この完璧な親友が何に触れてどこに向かうとも、自分は最後まで付き添うと、いつの日か誓った。その誓いが与えられた義務では無く、己が内から涌いた信念であることを、澄玲自身が誇りに思っている。あわよくば、椿季が選んだ最愛の人にとっても、その日々が日向の暖かさで続いている事を、切に願うばかりである。

 

そうやって澄玲と椿季がじゃれていると、窓の外を一台の黒いセダンがゆっくりと屋敷の門の前に停まるのが見えた。「...あっ。」二人の口から同時に漏れた短い言葉は、果たして込められた感情まで同じだったろうか。仕事の真っ最中であった筈の女中はその本分を思いだし、いそいそと廊下を過ぎていき、土にまみれた体や服を清め、漫然と主の帰宅に備える予定だった若い奥様は、先程までの会話の余韻から未だに抜け出せないながらも、それでも帰宅した主人に顔を見せるための最低限の身だしなみを整えるべく、脱衣場ではなく自室に目的地を変更したのだった。

 

「ただいま帰りました。...姉さん?」

 

普段なら車のエンジン音で主人の帰りを聞きつけ玄関まで出迎えにくる女中の姿が、今日は珍しく見当たらない。室内には仄かに薔薇の香りが漂っている。ややしばらく屋敷の様子を観察していた翁菜(おきな)であったが、同じく屋敷内の様子を伺っていた主が小さな溜め息と共に肩を揺らしたのを受けて向き直り、深々と頭を下げた。

翁菜の一つ一つの挙動に無駄は無く、正確で隙のない立ち居振舞いは武術の達人を連想させる。向き直る表情に感情は薄く、しかし血色の良い肌や唇には年相応の瑞々しさがあり、静謐とした美しい雰囲気と相まってミステリアスな彼女の魅力を一層際立たせている。

物静かで淡々と仕事をこなす翁菜は、姉の澄玲と一緒にこの屋敷で女中として住み込みで働いている。全ての家事はこの二人で分担しており、その中でも男主人に関する身の回りの世話は翁菜が担当している。よって毎日の送り迎えは自然と翁菜の仕事になり、外に出る機会が多い彼女は普段から質の良さそうなスーツとワイシャツに身を包んでいる。

糊を通したかのように艶のある長い黒髪を、生え際にいたるまできっちりと纏めるスタイルはここ数年変わっておらず、いつも適当に切り揃える姉の澄玲と比較すると彼女の几帳面な性格がよく現れている。人懐っこい仔犬のような澄玲に対して、翁菜は静かで隙のない猛禽類のようではあるが、屋敷の中では控え目ながら笑顔も見られ、単純に感情を表に出すことを得意としていないだけだということが分かる。特に姉に対しての依存は強く、女中姉妹は屋敷での仕事が終わると二人とも同じ部屋に帰っていき、一つのベッドで眠るのである。

 

「二人とも忙しいんだよ。構わず上がろう。翁菜もお疲れさま」

 

翁菜に労いの言葉をかけて玄関から屋敷に上がる青年が、この屋敷の当主、刑人(けいと)である。当主、ご主人、夫、お坊っちゃま、勝ち組、逆玉の輿...彼を表す言葉は数多くあり、殊更嫉妬に絡む別称には枚挙にいとまが無い。

刑人本人は、母子家庭のごく一般的な家庭で産まれ育ち、普通よりも少しだけ偏差値の高い高校に進学した所で椿季に出会い、ごく普通に恋をして、まるで夢でも見ているかのような幸せな時間のなかで生涯を誓う関係になった。恋人の椿季が、所謂「普通の女の子」ではないことは付き合いの中で実感していたものの、まさか結婚によって庭付きの大きな屋敷を宛がわれる事も、更にそこにはお手伝いさんやら付き人まで居るなんて想像もしなかった。そんな本来なら本人が一番驚くべきサクセスストーリーであっても、周囲から向けられるの心無い負の感情を丁寧に受け止め続ける日々に明け暮れる日常の中では却って冷静でいることができた。もともと感情を激しく外に向ける性格ではなかったため、日々自分に向けられる好奇の視線は、自らが歩いている人生が他人の目から見ても幸福であるということの裏返しであり、それをもたらしてくれる椿季や翁菜達の存在は自分の命と同じくらい大切でかけがえのないものであると考え、感謝する程度には人格的には広い器と聡明な分別を持ち合わせている。

刑人は現在、ごくごく当たり前のサラリーマンとして社会人生活を送っており、椿季との結婚によって社会的な立ち位置が変わることは無かった。当然それは望めば手に入るものではあったのだが、彼なりの人生観や考え方があったのだろう。とはいえ地域の一等地の屋敷に住み、美しい妻を持ち、若い女中に車で送り迎えをさせている一般サラリーマンなどという存在が一体世の中にどれだけいるのだろうか、むしろ希少である。

 

「部屋に上がっているから、夕食の準備が出来たら呼びに来てくれ」

 

玄関先で靴を脱ぐまでじっと待機していた翁菜から鞄を受け取り刑人は廊下に上がる。夕食は基本的に澄玲と翁菜が手分けして作っているが、翁菜には刑人を迎えにいく仕事もあるので、下準備までは澄玲が済ませていることが多い。いつもなら夕食時の独特の食欲に訴えかける美味しい匂いが漂いそうな時間帯ではあるが、今日はまだその気配は無い。

出迎えもせず夕食の準備もしていない。。姉はどこで呆けているのかと心に冷や汗が流れるような感覚に襲われながらも表情は崩さずに、主人の命を聞き入れ頭を下げる。翁菜の頭のなかでは既に、この日の献立と作業手順、同時に同僚の不手際を非難するにあたって最も効果的な言葉と態度の準備が進められていた。

 

トットットット...

 

屋敷の奥からこちらに向かって走り寄る人影が一つ、その後ろから視線をやや落としながら淑やかに歩み寄る美しい女主人も。二人の様子は明らかに「いつも通り」を装うもので、それを見た刑人と翁菜もまた、自分達のいつも通りを迎えたことに少しだけ肩の力が抜けた。

これが、日常。この広い屋敷に住まう二人の主人と二人の女中が玄関先に集合した。

 

 

 




あとがき
1話目。

ミニバン⇔軽トラ
女中⇔使用人

最後までしっくりこなかった

個人的にはセリフよりも描写表現多めのほうが読者の想像力を掻き立てられると思う
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