偽りの花嫁   作:場末

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2_起章:僕色の花嫁は

夜も更け、眠る街角に人々の姿は見えなくても、都会は明るく、ビルの輪郭を煌びやかに縁取る。しかしそんな眼下に広がる人工の星空も、屋敷のバルコニーから見上げる蒼い月の存在感を奪うことは出来ない。屋敷の周囲を囲む木々が月明かりに浮かび、マツムシやササキリの声が届く静かな夜、夏の湿気を孕んだ夜風は、刑人の火照った体を撫でていた。室内のベッドには、つい先ほどまで激しく愛を求めていた椿季がシーツにくるまり静かに寝息を立てている。長い黒髪は乱れたまま頬に張り付いているため寝顔を見ることは出来ないが、細く白い肩口が月明かりに照らされて微かに上下しているのが分かる。肩から視線をずらすと、張りのある美しい乳房にはうっすらと汗が伝い、夏の情事の激しさが彼女の美しさをより一層妖艶に引き立てていた。快楽に悦ぶ椿季の甘い香りは刑人の理性を奪い、微かに漂う薔薇の香りと混ざりあい、さながら媚薬のように二人の身体を蜜色の坩堝に落とし入れた。

何度目かの最高潮を迎えたところで二人は脱力し、ほどなく刑人の腕の中で椿季は安らかな眠りに落ちていった。起こさないように慎重に体を起こしバルコニーまで移動した刑人は、未だに己が内から沸き上がる暴力的とも言える激しい愛欲の奔流を、汗と共に夜風に拭い去ろうとしていた。身体は疲弊している。しかしそんな事は無関係に頭の奥では、ガツンガツンと鐘が打ち鳴らされ続けている。

もっと寄越せ、と。

詰まるところ、椿季と肌を重ねることは心を愛で満たす様相が強く、肉体的な欲求を満たすには至っていないのである。妻を大切に思う気持ちに体がついてこない、二十代そこそこの若い男なら当然の苦悩であろう。そんな風にいつまでも自分の内側に残る野生を脳裏から引き剥がす為に、刑人はゆっくりと視線を落とし、意識を外の情景に向けた。

 

肌を撫でる生温い風、静寂の中に流れる木々のざわめきと虫の声、時折ガサガサと、夜行生物の存在を感じる。鼻腔をくすぐる爽やかで甘い、けれども妙に胸をざわつかせる匂い...

 

...?

 

嗅ぎなれない匂いの元を辿ると、バルコニーの下、庭先のベンチに腰掛けこちらを伺う人影が一つ見えた。

 

「こんばんは、旦那様。旦那様も夜風に当たりにいらしたんですか?」

 

階下からそう呼び掛ける声の主である澄玲は、いつもの割烹着ではなく、白いTシャツに身を包んでいた。柔らかそうな生地のゆったりとしたシルエットに、澄玲の屈託のないいつもの笑顔が張り付いている。薄く紅潮した顔や生乾きの髪がぱらぱらと風になびく様子から、風呂上がりであろうことが想像できる。「良ければ少しお話ししませんか」声のトーンを落とし、形の良いピンク色の唇がそう呟いた。刑人はベッドで規則的な寝息を立てる椿季を一瞥したあと澄玲に向き直り、少し待っててとジェスチャーをして部屋を出た。先程まで興奮していた身体は幾分落ち着き、背中を伝う汗が冷たい。しかし不思議と胸は踊っていた。子供の頃、夜中にこっそり家を抜け出した時を思い出す。今や叱ってくれる誰かなんてこの家には居ないのに。

外に出ると、澄玲は先程までのベンチの横に立ち、手持ち無沙汰に自分の足元を見下ろしていた。気配で刑人の到着に気がつくと、おいでおいでと手招きして、刑人の着席を促した。その仕草や表情からは、おおよそ屋敷の主とその女中などという堅苦しい上下関係は感じられない。まるで長い付き合いの友人どうしのようなそんな姉の態度を妹の翁菜が見たら何と言うだろうか。きっと長いご高説を賜ることになるのだろうが、当事者の刑人自身、澄玲のこのような飾らない態度に親しみを覚えているし、澄玲も承知しているので、二人だけの時はいつからかこのような状態になっていた。

月明かりに白く縁取られる澄玲の横顔は、まるで桜の花のように天真爛漫で、一瞬でも目を離せばどこかへ消えてしまいそうなほど儚い、なんとも言えない幻想的な美しさを秘めていた。想像通り、澄玲は少し前に風呂から上がった所で、部屋に戻ったら既に翁菜がベッドで寝ていたので、たまには夜更かしでもしてみようと外に出て空を見上げていたのだそうだ。満月を少し通りすぎた下弦の月。誰もいない庭に一人。自分が世界を見ているのか、それとも世界から自分だけが取り残されたのか、そんな曖昧な時間の中で、澄玲は昔からの友人の事を思い浮かべていた。そして今隣に居るのは、その友人が愛する男である。

「奥様との夜はいかがでしたか?」

 

澄玲はいたずら心満載で刑人に尋ねる。そもそもこの手の話題に「どうだったか」などと質問されても答えようが無いのは少し考えれば分かるはずで、案の定返答に窮する刑人の顔は悩んだりにやけたり、浮かんでは消える下世話な返答を噛み殺し、なんとも可愛らしいものになっていた。結局、何とも言えない照れ笑いという形で返ってきた解答に対してクスクス笑いつつ、満足したように長い背伸びをした。大きく頭上に腕を伸ばすのでTシャツの布地は持ち上がり、澄玲の肌を擦りあげる。湯上がりは下着を着けないらしい澄玲の胸の先端には、微かな突起が浮かび上がった。刑人は咄嗟に目を逸らしたが、心臓が大きく脈打つのを止めることは出来なかった。あるいは夜の魔力が刑人の正常な判断力を鈍らせているのだろうか。いつもの気さくで快活で無邪気な仕草が、今宵はこの上無く小悪魔的で官能的な誘惑を受けているように感じる。先程からドクンドクンと深く大きく脈打ち続ける心臓に呼応するように、頚椎がチリチリと焼き付く。平静を装おうとするも、頭の中では先程の澄玲の映像がこびりついて離れない。視線を合わせず黙って俯いていると、刑人の異変に気付いた澄玲が覗き込んできた。澄玲の髪がすぐそばでなびいている。その風にのって鼻先を撫でる香りに刑人はハッとして、思わず澄玲に向き直った。

先程バルコニーで感じたあの甘い匂いの正体。それは澄玲の洗いたての髪から発せられていた。突然顔を見られた澄玲も少々驚いたが、程なくして察したようで、「臭いですか?」と笑いながら座り直した。

 

「翁菜ちゃんがくれたんです。良い薫りですよね。なので先程奥様にも勧めたんですよ、旦那様との夜伽に備えていかがですか、と。そしたら足を踏まれました。で、結局自分で使って、しかも旦那様と夜の対面...私が誘惑してどうするのって感じですよね」

口元に手を当ててクスクス笑う。そして潤んだ扇情的な眼差しを刑人に向けて呟いた。

「でも、本当に旦那様を誘うことができました」

 

刑人の中で己を繋ぎ止めていた糸が入れた。脳がじんわりと熱くなり、渇いた喉が僅かな水分を欲して喘ぐ。澄玲の後頭部に手を伸ばし、柔らかい髪を指に絡ませキスをした。キスと言うには生温い、顔面を衝突させるような勢いでの強引な接触である。驚いた澄玲が離れようとしても叶わない。突き出した両手ごと抱き寄せ、澄玲ピンク色の唇を貪る。流れ込む刑人の感触と体温は瞬く間に澄玲の内側に染み渡り、彼女の密かな恋慕に結び付き、体から力を奪っていく。時折呼吸を求めて喘ぐ息遣いに紛れて、水気を帯びた生々しい音が聞こえ始めた。風に揺れる木々のざわめきがうるさい。感度の高まった澄玲の耳たぶを指でなぞると、小さな悲鳴を上げて体を硬直させた。腰は立たず、既に刑人に抱き付くような姿勢で蹂躙されている。潤んだ瞳に涙を浮かべて最後の理性で抵抗する。

「旦那様...」

いけません、と最後まで言葉を発することも許さずに、刑人は澄玲の弾力のある乳房をTシャツの上から鷲掴みし、まるで粘土をこねるかのように力任せに揉みしだいた。愛撫とも言えない暴力的な行為。鈍い痛みを感じながらも、漏れる吐息は一層甘いものになっていく。曖昧な意識に溺れて喘ぐ澄玲に対して、破滅の箍が外れた刑人はむしろ冷静に澄玲の反応を観察していた。このごちそうを最高の状態で貪るにはどうしたら良いか。舌先から伝わる澄玲の体温は、解き放たれた獣の喉を鳴らした。体中が汗にまみれ、衣服がじっとりと体に張り付き、細身でも女性らしい円みのある澄玲のボディラインが浮き出る。むっちりとした内腿を擦り付け、紅潮した表情は羞恥にまみれつつも何かを待っているように刑人の視線の先を追っている。依然として体重を刑人に預けていた澄玲の体が不意にふわりと浮いた。小さな身体は刑人の二本の腕で容易く持ち上げられ、脚をばたつかせながらベンチを離れ、屋敷の裏へと進んでいく。恥ずかしさや不安、そして仄かな期待を欲情という薄い膜で包まれて意識は判然としない。程なくして背中にチクチクとした芝の感触。横たえられた澄玲の体に、刑人の体が覆い被さる。月明かりが逆光になり、その表情を伺い知ることは出来なかったが、直後に耳元で囁かれた言葉で、澄玲は完全に自我の所有権を放棄した。

「君が欲しい」

 

湿気の多い夏の風が草木を揺らし、晒された澄玲の白い肌をひんやりと撫でる。汗やお互いの体液にまみれた身体を不快に感じることすらどうでも良い。目の前の快楽に比べたら、それ以外のあらゆる感覚は些細なことだ。むしろ不快感や罪悪感は、そのまま背徳的な欲情を駆り立て、意識をねっとり絡めとり侵していく。

月明かりに照されてしっとりと光る二つの獣はいつしか言葉を発する知性を失い、ただ荒い呼吸音と身体を混ぜあう水音だけが、途切れ途切れに響き続けた。

 

 

空が白み明ける頃、欲望の最後の一滴まで澄玲に注いだ刑人はようやく動きを止め横たわり、明るくなりつつある群青色の空を仰ぐ。

澄玲は力無く身体を投げ出し、消え入りそうな小さな呼吸を繰り返す。微かに上下する胸は、ほんの数時間前まで触れることすら出来なかったはずなのに、今や刑人の体液にまみれ、誰に秘匿することも無く晒されている。胸だけではない。艶やかに指の間をすり抜ける髪も、半開きで酸素を求める唇も、肌に吸い付く太股も、白く張りつめた滑らかな腹も、縦に長いへそも、未だに濡れそばり蜜を溢れさせる澄玲の最奥も、全て悉く刑人に汚され、快楽の余韻を受け入れていた。

刑人は、やっと戻ってきた理性と思考回路を束ねて、ぼんやりとこれからの日常について考えを巡らせる。世界で二人だけが共有することになる秘め事。妻を裏切り、信頼を愛欲で上塗りしたこの男を、責められるのも癒やせるのも澄玲である。刑人にとっての平穏の象徴は一夜にして女の才能に目覚めた。澄玲の屈託の無い笑顔も、もう直視できないのだろう。この屋敷に流れていた穏やかな時間は、草木に伝う夜露と共に消えた。

 

 




あとがき
2話目。起承転結の起

ドSの定義について深く議論したい。
真のドSとは暴力を使わずに相手の心を支配することだと思ってるので、
ならば究極的には奉仕行為になるのではと思う
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