夜。たった四人の住民が住むには広すぎる屋敷の見回りをするのも、私たち姉妹の仕事だ。雨上がりの熱帯夜、この屋敷の女中の一人である私こと翁菜は、見慣れたいつもの廊下を歩きながら一つ一つの戸締まりを確認していく。窓の外に月明かりは無く、虫たちの声だけが茂みの中から聞こえてくる。まるで窓の外は異世界に繋がってるような...などとありもしない妄想をすることもない、今さら異世界だ何だと騒ぐような歳でもないし、そもそも何も見えないのだから何も気になることもない。私にとって夜の見回りなど、とるに足らない日常の業務以外の何物の顔も持たない。最ももう一人の女中である姉さんにとってはそうでも無いらしく、彼女が当番の日はいつもワクワク半分の楽しそうなにやけ面を浮かべながら部屋に帰ってくることが多い。異世界を冒険してきたにしては、いささか緊張感が足りていない。一体何がそんなに心踊るのだろう。姉さんは昔からそんな風に身の回りのあらゆるものに楽しさを見出だすのが上手かった。あいにく後に続く私にその才能が芽生えることは無かったが、それを悲観したことはない。人には多様性があっても良いと思うし、何もかもが似通っていなければ傍にいられない訳でも無いのだから、私と姉さんが正反対の性格でも、たとえ実の姉妹で同性の姉さんを愛していても、全く問題ないと思う。
昼間、姉さんを抱えて書斎を出た私は、一旦自分たちの部屋に戻りベッドに姉さんを寝かせて、一人で食事の準備をはじめた。睡眠薬の効果が切れて目が覚めるまでおよそ一時間。他ならぬ姉さん自身で確かめたあの薬の効果が旦那様にも等しく効くかどうか分からなかったので、今回は少し濃度を上げてみた。同時に例の催眠系の興奮剤も一緒に調合して花瓶の水に含ませるアイデアは我ながらよかったと思う。効果のほどは...あの書斎の状況が物語っている。むしろ花瓶を倒して机に溢していたことで余計に揮発して効果を高めていたのでは無いだろうか。あの二人が花に疎くて良かった。向日葵は、あんなに甘ったるい香りはしない。
屋敷の日常を維持するために二人ぶんの働きをすることはこれが初めてでもないので特に問題は無かった。最も、その日常を取り繕うべき相手は当事者の旦那様と姉さんを除けば椿季様だけなので、多少の抜けがあったとしてもそれは姉さんのミスということで済まされそうな気がする。人を騙すことは正直であることの二倍の労力を要するというが、この屋敷に関しては全員の盲目的な偽善が幾重にも折り重なっていて、陰で子細を繕う私にとっては御しやすい。何も知らずに穏やかに過ごそうとする者、秘密を胸の深くに閉ざして日常を守ろうとする者、当事者でありながらただただ翻弄されるだけの者。
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姉さんが旦那様に気持ち向けていることは知っていた。けれど正直、理由は分からない。
理由は分からないから、こっそり姉さんの手助けをすることにした。そうすることで短期的には姉さんを喜ばせることができるし、やがて自分の報われない恋に気付き身を退いてくれると思ったから。そもそも雇い主の亭主に好意を寄せること自体あってはならないことなのだ。昼のワイドショーのメロドラマでもあるまいし、そんな気持ちが実るわけがない。背徳の業を背負うとは文字通り地獄を敢えて選ぶようなものだ。そんな選択、あの日和見な旦那様に出来るハズがない。
私としては別段、旦那様に特別な思いが有るわけでもない。敢えて言えば、姉さんに好意を向けられていることに対する単純な嫉妬心。それ以外は本当に何もない。何も無さすぎてむしろどうでもいい。屋敷の事も同じだ。姉さんが泡沫の夢から覚めて、椿季様が全てを知り心身を壊しても、そしてその結果私たちが屋敷を追い出されても、あるいは何もかもを取り繕ったまま偽りの平穏を装い続けるにしても、どのような結末にいたろうとも問題ない。私が付き従うのは常に姉さんであり、私がいる限り姉さんは姉さんのままいさせてあげられる。私は姉さんの物。だから姉さんの望みは全て叶えるし、姉さんの幸せは私がつくる。これが私の愛。私の全て。姉さんを愛する度に胸をざわつかせるこの感情が嫉妬心なら、その愛すら一滴残らず飲み干そう。
あぁ、嫉妬心という意味では、旦那様が下界の一般人達から毎日のように浴びせられる嫉妬心、これに対する心労に関しては多少の同情もしている。確かに彼の生活環境は望んだからといって誰もが手に入れられる物ではないが、だからと言って目の前に広がっている幸せに唾をはき、あえて「人並みの不幸」を生きることに何の意味があるだろう、いやあるわけがない。
彼は運命に選ばれて、普通の人よりも少しだけ幸せに生きるチャンスを得た。たったそれだけのこと。そんな物に嫉妬するなら、この国に生きる大多数の一般人が地球上の裕福層の上位3割には入るという事実にも思慮を巡らせるべきだ。旦那様自身は他人の神経を逆撫でせぬよう、屋敷の外にいるときは常に一歩引いて自己主張をせず、意見を求められる時はなるべく時間を使わず、決定的な発言を避け、幾つもの結論の可能性を残したまま相手にボールを返せるように幾重にも配慮を重ねている。他人に気を使いすぎて個性がない。これをつまらない奴と見るか気遣いが出来ると見るかは人によって様々なのだろうけど、私としては、大変上手に一般人の振る舞いが出来ていて勤勉だなと思う。私には無理だ。空気、心情、言葉の行間、日常生活において読まなければならないモノはあらゆる瞬間にあるけど、私はただそれを静観するだけ。他人の間合いだのタイミングだの私が知ったことではない。周囲は私を大人しいとか、ミステリアスだとか言うけど、多分どれも違う。単に興味が無いだけ。正確に言えば、姉さん以外の誰かの感情なんかで、私は揺さぶれない。
...
一階の浴場の施錠を確認。階段を上って二階へ。途中の踊り場で自分が摘んだ向日葵の大輪が目に入る。
椿季様の趣味で、この屋敷にはいつでも花が飾ってある。庭で椿季様が育てている物を摘んでくる時もあるし、町の花屋で取り寄せる時もある。
あの日、姉さんが初めて旦那様に抱かれた日には真っ赤な薔薇を取り寄せた。椿季様の言い付けでは20本だったが、私が発注するときに適当に増やしておいた。5本をお二人の寝室に、残りを均等に分けて各所に配置しつつ、私たち姉妹の部屋には7本頂いた。7本の薔薇の花言葉は『ひそかな愛』。姉さんが旦那様に寄せる想いと私の姉さんへの愛を含んだ情熱の花。その本数の意味など考えずに、ただ「綺麗だねー」と目を細めた姉さんの無邪気な笑顔に、密かな背徳的な毒が体を巡った気がした。その夜、寝たふりで観察している私の背中に注意しながら例のヘアオイルをそのきめの細かい髪に通し、静かに部屋を出ていった姉さんを黙って送り出した時はあらゆる感情がごちゃ混ぜになって狂ってしまうかと思った。大好きなモノが大好きなまま壊されて、その果てにあの笑顔はどんな風に歪むのだろう。きっと悟られまいと平静を装おうのだろうが、それすらも愛しい。貴女が取り繕う対象の目の前の妹が、貴女を仕込み、送り出した張本人です。そんな事を考えながら部屋で一人眠れるわけもなく、当主の書斎の窓から一部始終を見届けた。自分以外の、特に実の姉の色事を目の当たりにする機会などそうそう有ることではないが、月明かりに照らされて眼下で繰り広げられるソレは、私にはそれこそまさに異世界の儀式のように思えた。
乱暴に肉体の殻を暴かれ、戸惑いつつ自分を開き、受け入れ、分泌された体液は大気に撫でられ霧散して空へ。徐々に流れだし、新たに造り出される女のオーラが濃密に醸し出された頃に『儀式』が終わり、解放された『姉だったもの』は、姿や形はそのままで、初めて目にする女だった。
美しい。
サナギの段階であれほどまでに愛しかった少女が、殻を破ってこれから飛び立とうとするまでの刹那的なこの瞬間、戸惑い、恐怖し、未だに濡れてシワだらけの真っ白な羽を風に当て、ただじっとして耐えている。産まれたばかりのようでいて、既にこの世界で生きることに決意を滲ませるような佇まいで揺れる純白の蝶は、しばらく虚ろな目で空を仰ぎ、新しい朝の訪れと共に私たちの部屋に帰ってきた。
...
二階の奥、旦那様と椿季様の寝室の前まで来た。
椿季様と旦那様は既に眠っているようだ、部屋の中から物音はなく、静かな夜に抱かれている。
そういえば昼間の書斎の一件のあと、旦那様はいつ頃目を覚まし部屋に戻ったのだろう。その時椿季様とはお話ししたのだろうか。夕飯の時に全員が顔を合わせた時は昼間の出来事などなかったかのように普段と同じように振る舞っていた。いつもの、誰も傷付けない顔で。
そうか。
あるいは彼も、日常で抑圧された自我を開放するために姉さんを求めるのかも知れない。平静とか平穏とか、彼は日頃から己を殺して必死の思いで護っているのだろうが、姉さんに対しては無用だ。飾らなくても、抑えなくても、彼にとっての日常の象徴は絶対に裏切らずに、彼を受け入れて抱き留めてくれるのだろう。
わがままで母親を困らせる子供のように。
となると、姉さんは女へ成長を遂げつつ、役割は母親ですか。旦那様は逆に、オトナの行為で姉さんに触れる度に子供になっていくのですね。愛のかたちにも、色々なモノがあるようです。
さて、物語もそろそろ終幕に向かっていることでしょう。そう遠くない未来にこの屋敷の平穏は崩れ、あるいは形を変えて、私たちに在り方を問い掛けることになるでしょう。その結末は誰によって作り上げられて、誰にとって都合がいいのか。所詮キャストの一人である私は分かりません。
今はただ、このとるに足らない日常の業務以外の何物の顔も持たない夜の見回りを終えて、明日に備えて眠るだけです。
あとがき
4話目。起承転結の転
この物語全体で、全体の語りが天の声以外になるのはこの章だけ。