「今日もどこかへ行ってしまうのですか」
寝ているものとばかり思っていた椿季の声に、刑人は背筋に電撃でも流されたかのように背筋がしびれ心臓が跳ねたが、それを椿季に気付かれまいとゆっくりと向き直った。別にびっくりした素振りを普通に晒しても良かったのだろうが、この後行われる後ろめたい行為の手前、漠然と心境を隠したいという気持ちが先立った。
目の前には滑らかな肌をシーツにくるみ、暗闇でも光を失わない黒く深い瞳をこちらに向ける椿季がいる。乱れた長い黒髪がベールのように頬を伝い、シーツの白と混ざり合う。
「このごろ、夜は他の場所で過ごすことが多いですね」
「あぁ、夜の風に当たっているんだ」
「雨の日にも、ですか?」
「...雨の日は書斎に行くことが多いよ。時々見回りの二人に見られて吃驚されるけど」
「わけを聞いても良いですか?」
「うん。君とした後は身体が熱くて、なかなか寝付けないんだ。しかも隣に裸の君が無防備に寝ているからその...身体が反応してしまって...」
「そんなことなら、私に構わずもっと求めて下されば良いのに」
「穏やかに眠る君の寝顔を見ていると、とてもそんなこと出来ないよ」
「私では物足りないですか」
「そんなことはない、むしろ十分に幸せを実感しているよ」
「ですが、身体は興奮したままなのですよね」
「男の心と身体は必ずしも連動していないんだ、仕方ないよ」
「私は、貴方がいるから穏やかでいられるのです、そして、貴方にも穏やかでいてほしい」
「...」
「貴方を癒せるのなら、私になど気を遣わないでください。私は貴方の妻なのですから」
「...うん」
「夜のことだけではありません。貴方が一人で悩む事柄など、ここには何もありませんよ」
「...そうだね、ごめん。次からはもっと君を頼るよ」
刑人は改めて、自分の妻である椿季の存在の大きさを実感した。彼女はいつだって自分の事を一番に考えてくれていて、温かく慈しみ深く抱き留めてくれる。だからこそ刑人は椿季を大切にしているし、彼女に負担をかけたくないという気持ちも、紛れもない本心だ。その気持ちの大きさと、それに十分に応えられない不甲斐なさに自ら押し潰されそうになった所に澄玲という捌け口を見付けてしまった為、今のようなツギハギだらけの隠し事を抱えることになったのである。けれど、ここにはやはり椿季がいた。平穏を取り繕うために一番大切な椿季と自分の間に線を引き、それを悟られないために更に距離を取り、勝手に彼女を護っているつもりになっていた。それを椿季は何となく察していた。察したとは言え実際に何が起こっているのかは分からないので、彼女はただただ刑人を信じて待っていたのだろう。疑りや不信感ではなく、愛情と信頼で。これでは全く勝ち目がない。見護られてきたのはむしろ刑人のほうだ。
思い悩み、堕落し、幾度となく苦しみつつも今日まで澄玲に頼ってきたが、これからはしっかり、椿季と向き合えるような気がする。夫として、妻に惚れた一人の男として、彼女の傍にいられることを誇りたい。今度澄玲と話をしよう。そして謝りたい。もうこの関係は終わらせようと。椿季だけを見て生きていくと誓おう。澄玲にとっては、なんて酷い話なんだろうと思う。それともこれ以上この背徳の日々が続かないことに安堵するだろうか、多少なりとも自分に好意を向けてくれているのだとすれば、少しは悲しませることにもなるのだろうか。もしかしたら自分の心境の変化を喜んでくれるかも知れない。いずれにせよ澄玲には謝罪と、果てしない感謝が必要だ。
今日、このほんの些細なやりとりで、随分長い間迷い込んでいた霞の中に白く柔らかい光が差した気がする。久しく目を背けてきた偽りのない光明に確かな実感を手にした刑人の耳に、最愛の妻からの問い掛けが届く。
「ところで、最近澄玲ともずいぶん仲がいいですね」
「...え?」
「今日の屋敷の見回りも澄玲ですね」
「...いや、今日は翁菜じゃないかな」
「そう、翁菜です。迷わず断言なさいましたね」
「...」
「まぁ、翁菜は貴方と一緒に行動することが多いので、知っていても無理はないかも知れませんが」
「...何か言いたいことがあるの?」
「えぇ、少々。貴方にはございませんか?」
「...」
「私にとって澄玲はかけがえのない唯一無二の存在です。血の繋がりも性別も関係なく、彼女を愛しています。もちろんこの愛は貴方に向けるものとは違うものですが、どちらも同じくらい大切で、護るべき私の誇りです」
「...」
「自惚れでなければ、彼女もきっと私と同じ気持ちだと思います。そんな彼女の様子が、近頃おかしいのです」
「...おかしいって、どんな風に?」
「私に向けるいつもの笑顔の裏に、僅かな変化が見えるのです。まるで何かを覚悟をしたような、よく言えばいつも以上に明るく華やいでいるよなうな。理由は分からずにいましたが、彼女が幸せならなんの問題も無いのです。ですが、貴方が私に向ける視線もどうやら何かが変わっていると気づいたとき、色々な、、嫌な想像が巡りました」
「椿季、それは...」
「勘違いならそれで良いんです。何か事情があるのなら隠し通して下さって構いません。ただ」
「...」
「私は、みんなと一緒に幸せでいたい。みんなの幸せの中で自分の幸せを感じたい。私のこの願いは身勝手でしょうか、私の理想は、誰かの痛みの上にしか成り立たないのでしょうか。みんなの幸せの為に私が犠牲に、等とは言えません。しかしだからと言って、澄玲や貴方が私を疎ましく感じていることには耐えられない。それならばいっそ、私など─」
「ごめん、椿季。もういいんだ。大丈夫だから」
今にも泣き崩れそうな椿季を、刑人は強く抱きしめた。だが、砕け散りそうな愛する女の体と心を繋ぎ止める言葉が、今はこれ以上出てこない。刑人の性根の誠実さが、この時ばかりは災いした。もういい、大丈夫、一体どの口がどの面を下げて吐く言葉なのだろう。どんなに心を込めても伝わる気がしない。自分すらも騙せない。それもこれも、慰めるだけの台詞なのでしょう?次の瞬間には己を貫きそうな椿季の言葉を振り払うために、焦燥感でろくに回らない頭を必死に廻らせる。人の考えは読めても気持ちや心を読めない。聡明な刑人のこれが、同時に最大の弱点である。行動理念に合理性があるのなら、彼は日々の生活のなかで鍛えられた最適な言葉を選べたのだろう。しかしこの状況では、全てに筋を通す『正しい展開』などどこにもない、しかし刑人にはそれが分からない。未だに嘘をつかず、誰も傷つけず、何も壊さない最適な行動があると思っている。例え万物を黙らせる神の啓示であったとしても、たった一人の愛する女の感情を支えることすら出来ない。これが人間、これが理性と本能が同居する生き物の宿命。
「椿季、僕は─」
おそらくその後の日常を大きく変えるであろう懺悔が、刑人の口から発せられる。何も見えず、何も確証していない何も出来ない男の言葉を、腕の中の椿季はただ、...ただ冷静に、全ての準備を整えた冷たい炎の眼差しを携えて待っていた。
...
先程まで煌々と輝いていた十六夜の空から、冷たい雨が降り注ぐ。微かな秋虫の声も雨粒の襲来と共に掻き消され、無機質な轟音が澄玲の白い肌から体温を奪う。屋敷玄関の軒先で刑人と待ち合わせていた澄玲の視線は宙を仰ぎ、意識は自分の内側へ。約束の時間はとうに過ぎていたが、気にする素振りもなくただぼんやりと思考を巡らせていた。
移ろう季節も空模様も、人の心も、この世は曖昧なもので満たされている。昨日と同じ今日を経て、明日も同じでいられるとは限らない。ならば、今の私はいつまで今のままでいられるのだろう。十年後の私はいつの私を過去の私にするのだろう。人は常に何かを手に入れ続けて、同時に捨てながら生きている。その腕に抱えられる容量には個人差はあれども限度があって、時に捨てがたい大きなモノを諦め、その未練の大きさに相応しい門をくぐって進んでいく。今の私を構成する要素は何だろう。今の私は何を失うと、昨日の私とは違うものに成るのだろう。考えていても答えは出ないし、想像もできない。そもそもそこまで深く考えていたわけでもないし興味も無いけど、少なくとも。
「みんな、私のこと好きなんだなぁ」
雨の軒先で羽を休めていた蝶は、小さな微笑みを浮かべて軽やかに意識を空に向ける。夜明けにはまだしばらく遠い漆黒の空。雨粒の飛沫に晒されて軒先の天井に張られた蜘蛛の巣がうっすらと輪郭を現す。
「これからも、皆で楽しく過ごそうね」
その言葉は誰に向けたものだったろうか。少なくとも迷いを捨てた力強い圧力を孕んだ余裕の表情は、儚く美しい蝶よりも、静かに獲物を狙う蜘蛛のそれに近かった。
...
降りだした雨が屋敷の窓を叩く音に呼ばれて、見回りながら窓の外に視線を向けた翁菜は、一瞬悩んだが再び思い直して見回りを再開した。玄関の外にいる澄玲には気付かない振りをして当たり前のように施錠してきたが、今更ながらに心配になってきた。どうせ刑人が中から鍵を開けて外に出るだろうと思っていたが、彼は椿希と何やら長話をしているようだった。ピロートークは結構だが、これでは澄玲が雨に濡れたまま締め出されてしまう。今から鍵を開けに玄関に戻ろうかとも一瞬考えたが、考えてみれば彼女も自分と同じく女中なのだし鍵のスペアくらい持って出ているだろう。翁菜は、気にせず日常を過ごすことにした。
翁菜の日常は、澄玲の変化とともに在り方を変える。その澄玲の日常は、刑人に抱かれることで変わっていった。ある夏の夜、脱け殻を残して飛び立った美しい蝶は、あの殻の中に何を捨て置いて行ったのだろう。そして決して小さくないだろうそれの代わりに、腕の中に芽吹いた新しいかたち。日に日に色濃く、力強く成長するそれは、愛するものを巻き込むように絡み付き、締め上げる。
人は常に何かを手に入れ続けて、同時に捨てながら生きている、そして、人は成長する。
あの時の澄玲が何を捨てて何を手に入れたのか、それ自体よりも、澄玲自身がそれとどう向き合い、何を感じどこに向かうのかが重要なのだ。どんな結末になろうとも、自分は姉に付き従う。たった今視界の端に映った刑人の表情と力無くふらつく足取りを見るに、恐らくこれからこの屋敷に起こる大きな事件は何もかもを焼き付くし、誰をも傷つけ、皆が多くのものを失うのだろう。それでも自分を崩さない。例え何を失おうとも。守るべきものはただ一つだけ。
...
刑人の背中を見送る椿季の宝石のような無機質な瞳が、物語の終焉を暗示している。
きっとこの先は、誰もが予想していた結末。わざわざ語られることも無いような、つまらない悲劇。
この屋敷を満たしていた色々な形の愛。それ自体は美しく、無邪気で、その在り方を否定されることの無い赤ん坊のようなものだ。しかし愛とは、それを育む者の振る舞い次第では歪に、時には未熟が故の毒にもなって人を不幸にする。
偽りの花嫁たちがその胸に宿した愛のうちの一つでも本物はあったのだろうか。もしあったのなら、その物語はきっと、ここではないどこかで紡がれていくのだろう。
再会の日を楽しみに。稲光に照らされた彼岸花の鮮やかな紅い花弁が見上げた夜闇が、彼らの物語を飲み込んでいった。
あとがき
5話目。起承転結の結
ということで表面上の最終話。
作品としてどんなオチを付けるのかは皆様次第。
お気に入りの人物を一人選んで、その人が幸せになるためにはどんな展開が望ましいのか、
これを考えてるだけでご飯三杯行けるはず。
というのは建前で、多分自分の今までの人生の中で自分の思った綺麗な結末を迎えた
作品を見たことがないから話の綴じ方がわからなかったというのが多分に言える
あとこの章は今までとは逆でセリフ多めで登場人物の心境を強く意識できるように
心がけました