2084年。道終・知ルが京都に舞い戻る頃、二人の現代人が大事件に巻き込まれる。二見遭一、曲世愛。彼らがトリガーになり呼び起こされたのは天才・最原最早。そしてかの名曲と「境界をなくす試み」の映画が上映される……。

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 西暦2084年12月25日、京都。

 歴史と最新の象徴である大規模通信塔・京都ピラア最上階、情報低クラスの人間は決して入ることのできないカンファレンスルームに僕たちは連れてこられた。

「有主照(ありすてら)・問ウCEO、ですね?」

見た目は40代から50代の男。世界最高峰の技術、ネットワークと脳神経をつなぐ人工の脳葉の進化版《量子葉》をいま生きている人間で唯一装備している人間、世界唯一のクラス9、そして超情報化社会の最前線にいるアルコーン社のCEO。

「名は?」

感情の感じ得ないその声に、秘書らしき女性も微動だにしない。

「数多(あまた)一人(かずひと)」

「平松(ひらまつ)絵見子(えみこ)」

「本名かね?」

有主照はある意味この2人が脅威だった。情報を見た目から何一つ知ることができないからである。

「名前は大した問題ではないと思いますが」

むしろ有主照・問ウって名前はどうなんだ。まだモブっぽいほうがマシだ。目の前の相手が何者なのか知らないが如くの態度だ。

「……まあ、いい。君たちふたりとも電子葉(でんしよう)を付けていないようだが、なぜかね」

「電子葉?」

聞き覚えのない言葉だった。

「京都府警からの報告によれば、君たちはある殺人事件の重要参考人のようだ。電子葉が埋められていないことで私のところに依頼がきたようでね」

 

 

 僕、数多一人と平松絵見子は陽麻(ひあさ)新聞の文化部記者である。2015年12月、その年の10月に某出版社より刊行された新レーベルの取材に行った帰りに井の頭公園で突然失踪した、と記録にある。

2人が目を覚ましたのは京都・鴨川のほとり、鴨川デルタとも呼ばれる三角州地帯だった。いつの間に京都に連れられて来たのかはわからない。僕も平松さんも、スマートホン、運転免許証、社員証ほかあらゆる個人を特定するものを亡くしており、着のみ着のまま拉致されたと思った。

とはいえ、京都駅の八条口に行けば陽麻新聞の支局もあるし、現金も大して持ってはいなかった。いったい何をされたかは分からないが、ふたりとも外傷もなく五体満足なことから川沿いに下ることにした。冬の京都はかなり寒い。生きているだけでありがたいと言えようか。

 寺社仏閣といった古くからの京都の風景は変わらないが、超情報化社会の2084年。街は少し目をこらせば様変わりしており、2人は完全に場違いな人間に見られる。京都駅の姿も2人の知るものとはかけ離れており、そこでようやく知らない京都に連れられてきたのだと平松さんが気がついた。

 交番に道を聞こうと訪ねると、何やら二人を見た途端に駐在の態度が一変した。埋めていないだとかよくわからないことを言っている。京都駅を目の前にしながらも再び北に引き返すことになった。パトカーに乗せられ、京都府警本部への連行である。

 

四日前、四条河原町の中心街で人が死んでいるのが発見された。中肉中背の女性だが身元は不明。信じられないことに電子葉を装着しておらず、電子葉移植が義務化されている今の時代にそぐわない人間である。その様は悲惨と呼ぶにもまだ生ぬるいほどの状態で、外傷で目立つものは幾つもの裂傷だった。更に、遺体の周りには紙束が焼かれたような跡が残されていた。電子葉の普及でよりペーパーレスが拡大しているため、灰から文書を復元する技術も衰退した。情報材の介在しないソースであったために、内容も読み取ることはできなかった。

 

 超情報化社会の現代、殺人は当人が捕まることをわかっていて行われるのが常だ。殺される側は電子葉で犯人をしっかり記憶するし、殺す側には倫理規定で脳波に制止命令と掲示視界への警告がされる上、殺人者の行動はリアルタイムでネットワークにアップロードされる。21世紀前半に比べ、殺人事件の件数は数百分の一になったのも、超情報化社会の恩恵といえよう。だが、加害者・被害者ともに電子葉を装備していない場合はこれが適応されない。ほとんどゼロに近い確率ではあるが、電子葉未装着者同士の犯罪はゼロではない。今回の事件もこのパターンであり、クラス4までの国民の行動履歴を当たってみても容疑者の当ては見つからなかった。あり得ないが、もし住民の過失致死とすれば、上京区中京区あわせて十七万人ほどが容疑者になってしまう。

「それで、電子葉をつけていないわたしたちが連行されたのね」

数多が事件概要について行けていない一方で、平松は不気味にうふふふと微笑んでいる。

「ふたりとも電子葉をつけていないからな。重要参考人として拘束させてもらう」

 これが三日前の出来事だった。

 

 二日前。女性の遺体を解剖して驚くべきことがわかった。直接的死因は脳細胞が焼かれていたからだったのだ。局所的に熱が加えられ、例えるなら電子レンジに頭蓋を放り込んだ感じである。謎の紙束も外傷もフェイクではないかと女性検死官は言った。このような残忍な犯行はもっと大事件として扱われるべきなのだが、刑事には似たような事案が直近に発生したことを思い出す。公安警察の知人から聞いた機密事項だが、情報庁の機密クラス官僚が考え殺されかけたという事案だ。大々的に捜査に踏み出すのも少し躊躇らわれる。ここ京都にはアルコーン社が居を構えているため、電子葉関連の事件だとすると彼らを無視し捜査しづらいからだ。ただでさえ、電子葉の開発者道終・常イチを匿いその事件性のある自殺をもみ消したアルコーン社である。味方につけるに越したことはない。舞面は京都ピラアに出向き、事件への協力を打診した。考え殺されかけた機密クラス官僚のことをそれとなく口に出すと、CEOに話は通しておくと言う。

 

 

 そして、有主照・問ウから招聘されたのだった。

「馬鹿げた話と笑いませんか?」

「理由を話してくれるね?」

「僕たちはこの時代の人間ではありません」

「……ほう」

有主照CEOは身を乗り出してきた。

「2015年の新聞記者? だから電子葉が埋められていないと」

「そういうことになります」

「質問を変えよう。君たちは殺人は犯していないんだな?」

2人は肯定する。有主照は小さく頷いた。

「え、信じてくれるんですか?」

「私のここには量子葉が入っている。嘘は必ず見破れる。殺人をしていないだけでなく、この時代の人間でもないようだ」

何もかも見透かすような瞳を見ると、この男ならば信じられるかもしれないと思った。

 ふぅ、と数多がため息をつく。

「有主照さん、ひとついいかしら」

「なんだね」

「量子葉は世界最高峰の頭脳といっていいんでしょう?」

平松は、数多の知らない声色で話しかけた。蠱惑的、あるいはメスの声。

「そうだ。無理やり尺度に当てはめるとしたらクラス9だ」

クラス0からクラス6の尺度では決してたどり着けない領域。すべての人間を遥か高みから見下ろしている。

「そこまでの頭脳を手に入れて、何をするつもりなの?」

「正解する。もっとも、あの子に次いで、だが」

有主照はここではないどこかを見ている。

 

「ミア」

「ここに」

秘書が小さな眼鏡を二つ持って来た。

「これは電子葉移植時に用いる電子グラスだ。外部電極だから、君たちの時代の高性能コンピュータ程度の知る能力しかないだろう。だが、私の量子葉負荷実験の際にグラスも量子コンピュータ化したため、便宜上量子グラスと呼んでいる」

有主照は眼鏡を1つ手に取りかけてみる。すると、輪郭に沿ってフレームが変形し、透明化した。

「すごい技術だ」

「数多くん、この時代ではたいしたことは無いんだ」

いつの間にか量子グラスは外されCEOの手の上に戻っていた。

「電子葉への架け橋として、電子虹(でんしこう)とも呼ばれています」

ミアが解説を付け加えていく。

「通常であれば電子葉も電子虹もそれ自体が情報端末として機能します。しかし、数多さんと平松さんに貸し出すこの量子グラスは、アルコーンのホストコンピュータ接続限定でのものになっています」

京都ピラアのカバーするエリアでのみ使える代物だという。

「あなた達2人は、この時代の尺度ではクラス0として仮の登録いたします」

「クラス0? 量子グラスを貸していただけるのに?」

「わたしも今はクラス0さ」

もとはクラス5に居たCEOもつい先日にオープンソースになったという。その理由は長くなるからと話してはくれなかった。

「今回の事件、あなた方が鍵だと思っています。直接私たちが捜査をするわけにも行きませんし、衣食住と情報の保証をするという対価でご協力願えませんか?」

ミアは淡々と説明を続けた。平松は瞬きもせずにミアを見つめていたため、何度も目をそらす。

「情報アクセス権限はクラス*(アスタリスク)相当をお渡しします。周りからは0に見えますが、あれこれ知るのに不自由することは無いでしょう」

週に二度、顔を出すように。時間と場所は指定する、と告げると有主照・問ウは部屋から出ていった。僕と平松さんは興味津々に量子グラスを装着しては外しを繰り返している。

「あのー」

「何でしょう」

「量子虹って呼べばいいんですか?」

量子葉にかかる架け橋。なんだか揚子江みたいな感じがする。

「いえ、量子葉領域への小さなのぞき窓。《量子(りょうし)窓(そう)》とお呼びください」

 

 

 舞面は京都ピラアの一階で待っていた。

「あなた方の護衛を務めろと本部長から命令されましてね」

「警察では超大企業に勝てない、と?」

平松さんに何も言い返せないまま、三人は烏丸通りに出た。千三百年前から往来の中心にある通りだが、量子窓を装備して歩くだけで自動的に情報が頭に押し寄せてくる。五感を介在しない情報。いつの間にか知っていた寺社の歴史と御本尊について、平安京における烏丸通の役割などを反芻する。学校の授業では詰め込みは無理だと思っていたのに、記憶の隙間にどんどん知識が埋まっていく。頭痛がした。

「すみません」

「あんた、はじめて電子虹をしたんだろ? そりゃあ頭痛もあるさ」

舞面さんは御年90を過ぎた曽祖父が電子虹を使っている話をし出した。どこかの会長らしく、後天的に電子葉を入れて自分のポストに穴を開けるわけにいかなかったからだそうだ。

「爺さんは有名人だが、俺は跡継ぎとは何も関係ない。あまり気にしないでくれると助かる」

どうやらこの時代で舞面の名前は力を持っているようだ。数多も平松も、実はこれは量子窓だとか、舞面を知らない、とは口に出さずにいた。

「それで、わたしたちをどこに連れて行くのですか?」

「現場百回と昔から言う。おたくら新聞記者と言っていただろ? 事件も少しは慣れていると思ってな」

慣れている事件は本の中だけだと言うタイミングもつかめないまま、四条河原町にタクシーで到着した。数多の知っている京都だったが、量子窓を通して見る風景はまったく別の街だった。店、道路、行き交う外国人観光客に中高生の団体。すべてのものや人間にタグがついており、つっついてみようと意識すると関する情報を知っているのだ。平松はどれだけ対応したかわからないが、数多にとってはまだまだ時間がかかりそうである。

路地を曲がるとビルの入り口一体にブルーシートが掛けられており、KEEP OUTの黄色いテープで仕切られている。量子葉には[閲覧制限]と文字が浮かび、見てみたいと思った瞬間バリアの鍵穴に*が飛び込んでいった……ような感覚で掲示視界には【四条河原町電子葉無装備女性殺人事件調査ファイル 部外秘】と書かれたものが浮かぶ。さっさとみたい気もするが、舞面は二人がクラス*であることを知らないのだ。不用意な行動は己の首を締めるだけだろう。

「お疲れ様です、警部」

「おう。……波多野、文緒はどこに行った」

舞面に続きブルーシートの中に入る。すでに遺体はなく、血痕も見られない。情報もテナントビルについてしか見ることができず、僕たちが来てもどうにも解決はできなそうだ。

「舞面さぁーん!」

通りの向こうから叫び声とともに走ってくる男。舞面さんは舌打ちをすると、ちょっと待ってろとブルーシートの外に出ていった。

「数多くん、どう思う?」

「どう思うったって、俺たちは素人だよ?」

「そうよねぇ」

平松は黒く煤けた地面を細い指で擦ってみていた。紙束が燃えたというあとだろう。舞面が席を外していた絶好のタイミングとなったので、捜査ファイルに目を通す。

 

 12月7日 午前3時20分頃、京都市下京区の会社員、名色・鋳ルより入電

 同午前3時24分頃、河原町署員が現場に急行 

 女性の遺体とほぼ焼けたコピー用紙の束を発見する

現場写真はないだろうか、と思った瞬間、道に倒れ伏せた女性の写真を見ることになった。出血はほぼないが、顔にも首にも5センチから10センチにわたる裂傷が何本も走っている。数多の時代から見た目はほぼ変わらないチェスターコートも何箇所も破れ、まともな死に様でないのがわかった。一度身体の方を見てから顔をじっくり見る。記憶を漁るも、[該当者なし]と勝手に量子窓が判断したので本当に知らない女性なのだろう。

しかし、見るほどに奇妙である。顔にも首にもこれだけの深手を負っているのであれば苦悶の表情で死んだだろうに、満ち足りた表情だったからだ。

いや、待てよ。確か舞面が言っていた。考え殺された可能性がある、と。

「おい、なにやってんだ」

「現場資料を……、あっ!」

ファイルを見るのに夢中になってしまい口がすべってしまった。平松さんに助けをと視線を向けるがため息を吐かれてしまう。

「アルコーンが何か細工しやがったか。それより二人とも、これを見てくれないか」

舞面の後ろで愛想の良さそうな文緒巡査部長が敬礼してきた。舞面はビニール袋に入っていたコピー用紙の切れ端をずいと出す。

「コピー用紙の燃え残りかしら?」

すべてが燃えてしまったと思われた用紙の束の一部が風に舞い焼け残ったのだ。想像していたよりも黄ばんでいる用紙には丁寧に線が引かれ、濃い鉛筆で描かれたラフスケッチとその情景説明があった。

 絵コンテだった。

あるの用紙の半分だけなので、指示されているのはふたコマに過ぎないが、これで捜査も大幅に進むだろう。でも、ふたコマで進む捜査というのはどういうことだろう。承と転がこれだというのだろうか。上のコマは黒みで、そこからフェード イ ン  し     て

 

「数多くーん?」

甘ったるい声に数多は正気に戻された。

「30分もその紙切れを見てるよ?」

当たりを見回すと、警察官が数人こちらを見ていた。

「30分だって?」

「いったい何が描いてあるの?」

平松はコンテを受け取ると、眺め始めた。

「数多さんよ、何か思い当たるものがあったかい?」

「いいえ、やっぱり何もわからないです。すみません」

 答えながら数多はさきほどの2コマについて考えてた。食い入るように眺めたイラストは数秒で理解できる内容だった。黒みと真っ白の2コマ。光と闇、陰と陽。

 前衛芸術の類とも思えるが、なぜ自分が長時間見入ってしまったのかまるでわからない。引き込まれる何かが、このコンテにあったというのか。でも「……ふふふ」

「おい数多くん!」

舞面さんに腕を引かれた。情報分布表示(インフォグラフィ)を見てみろという。情報量の密度を可視化できるという電子葉の機能で、量子窓にもそれは装備されていた。さきほどから不気味に笑う平松絵見子の方を向くと、彼女を見ることができなかった。そこには人のシルエットをした、赤黒い塊があった。マグマのように、彼女の頭部いや、脳から情報がこんこんと湧きあたりにどぼどぼと流れていく。

「君がこの紙を見ている時はこうじゃなかった」

「そういう風に僕を見ていたんですか?」

舞面はマイペースな受け答えに絶句する。

「情報密度のヤバさを」

言うやいなや、僕は知った。脳処理速度を超えた情報密度は生身の人体に悪影響を及ぼす。考え殺される、その言葉を何度も反芻しながら。警察官は皆その危険性を知っているようで、平松からコンテを奪おうと近づくことすらできない。

「平松!」

僕が呼び止めると、マグマのかたまりはこっちを向いた。

「数多くん」

「近づくな!」

舞面は僕を突き飛ばし、割って入ってきた。彼女の表情は不気味な笑みを浮かべており、遺留品であるはずの絵コンテをくしゃっと握りつぶす。

 平松は動けない舞面に近寄り、耳元で何かをささやいた。そして向きを変え、周囲の警官一人ひとりにも何かを囁いて。僕以外のブルーシートの中の人間すべてに伝えた後に彼女はどこかに出ていった。腰が抜けたのだろうか、何故か僕は動けない。

「舞面……さん?」

「こいつは、……悪女だ」

「はい?」

右腕は震えながら腰に釣ってある拳銃に向かう。抗おうとする意思も虚しく、ガチャッと撃鉄を引き起こした。4人の警官たちも同様に弾が装填されているであろう拳銃をこめかみに当てる。

「ふろい」

5つの銃声が轟く。

僕は残酷にも、インフォグラフィで彼らの脳を見続けていた。拳銃を掴んでから引き金を弾くまでの十数秒、彼らの脳はどんどん赤くなっていく。円を描くように情報が輪をつくり加速した。血しぶきの中、ふっと消える青い情報の炎は、21グラムの魂にも見えた。

 

 

僕はそのままアルコーン社に連れ戻された。京都市内全域に平松絵見子の指名手配が発令されたのは、CEO秘書のミア・ブランが現場に駆けつける直前だった。掲示視界いっぱいに凶悪犯が潜伏していると表示され、彼女の量子窓内蔵GPSが足取りを表示した。ミアの運転する車に乗り数分すると、平松の姿は消失する。量子窓を外したのだろう。

「お怪我は?」

「僕は大丈夫です」

「ひどい惨状ね」

シャツを血しぶきに濡らした僕の姿をみて言う。むしろここまで落ち着いているミアさんはすごい。

「ミアさん、どうしていきなり駆けつけたんですか?」

「丁度出先だったのよ。この人の用事で」

四条河原町から北に向かう。

助手席には、僕の知らない男が座っていた。三十くらいのスーツ姿、大事件が起こっているというのに、なんだか嬉しそうな態度を隠しきれない。

「君が数多一人くんか」

バックミラー越しに目が合う。

「御野(おの)・連(つ)レルだ。クラス4。電子葉を入れていないそうだね?」

「はい、でも」

「有主照CEOから聞いてるさ。クラス*なんだろ?」

「この人は?」

「ただのロリコン」

「おい」

御野さんがそれ以上は言わせないとつっこみを入れた。

「ロリコーン社の人間だから心配しなくていいわ」

なんだか業務停止命令の必要そうな会社が生まれた。

「御野さんのロリな彼女が目覚めたって聞いて、京都大学医学部附属病院に向かっている途中だったのよ」

「ミア、別に知ルは彼女じゃない」

はいはい、とミアさんはあしらった。

 京都大学医学部附属病院の特別室、そこに至るまでアルコーン社のセキュリティが二重にかけられていた。ミアさんと御野さんが顔パスできたからよかったものの、シャツを血まみれにして入った僕は患者か死体と間違えられてもおかしくない。道終・知ルの病室はずっと奥にあった。

「数多くん」

御野さんが肩を叩いてきた。

「知ルのことは聞いているかい?」

「いえ、まったく。何の病気の方なのですか?」

「病気じゃない。死んでいるだけだ」

「死んでいる?」

僕は量子窓でその子の名前を検索した。

 

《道終・知ル》 2067―2081

 

彼女は3年前に死んでいた。

「死んでいる方に会いにきたんですか?」

「死んでる、という言い方は正しくないな。知ルは死ににいっている。そう訂正しよう」

御野さんは病室のドアをノックして開けた。部屋の真ん中にはキングサイズのベッド、それを取り囲むように冷蔵庫のようなコンピュータがずらりと並んでいる。その冷却装置のファンの音が低くうなりを上げていて、ヒヤッとした。冬の早朝の寒さに近い。ベッドのところで上半身を起き上がらせ、1人の少女がこちらを向いていた。享年14歳だが、この場合どういう言葉をつかうのが適切なのだろう。御野さんは何かを言いたそうだったが、何も言うことができないままだった。先に道終・知ルが微笑んだ。

「ただいま」

 

 

京都府警本部はただならぬ雰囲気で満ちていた。謎の女性殺害現場で舞面警部以下5名が突然の自殺を図り、その場に居た平松絵見子と名乗る電子葉を持たぬ女が姿を消したからである。市内全域で情報速度が上がりつつ合った。京都ピラアにある防犯システムが稼働し、クラス0からクラス4まで関係なく殺人の発生した時刻から百二十万人の市民すべてのログが継続的にアップロードされていくからだ。舞面の相棒である舞面・操(みさ)キ警部補は管内の所轄・駐在の警察官すべてに待機命令を出した。死んだ舞面と同じ苗字で遠い親戚筋にあたるが、公家の血筋である。一見古風な大和撫子だが口と酒癖の悪さから舞面真面警部にしか扱えないピーキーな警部補である。アルコーン社の友人、三縞・歌ウに異常事態だから足取りを抑えるまで動くなと言われていた。

「電子葉は取り出せたか?」

先程運び込まれた同僚と所轄の警察官だったものを一瞥し、検死官に優先事項を聞く。死んだ人間でも電子葉が稼働さえしていれば、ダイイングメッセージよりも遥かに優位な情報を引き出すことができよう。検死官とともに立ち会っていたのは、アルコーンの技術者で、確か大兄(おおえ)と言ったはずだ。うなじにメスを入れ、電子葉を引っ張り出す。人工髄液と血液でぬるぬるになっていたそれを弾丸は貫通していた。

「壊れています」

「どの箇所がやられているかわかるか?」

こめかみから耳の後ろに向けて銃口を当てたのだろう。名刺サイズの電子葉の下の方がずたずたになっている。

「神経接続制御のアンテナがやられています。アップロードされていないネットワーク関係のログはまず復旧できないと思ってください」

「復旧できるログはどのくらいある?」

操キは無念の死を遂げた舞面のために、早く事件を解決したいのだ。刑事なら、愛するものを失ったものなら誰だってそうだろう。

「……2.8秒」

「2.8秒?」

かなり具体的な数字が出てきた。

「ダメだ、5人ともアンテナを撃ち抜いている」

検死官は流れ作業で残り4人の電子葉を取り出していた。

「目撃者の情報提供を待つしか無いでしょう」

「2.8秒ってなんだ」

「走馬灯です」

大兄は言う。

「10メガバイト、電子葉には死ぬ直前の記憶を記録する領域があります。統計上ですが、人間の走馬灯は3秒に満たない時間であり、10メガバイトに収まるんです。一般には知られていませんが、道終・常イチがはじめにつくった時からこの機能は付けられていました」

手が汚れるのも気にせず、小さなチップを取り出した。アクセスにはクラス4以上の権限が必要だと問われた。警部補から上の階級はクラス4なので、事務的な確認だろう。

「舞面警部補、これを見る覚悟は?」

「とうにできている。はじめよう」

専門家でないと下手に操作のできない仕組みらしい。掲示視界に真っ暗な画面が浮かび上がる。

 

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<etml: lang=japan>

 

舞面真面

<decleration:calculation>

<「こいつは」>

0.7741seconds

<「悪女だ」>

</declaration>

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<i:悪女による犯罪>

 <i:囁きに殺される>

 <i:新域事件>

 <i:24人の警官殺害>

  <i:自殺法の限定施行>

   <i:齋開化>

 <i:正義とは>

 <i:死ぬことは悪いことか?>

 <i:まがせ>

 <i:曲世あい>

 <i:曲世愛曲世愛>

</list>

<decleration:fair>

<曲世愛!! 曲世愛!! 曲世愛!!>

</decleration>

<decleration:anger>

<曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛曲世愛>

</decleraton>

<sound>

<s:L. V. Beethoven Sinfonie Nr.9 d-moll op.125 4 Satz O Freude >

3000 times speeds

</sound>

<decleration:calcilation>

<「Freu」>

</decleration>

846kb

 

「曲世愛だって?」

舞面は走馬灯の中で幾度も曲世愛のことを考えていた。他の人間といえば、齋開化というふた昔も前の政治家の名前だけ。

曲世愛。数百人の自殺を促し、21世紀の災厄と呼ばれた悪女の名前である。誰もが知っていた。

「なぜ曲世愛の名前が出てくる!」

操キは叫んだ。逃げたのは平松絵見子という女性だ。

「もしかして犯人は曲世愛では」

「まさか。とっくに死んでいるよ」

新域事件の収束後、彼女は京都大学医学部附属病院で生きたまま脳の解剖をされた。尋常じゃない批判を浴びたが、事件の規模を考えると致し方ないという声もあった。その解剖の際に医師が数名彼女に殺されたこともあり、最後まで災厄の悪女に箔をつけて消えていった。「ではなぜ、彼女の名前が出てくるのでしょう?」

「わからない。それに曲世愛を恐れ、怒ったのちに走馬灯の音楽が再生されている」

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲 交響曲第9番第4楽章。歓喜の歌。

「真面の最後のFreuというのは、曲名のO-Freudeと考えていいのか?」

「おそらくそうでしょう。でも、歓喜ってどういうことなんだ」

操キは頭を抱えた。悲しく、悔しかった。万に一つの可能性で自分の名前も出てくると思っていたからだ。しかし悪女の名前で埋め尽くされていた。

こうしてはいられない。アルコーンに庇護されている、電子葉を持たぬ2人に合わなくては。

 

 

Freude, schöner Götterfunken,

Tochter aus Elysium,

Wir betreten feuertrunken,

Himmlische, dein Heiligtum!

(歓喜よ、美しき神々のきらめきよ

楽園から戻った娘よ

我々は炎を描く熱に酔って

天空の彼方、貴方の聖地に踏み入る!)(時の流れで分け隔てられた者は再び1つになる

貴方の力によって)

 

フリードリヒ・シラー 歓喜に期す より

 

 

 驚くことに、知ルちゃんは本当に死の世界から帰ってきたらしい。僕はこの時代の技術進歩に何度も驚いていたが、時間が不可逆的なものである以上、死んだものは生き返ることはないという万物の理から抜け出した存在がいるなんて

「の理から抜け出した存在がいるなんて」

「えっ」

僕は目を丸くした。

「いまのは何?」「いまのは何?」

道終・知ルの言葉が僕の言葉と重なった。2人の役者がぴったりと演技を合わせるように。でも、えっ、だって。

『僕の心を』

「読んだんです」

絶句した。心を読むだって?

 隣では御野さんがため息をついていた。

 有主照CEOもクラス9だが、知ルちゃんもクラス9である。意識の芽生えるころに量子葉を埋め込み、すべてを知るために死に、たくさんのおみやげを持って帰ってきた。

 ただ、知ルちゃんが人の心を読むのはもともとだそうだ。あとで御野さんが教えてくれた。

「数多一人さん」

「数多です」

「そういうことにしておきましょう」

どういうことにされたんだろう。

「連レルさん、どうやら人に会うことになります。おつきあい願えますか?」

ミアさんがジト目で御野さんを見ていた。なるほど、たしかに。

「数多さん、連レルさんが私に手を出したのは3年前でした」

「知ル、それは」

「が、いまはビッチビッチの17歳なんですよ?」

嘘じゃなかった。ミアさんは特に何も言わなかったが、インフォグラフィで見てみると彼女から物騒な単語が漏れているのがわかる。高校の制服は確かクリーニング済みだった、とか。

「人に会う、ですか?」

「はい。数多さんも会わなければならない人みたいですよ」

知ルちゃんはぴょこっと起き上がり、華奢な身体でベッドから飛びおりた。

「知ル、実は今」

「起きている事件の犯人は2、もしくは3人、あるいは1人です」

彼女はすべてを知った。

「1人か2人か3人?」

どうやら変な言い方だと思う。

「違います。2、もしくは3人、あるいは1人です」

「わかるか?」

掲示視界には【四条河原町電子葉無装備女性殺人事件調査ファイル 部外秘】が強制的に表示された。

「数多さん、お借りします」

僕のメモリーから勝手に持っていったらしい。

「更に、あれから5人死んでいますがこれも殺人事件です。実行犯はこの女の方が亡くなった事件とは別のようですね」

舞面警部他、4人の警官が頭を撃ち抜いた自殺。しかし僕も事件だと思う。でなければ、平松さんが失踪する意味が無いからだ。

「平松絵見子だ」

「違います」

「だって」「だって5人次々に耳元で何かを囁いた後に自殺が起こったのだから、平松絵見子が犯人だとお思いでしょうが、彼女は既に平松絵見子ではなかったんです」

知ルちゃんをじっと見ていた。

「じゃあ、その時の彼女は何だったんだ?」

「曲世(まがせ)愛です」

「曲世愛だって?」

御野さんとミアさんは曲世愛を知っているらしい。そして僕も知った。21世紀災厄の悪女。しかし既に死んでいる。

「連レルさん、曲世愛の生体解剖が電子葉の開発にかかわっていたってご存知でしたか?」

「ああ。医学部病院で行われたからな」

「では、お父さん、道終・常イチがニューロンをスキャンしてサンプリングしたことは?」

先生が? 御野さんは驚いた顔をしている。

「電子葉の装着者は簡単には自殺ができません。自分の意識で死ぬこと全般に倫理的なロックがかけられています。ご存知ですか?」

「ああ。死んだことはないから実態はわからないが、飛び降り、首吊り、拳銃自殺、焼死、飛び込み、練炭自殺、割腹、様々な死に方を抑制する機能が入っているはずだ」

自殺意思の線引は、新域事件でナイーブな話になった。たとえば延命を拒否することも緩慢な自殺。絶滅危惧種の喫煙者、ブルジョワジーの称号となった飲酒も真綿で首を絞める自殺の一種だ。

「曲世愛の影響はそれだけではありません。彼女のささやきで自殺意思をもった場合も抑制するプログラムが付与されたのです。もっとも、エラーを起こしてしまったようですが」

「バカな。道終先生がそんなミスを」

「起こしたわけではないんです。何か、エラーに対するトリガーがあったはずです。曲世愛とは別の災厄がありませんでしたか?」

僕には心当たりが合った。しかし、あれを災厄といって良いのかわからない。しかし、まともでないことは確実だった。

「絵コンテがありました」

「どんな絵コンテでしたか?」

「たった2コマだけの、イラストと言えないものでした。でも、あの絵コンテを見て平松さんのスイッチが入ったように思います」

「それです!」

確かに殺された5人とも、あの絵コンテを見ている。脳から情報のマグマを吹き出す平松絵見子の姿、不安にさせられた笑い声。

「マグマのようなインフォグラフィね。数多くんは何か起こったか?」

「いえ、特には……、いや、30分眺めるハメになりました」

「30分も? 特に無いとは思えない」

「知ルさん、数多さんのインフォグラフィが」

ミアさんが少し驚いている。自分の情報を見るには鏡を探さなくてはいけなかった。

「数多さん、たしかにあのコンテから何も受け取らなかったのですか?」

「そう思うんだけど」

「受け取ってるぞ」

見てみろ、と御野さんが鏡をわたしてくれた。

頭のまわりに光が輪を描いて回っていた。僕が地球だったら、月のような情報の塊が浮かんでいる。量子窓で受け取ることができる拡張子だった。

「だめです、数多さん」

知ルちゃんが叫んだ。

「量子窓ではあなたの頭が沸騰しますよ?」

「どういうことだ知ル」

「この情報は、一度死んだ人間しか開けないものみたいです。つまり私が受け取るものですね」

一度死んだ人間だって? どういうプレゼントだ、これは。

「30分も眺めていたのは、ロード時間です。電子葉だとたぶん50時間くらいかかると思います」

知ルちゃんは僕の量子窓をハッキングし出した。

「大丈夫なのか」

御野さんは生き返った身体を心配していた。

「大丈夫です。最悪でもまた死ぬだけですから。それに」

秒速1mくらいで回っていた月が、知ルちゃんの衛星軌道に乗り換えた。

「私、知りたいことがあるんです」

 

 

重要参考人、平松絵見子は行方不明。一方の数多一人は京都大学医学部附属病院にいることがわかった。病院内での通話は厳禁、というわけではないが、あそこは建物の中に外部から連絡を入れるのが面倒である。反通信材が外壁に用いられている。ナースステーションに連絡を入れると、上階個室にいることがわかった。同行者はアルコーン社のミア・ブランと御野・連レル。元情報庁の審議官だった相手である。連行を強行することは難しいことではないが、なかなか骨の折れる相手だ。

「警部補! これを見てください」

解析を続けていた大兄の呼ぶ声。例の絵コンテが見つかったという。

「電子葉は使えなかったんじゃないのか?」

「クラウドにありました。第一発見者の文緒刑事がアップロードしていたんです」

現場保存は基本であり、一昔前は遺留品を回収するまえに写真を撮っていたが現在は電子葉の記録をクラウドにアップロードする方法も用いられている。タイムラグのほとんどない入電は初動捜査をより迅速なものにしたのだ。

「それは」

操キは少し躊躇した。

「私が見ても大丈夫なものか? ……すまない」

恐れている場合ではなかった。見つけてくれた大兄は民間協力者。警察官の自分よりも先にコンテを見てしまっているのだ。ビビっている場合じゃない、と覚悟をきめて記録された写真を見る。

しかし、何もおこらない。A4用紙半分ばかりに書かれた黒と白のコマ。それだけのコンテだった。

「これを見て、狂気にとらわれると思うか?」

「いえ、まったく」

写真では意味をなさないものなのだろうか。それとも発動人数には制限が? 危険がないとわかると、じっくり眺め始める。しかしいったい誰がこんなわかりにくい絵コンテを残したのだろう。

「そうだ、サイン」

操キはコンテを使う職業には詳しくはないが、絵を描く人の何割かは自分の作品にサインを残す。筆跡から鑑定できるならしたいが、ここまで古いとデータベースに残っていない可能性のほうが高いだろう。目を凝らしていくと、黒く塗りつぶされたコマの右下に筆記体のようなサインがあるように見えた。

「これ、サインに見えるかね」

「塗りつぶしの補足にも見えますが」

黒く塗られた線は途中で切れたりしていなかった。これを描いた人間は一気にコマを塗りつぶしたのだ。右下以外には結構な隙間が残されている。

「サインだとして、検索をかけてみてくれ」

文緒の残してくれた手がかりなのだ。無駄にするわけにもいかない。大兄の操作をすがる思いで見つめていた。

「類似資料1件です」

掲示視界に本のタイトルが浮かび上がった。70年ほど前の美術資料、

<超劇団パンドライメージボード集 著:御島(みしま)鋳(いる)>

とある。劇団の10年をまとめた1冊で、この本出版直後、劇団は解散していた。

めくっていくと、仰々しい大道具の並んだ舞台の写真、役者の写真、そして舞台のイメージボードが載っていた。御島鋳という脚本・演出を担当した女性の描いたものである。白黒で書かれたそれは非常に緻密に書き込まれており、同じイメージボードがもう一枚隣に載っている。そこには、300を超える数字があちこちに書かれており、場面、役者のセリフといったタイミングを書き加えたものである。右下には御島鋳のサインが書かれており、なるほど謎の絵コンテに類似していた。

「超劇団パンドラに生き残りは?」

「わかりません。解散後の消息は全く……待ってください」

劇団員リストを眺めていた捜査員は視線を止めた。虚空の一点に答えを見つけたようだ。

「数多一人」

「数多って重要参考人の数多か?」

「詳しくはわかりませんが、同姓同名が解散直前に入団しています」

奴を引っ張れ、と操キは叫んだ。刑事たちは会議室を飛び出す。パンドラ最後の生き残りはやはり希望となるのだろうか。

 

 

 僕から情報を受け取った知ルちゃんは、軽い音を立ててベッドに倒れ込んだ。

「知ル!」

御野さんが抱きかかえるが、反応する様子はない。

「どういうことだい、数多くん」

「僕にもわかりません」

ただ、また死んだわけではなさそうだ。ベッド脇のモニタでは心電図と呼吸が表示され、眠っている時のようにリラックスしていることがわかる。

「御野さん、<ふろい>ってわかりますか?」

いきなりだな、と検索を始めたようだ。

「風呂い。風呂っぽいという意味の造語だな」

「違うと思います」

「僕もそう思う」

「じゃあなんで言った!」

僕はそれが舞面さんの最後に言いかけた言葉と説明した。

「何かを言いかけて、途中で終わってしまったのではないでしょうか」

「ふろい……と?」

ドイツの哲学者だ。

「ふろい……んど?」

「ドイツ語で友達のことでしょう?」

ふたりとも今いちピンとこない答えを挙げていった。僕は何も思いつかなかったし、似たようなものである。

「それはふろいで、実際は正式名称のO-Freudeと言う筈です」

O-Freude。歓喜に期す。言わずもがな、ベートーヴェンの第九、合唱のタイトルである。

「知ル!」

知ルちゃんが置きていた。知ルちゃんはいつのまにか、前髪を両側に分けてピンで留めていた。そのせいでおでこと目がはっきり見える。

「ごめんなさい、連レルさん。今の私は道終・知ルではありません」

「なんだって?」

知ルちゃんはベッドから下りると、身体を伸ばし腕をぐるぐる回したり、ぴょんぴょんと跳ね回ったりした。

「でも安心してください。知ルちゃんの用事はわたしが引き継ぎます。それに、年が明ける頃にはきちんと知ルちゃんが戻ってきますから」

確かにこの子は知ルちゃんじゃない。喋り方はニュートラルだし見た目ではそうなのだが、仕草、雰囲気、温度、掲示視界ではクラス0の道終・知ルがタグ付けされているが、それは知ルちゃんの皮をかぶった何かだ。

いや、別人としてはもっと別の、いうなればついさっきまで道終・知ルという役を演じていた役者が素に戻ったと行ったほうが近いだろう。

「君は……、何だ」

御野さんの問いかけは正しかった。インフォグラフィで見てみると、知ルちゃんだった時の情報の滾りは消えていた。外からは一切なにもわからない。量子葉を埋めているはずなのに、その欠片も知ることはできなかった。

「私の名前は最原(さいはら)最早(もはや)です。60年ぶりですね、二見(ふたみ)遭一(あいいち)さん」

懐かしい名前が僕を呼んだ。

 その瞬間から、僕に二見遭一が戻ってきた。

 

 

Deine Zauber binden wieder,

Was die Mode streng geteilt,

(時の流れで分け隔てられた者は再び1つになる

貴方の力によって)

 フリードリヒ・シラー 歓喜に期す より

 

 

60年前。最原さんはまたまた死んだ。3度目にもなると、僕もさなかも慣れてきてしまっていたが、それでも涙は溢れた。

 最原さんはもともと何もかもに興味をもっていたし同時に何も興味をもってはいなかった。

 映画以外のすべてに対してである。

 

結果的に言うと、天使と神様の映画はまだ完成しなかった。<2>に十年を要したし、舞面真面並のスポンサーが見つからなかったことも大きかった。そして、その撮影の途中に大事件が起こった。

新域事件。

 曲世愛という悪魔が引き起こした地獄絵図のニュースは最原さんを十分に興奮させた。

「あの人にも映画に出てもらいましょう」

事件の被害者からしてみれば、こんな理不尽なことはないのかもしれないが、必要十分な要求しかしない最原さんの言うことだ。天使と神様の映画には悪魔も必要だったのである。珍しく、本当に珍しく監督である最原さん自らが曲世愛のところに足を運んだ。

 当時の警察を翻弄した曲世には簡単に会うことができた。スーパーハッカーの【答えをもつ者】【answer answer】在原(ありわら)露(あらわ)さんがいたし、天使も神様も人智を超えた知恵を貸してくれる。

誰よりも、最原最早なのだ。

この人は探偵や警察官だったらさぞ凶悪犯を捕まえるだろう。凶悪犯になったらさぞ多くの探偵や警察官を捕まえるかもしれない。

 僕は直接曲世に会ったわけではないので聞いた話にしかならないが、最原さんは殺されそうになった。曲世に囁かれたのだという。普通の人間ならこれでコロッと逝ってしまうが、ことばの意味を正しく解し、囁き殺し返しをしたのだった。別に曲世を殺したとかそういうことではなかったが、認めはされたのだろう。快諾されたという。事件の解決で曲世は捕まってしまい、さらに映画撮影の延期を最原さんは宣言した。

「まだ早いです。この映画に必要な経験が足りませんでした」

「どんな経験ですか?」

「死ぬことです」

その頃はまだ、死ぬ覚悟も準備も、経験談がないためにできない時代だった。最原さんの死なない友人に聞いてみたが、彼女は殺されても死ぬことはないので、最原さんからしてみたら人選ミスだった。

「言うなれば~、死処女ですよ~?」

「処女の死体みたいで嫌ですね」

その後死なない友人は再び最原さんのバックアプから二度目の別人として死んでみた。

しかし、死んだあとの同期はやってみたができなかった。最原さんはふらっと京都を訪れ、当時脳科学の第一人者として有望視されていた男にあれこれ吹き込んできた。

脳を育て、生と死をむすぶ架け橋。電子葉の思想は最原さんの提案だったのだ。

「当分先になりますが、死にに行って帰ってくる時代がやってきます」

「当分先」

「数十年はかかると思います。二十一世紀のうちに実現できるかどうかもわかりません。遭一さん、それまで待ってくれますか?」

天使と、神様と、悪魔の映画を撮るためにこの先何十年と待つつもりらしい。僕はもちろん、と答えた。創るのは苦しいが、それを辞めるのはもっと辛いことを知ってしまったから。

 最原さんは、今度は自分で脚本も担当し、コンテを描く前に取材旅行に行くと言い出した。数十年も時間はあるのだから、そんなに急ぐ必要も無いでしょうと言ったが、航空券二枚を出されてはタンスからパスポートを取り出すしか無い。

 行き先はヨーロッパだ。期間は、最原さんが飽きるまで。

 二日後、僕と最原さんはチェックインを済ませていた。

「最原さん、今回の旅行は新婚旅行ですか?」

エコノミーの狭いシートで、思い切って聞いてみた。

「違います」

ウィーンまでの十二時間、話すことがなくなった。

 

そして。飛行機は。

 謎の巨大立方体に飲み込まれてしまう。

 

 

 御野さんは驚いていた。ミアさんもだ。

「御野・連レルさん、私に有主照・問ウCEOを紹介していただけはしませんか?」

「会ってどうするつもりだ?」

「映画のスポンサーになってほしいんです」

 

最原さんは、ある魔法を使って謎の立方体から脱出した、らしい。僕はまったく覚えていなかったし、覚えていないことを思い出したのもついさっきのことだった。最原さんにいわれるまでは、完全に自分のことを陽麻新聞の文化部記者・数多一人だと思い込んでいた。しかも2015年から自分はタイムスリップして2084年に飛ばされてきたとも思い込んでいた。

しかし、どうやら僕は二見遭一であった。

「最原さんはどうやって知ルちゃんの中に入ったんですか? あのデータですか?」

「はい」

僕と御野さん、ミアさんの掲示視界に映像データが投影された。

「これは……映画?」

白黒な冬の風景と焼けるような夏の風景。やかましいほどの静寂に、決して近づくなという引力を感じた。一秒に満たない映像との接触は、百の昼と千の夜ほどの時間のように感じられ、まるで何百もの映画を連続で見せられたような感じがする。

「5分ほどのショートムービーです」

「映画なものか!」

御野さんが叫ぶ。ここは病院ですから、というミアさんの制止は耳に入らない。

「最原最早、この映画はなんだ。いったい何なんだ!? たった一秒で電子葉の処理が追いつかなくなったぞ!」

電子葉は稼働率の90%を超えるとオーバーヒートを避けるために自動的に処理をストップする。数万から数億の計算処理でも発生することは稀で、オーバーヒートになる場合は人間の身体側に問題が発生していることがほとんどだ。例えば、身体冷却である血流や汗腺に不調を期した場合。あるいは臓器が癌といった異常な細胞不調になり熱を持ったとき。人間が考えすぎでオーバーヒートになることはほぼありえない。

「三年前、僕と知ルはオーバーヒートにあった人間を二度見た。そのときは128の人工頭脳による同時演算で放出された情報に電子葉が耐えられなかったパターンだ。この映画の1秒はそれに匹敵するぞ。そして何より、こんなものは映画じゃない。ストーリーに関連しそうな映像は全くないじゃないか」

考え殺されかける。それは電子葉の不幸な事故。

最原さんの映画は22世紀に近づくと、新しい危険性をはらんだようである。

「いいえ、これは映画です。映画は人の心を動かして、見る前から見た後へ変えてしまうものです」

だから。

「御野さんも分かるでしょう? 数十年後、たった一人に届けばいい暗号のことを」

御野さんは渋い顔をする。覚えがあるようだ。

「60年、いえ、100年でも1000年でもよかったんです。人類が死への恐怖を克服し、食べたり遊んだり学んだりと同じように死ぬことができる時代が来たら、この映画を見ることができる人がきっと出てきます。その人のための映画です」

この映画は、知ルちゃんのためにつくられた。

 死というブラックホールに飛び込んで、帰って来ることのできた人類のために。

最原さんは自らのバックアップを映画として何度も使っていたが、これまでのは人間のためのバックアップだった。

あのコンテは圧縮された映画である。量子葉でしか再生はできない。だから。

短編映画【最原最早】は、人間の先を行く人間を最原最早にしてしまう。

最原さんは、天使と神様と悪魔の映画を撮るためならば1000年でも待つつもりで、世界中のあちこちに〈最原最早〉の圧縮ファイルと、その近くにかならず僕がいるような仕掛けを作り上げた。なぜ僕がいなければならないのか。それは、最原さんに出てほしいと言われたからである。

「知ルを返してくれるのか?」

「はい。1月1日になれば、私と遭一さんは消えます」

今さらっとすごいことを言われた気がした。

「仕方ないな。紹介しよう」

御野さんは掌を返してしまった。

「ただし」

「何でしょう」

くるっと振り返り、最原さんと目を合わせた。

「えーと……」

歯切れが悪くなる御野さん。結婚をしてくれと言ったら困るなあと思った。

「いいですよ。御野・連レルさんも映画のスタッフとしてお手伝いをお願いします。手伝いたいんでしょう?」

「なんで口に出しちゃうんだ!」

どこまでも正しく最原さんだった。

 

 

京都ピラアで有主照CEOと会う約束をしたのは翌朝だった。

「本当に時間がかかってしまいました」

僕の記憶はあの飛行機の事件から一気に60年飛んでしまっているので、時間がかかった自覚はない。

「この60年、最原さんはなにをしていたんですか?」

「そんな昔のことは忘れたよ」

「さては僕と同じパターンですね騙されません」

「君の瞳に」

「カサブランカの台詞でごまかそうったって」

「映った僕に乾杯」

「別のアニメの台詞(COWBOYBEBOP)!」

最上級スイートルームにはシャンパンから芋焼酎までアルコールが豊富にそろえられていた。京都から天王山の向こうに大阪、狭い大阪湾の向こう側には六甲に抱かれた神戸の街まで明るく輝いていた。人口は減る一方で、都市部への集中は変わらず夜景も変わることはない。この光の下で人々の変わらぬ営みがあるということは。

「遭一さん、映画を撮りましょう」

顔を赤くすることもなく、3杯目のシャンパンを飲みながら言った。

「そのつもりでいましたよ」

「今回も出演してもらえますか」

「もちろんです。あまり時間がないですけど」

最原さんは知ルちゃんの身体は1月1日に戻すと言った。今日が12月25日、いや26日にもうなっているが、一週間も時間はない。

「カメラ、録音、演技指導に参考資料の勉強、他様々なものが電子葉でできるようになりました。それに、今までに比べて遭一さんの負担はとても軽くなると思います」

この映画は、天使と神様と悪魔の映画。だから、天使でも神様でも悪魔でもない僕は必要なのだろうか、と少し心配になってしまう。

「遭一さんは自然な演技をなさってくれたらいいです。今回の映画に台詞はないので、そのあたりも検討しておいてください」

「はい。最原さん、この映画の観客は誰なんですか?」

【月の海】【アムリタ】は僕の、そして定本さんのための映画だった。タイトルは知らないけれど、さなかちゃんにともだちを作るための映画もあった。見に来たすべてのお客さんに感動を届けられる演劇もあった。〈1〉という観客のために、〈2〉という映画も作ったことがある。そして【最原最早】は最原最早のための映画だった。

では、天使と神様と悪魔の映画は。

いったい誰が見るための映画だというのだろうか。

「この映画は、境界をなくそうという試みです」

 

 

場所を変えましょう、と最原さんに付いていくと、エレベータで京都ピラアの地下2階に着いた。ここでは量子窓が使えない。アルコーン社の無電波室の技術を音響建築に応用した2200人収容の音楽ホールである。僕の量子窓だけでなく、最原さんの量子葉も使えなかった。深夜なので当然だれもおらず、客席後ろから座席の段々畑で区切られた階段を降り、すり鉢の底に当たるステージに上がる。

「遭一さんはバベルの塔を知っていますね?」

「ええ。世界七不思議に数えられるバビロニアの高層建造物のことで、神話では天に届くほどのものを作った人類に神様がキレて統一言語をバラバラにしてしまったという話ですね」

「境界というものはどこにでもあります。男と女、日本と外国、人種、カースト、勝ち負け、境界がないものはない、と言ってもいいくらいにどこにでも境界があります。」

真の平等はありえない。この時代のすべての人間が電子葉で平等になりえるという理想もあったが、生活保護を受け自分の情報がすべて筒抜けのクラス0、一般市民はクラス1で悪行を重ねればクラス2、善行を積めばクラス3。情報に携わる専門資格を持つ者がクラス4。情報庁の上級職員に付与されるクラス5。各省大臣と総理大臣のみに許されるクラス6。この偏りで世界は成り立っているのだ。規格外のクラス9が言うのだから間違いない。

「神様がキレて統一言語をバラバラにしたのがひとつのきっかけだったと思います。ここで個が生まれた。境界が生まれた」

もちろん神話の話だが、統一言語と最原さんは強調した。

「世界には使われる言語が数千から一万近くあります。そのルーツをたどればだいぶ減りはしますが、これを統一しようということには興味はありませんし、悪いことだと思います」

「でも、境界をなくしてみたい、と? 統一言語となにやら関係があるんですよね?」

「はい。私たちはどんな国や人種、文化の違いがあっても必ず等しく死にますよね?」

等しく死なない人もいる気がする。

「生と死の境界は知ルちゃんのおかげで橋を架けることができそうです。でも、対岸に渡るためにはお願いする必要がありますよね?」

「お願いするための言葉をどうするか、ですか」

「そうです」

人類の誰もが彼岸と此岸の境界をなくすにはどうすればよいか。最原さんは明確な答えを持っていた。

「私たちはたった一つの統一言語を持っています」

最原さんは仰々しく両手をあげ、この空間をアピールした。

「音楽です」

 

 O Freunde, nicht diese Töne!

 Sondern last uns angenehmere anstimmen,

 Und freundevollere.

(おお友よ、このような言葉ではない。

もっと心地よく歌い始めよう。喜びに満ちて)

フリードリヒ・シラー 歓喜に期す より

 

 

「もともと音楽というのは、神様と対話するために生まれた言語です」

紀元前から遥かに遡る。それどころか、人間が人間の形をする前から音楽は存在した。

声を出す、棒で何かを叩く、爪で硬いものを引っ掻く。そんな単純な音は既に神様と対話するためのものだった。言語という概念がまだなかった時の手段。それが音楽。

「今回の映画に台詞がないのは、どの国の言語でも境界の外が発生してしまうからです」

「でも、共通言語になりうる音楽はあるんですか? 最原さんが作るとか」

前に最原さんはプロ顔負けのヴァイオリン演奏をしてみてくれたことがある。映画のシーンのために作曲し、曲のために映像があったその為だけの存在を生み出した。

「いいえ、曲はもうあるんです。遭一さんも知っていますよ」

「知っている?」

「260年前に作曲されました。はじめから統一言語として作曲されたのです」

 神様と対話するための曲。

 人々の境界をなくすための曲。

 その曲はたまたまドイツ語圏にいた作曲者によりドイツ語の歌詞をつけられた。世界で一番有名なメロディ。数々の奇跡を起こし語り継がれ、実際に境界のない世界の象徴。東西を隔てたベルリンの壁の崩壊直後に奏でられた、統一の歌。

「ですが、その曲ですべての境界を取り払うにはいろいろと足りなかったのです。問題です。何が足りないというのだ」

「えっと……、演奏家の情熱でしょうか?」

「ブブー」

騙されるな、ブタの鳴きまねの可能性だってある。

「演奏技術です」

不正解のサインだった。

 

「共感覚って知っていますか?」

「伊藤先生から習ったことがありますよ。映像を見たら音が聞こえたりにおいを感じたりする、他の五感への干渉行為、的な理解ですが」

「だいたいそんな感じです。たびたび人は名演奏に神様を見たという表現を用いていますが、あれは本当に見ているのです」

「そうなんですか」

神様と言われても、いまいちピンとこない。あるいは僕と最原さんの息子がそれにあたるのだが。

「神様でも悪魔でもなんでも良いんですが、生と死を結ぶワームホールを覗くトリガーになるのが名演と呼ばれるものです」

「なるほど、最原さんの映画と一緒ですね」

そう言ったら、笑顔で頷いてくれた。

「違いますね」

その笑顔が急に残念な人を見るそれに思えてくる。

「人類の及ぶ範囲の外側に手を伸ばせるトリガー。これは曲自体のポテンシャル、演奏家の実力そして聞く側のポテンシャルが複雑に絡み合います」

「対話に値する態度と礼儀が必要ということでしょうか」

「そうです」

対話に値する態度と礼儀。なるほど、ドレスコードの厳しいレストランみたいなことだろう。相応の条件として、名演が必要なのだ。

「神様は片鱗だけをみせてきましたが、ようやく知ルちゃんのおかげで何が必要なのかわかりました。ですので、名演をすることができるんです」

「何が必要なんですか?」

「それはちょっと……」

「言わないの!?」

思わず突っ込んでしまった。かなり久しぶりに思う。

「必要なのは

 

です」

最原さんから言葉は聞こえなかった。

「可聴周波数帯で表現することができません。もちろん、量子窓でも今言ったことを表すのは無理だと思います」

「数千万ヘルツだからとかそういうことですか?」

「いいえ、何も言ってないから」

「言う気がないならまあいいです。それで、名演をするには何が必要なのですか?」

「天使の合唱隊と、神様のオーケストラ、です」

 

 

「あの人の音楽は早すぎたのです」

ステージの上には大きなピアノが1台置かれていた。フル・コンサートピアノという奥行が3メートル以上ある楽器だ。楽器というよりも芸術品と呼べるそれの前に最原さんは腰かけた。

「その曲は統一言語たる資質を持っていました。でも、話し手が実力不足でした。そして、彼は共感覚をまだ理解していなかった。それは仕方ありません。十九世紀の医学ではまだ未開の分野でしたから」

「演奏家の実力不足ですか? 何万、何十万回と世界中で演奏されてますよね?」

「人間にはむつかしいですね。だから天使の合唱隊と、神様のオーケストラが必要なんです」

天使の合唱隊。確かウィーン少年合唱団は天使の歌声だと聞いたことがある。

「それは天使のような歌声ですね」

「比喩表現ではないんですか?」

「残念ながら」

最原さんはあまり残念そうではなかった。

「神演奏となんて言いますが、本当に神様が演奏する機会はどれだけあったんでしょう」

「たぶん、たぶんじゃなくて絶対ゼロだと思います」

そうは言ってもギタリストの神様はジミー・ペイジだし、フレディ・マーキュリーは神ボーカルである。

 ここで天使は天使、神様は神様だった。僕たちにはそれができる天使と神様、さらには悪魔までいる。ローリングストーン誌の選ぶ神演奏でいえば有史ぶっちぎりの一位だ。

「レオン、時計じかけのオレンジ、ダイハード、過去の映画でもこの曲を使ってきました。それは、映画監督たちが気づいていたのです。少なくとも、この曲は人間を感動させる言葉だということを。だから、この曲だけが、私の映画に使えそうなレベルなんです」

名前は【交響曲第九番】。作曲者の名前はルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。

世界一有名で、音楽の最高峰に相応しい言語(ヽヽ)である。

 

 最原さんがつくるのは。

僕、天使、神様そして悪魔による。

彩るのは世界統一言語で。

境界をなくすための映画だった。

 

 

「そろそろ時間です」

時計を見ると午前0時45分。

「何の時間ですか?」

「お客さんが来る時間です」

「誰が来るんだろう」

「とりあえず遭一さんは音の指示通りに動いてください」

「えっ?」

「見つけたわ」

「平松さん」

ドアを開けて入ってきたのは、5人を殺した平松絵見子。それとも曲世愛と言った方がよいだろうか。

「数多さん、会いたかった」

「私もです。曲世愛さん」

最原さんに曲世も気が付いたようだ。

「この人は数多一人さんではなくなりました。」

「二見遭一さん、ね」

曲世は知っていた。

「あなたは今、私に殺されるのではないか、と恐怖している。違いますか?」

双眸が僕をとらえていた。その引力から逃れるのはなかなか骨の折れそうな仕事である。

「違いません。なぜ僕を殺そうとする!」

「二見さんだけを殺そうだなんて、そんなことはないですよ? 死んでいる人と生きている人の境界をなくそうとずっとがんばっているだけですから」

今、ヤバい女がヤバいことを言った。

今、わるい女がわるいことを言ったのだ。

「生かそうとはしないんですか?」

「それをやると、これまで死んできた人たちがかわいそうだから」

その言葉を聞いてようやく確信した。どうして最原さんが曲世愛をスカウトしたのか。

それは曲世愛が悪女だからではない。

それは曲世愛が悪魔だからではない。

それは曲世愛が自分と同じだから。

それは曲世愛が境界をなくそうと思っているから。

「2人ともかわいそう。まだこちら側にいるなんて。境界の向こう側に行きましょう。さっさとなくしてしまいましょうね?」

赤子をあやす様に言いながら、背中から一振りの斧を取り出した。

「二見さぁん、わたしたちどうしてあの時、この時代に送り込まれたのかしらぁ?」

三歩、四歩。曲世は僕ににじり寄ってきた。

「わたしは確かに一度殺されたはずなのに、ねえ、どうして?」

柄をバットに見立てて、斧でフルスイングの構えをする。

「あの絵コンテを見るまでは私はすべてを忘れていたわぁ。だからこう思うの。神様が境界をなくすために遣わせてくれたんじゃないか、ってね」

思わず目をつぶる。

死にたくない。せめて首を切断するのは勘弁してほしい。せめて90まで生きて猫を膝に抱いたままあたたかな縁側で死にたかった。

「じゃあね」

 

ポーン

 

暗闇にあたりは包まれた。

 

 

まだ生きているらしい。

「遭一さん、こっちまで来てください」

ピアノの音を鳴らしたのは最原さんだった。

「動けないです」

仕方ないですね、と左手で輪を描くように和音をかきならした。硬直した身体をほぐすビジョンが目の前に広がった。その音で、闇ではなくなったのだ。

「残念。斧じゃ二見さんは嫌だったみたいね」

斧を舞台にごとりと落とすと、ほんの一瞬で僕の肩に寄り添っていた。

「死にたくなぁい?」

脳が解けるような声がした。視界にひびが入る。そう見えたのかと思ったが、量子窓のモニタにひびが入ったのだ。もう使えない。頭の中にずんっ、と音が入り込み、外から膨らまされる感じがする。

「♪」

最原さんの口から、ハーモニーが飛び出した。人間の声帯から出す音とはまるで違う。それに沿ってピアノの伴奏が始まる。三拍子の優雅なワルツだった。歌っているはずなのに、どこにも歌声はない。ここは京都ピラアではなかった。囁いたのは曲世じゃなかった。演奏をしているのは最原さんじゃなかった。いつのまにか最原さんだったドレスの女の子とぐるぐるときらびやかなダンスフロアを回っていた。本当はピアノを弾いている最原さんと。 

「♪」

曲世の口から、別のハーモニーが飛び出した。最原さんのそれを打ち消す周波数だった。

「先にあなたのようね」

僕を置き去りにした曲世はピアノの脇に移動した。最原さんは優雅なワルツを演奏し続けている。

「死になさいね」

今度は耳打ちをした。最原さんの手が止まる。「では、私も」と耳打ちし返した。量子窓がなくとも、2人の間に膨大な情報のやりとりがあったのははっきりと見えた。クラス9である以前に、最原最早は最原最早だった。

すると、なによぅ、と曲世が座り込んだ。勝負は決したようである。

最原最早は、曲世愛にとって。

唯一叶わない悪女だった。

「ねえ、最原さん。あなた悪いのね」

「巷では私のことを悪女なんて呼びます。幾十回と男に悪女だと恐れられてきました」

僕が何度も言っている。何十回かもしれない。

「私が囁いても、ぜんぜん聞かない人なんて初めてよ」

「そうですか」

「男も女もね、絶頂を味わう表情で死んでいくの。甘美な世界がその先にあるって思ったまま」

曲世愛のささやきには、不思議な力がある。

「なるほど。でも、死んだことのある最原さん相手にはまったく意味がありませんね」

曲世はきょとんとして、僕の方を向いた。あまり見ないでほしい。僕はまだ死んだことがないから、曲世の声で絶頂してしまうかもしれない。

「本当なの?」

「本当です」

「うふふふふ」

笑い出した。

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

笑いころげておなかをよじって息苦しそうになっている。

「面白いわ。そして恐ろしいわ、最原さん」

「そうですか。それより」

最原さんは一歩曲世に近づいて言った。

「映画に出ませんか?」

そして耳元で囁いた。

「歌いませんか?」

と。

 

 ステージの上で、もう5時間も曲世さんはボイストレーニングをしている。

「歌いませんか」

「歌いませんか」

「歌いませんか」

「歌いませんか」

7054回目。最原さんはまるで反応しなかった。たまにブブーと不正解音を発したり、僕に豚真似を強要させていたが、正解の「歌いませんか」は出なかった。

 最原さんが納得する「歌いませんか」まであと2時間25分を要した。

 

 

深夜3時過ぎ。三列並んだドアが一斉に開け放たれた。その向こうには大光量のライト。大勢のシルエットがきれいに見えた。

「数多一人だな! おとなしく投降しなさい!」

拡声器を持った女が叫んでいる。その周りには盾を持った警官がずらりと並んだ。

「違います、僕は二見遭一です。どなたか存じませんが」

「この際お前の名前はどうでもいい。京都府警の舞面・操キ警部補である。平松絵見子、曲世愛の行方を……曲世がいたぞ!!!!」

最原さんの伴奏で歌の練習を曲世さんはしていたが、それを邪魔されたので不機嫌そうにピアノにもたれかかる。

「曲世さんと二見さんに何の用事ですか?」

最原さんが座ったまま聞く。

「四条河原町警官殺人事件の被疑者として曲世、お前に逮捕状が出ている。一緒に来い」

刑事ドラマで見たことのある展開だ。

「刑事ドラマみたいですね」

「道終・知ルだな? 邪魔をするようなら容赦はしない」

舞面・操キ警部補は知ルちゃんを知っていた。

「残念ながら、曲世さんをわた……引き渡すことはできません」

「どうしてだ」

「引き渡したら引き回すつもりでしょう!」

にやりと笑ってこっちを向く。わざわざ言いなおしたのはそういうことだったのか。

「それに、この人をどう裁くつもりですか?」

「どう裁く、だって?」

「あなた達の逮捕しにきた曲世愛はすでに死んだ人間です。人かどうかも曖昧な存在をどうやって裁くんですか?」

「自殺幇助だ」

「どうやって証明しますか? 仮にこの人が耳元で囁いたら自殺したくなる、だなんていうんですか? 電子葉の事故だとは思いませんでしたか?」

盾を持った警官たちがじりじりと前進してきた。銃も構えている。一方こちらは丸腰だ。

「曲世さん、合図をしたら練習通りに」

「はぁい」

曲世の返事に向こうは盾に隠れた。

「武器を隠し持ってるぞー!」

誰かが叫んだ。こちらが何らかの武器を使えば発砲する大義名分が出来上がる。

「武器はありませんよ? みなさんも歌いませんか?」

雨粒のようなアルペジオを奏でると、ステージ上が一斉に照らされた。

ように見えた。掲示視界を操られたのではない。なぜなら僕の量子窓はポケットにしまいこんでいて、音によるハッキングではないからだ。

「気をつけろ! クラス9は違法な電子葉を付けている!」

「この空間は電子葉も量子葉も使えないはずじゃなかったのか!」

雷が落ちた。混迷したホールの中は爆発の衝撃で椅子が数脚折れていた。一体何だ!?

 最原さんは、これまでと違い激しく演奏を開始したのだ。

「O Freunde nicht diese Thöne」

伴奏にあわせ、曲世さんが歌いだした。第九の第4楽章、器楽演奏に別のハーモニーが重なり合う。

ステージ上にはスクリーンが出現した。それが実態を持っているかなどは大した問題ではない。脳が受ける刺激が、実態があるものだと認識してしまっているのだから。

最原さんと曲世さんのスピーチがはじまった。

 

 

 いつの間にか、歌は止んでいた。折り重なるように、警官が倒れている。

「死んでますか?」

「いいえ、曲世さんが無罪だという証拠を見せたので、ショックで動けないのでしょう」

「見せた?」

時計を見ると、もう朝の6時を過ぎていた。2時間も何をしていたのだろう。

「遭一さんも見ましたよ? 一本の短い映画を」

ステージ上のスクリーン。途中から記憶のない曲世さんの歌。

共感覚。

「2人の演奏で、15人の警察官に映画を見せたんですか?」

「はい」

「音のイメージでぼんやりイメージできるといったものではなく?」

「はい」

「15人全員がまったく同じ映像を見たんですか?」

「はい」

「その演奏で、この人たちの見解と僕たちのあいだにある境界はなくなったんですか?」

「はい」

僕は実のところかなり驚いていた。最原さんはこと映画に関しては人智を超えた必要なルール違反を犯してきたけど、その2本の細い腕で奏でるだけで、こんなことが出来るなんて知らなかったから。

 

御野さんたちが伸びている警官を見ても対して驚きはしなかった。こちらが驚いていると、

「クラス9ならばこのくらいできる」

と、納得されてしまった。最原さんは曲世さんを、映画の役者と紹介した。

「それより、府警が殺人事件についてどうにか協力をしろとうるさい。君たち、何かしらないか?」

曲世さんの囁きで5人の刑事を拳銃自殺に追い込んだ件は、電子葉事故で片付ける可能性が出ているらしい。曲世愛という名前を刑事たちが知らなかったとしても、電子葉のソースコードには彼女の思考が生きている。開発者の道終・常イチが居ない今となっては、起きうる事故かどうかは誰にもわからないのだ。

それより、数多一人だった僕と平松絵見子だった曲世さんが重要参考人になっている殺人事件をどうにかしないとならない。

「知っています」

「やっぱり」

「たぶん、今頃府警本部は大変なことになっていると思いますよ。おそらくですが、死体が消えているんじゃないかと」

「死体が消える?」

ついてきてください、と通信可能エリアに僕たちは戻ってきた。

「こういうことです」

最原さんは、御野さん、ミアさん、曲世さんの掲示視界に京都府警本部にいる誰かの視界をジャックし、リアルタイムでそれを映し出しているらしい。

「そもそも、殺人事件なんてなかったんです」

「だって」

「御野さんも見たんですよね? 裂傷を負った電子葉を装備していない女性の写真と、電子葉事故を負った脳に似た、脳の写真を」

「ああ。確かにあれは死んでいた。どう見ても殺されていた」

「それは合っています」

ですが。そう最原さんは言う。そして、その場から消えた。いつの間にか御野さんの足元には、一頭の子豚が居て、才原さんの声で喋ったのだ。

「御野さんが何回みても、捜査のプロフェッショナルが何回見ても、治療しても、解剖検査を行っても、あれは女性の死体です。先程までは、ね」

「知ルが、周りの人間の掲示視界すべてを騙した時のやり方か!」

「はい。二見さんと曲世さん以外、京都府内に電子葉を持たない人間はただの一人もいませんから。肉塊に情報剤を塗った上で、知ルちゃんみたいにまわりすべての人間の五感を騙し続けるパルスを出す発信機を埋め込めばいいんです」

「なるほど、たしかにそれなら可能だ。だが、そんなことを出来るのはクラス9しかいないだろう?」

「御野さんも鋭いですね。その通りです」

「犯人は知ル、君か」

最原さんは、さも当然という風に付け加える。

「計画したのは知ルちゃん、そして実行犯は二見さんと曲世さんです」

 

 

 御野さんとミアさんが呆れ顔でこっちを見ていた。

「覚えていない?」

「何も覚えてないんです。数多一人だったことは覚えているんですが、その前に自分が京都で何をしていたかの記憶がありません」

「私もぉ」

「だからって、君たちは暇つぶしに警察を動かしたのかい?」

「はい」

「まったく、なんて奴だ。最原最早」

「わたしが?」

「君が知ルをたぶらかしたんだろう? 向こうで」

一瞬御野さんが僕を見た。

「あれからあなた方2人を調べさせていただきました。最原最早、二見遭一は20××年の航空機消失事件以降行方不明となっています。もう半世紀も前の出来事で」

ミアさんが履歴書みたいなものを読み上げる。

「それじゃあまるで、僕たちが幽霊みたいじゃないか!」

「まるで、でなくそのものじゃないか」

「……はい?」

僕たちが幽霊だって?

「知ルとはいつ知り合った?」

「知ルちゃんが死んだ直後に、です」

ということは、最原さんは死んでいて、いわゆるあの世にいるということだろうか?

「だからって、わたしが死んでいるという証明にもならないでしょう? 知ルちゃんは戻ってきた」

「知ルは」

「クラス9です。でも、それだけです」

道終・知ルは量子葉を持った人間だとすれば、最原最早は天才だ。

天才なら仕方がないだろう。御野さんはもう言い返しはしなかった。

それよりも僕はいったい誰なんだろう。

 

次の日とその次の日は、撮影をした。ロケ地は京都市内の名所ばかり。

最原さんは、珍しくミスをした。僕と曲世さんの演技はコンテの通りに進み、御野さんは撮影を、ミアさんとなぜか同僚の三縞さんという人も2人で渉外や差し入れといった手伝いをしてくれた。一日間に空白があるのは、僕と曲世さんが最原さんの描いたコンテを呼んだからである。これまでいくつもの作品でコンテを読んできた。その度に僕は呼吸困難になり声が出なくなり時間を忘れて幻覚を見幻聴を聞き過去を思い出し未来を馳せ怒り笑い悲しみ憎み恨み強気になり鬱になってすべてを忘れ何もかもを思い出し愛を覚えそして絶望しその中に残った希望を掴んできた。だから1日潰れた。

2人のシーンの撮影は順調にすすんだ。

 

 もともとは4人出るはずの映画だ。なのに、最原さんはさなかちゃんも最後も呼び出すことができなかったのだ。

「あの子たちはどこに行ってしまったのでしょうか」

「天使と神様が居ないで、どうやって映画を完成させるつもりですか?」

「迂闊でした。でも、問題はありません。さなかと最後は、天使の合唱隊と神様のオーケストラのためにいれば良かったのですから」

映画の主人公は僕で、相手は曲世さん。僕の妹役がさなかちゃんで、曲世さんの元恋人役が最後という配役だったのを、2人分ばっさり切り捨てた。そのかわり、謎のカットを伏見稲荷大社や三十三間堂、妙心寺といった寺社仏閣で何カットか撮影して見せるらしい。

 

 撮影は2日目の夕方に終了し、問題の「天使の合唱団」と「神様のオーケストラ」の調達に出かけた。最原さんは曲世さんを連れて、左京区の京都コンサートホールに出かけ、丁度年末の第九公演のために来日していたベルリン・フィルハーモニー交響楽団と合唱団に一言だけお願いをしに行った。御野さんの無理なお願いで楽屋に入った最原さんは、曲世さんにあの言葉を言わせた。天使になるための、たった一言。そして最原さんは、ベルリン・フィルハーモニー交響楽団の楽団員を全員神様にした。

 

 

12月30日。映画は完成した。

 

 

本番まであと1時間を切った。本番は京都ピラアホールで行われる。有主照CEOを招待し、僕たちはこのために来たと報告しなくてはならない。殺人事件のあれこれは、御野さんがごまかしてくれたらしい。あれきり舞面・操キ警部補は音沙汰がなかったので、有主照CEO自ら圧力をかけたのかもしれない。オーケストラに指揮者はなく、各自譜面モニターに映し出される映画に併せて演奏を行う。だって、そっちの方がより多くの情報が伝わるからだ。この映画は、過去に存在するどんな巨匠よりも明確に、どのように演奏するかを指示できる内容らしいが、神様と天使にしか理解できない。だから、僕たちは映画を映画として見ることが出来る。

客席にはスポンサーも買って出てくれたCEO、御野さん、ミアさんともう一人のアルコーン社の人。僕の右隣に最原さん、左隣に曲世さんが座った。2200人入るホールだぞ? ここ。

「この映画を見ると、何か起るのかね?」

有主照CEOは興味津々で最原さんに訪ねた。彼女が道終・知ルでないことは、最原さん自信がバラしてしまっていた。

「基本的に何も起こりはしません。あくまでも思考実験です」

「思考実験?」

「はい。共感覚を持つ【第九】のための映画なので、映像以外のものが見えるかもしれませんけど」

昨晩、初号試写を行った。ただし、音は既存のCDのものを使ってだ。

その映画は、音楽の使い方が極めて効果的な、ただそれだけの恋愛映画だった。僕は朴訥とした普通の男、曲世さんは僕を振り回す少し小悪魔な女。この段階で統一言語もなにもあったものではなかった。それでも、有名な合唱のシーンでは鳥肌がたったし、最後のコラールのシーンでは自覚のない涙が流れていたから既に最原さんの映画の体を成していた。CEOは少し考え込んでから答えた

「なるほど」

チューニングが始まり、ホールが段々と暗くなる。指揮台はない。この時代のプロジェクターは焦点距離を極めて短くすることが可能になっていて、一般の映画館と遜色のない映像を急ごしらえのステージでも楽しむことが出来るようになっていた。

ホールが暗転する。譜面台とスクリーンに、白抜きで文字が浮かび上がった。

 

【9】

 

 この映画のタイトルである。

 

 

 【9】は、第九の第四楽章冒頭よりスタートする。あの絵コンテのようだ。完全な静寂から、徐々にピントが暴風雨の海に映っていく。

「……こんな映像、撮影したっけ?」

合成映像じゃない。潮の香りに波しぶき、冷たく湿った嵐。

 僕たちは海にいた。開始一秒、ティンパニーの音と共に時間も空間もふっ飛ばして岩だらけの海岸に飛ばされた。

「おい! なにが起こってる!」

有主照CEOが叫ぶ。雷鳴に負けない大声だった。

「直に嵐は止みます」

第九の4楽章は、1楽章2楽章3楽章と、それまでの音楽を否定するメロディからスタートする。滅亡、破壊。暗雲の切れ間から、細い光が海面に降り立った。

「人類は、かつて境界を持ちませんでした。エデンの園を追い出されたのは、知恵の木の実を食べることにより、その場すべての動物との境界を産んだからです」

海岸から海中へ、僕たちは旅を始める。優しい第九の主題が流れ込んでくる。

「人とその他の境界だけが存在しました。知性を持った人間は知ることだけを求め、自然を蹂躙し生活圏を広げていったのです。そして、神さまの存在を知りました。私たちが知りうるものとは、必ず対話をし、勝ち取ることができるだろう、と思ったのです」

「そこで、バベルの塔ができたのか?」

「御野さんお見事です」

原始生命が生まれ、変な形になり、多様性を掴んだ後に陸に上がった。やはり変な形のものが栄華を極めていく。僕たちの知らない生態系を第九のメロディが教えてくれた。古生代、中生代、新生代。

その終わりは、再びの雷鳴によってかき消されてしまう。

「O Freunde, nicht Diese Thöne」

天使が舞い降りる。バリトンの。恰幅の良い天使の歌声。高い高いバベルの塔に登り、天に向って叫んでいた。

「歓喜よ、美しき神々のきらめきよ。楽園から戻った娘よ。我々は炎を描く熱に酔って、天空の彼方、貴方の聖地に踏み入る。時の流れで分け隔てられた者は再び1つになる。貴方の力によって……」

量子窓の力で、ドイツ語も隔たり無く理解できた。

「この歌詞って……」

「知ル……?」

全人類の歴史において、物理的に楽園から戻った娘は道終・知ルしかいないのだ。

「このあとの歌詞はこう続きます。歓喜は我らに口づけと葡萄、そして死を超えゆく1人の友を与えた。官能的な快楽は虫けらに与えられ、そして天使は神の御前に立つ、ってね」

バベルの塔は崩壊し、地上の楽園は失われ、人類は共通の言語を失った。そこから先は人類史を早回しで見ることになる。

「この映画は、人類の記録なんですか?」

「いいえ、【9】は恋愛映画です。三縞さんの見ている通りの」

「えっ? あっ、うそっ!?」

むくれっ面ばかりの三縞さんが焦っていた。

「三縞さんの言うとおりじゃない。歴史の勉強をしているわけではないんですよ」

「そうですか? ミアさんも見ているとおりです」

最原さんがそう言うと、彼女も自覚した。確かに僕たちは京都ピラアホールの座席からは一歩も動いては居ない。目の前で上映されている【9】は中盤、僕が曲世さんの手を引いて鴨川沿いをデートしていた。彼女のアドリブで僕の腕にしがみついてきた時は最原さんが

「やるならもっとベタベタしてください」

と一時間僕におんぶをねだり、撮影が中断したこともあった。

「神様と天使の演奏では、こう伝わることもあります。第九という曲の本来の演奏の仕方です」

「待ってくれ、最原さん。1つ聞きたい」

「御野さん、メロディはベートーヴェンですが、歌詞はフリードリヒ・シラーです」

「……わかった。すまない」

その一言で理解したようだった。

 

 僕と曲世さんのデートは続いていた。

 金閣寺を、哲学の道を、京都駅の大階段を、平安神宮を、落ち着いた京都の風景に楽園の花火が重なって見える。八百万の神々に祝福され天使のラッパに飛び回られているのだ。世界中に僕は幸せなんだと叫びたくなった。

「叫んで良いんですよ、二見さん」

「でもここってホールじゃないですか」

「構いません。ね?」

「じゃあ、mische seinen Jubel ein!」

あれ。これ、ドイツ語じゃないか。ステージの方を向くと、合唱隊が僕というソリストにナイス! と手を降っていた。

「最原くん、もしかしてこのシーンは二見くんに合唱隊の代わりに歌わせるシーンだったのかい?」

「有主照さん、正解です。徐々に境界がなくなりつつあるのもわかるでしょう?」

 

 行進曲が始まった。場所は京都ピラアの屋上。まっすぐ、空に向かう階段が伸びている。死への行進、天への行進。横一列に僕たちは一歩一歩のぼり始めた。

「この先には何があるんです?」

「曲のフィナーレです」

行進曲は徐々に膨らんで、サビの部分、世界で一番有名な合唱に差し掛かろうとしていた。

「喜ばしきかな、太陽が壮大なる天の計画に従って翔ぶが如く、か」

映画の中では僕が1人で走っていた。居なくなった曲世さんの姿を追い求めて死に物狂いで走っていた。

「【9】を見る人間には、実は資格があるんです。この先、アンダンテ・マエストーソの主題から先は、誰もが足を踏み入れる事ができるわけではありません」

「最原さんはわかるんでしょう? 誰がこの先に行けるか」

「はい。知っています」

 

 最原さんの呼んだ名前は、天使の合唱にかき消されてしまった。だが、アンダンテ・マエストーソのトロンボーンを僕は京都ピラアホールの座席で聞くことになった。アルコーン社の社員も全員そうである。

 

音楽は止まらない。最原さんと一緒に階段をのぼり続けている曲世さんの姿と、映画の中で歩き去っていく曲世さんの姿が重なって見えた。

 

 

「二見くん、君が落とされたのか?」

御野さんが驚いていた。

「二見さんと曲世さんが選ばれるとばかり思っていました」

僕も正直なところ戸惑っていた。最原最早という人間は、いままで僕を巻き込んで感動という高みに連れて行ってくれていた。しかし、今回の映画は少しおかしい。【9】がいったい何をしたい映画なのか、明確じゃないしさなかちゃんと最後を見つけることができないのも今が2084年だからって理由じゃないだろう。

「本当の最原最早ならば、そもそもあなた方を今日の上映会に呼ぶことはなかったと思います」

長い長い階段の途中、踊り場で曲世さんが歩みを止めた。

「そろそろ教えてくれないかしら」

「そうですね、あなたになら教えても良いと思っていました」

僕は知っていたのだ。そして、曲世さんも知っていたのだ。

知ルちゃんははじめからずっと、知ルちゃんのままだったということを。

「二見遭一さん、まずは誤ります。私は最原最早ではありません。ごめんなさい」

「やっぱりか」

スクリーンの向こう側と対話が成立していた。これも、神様のオーケストラの成せる技なのなのだろうか?

「知ルちゃん、ね?」

「はい。曲世さん」

おでこのピンを外した知ルちゃんは、いつの間にかその頭の周りに光る輪が出ていた。同じものを前にも見たことが在る。天使だ。

隣に並び立つ曲世さんにも、意外なことに天使の輪が付いていた。天使になることが、境界を無くすことの出来るポイントかもしれない。

「一番気がかりなのは、私と二見さんがなぜ選ばれてここに来たのかということなんだけど、知ルちゃん発進かしら?」

「いいえ、違います」

「じゃあ、第九と映画という不思議な組み合わせも知ルちゃんじゃない、と」

「はい、違います」

「誰に言われたの?」

「本物の最原最早さんを知りたくて始めたんです」

本物の最原さんだって?

 

「6日前。わたしが病院で目が覚めると、最原最早という人間を知っていました。そして、そのときには既に二見遭一さん、曲世愛さんのお二人が京都にいることもわかりました。曲世さんはひと足早く自分でロードを行いました。

あの絵コンテは、本物の最原さんがロードポイントとしてあらゆる時代や国にばらまいたものなのです。

そして、数多一人さんとして私のところにたどり着いた二見さんが絵コンテのもう一つのちから、《最原最早》という映画を届けてくれました。もう少しで本当に最原さんになってしまうところでした。でも、私は私のままだったのです。

 最原最早という人間に俄然興味が沸いた私は、一週間彼女に成り済まし、映画を撮ることにしました」

「なるほどねえ。じゃあ、どうして私もいるの? 私が何者かわかってやっているんでしょう?」

「はい、あなたは悪い人ですから。でも、最原さんに選ばれた。だから、ここにいます」

曲世さんはふうん、と言うと階段に座り込んだ。

「そうなのねえ。うふふふ、最原さんに呼べた天使や神様を呼び出せなかったのは、あなたが知ルちゃんだからだったのね」

「はい」

曲世は立ち上がり、踊り場のへりに背中を向けた。映画は

演奏は神々の黄昏を映し出し、壮大なフィナーレに差し掛かる。

「すべてのスタートは【2】という映画です。よりにもよって、天使と神様を産んでしまいました。そしたら、あなたという悪い人がバランスを取るために生まれてきたんです」

「私の存在理由は、最原最早の天使と神様との釣り合い、ってこと? うふふっ、ハハハハァッ! 面白いわね」

「そして、最原さんは私の存在を予言しました。99%最原最早を展開出来る依り代ですね」

100%と言わないあたり、知ルちゃんは最原さんを知っている証拠だろう。でも、99%も理解できるなんて凄いと思う。僕なんてたぶん20%も知らないのだから。

「予言は、シラーの歓喜に期すに非常に似ていました。その時、【9】について思いついたそうです」

「なぁんだ、映画も含めて私たちは最原さんの手のひらの上で踊らされていたのね」

「あの人には叶いませんよ。わたしは覚醒する数日前から意識だけは京都に戻っていました。そして量子葉の性能をフル稼働させ、二見さんと曲世さんを産み出したんです。意識があり、記憶があり、他の人から認識される本物の人間を。そして、2人が私に出会うための手がかりとして、死体を偽装したんです」

 

「そうか、そういうことか」

御野さんがもやもやが晴れたとばかりに立ち上がった。

「あの事件の犯人は3人か2か1人と知ルは言った。合っていたんだよ」

僕、曲世さん、知ルちゃんの3人、あるいは【2】という映画そのもの、結局最原さんが犯人。

回りくどい暗号だった。まあ、あの絵コンテに比べれば推理のしようはあるけれど。

「曲世さんは、バランスを取るために生まれてきたのは本当だと思います。だって、最原さんが昔言っていたんです。

天使と悪魔の映画も撮りたいですね。

と」

 

「ねえ、知ルちゃんは最原さんを演じられて楽しかったかしら?」

「はい。あそこまで面白い人は唯一無二でした。それに、映画を創るって楽しいなあって思いました。二見さんと最原さんは何度もこんな体験をしてきて羨ましいです」

曲世さんと知ルちゃんは今、あまりにも大きな存在である最原さんを知り、絶望しているはずだ。でも、もう一つ知ってしまったようだ。映画を創る楽しさ。辛さ。相反する矛盾こそが、映画だ。第九という曲だって、楽聖ベートーヴェンが耳が聴こえなくなってしまって、病気も持っていて数々の絶望の中でたった1つ見つけ出した希望だったのだから。

そう考えると、案外映画向けの曲だったのだろうな。

「叶わないとわかっているなら、いっそ高らかに歌いましょう? ……多分、最原さんならそう指示するわね」

曲世さんは、自分で論破した知ルちゃんに手を差し伸べた。悪い女の使う手段だ。

絶望

「はい」

 

抱かれよ、数多のものよ!

この口づけを全世界へ。

同胞よ、世界の向こう側には

愛する神がおられるはずだ。

歩みを止めないのか? 数多のものよ!

創造の神を感じるか? 世界よ。

世界の向こう側に求めよ!

世界の向こう側に、彼女がおられるはずだ。

 

 知ルちゃんと曲世さんのハーモニーが。天使の合唱が。神様のオーケストラが。

 そして、最原さんの映画が。

 見える。聞こえる。香りや風を感じる。

 怒涛のラスト二分間は、演奏する側と聞く側、スクリーンの向こう側とこちら側、そんな境界はたしかに亡くなっていた。向こうの僕は曲世さんと抱き合って幸せなフィナーレを迎えるし、ミアさんと有主照CEOは虚空にひざまずいている。

ここにいる僕たちは確かに聞いたのだ。ちっぽけな境界を無くすことの出来るハーモニーを。

けれど、最後の歌詞を歌い終えると、終末の音とともに曲世さんは飛び降りた。バベルの塔よりもずっとずっと高いところから、自らの意思を掲示せんとばかりに。その表情は笑顔につつまれており、徐々に透明になっていく中で叫んだ言葉は、やはり悪女っぽい感じに聞こえた。

「喜劇の終わりっ!」

折しもベートーヴェンの臨終の言葉だった。さては知っていたな。あるいは最原さんのフリをしていた知ルちゃんの指示かもしれない。

 そして、世界は光につつまれた。あの絵コンテのようだ。境界をなくそうという試みは終わった。

 

 

 気がついたのは、演奏終了から1日後だった。

演奏は屈指の名演だった。僕も、御野さんも、ミアさんも、三縞さんも、CEOも。気がつけば滂沱の涙であり、異常に水分を欲した。

曲世さんは、いつの間にか消えていた。彼女は神様の怒りに触れ、たぶん統一言語を得る資格がなかったのだろう。僕はと言えば、最原さんは偽物だったし曲世さんはいなくなった上に自分という存在はロードされたものだという事実にどうすればよいのか迷っていた。いっそロードなんてしなければよかったのかもしれないが、これは最原さんの望みだったし、何より人類の、知ルちゃんの欲求を満たすための試みだったのだからまあ良しとしよう。

つまり。 

知ルちゃんは知りたかったのだ。

ハーモニーの持つ力。

境界を取り除く、最もつよい統一言語を。

死すらも経験できたクラス9は、最原最早、曲世愛、ついでに僕を。自我を持った、質量を持った人間として、2084年、自分が目が覚めるタイミングを見計らい作り出したのだ。天才と悪魔という乱数を量子葉で完璧に計算し、まわりの人間を巻き込んで思考実験を行っていただけだったのだ。

「二見遭一さん、どうでしたか?」

「最原さんではなかったんですね」

「いつ気づかれましたか?」

「どの時点で、と言われると困るんですが、最原さんは自分で撮った映画を自分で見るかな、と不思議に思いましたね」

「なるほど」

曲世さんは、もう消えたままだという。この時代でも彼女にとっては生きにくいからな、という。天使になって、境界線も曖昧になった彼女にとっては大した問題ではないらしい。

「二見さんはどうしますか?」

僕自身も知ルちゃんの脳内リソースを割いてここに顕現しているのだ。答えをすぐに出せる話ではない。

「曲世さんの分のリソースが無くなりましたし、二見さんの《人間》を計算するのは大した手間ではありません」

「このままこの時代で生きてもいいってことですか?」

「ええ。ただ、ふたりとも量子窓を付けて頂く必要はありますが」

知ルちゃんだけでなく、アルコーンの量子コンピュータも使って僕は当たり前に生きることが出来るという。アルコーン社に監視されるわけではなく、一般のクラス2相当で生活できるらしい。情報開示のクラス*は流石に無理である。

「ふたりとも?」

「遭一さん」

彼女は。空気の中から突然現れた。透明マントをいきなり脱いだらこんな登場になるだろう。

「最原さん」

「はい」

最原さんだった。知ルちゃんの身体を借りたわけではない、僕の知っている最原さんだった。

「知ルちゃんが曲世さんのリソース分を私に割いてくれた、なんてことはありませんよ?」

僕の考えは外れだったようだ。すると。

「はい。私自身の境界を無くすことはできたようです。【9】を見たおかげです」

 どうやら、京都ピラアホールには本物の最原さんも来ていたらしい。今の彼女には、何もかもがお見通しなのだろう。浮いたり消えたり逆さまになったりと幽霊的な動きを一通りやってみた最原さんは、その後僕に抱きついてきた。

「幽霊でもおばけでもないですよ」

確かに、生きている。ただ、彼女には境界がないだけだった。あたたかな声と体温に、何よりも沢山の情報を受け取り、渡す。

「二見さん、今度こそ2人で映画を撮りませんか」

統一言語で歌うように、語りかけてきた。答えは決まっている。

僕が、世界が、最原さんが今までよりも多くを知るとき。

 

きっととてもおもしろい映画ができるのだろう。

 

THE END

 

 


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