一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜   作:葉振藩

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「ふんわり」を大切に

 天井に吊り下げられた瓜型の行灯が、ほんのりと(だいだい)色に発光している。

 

 その灯りを受けて姿を現しているのは、その部屋唯一の片開き戸と、壁のあちこちに密着する形で置かれている木棚。その棚にズラリと陳列されているのは、陶製の小さな壺や、多種多様な色の液体ないし粉末が入ったガラス瓶。

 

 窓に張られたガラスの向こう側には、夜闇の中で煌々と営みを行う町並みが広がっていた。

 

 普通の人ならすでに家へ帰り、仕事で溜まった疲れをまったりと癒す時間帯。

 

 だがしかし、この【甜松林(てんしょうりん)】と娼婦(ボクたち)はこれからが本番(稼ぎ時)だ。

 

 花の刺繍で彩られた上品な靴が、ザンッ! と力強く床を踏みしめた。

 

「――さっきやった事のおさらいだ! 男が女のどんな要素に心惹かれるか、劣情を抱くか、分かるかい!?」

 

 その靴を美しく履きこなす美脚の主――神桃(シェンタオ)さんが熱弁を振るう。

 

「デカくて形の良い乳や尻? 細くて肉感のある太腿? ああそうさ、そいつも間違っちゃいない! けどね、んなもんは所詮小技に過ぎない! あたしが求めてるのはもっと根本的な答えさ! 一体それは何だ!? さあ、答えてごらん! 今のあんたなら即答できるはずだ! 三秒以上は待たないよ!」

 

 ザッ!! ボクは彼女と同じ花柄の靴を軍靴(ぐんか)のごとく踏み鳴らし、威勢良く答えた。

 

「はい!! それは「ふんわり」ですっっ!!」

 

「ご名答!! 細くしなやかな肢体に実った、大きく、柔らかな「ふんわり」! 「細さ」「柔らかさ」という、通常相容れない二要素の兼備! それは男では決してなし得ない、女にのみ許された特権! そういった所に、男は雌を感じるんだ! ヤリたいと強く思うんだ! 分かったね!?」

 

「はいっ!!」

 

「この「ふんわり」は普通に考えると、乳や尻のデカい女に有利に思えるかもしれない。けどそんなことは断じてない! あんたみたいにほっそりした女でも、十分に「ふんわり」は作れる! 香りや髪型、そして服装を工夫して変えればいいんだ! 小細工? 違うね! これは武装だよ! (せんじょう)に鎧を着て出るのは言わずもがなの常識! 持たざる者の堅実さは、持つ者の怠慢に一〇〇回勝ってお釣りが出る!! 肝に銘じておきなっ!!」

 

「はいっ!!」

 

「髪は結ばず、整髪料で膨らみを付ける! 香水、整髪料、入浴剤は全て鼻につかない控えめな匂いの物を選ぶ! 口紅は濃くない色! 服装は体の線が隠される程度の少し大きめなもの! つまり――今あんたがしてる格好が理想的ってわけだ!」

 

 ずびしっ、と神桃(シェンタオ)さんは持っていた細長い煙管(キセル)の先でこちらを差してくる。

 

 近くに置いてある姿見で、今の自分の姿を再確認した。

 

 毎度おなじみの三つ編みは解かれ、長い後ろ髪が下ろされている。さらにその髪は整髪料によっていじられ、耳元から下の範囲が綿飴よろしく「ふんわり」と広がっている。唇は桜色の口紅によって光沢をもった桜色に輝いており、貧相ながら無駄なぜい肉の無いしなやかな肢体は、大きさに余裕があり、なおかつさらりとした優しい質感を持った薄手のワンピースが体のラインごと「ふんわり」と包み込んでいた。

 

 そして、「ふんわり」とボクの全身を漂う優しい桃の香り。香水がちょうど良い塩梅に効いていた。

 

 そんなボクの格好を確認すると、神桃(シェンタオ)さんは厳しく引き締まっていた表情を崩し、柔らかく微笑んだ。

 

「よし、一旦休憩だ。十分だけ休憩時間をあげるわ」

 

 ポン、と肩に手を乗せられたボクも、つられるように相好を崩した。

 

 深く一息つき、肩の力を抜いてだらんとする。

 

 頭頂部をぐしぐしと撫でられた。

 

「いいわよ。あんた飲み込みが速いわ。教え始めて二日目だってのに、もうここまで吸収したんだね。これならあたしの指導にも熱が入るってモンだわ」

 

「ははは……必死に食らいついてるだけですよ……」

 

 ボクは力なく笑いながら、ため息をつくように言った。

 

 ――神桃(シェンタオ)さんの所属する娼館に入ってから、すでに三日が経過していた。

 

 さすが『傾城(けいせい)』の勤め先というべきか、その娼館は他のソレに比べて格段に大きく、そして絢爛豪華な装飾を誇る建物だった。なんでも、【甜松林】では一、二を争う高級娼館だそうだ。

 

 ボクは若干気後れしつつも、神桃(シェンタオ)さんに手を引かれるまま中へ入っていった。

 

 その娼館にも、香瑚(シャンフー)ことボクの悪名は伝わっていた。なのでボクが「働きたい」と言うや、店長と呼ばれる人は明らかに嫌そうな顔をした。

 

 にもかかわらず、今こうして入れているのは、神桃(シェンタオ)さんのこれでもかというゴリ押しがあったおかげである。

 

 おまけに彼女は「この悪名高い新入りは、このあたし直々にしごき倒す。矯正が終わるまではとても客の前には出せないわ」と、真面目な語気で店長に言った。

 

 この言葉には二つの意味が存在する。

 一つは、タンイェンのお眼鏡に叶う女にするべく、ボクを教育するため。

 もう一つは、「新人教育」という建前を使い、ボクをタンイェン以外の男性客にできる限り接触させないため。

 

 店長はしぶしぶ許してくれた。もちろん「仕事に出ない限りは給料を一切出さない」という条件付きだが、ボクは別にお金が欲しくて娼館に入ったわけじゃないので、ぶっちゃけどうでもよかった。

 

 タンイェンに買われるまでの間は、神桃(シェンタオ)さんの宿舎の部屋に泊めてもらい、なおかつごちそうまでしてもらう事になっている。

 

 それだけ見れば至れり尽くせりだが、彼女の教育はとても厳しく、体力を要する。それを込みで考えると必要経費に思えなくもなかった。

 

「それに、あれだけシゴかれたら覚えも良くなりますよ……」

 

 ボクは辛かった日々――といってもまだ三日目だが――を懐かしむような口調で言った。

 

 ――神桃(シェンタオ)さんの指導は思いのほか厳格だった。

 

 一切の妥協も許してくれなかった。

 

 髪型や服装どころか、仕草の細部に到るまで徹底的に矯正された。少しでも間違えたら、あの煙管でぴしっと折檻された。一日目なんか、体の隅々まで叩かれたものだ。

 

 昼夜を問わず叩き込まれる(文字通りの意味で)その教えに、ボクは全力で突っ走るスポーツカーにしがみつく心境で懸命に食らいついた。恥ずかしい知識もいっぱい教わったが、歯を食いしばり我慢して吸収した。

 

 まさにハート○ン軍曹並みのスパルタだった。泣いたり笑ったり出来なかった。

 

 けれど、その厳しい教え方からは、男を魅了することに対する並々ならぬ熱意が感じられた。

 

 正直言うとボクは、男なんて簡単に落ちると思っていた。胸を強調させたり、スカートを擦り上げてさりげなく太腿を見せつけたりすればいいだけだろう――元男の観点から、心のどこかでそう高をくくっていたのだ。

 

 けど、実際に習ってみるととんでもない。かなり奥が深い話だった。まさに一つの学問を名乗っていいくらいに。

 

 神桃(シェンタオ)さんは男を魅力する方法を、ここにいる誰よりも深く知り尽くしていた。まさしく博士号ものだ。

 

 娼婦は世間では「汚れた女」扱いされがちだが、それは一面的な見方に過ぎない。

 

 彼女たちは、男を虜にする事に対する豊富な知識、そして矜持を持ち合わせている。

 

 そして、その代表格ともいえる神桃(シェンタオ)さんをボクは心から尊敬する。

 

「――ほら慧莓(フイメイ)、少ない休憩時間なんだから、そこの椅子にでもおとなしく座ってなって」

 

 『傾城』の美女はさっきまでの気迫に尖った口調を一転、蓮っ葉な口ぶりで言いつつ、近くのスツールを指し示す。

 

 ――この店に入った時、ボクは「慧莓(フイメイ)」という別の名前を付けてもらった。「香瑚(シャンフー)」の悪名がすっかり広まってしまったため、本人バレを少しでも防ぐための措置だ。正直、付け焼刃な気がしないでもないが。

 

 ボクはお言葉に甘えて、示されたスツールに腰を下ろす。

 

 神桃(シェンタオ)さんも部屋の隅っこに置かれた木の椅子を引っ張り出し、そこへ乱暴に尻を乗せた。

 

 ちなみにここは、娼婦が娼婦として働いている本館の裏側に付設された小さな別館だ。この部屋はその別館にいくつか設けられた物置部屋の一つで、入浴剤や香水、整髪料、さらには性病や妊娠を予防する薬などが置かれている。

 

 気だるげにふんぞり返る美女。持っていた細長い煙管を少しの間くわえてから離し、ふわっと大きな円環状の煙を吐き出した。漂って来た煙の匂いは、少し甘かった。

 

「あんたの下積みが十分に終わるまでの間、馬湯煙(マー・タンイェン)の奴が来ないでくれると嬉しいんだがね……」

 

 お風呂にでも浸かった時のようにほんのりした声で、彼女は呟いた。

 

 それを聞いて、ボクの頭に前々から抱いていた疑問が蘇った。

 

「そういえばボク、ちょっと妙だと思う事があるんですけど」

 

「何がだい?」

 

神桃(シェンタオ)さん、そんなにお綺麗なのに、どうしてタンイェンに連れて行かれた事が無いんですか?」

 

 そう。そこだった。

 

 昨日聞いた話だが、神桃(シェンタオ)さんはタンイェンに買われた事が無いとの事。

 

 これほど美しく、おまけに『傾城』である彼女が一度も買われていない事実が、ボクには少し奇妙に思えたのだ。

 

「おや、嬉しい事言ってくれるじゃない。口説いてんのかこのー」

 

 神桃(シェンタオ)さんはボクに近づき、中腰になって頭を乱暴に撫でてきた。

 

「あう……」

 

 左右を往復するように頭部を揺らされ、難儀するボク。

 

 おまけに中腰になったことで、彼女のワンピースの中にある大きな肌色の膨らみがはっきり見える。体の振動を敏感に感じ取り、ふるん、ふるんと左右に揺れ動いていた。

 

 ボクは思わず生唾を飲んだ。でかい。ライライよりは少し小さいが、それでも平均値を余裕で上回っている。

 

 それに、脳がとろけそうなほど良い匂いがする。神桃(シェンタオ)さんの発するフェロモンだろうか。ボクの中に残った男心をススキで撫でるようにくすぐってくる。

 

 ボクの頭を撫で回す手がピタリと止まると同時に、目の前の『傾城』は言った。

 

「あたしが選ばれないのは、奴の好みから離れてるからさ。奴はあたしみたいな尖った感じの女は好きじゃないみたいなんだ」

 

「じゃあ、どんな女の人が好みなんでしょうか?」

 

「さっき教えただろ? 「ふんわり」を重視しろって。その「ふんわり」した要素を結集したような女ばかりを奴は買ってたんだよ。大人しそうで且つ従順そうな顔。柔らかい雰囲気と濃い色気を周囲に放ってて、香水もキツくない。まさしく瓔火(インフォ)の姉御みたいな女さ。あたしは体や技巧にゃ自信あるが、姉御みたいな儚げで優しそうな類型(タイプ)にはなりきれない。目つきとか鋭い方だしね。だから買われないのさ。ま、あたしはタンイェンの奴がどうも気に入らないから、別に改善しようとも思わないんだけどねぇ」

 

 へへん、と誇らしげに微笑んだ。

 

 それを見て、ボクもつられて笑う。

 

 和やかな空気が、煙と一緒に部屋に漂う。

 

 最初に入った娼館では決して過ごせなかった落ち着いたひと時。とても夜の街で働いているとは思えないくらいだ。

 

 煙草の匂いは好きじゃない。だがその煙の中でも安らいでいられるほどに、ボクの心は落ち着いていた。

 

 そもそも、リエシンに難題をふっかけられて以来、こんなにまったりした事はなかった気がする。

 

 そう思うと、そんな時間を提供してくれた神桃(シェンタオ)さんに、再び深い感謝の意が芽生えた。

 

「……ありがとうございます。ここまでして頂いて」

 

 ボクの突然の感謝に、彼女は少しまごついた様子で、

 

「お、おいおい。どうしたんだい藪から棒に」

 

「だって、もし神桃(シェンタオ)さんが手を貸してくれなかったら、ボクは今でもずっと【甜松林】をうろついてばっかりだったと思うから……」

 

 そして、帝都に向かうまでのタイムリミットをさらに浪費していたことだろう。

 

 まだタンイェンの屋敷に入れたわけではない。けれど彼女の助けによって、確実にそこへ到るまでの近道にはなったはずだ。

 

 この(ひと)には、本当に下げる頭が足りない。

 

 だがそこで唐突に、神桃(シェンタオ)さんの表情に影が差した。

 

「……礼を言われる覚えは無いよ。あたしは姉御の行方を探すためにあんたが使えると思ったから、手を貸しただけ。つまるところ、あんたを利用しているようなもんさね。助けてもらった礼ってだけで、ここまで施したりしないよ」

 

 その垢抜けきった美貌に浮かんだのは、斜に構えた皮肉っぽい微笑み。

 

 発した言い方も、まるで冷たく突き放すような感じに聞こえた。

 

 あたしとあんたの間に情なんか欠片もありはしない。利害で結ばれた関係だ。勘違いするな――そう言わんばかりの表情と言動。

 

 ……けれどボクには、彼女が悪ぶっているようにしか見えなかった。

 

 なんというか、その皮肉げな笑みが若干ぎこちなく見えるからだ。

 

「本当に、それだけですか?」

 

「……何だと?」

 

 鋭く艶やかな瞳が細められ、じろり、とこちらを向く。

 

 一見威圧的に感じられるが、その眼には図星を突かれた時特有の揺らぎが見られた。

 

 それを目の当たりにしたことで、ボクの中の予想は磐石な確信へと変わった。

 

 ――実は、ボクをこの娼館へ入れるための条件は、「給料を与えない」事の他にもう一つあった。

 

 それは、ボクには娼婦用の宿舎の部屋を与えないこと。

 

 【甜松林】の娼館では、入ったその日から仕事に駆り出されるのが常識である。前にボクが働いていた娼館がそうだったように。

 

 けど、ボクは「教育」という名目で、仕事へ出るのを避けてしまっている。利益を出さないどころか貢献しようとしない者に金や部屋を与えるほど、甘くはないということだ。そもそもボクがこの娼館に入れたこと自体、普通はありえないことなのだ。

 

 神桃(シェンタオ)さんはそんなボクのために、自分の部屋に同居する事を許してくれたのだ。おまけに、食事の面倒まで見てもらっている。

 

 ただ利用する事だけが目的ならば、そこまでしないはずだ。

 

 彼女はボクに対して、大なり小なりの情を抱いてくれている。そう信じて疑わなかった。

 

 ボクは何も言わず、ただただ威圧感のこもった――ように見せかけている――眼差しを見つめ続ける。

 

 そして、やがて神桃(シェンタオ)さんはそっと瞳を閉じ、降参とばかりにため息をついた。

 

「…………あんた、昔のあたしに似てんのよ」

 

 声量を低くし、郷愁に浸るような口調でそう切り出してきた。

 

 ボクはひょこっと小首をかしげながら、

 

「昔の?」

 

「そうよ。……この【甜松林】に来たばっかりの頃のあたしにね」

 

 『傾城』の女は煙管の吸口をくわえ、離す。

 

 深いため息を白煙とともに吐き、ゆっくりと語り始めた。

 

「あたしはね――こう見えても昔は結構良い家の生まれだったんだよ」

 

「え……」

 

 意外な事実に、ボクは目を丸くした。

 

 この【甜松林】のトップに立つくらいの娼婦が、元々は良家の生まれだったなんて。

 

 けれど、納得できる部分もあった。

 

 彼女の放つ雰囲気からは、濃い色気とともに、どこか気品のようなものも感じられたから。それが生まれ育ちに起因しているのなら、頷ける話である。

 

「ま、良い家っつっても、由緒ある立派な家柄ってわけじゃあない。食い物を扱う事業でちょっと成功してたって程度の家さ。まあそれでも、人並み以上の裕福な暮らしをしていたわね。でもね、ある日を境にその恵まれた生活が嘘のように終わったのさ」

 

「何か、あったんですか?」

 

 話し始めより一層深々としたため息をついてから、彼女は再び口を開いた。

 

「商売敵にハメられたのよ。もっと正確に言えば、一部の従業員を買収して、売り物に毒性のあるモノをこっそり入れられたのさ。それを口に入れた人はたちまち中毒症状を起こして、一時期大騒ぎになったわ。商いで一番大切なのは信用だ。ウチはそいつをあっという間に失ったのさ。それからも色々不運が重なって事業が上手くいかなくなって、挙句の果てにかなりの額の借金を背負うハメになったわね。その頃すでに精根尽き果ててた両親は、一足先に空の彼方へ旅立ったわ」

 

 オブラートに包みながらも残酷さを隠しきれていない文脈に、ボクの体温が一瞬だけガクッと急降下した。

 

「結果、両親の借金は全部あたしにのしかかったわ。あたしはすぐにでもその金を払いきらないといけなくなった。でも、その頃のあたしはただの小娘。とても一気に大金を稼ぐ技能なんてなかった。残っていたのは、人並み以上に美しい容姿だけ。だからあたしは、それを使って金を稼ぐ事にした。いや、そうするしかなかった。そう思ってすぐに、この【甜松林】に流れ着いたわ」

 

 煙管を吸う頻度が増え始めた。まるで何かから気を紛らそうとするかのように。

 

「でも、この町で働き始めてからもあたしは散々嫌な目に遭ったわ。娼婦同士のイビり合いや足の引っ張り合い、倒錯的な要求をしてくる変態客、そして、慣れない床入りを重ねるにつれて磨り減っていく自分の精神。けどそんな時、あたしは姉御と出会った。姉御の言葉と優しさに助けられながら必死に足搔き続けて、とうとう借金を全額返し終えた。そして気がつきゃ、『傾城』なんて呼ばれるようになってたわ」

 

 大きく一息吐くとともに、甘辛い白煙漂う空間にさらに濃い煙を付け足した。

 

 そして、神桃(シェンタオ)さんはボクの顔を真っ直ぐ見つめ直した。

 

「初めてあんたに会った時――この【甜松林】に流れ着いたばっかりの頃のあたしにそっくりに見えたんだ。この町に渦巻く欲望のドス黒さに慣れきれず、初心(うぶ)な小娘を卒業しきれず、人形のように無感情で町中をさまよってた、昔のあたしに。だから、どうにも放っておけなくてね」

 

 ボクの顔をくっきり写すその瞳は、まるで昔を懐かしんでいるかのような色だった。

 

 が、神桃(シェンタオ)さんはすぐにまぶたを閉じ、済まなそうな口調で、

 

「……おっと、やっぱり今の話は全部忘れとくれ。人を勝手に哀れんだりするのは下手な罵倒より酷いことだからね。ごめんよ」

 

「いえ、いいんです。多分……そんなに間違ってませんから」

 

 ボクは元男だが、男に体を差し出す行為の重要さを認識できないほど阿呆でも無知でもない。

 

 彼女を含め、ここで働く娼婦たちは当たり前のように商売をこなしているが、そこまでの心持ちに到るまでの苦心は想像に難くない。

 

 そう。普通は誰彼構わず体を許せなくて当たり前なのだ。

 

 かく言うボクもそれを割り切れなかったからこそ、客を殴り飛ばしてしまったのだ。

 

 ……まあ、「元とはいえ、男が男と乳繰り合うとか冗談じゃない。ボクはノーマルだ」って気持ちも少なからずあったが。

 

「……あれ?」

 

 ふと、彼女の過去と現在を見比べ、引っかかりを一つ見つけた。

 

神桃(シェンタオ)さんって、どうしてまだ【甜松林】にいるんですか?」

 

 その言葉の意図を察したのだろう。『傾城』の美女は瑞々しい唇に雅な微笑みを作り、

 

「もう借金は返し終えてるのに、って言いたいんだろ?」

 

「はい。どうして……」

 

「ふんむ。そうさねぇ」

 

 彼女は煙管を片手でくるくる回しながら、何かを思い起こそうとするように天井を見上げた。

 

 そういえばこの人の境遇は、以前聞いた情報とかぶっている。

 

 以前聞いた情報――それはリエシンのお母さん、瓔火(インフォ)さんの事情についてだ。

 

 彼女も借金を背負い、それをここでの商売の稼ぎで返しきった。しかしその後もなお、この町にとどまり続けていたとのこと。

 

 神桃(シェンタオ)さんの歩んできた道のりは、瓔火(インフォ)さんと非常に似通っていた。

 

 憧れの人との類似性を求めてのことだろうか?

 

 いや、きっと違う。

 

 もっと単純で、やるせない理由だ。

 

「簡単に言っちまうと……慣れたから、かね」

 

「慣れた?」

 

「おうさ。人ってのはどんな状況に置かれても、大抵は慣れて感覚が麻痺しちまうもんさ。最初はどんなに嫌だ嫌だと思ってても、日を重ねるうちにそうでも無くなってくる。日々違う男に腰振られる事も、他の娼婦からのやっかみも、変態じみた要求をしてくる客も、いつしか日常を形作る「当たり前」の一つだと感じられるようになっちまう。そして、その慣れ親しんだ場所から出る事が……変わる事が、怖くなっちまうのさ」

 

 目の前の美女は、自嘲を隠そうともしなかった。

 

 それを見て、ボクの心は締め付けられた。

 

「つまるところ、あたしは男にまたがってキャンキャン啼き声を上げて悦ばせる事くらいしか能の無く、そこから離れられない、臆病で恥知らずのクソアマなのさ」

 

「――それは違う!!」

 

 ほとんど反射的に出てきた言葉だった。

 

 神桃(シェンタオ)さんは鳩が豆鉄砲を食らったように目を見開く。

 

 気がつくと、ボクは彼女の両肩口を掴んでいた。

 

 離れたところから見ると、とても存在感のある彼女の姿。けれど実際に触れてみて、ボクとそれほど広さの変わらない、狭い女の肩幅だとわかった。

 

「あなたが助けてくれたから、ボクは自分の目的に近づけた。この娼館に無理矢理ボクを入れさせた事も、こうしてかくまってくれている事も、あなたじゃなかったら絶対出来なかったはずだ。ボクはそれを知ってる。だから、今みたいに自分を無価値だと切り捨てるような事を言うのは許しません」

 

 今までにないほど厳しい語気で、ボクは言い放った。

 

 視界のほぼ全てを占める、神々しさすら感じさせる端正な(かんばせ)は、まるでこれまで見たことの無い絶景を目の当たりにしたかのごとく驚きを呈していた。

 

「――わふっ?」

 

 かと思えば、突然体が前に強く引き寄せられる。顔が柔らかい二つのモノに挟まれた。

 

 柔らかいモノとは、神桃(シェンタオ)さんの胸の膨らみだった。

 

「…………前言撤回。あんた、全然あたしに似てないわ。だって、こんなに良い子なんだもの」

 

 そこまで来て、ボクはようやく抱き寄せられたのだと確信できた。

 

 想像を絶する柔らかさを誇る双丘に顔を挟まれているせいで、今の彼女の表情が全く分からない。

 

 ボクの背中に回された手が、ぎゅうっと内側へ締め付ける力を強める。顔がさらに奥へ埋まった。

 

 恥ずかしさは不思議と起きなかった。

 

 代わりに、包み込まれるような安心感が心を満たした。

 

 この感じは知っている。

 

 お母さん――前世のボクの母親に抱きしめられた時にいつも感じた、謎の安心感とそっくりだ。

 

 もう会うことの叶わないその顔を思い出した途端、目頭に熱いものがこみあげてきた。

 

 目を閉じて食いしばり、目の奥へ飲み込むイメージで涙を流すまいとする。もうどう転んだってあの人には会えないのだ。感傷的になっても仕方がない。

 

 しばらくして、背中を締め付ける力が緩んだ。

 

 ボクは見上げる。

 

「まあでもさ、ここでの生活も見方を変えてみれば嫌な事ばっかりじゃないよ? 何せ、一晩で他の職業じゃなかなか稼げないだけの日給が手に入るんだからね。まして、あたしは『傾城』。今じゃヘソクリの額だけで家が一件買えちまうよ。いつかこの金を元手にして、何か商売を始めてみるのもいいなって時々妄想して楽しむわけさ。な? 案外面白いもんだろ?」

 

 ことさらに明るくそう言って、間近にある絶世の美貌は片目をパチンと閉じてくる。

 

 ……もしかすると、さっきの自虐はただ言ってみただけって感じで、本当は案外ポジティブな性格なのかもしれない。

 

「……でも、嬉しかったよ。ありがと、慧莓(フイメイ)

 

 ちゅっ、と頬っぺたに柔らかい感触が一瞬押し当てられる。

 

 神桃(シェンタオ)さんに接吻(キス)されたのだと数テンポ遅れで気づき、かーっと顔が羞恥で熱くなった。

 

「あっはは! あんた顔真っ赤よぉ!? やだー、可愛いわねぇー!」

 

 ガバッ、と勢いよく抱き寄せられた。ボクの顔が再び豊満なおっぱいの谷間にぐりぐり押し付けられる。

 

 心地よい感触と甘香ばしい香りが同時にやってきて、ボクは羞恥半分極楽半分といった心持ちとなる。

 

 しばらくの間神桃(シェンタオ)さんのぬいぐるみ状態となり、そしてようやく開放された。

 

「でも、姉御はちょっと違うみたいだったけどね」

 

「違う、と言いますと?」

 

「姉御もあたしと同じで、背負ってた借金を全額返した後も【甜松林】で働き続けてたんだよ。けどなんつーか、姉御はあたしみたく現状に耽溺(たんでき)してるって感じじゃなく、もっと他に目的があるように見えたっていうか」

 

「目的って?」

 

「さあね。「目的があるように見える」なんてのはあたしの想像に過ぎないのかもしれないし。それを疑問としてぶつけようとは思わなかったわ」

 

 そこで、彼女は何かに気がついたように目を瞬かせた。

 

「そういや、あんたと姉御ってどういう関係なの? ずっと気になってたんだけど」

 

 その疑問をぶつけられたボクはどう答えるべきか数秒黙考してから、

 

「……実は、ボクと瓔火(インフォ)さんとの間に直接的な面識は無いんです」

 

「何だってっ? それじゃあ、どうして姉御を探そうなんて考えてる?」

 

 ボクは再び答え方を考えてから、返答を口にした。

 

「…………瓔火(インフォ)さんの娘さんに、頼まれたからです」

 

 否。正確には「脅されてやらされている」と言うのが正しい。けれど、この人が敬愛している女性の娘だ。なるべくカッガリさせる情報は教えたくなかった。

 

 神桃(シェンタオ)さんの瞳が一瞬大きく開かれる。が、すぐに理解したように目元を緩めた。

 

「なるほどね。そういや、姉御の肉親は娘だけだって話だったし、納得だわ」

 

「はい。娘さんも、母親が一ヶ月も帰って来ない事を変に思ったみたいです。一度治安局にタンイェンの屋敷の捜索を頼んだ事があるらしいですけど、何も無かったらしくて……」

 

「……そういや何日か前、馬湯煙(マー・タンイェン)治安局(おまわり)にガサ入れされたって聞いたけど、ありゃ姉御の娘がチクったからなのね。…………あっ」

 

 そこで、何かを思い出したように表情を明るくした。

 

慧莓(フイメイ)、ちょっとここで待ってて! あんたに渡したい物があるから!」

 

 彼女はそう言い残すや、戸を開けて部屋から駆け足で出て行ってしまった。

 

 煙草臭い室内に、一人ぽつんと残されるボク。

 

 やることが無かったので、とりあえず室内の臭いを逃がすために窓を全開してから、スツールに腰掛けて待つ。

 

 しばらくして、神桃(シェンタオ)さんが戸を破るように開けて戻ってきた。

 

「待たせたわねっ」

 

「おかえりなさい。どこに行ってたんですか?」

 

「宿舎のあたしの部屋よ。んで、コレを取りに行ったの」

 

 ささめ雪のような白い手に持たれていたのは、握りこぶしほどの面積を持つ一枚の紙だった。藁もしくは麻を主原料にしているであろう荒地の紙で、勝手にバラけて開かないよう、紙全体をひとまとめに固定するような折り方がされていた。

 

 ボクが頭に疑問符を浮かべてソレを見ていると、神桃(シェンタオ)さんはその無言の問いに答えた。

 

「これは姉御が書き残した手紙だ。「もし私の身に何かあったら、これを娘に――リエシンに渡して欲しいの」、そう頼まれてた。あんたが姉御の娘と顔見知りなら、渡す相手としちゃちょうど良い。受け取ってくれないか?」

 

 そう言って、手紙を差し出してくる。

 

 ボクは曖昧な頷きを返してから、受け取った。

 

 その手紙にはこじ開けられた形跡が見られない。きっと、神桃(シェンタオ)さんも中を見ていないのだろう。

 

 ――正直、好奇心が湧いた。

 

 もしかするとこの手紙の中に、何か瓔火(インフォ)さんを探す手がかりがあるのではないか。そう考えると、この丁寧に折られた封を解いてみたい気分に少しはなった。

 

 けど、これはリエシンに対しての手紙。リエシンではないボクが覗くことはまかりならない。

 

 これはリエシンに対しての配慮ではない。瓔火(インフォ)さんへの配慮だ。

 

 手紙としばらくにらめっこしていた時だった。

 

「ん?」

 

 急に神桃(シェンタオ)さんが、訝しげに眉根を下げた。

 

「どうしましたか?」

 

「いや……ちょっと外がやかましいなと思ってね」

 

 その言葉を確かめるべく、息を潜めて部屋の外へ耳を傾ける。

 

 すると、ほんの微かにだが、がやがやとした喧騒が聞こえてきた。

 

 この声は、おそらく本館からだ。別館であるここまで届くとは、よほどの騒ぎようである。

 

 戸が勢いよく開け放たれる。

 

「――神桃(シェンタオ)、タンイェンの旦那が来たわよ!」

 

 駆け込んできた一人の娼婦が、嬉々としてそう告げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、ライライとミーフォンはというと――

 

 

 

「…………はぁ」

 

 小さな点心(だがし)屋の外壁に寄りかかりながら、ミーフォンは虚脱感丸出しのため息をそっと吐き出す。

 

「…………」

 

 隣に立つライライもため息こそつかないものの、景気の悪い表情で押し黙っていた。

 

 二人の手には、夕食代わりの餡入り包子(パオズ)が握られていた。しかし、欠けていないどころか、歯型一つ付いていない。一口も食べていないのだ。買ったばかりの頃はほかほかと湯気が立っていたのに、今ではすっかり冷めきってしまっている。

 

 淡い月光がかかり、地面に二人分の影を作る。今宵の空には暗雲の欠片も見当たらない。そのため、砂場に水晶の粒を散りばめたような満天の星々と、文句なしにまん丸な月が天然の照明となっていた。

 

 いつもなら浪漫(ロマンチック)な気分に浸れたかもしれない。

 

 けれど、今のミーフォン達には疲労と焦り、そして絶望感しかなかった。

 

 ズレた伊達メガネさえ直す気になれないほど、心が沈みきっていた。

 

 ――見つからない。

 

 変装をしながら【奇踪把(きそうは)】の武館を探し始めてから、すでに三日が経過していた。

 

 ミーフォン達は、あらゆる町を血眼になって探した。

 

 【会英市】周辺は言うに及ばず、そのさらに遠くの町にも足を運んだ。

 

 この三日間で歩いた距離を累計すれば、目的の帝都までの道のりがかなり稼げる。それくらい歩き回ったはずだ。

 

 けれど、未だにリエシンたちが所属している武館は見つかっていない。

 

 自分たちの努力は努力足りえず、ただの徒労となっていた。

 

 これが気落ちせずにいられようか。

 

「こんなに探してるのに、どうして見つからないのよ……」

 

 ミーフォンは悔しげに歯噛みした。片手の包子を思わず握り潰しそうになる。

 

 せめて食事だけは無理にでも取ろうと思い、ミーフォンはずっと手の上で放置されていた包子を頬張った。けれどすっかり冷めていて美味しくはなかった。

 

 強引に引き出した食欲はあっという間に萎える。

 

 そしてその分、苛立ちがさらに募った。

 

「~~~~っ!」

 

 たまらず、地を乱暴に蹴飛ばして歩き出した。

 

 ライライが後ろから困惑した声で、

 

「ちょ、ちょっと? どこに行くの?」

 

「決まってんでしょ!? あの女の武館を探しに行くのよ!」

 

 振り向かぬまま、険を帯びた声を投げ返した。どうしてそんな分かりきったことを訊くのか。

 

 早歩きを続ける自分の足音に、ライライの足音が連帯する。

 

「探すって……当てはあるの? もう【会英市】周辺にある【奇踪把】の武館は全部当たったでしょう?」

 

「だから何っ!? だったらこの辺の武館全部を調べればいいじゃない! 数打てばいつか見つかるわよ!」

 

「待ちなさいっ」

 

 手首を強く掴まれ、歩きを止められる。

 

 ミーフォンはそれを拒絶的な手つきで振り払う。

 

 かと思えば、ライライはこちらの両肩を強く掴み、凄むような目つきで強く言ってきた。

 

「もうこれまで、あなたには何度も言ってるわ。「落ち着きなさい」」

 

「じゃああたしもここ最近で決まりきってる返し方をしてやるわよ! 「これが落ち着いていられるか」っ!」

 

「ならあえてもう一度言うわ。――「落ち着きなさい」。ミーフォン、あなたはこの三日間何を見てきたの? あなたと私が探した町や村に、一体いくつ武館があった? それだけの数の武館を当たるのにどれだけの労力が要ると思う?」

 

 冷静な態度を崩さないライライに反感を覚え、なおも食い下がる。

 

「じゃああんたは、すぐにでも高洌惺(ガオ・リエシン)の武館を見つけ出せる方法を用意してるっての!?」

 

「それは……」

 

 気まずそうに目を伏せ、沈黙した。

 

 それ見たことか。そっちこそ何も打開策が無いではないか。

 

 慎重なのは良い事だ。けど、それだけじゃあの人――お姉様は救えない。

 

 彼女が汚らわしい欲望で傷物になるなど、あってはならない。

 

 もし次会った時にそうなっていたら、自分にはとても耐えられる自信がない。

 

 そして、親愛なる彼女をそうなるかもしれない状況に追い込んだ高洌惺(ガオ・リエシン)、そして徐尖(シュー・ジエン)らを、決して許すことはできない。憎しみさえ覚える。

 

 連中の顔は、脳裏に刻印のごとく刻まれている。絶対に忘れない。忘れるものか。

 

 絶対に見つけ出して、【吉火証(きっかしょう)】を奪い返――

 

「…………あれ?」

 

 ミーフォンはこわばっていた表情筋を急に緩め、ふと声をもらした。

 

 二人の顔を思い出したことで、それにまつわる記憶も思い起こされたのだ。

 

 そして今ミーフォンの頭の中に流れているのは、シンスイとジエンの勝負の時の映像。

 

 その時のジエンの動きを振り返ったことで――ある一つの「仮説」が生まれた。

 

「ミーフォン?」

 

 未だに自分の両肩を掴んで離さないライライが、考えを巡らせている自分をきょとんとした顔で見ていた。おそらく、急に静かになったからびっくりしているのだろう。

 

 ……うん。思い浮かんだ「仮説」を話す前に、少し離れてもらうとしよう。

 

「ライライ、あんたちょっと臭うわよ」

 

 途端、ライライは「ガーン!!」という悲惨な効果音が似合いそうなほど青ざめ、一気に後ずさった。そして腕や腋、服の中へと鼻を近づけてすんすん嗅ぐ。

 

「冗談よ」

 

「じょっ……冗談なんだ…………よかった」

 

 心の底から安堵したのか、へなへなと脱力するライライ。

 

 まあ、それは置いておくとして。

 

「そんなことよりライライ、聞いて欲しいの」

 

「そんなこと、って…………まあ聞くけれど。何かしら? 改まって」

 

「実は――」

 

 ミーフォンは一度息継ぎしてから、口を開いた。

 

 

 

高洌惺(ガオ・リエシン)たちの流派は、【奇踪把】じゃないかもしれない」

 

 

 

 ライライが息を呑む音がはっきり聞こえた。目も明らかに丸みを帯びて驚きを表現している。

 

「……どうして、そう思うの?」

 

「そうね……それじゃあ、まず【奇踪把】って武法の主な特徴を上げてみなさい」

 

「え? えっと……」

 

 急に話を振られてしどろもどろになりながらも、ライライはなんとか答えた。

 

「巧妙で規則性の無い歩法を使って、相手を幻惑したり、攻撃をかいくぐったりしながら付け入る隙を探しだし、そこを攻める?」

 

「そうね。正解だわ。けどそれだとね、お姉様と戦ってた時の徐尖(シュー・ジエン)の動きに突っ込み所が出来るのよね」

 

「どういうことかしら?」

 

 ミーフォンは口角を吊り上げ、その「突っ込み所」を口にした。

 

「真っ直ぐ蹴り放たれたお姉様の蹴りを、徐尖(あいつ)は全身の回転を使って(コロ)の原理で受け流したわ」

 

「――あっ」

 

 ライライは不意を突かれたような表情となる。「まさか」と小さくこぼした。

 

 狙い通りの反応を得られたミーフォンは喜色満面となり、

 

「そうよ。【奇踪把】は回避の技術こそ長けてるけど――「相手の力を円の動きで受け流す」なんて技は存在しない。【奇踪把】の環擊(カウンター)は、巧妙な歩法を用いた回避を前提にして仕掛けるものよ。回避は積み重なれば重なるほど、相手の苛立ちを誘いやすい。そうして心に隙が出た所を一気に攻め入って制するのが【奇踪把】の十八番なのよ。……だから、あの男の使ってた武法は【奇踪把】じゃない。【奇踪把】に似て歩法の変化が多彩で、なおかつ相手の力を受け流す技術に長けた別の武法である可能性が高いわ。それをさも【奇踪把】であるかのように見せかけてたのよ」

 

「なるほどね。けれど、そんな流派……あったかしら」

 

「バカねぇ。あるじゃないの、一つだけ。それも、かなり名の知れた流派が」

 

 ミーフォンはそう前置きすると、やや面白くない気持ちのこもった語気で述べた。

 

 

 

「――【龍行把(りゅうぎょうは)】」

 

 

 

「――――!!」

 

 ライライの面持ちが、最高潮の驚愕を示した。疑いようも無く、こちらの考えが腑に落ちたのだと分かる。

 

 ――【龍行把】。

 

 武林において、この武法を知らぬ者はまず居まい。

 

 この武法の事を話すには、まずは我が門【太極炮捶(たいきょくほうすい)】の次に長い歴史を有する大流派――【道王把(どうおうは)】について説明しなければならない。

 

 【道王把】とは、【煌国(こうこく)】の東方にそびえ立つ霊山【道王山(どうおうさん)】を起源とする武法の総称だ。

 

 【道王把】は全部で五〇の流派があり、多種多様な拳技や体術、戦術理論が見られる。

 

 そして、その五〇流派の中には、代表的な三つの流派『道王派三大武法』が存在する。

 

 五〇の中の頂点に位置する最秘法、【太極把(たいきょくは)】。

 強大な【勁擊(けいげき)】を技術の中心に置いた、【心意把(しんいは)】。

 円運動を自在に操る、【龍行把】。

 

 ……そう。【龍行把】は、【道王把】の一つなのだ。

 

 【龍行把】の技術的特徴は、円運動を主軸においた華麗かつ実戦的な体術と――変幻自在の歩法。

 

 滑るような足さばきで常に敵の周囲を活発に駆け巡り、舞踊を彷彿とさせる美しい体さばきを用いて攻撃をかいくぐり、死角へ入って嵐のごとく激しく攻める。まさしく霊峰を中心にとぐろを巻く龍のような戦い方をする武法だ。

 

 その動きと戦法を実現させるため、入門したての初心者はまず歩法の訓練を徹底的に行う。そうして下半身がある程度円滑に歩法を刻めるようになってから、初めて【架式(かしき)】や【拳套(けんとう)】といった全ての武法に共通した修行に打ち込むのである。

 

 さらに円運動を重んずる体術の面目躍如とばかりに、【龍行把】では円や螺旋の動きを使った【化勁(かけい)】――打撃の力の向かう方向を操作し、受け流す技術――もしつこいくらいに鍛える。熟練者ならばたとえ小柄な老人であっても、大男の打撃を水中に迎え入れるように無力化することが可能。

 

 軽快で変化に富んだ歩法。

 円の動きを用いて暴力を溶かす技術。

 ――どうだろう? ジエンの戦い方とまるっきり同じではないか。

 

 そして何より【龍行把】は、【奇踪把】の元となった武法でもある。

 

 変化に富んだ歩法を活かし、死角に入って攻めるという戦闘様式(スタイル)は、まさしく【龍行把】の遺伝なのだ。

 

 つまり【龍行把】ならば――【奇踪把】のフリをするのはさほど難しくない。何せ、生みの親なのだから。

 

 ライライはこちらの瞳をジッと見て、確認をとるように訊いてきた。

 

「つまり高洌惺(ガオ・リエシン)たちは、【奇踪把】のフリをした【龍行把】の門人……ということ?」

 

 ……そう。それがミーフォンの立てた「仮説」の大略だ。

 

 もしもこれが真実なら、徐尖(シュー・ジエン)はとんだうっかり屋である。何気ない動作の中に、示唆(ヒント)を残してしまうなんて。

 

 【奇踪把】の武館を懸命に探して見つからないのにも頷ける。だって、そもそも探している対象が違うのだから。自らを【奇踪把】と名乗った時点で、連中の(ミスリード)は始まっていたのだ。とんだ食わせ物である。

 

 けれど、まだ仮説の段階だ。なのでミーフォンは頷かずに、

 

「そうかもしれないし、違うかもしれない。まだあたしの推測の域を出てないから」

 

「そうね。けれど……あたってみる価値はあるかもしれないわ」

 

 ライライのその言葉を引き金に、二人は押し黙った。

 

 しかし、向かい合う両者の口元は緩んでいた。

 

 さっきまでの重苦しい空気もどこへやら。

 

 月光や星明りも、心地よく感じる。

 

 二人はずり落ちかけていた伊達メガネの位置を整えてから、

 

「行きましょう」

 

「そうね。これでダメだったら、今度こそ武館総当たりよ」

 

 満月の見守る下、僅かな希望にすがりつく決意を固めたのだった。

 


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