一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜   作:葉振藩

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狂気

 ――すさり、すさり、すさり。

 

 ボクはタンイェンの屋敷の廊下を、スローペースで歩いていた。

 

 この一階には、直線的な廊下ばかりが続いている。その随所が直角の曲がり角となっていて、あみだくじを思わせる道筋だった。

 どこも似たような内装だったので最初は迷いそうになったが、時折見かける調度品や飾り物などが目印代わりになり、今ではだいぶ慣れてきた。

 

 ボクは薄い氷の上を歩くような心もとない足取りで、一歩、また一歩と進む。

 足裏全体をべったりと床に付けず、爪先のみでゆっくりと歩みを進めている。

 背筋も、少し猫背気味に丸めている。

 まるで、人の家にこっそり侵入した泥棒のような姿勢と足さばき。

 

 ――これは、武法士である事を隠すための歩き方だ。

 

 武法士は、背筋に棒でも入ったかのように真っ直ぐな姿勢、そして足裏が地に吸い付くような安定した歩き方という二つの身体的特徴を持っている。それなりに目が肥えていれば、すぐに武法の修練を積んだ経験があるか否かが分かってしまうのだ。

 

 なのでボクは背筋を丸め、さらに爪先歩きという不安定な歩き方を行うことで、それら二つの身体的特徴を隠したのだ。

 

 武法士である事が隠せれば、相手は「戦えないタイプである」とこちらを見くびり、油断を心に生むだろう。そうすれば、余計な疑いや警戒心を抱かれにくくなるはず。ここ数日のうちに【甜松林(てんしょうりん)】の娼婦たちを大勢観察したが、その中で武法を学んだ経験のある人は一人もいなかったのだから。

 

 用意した『円寂塔(えんじゃくとう)』も、タンイェンはきっと使ってくれていることだろう。『枯木逢春塔(こぼくほうしゅんとう)』と騙されて焚いておやすみなさいだ。

 

 ――「ぶっちゃけ、『円寂塔』の香りを屋敷全体にばら撒いて全員眠らせた方が、探索しやすいんじゃない?」という意見を持った方もおられるかもしれない。

 

 もちろん、それはボクも考えた。しかしこれほど広い屋敷だと、香りが屋内全体に回りきらない可能性が高い。おまけに香りは無差別に効果を発揮するので、吸ったら当然ボクも眠ってしまうだろう。何より、『円寂塔』の数はたったの一つ。だからこそ、一番有効な使い方をしようと考えたのだ。

 

 ……とまぁ、いろいろ下準備こそしたが、あくまで下準備。花の生育を促すために撒く肥料のようなものだ。

 

 作戦の成功という名の花を咲かすには、ボク自身の頑張りが一番重要である。

 

 あとは予定通り、瓔火(インフォ)さんを探すことに専念すればいい。

 

 ――ただし、見つかったとしても、今すぐには連れ帰らない。

 

 今回の目的は、あくまで瓔火(インフォ)さんの居場所を見つけることだ。

 

 仮に彼女が監禁されていて、その場所を無事に見つけられたとしても、今日は連れて行かない。リエシンには「屋敷の中にいないか確認しろ」と言われただけ。それ以上の事に首を突っ込む理由はない。

 

 というか、監禁場所が見つかっただけでも、治安局がその象並みに重い腰を上げるには十分な情報となり得る。

 

 以前にリエシンが訴えた時と違い、今度は確かな状況証拠が揃っているのだ。それを突きつけられたとなれば、治安局は今度こそ真面目に動かなければならなくなる。連中はモヤモヤして不確かな疑惑からは目を背けられても、確固たる真実から目を背けることはできない。もしそんな真似をすれば、警察機構として完全に形無しとなるからだ。そして民衆はその様を「法が金の力に日和(ひよ)った」と厳しい目で見るだろう。

 

 ……まあ、いろいろ理屈を並べたが、つまり今は瓔火(インフォ)さん探しに集中すればいいというだけの話だ。

 

 自分の目的を再確認したボクは、再び歩きだそうとしたが、

 

「――おい、女。おめぇ誰だ?」

 

 そこで、唐突に後ろから誰何(すいか)の声がかかった。

 

 ビクッと肩を震わせ、ゆっくり振り向く。見ると、ボクのすぐ後ろに一人の男が壁のように立っていた。片手には三日月状の片刃剣。おそらく、屋敷内部を警備しているという用心棒の一人だろう。

 

 それにしても、柄が悪そうな奴だ。どう見ても堅気には見えない。近寄っちゃいけないトゲトゲした空気が周囲に満ちている。

 

 用心棒としての職務は自覚しているようで、こちらを見下ろす眼差しは濃い疑惑を帯びていた。しかしその視線は厳密に言うとボクの太腿や胸元に集中しており、目尻も微かにつり上がっている。煩悩が含まれている証だ。

 

 ボクは彼に愛想笑いを向けると、ことさらに控えめな仕草を作り、

 

「あ、すみません……ボ……わたしはタンイェン様に買われた娼婦なんです……その……床入りの前に、お花を摘みに行きたいと思って……」

 

「タンイェンの旦那の……そ、そうかい」

 

 途端、彼は目元に浮かんでいた情欲を消し去り、ビシッと立ち方を正した。タンイェンの買った女に色目を使うなど恐れ多いと感じたのかもしれない。

 

 しかし疑惑や情欲こそなくなったものの、その瞳には、今度はある種の哀れみのような感情が宿っていた。

 

 男は、ボクが進んでいた方向とは逆の方向を指差した。

 

厠所(べんじょ)ならあっちだ。まぁ……ご愁傷様だ。運が悪かったと思うこったな」

 

 ――は?

 

 その意味深な発言の意図するところを尋ねようとする前に、男は早歩きでボクを横切って進み、そして遠くの曲がり角に姿を隠した。ドアの開け閉めの音が聞こえる。

 

 ご愁傷様って、どういうことだろう。

 

 ……もしかして、タンイェンって相当な変態性癖の持ち主とか? それこそ、最初に入った娼館の先輩方が豪語していたような、自主規制不可避な内容のアレやコレとか……?

 

 ぞわっ――

 

 全身の毛がサボテンよろしく逆立った気がした。

 

 ヤバイ。一刻も早く目的を果たして、この屋敷からおさらばしないと。

 

 まだ見ぬハードコアプレイへの恐怖は、そのままやる気へと変わった。

 

 当然ながら厠所(トイレ)のある方向へは進まず、今まで通りの方向へ歩き出した。

 

 さっきの男が入った曲がり角を早々に通過し、さらに奥へ進む。

 

 数え切れないくらいドアがあるので、どれに入ろうかずっと迷っていた。けれど、そろそろ決めた方がいいだろう。時間は有限なのだから。

 

 そう急く気持ちが湧き上がる一方で、少し妙な点に気づく。

 

 ――使用人がほとんどいないのだ。

 

 実は、この屋敷内部でタンイェン以外の人間に会ったのは、さっきの男でまだ三人目だ。

 

 普通、お金持ちの屋敷っていうのはもっとこう、家政婦さんとかの使用人がめまぐるしく往来しているものじゃなかろうか。

 

 しかし、この屋敷にはびっくりするくらいそれが無い。こんなに広い屋敷なのに、不気味なほど人口が少ないのだ。敷地の外はあんなに警備が厳しいのに、屋敷の内側には申し訳程度の人数しか警備がいない。

 

 外はガチガチ。中はスカスカ。

 

 なんだか、この比率に少しだけ違和感を覚えた。普通はどちらか一方に偏らせず、均等に人数を分けるものではなかろうか。

 

 ――もしかするとリエシンは、これを承知で今回の作戦を考えたのか?

 

 彼女は屋敷内部の警備がザルである事を知っていたのかもしれない。一度タンイェンを治安局に訴えたらしいし、もし知っていたとするならその時にでも確認したのだろう。

 

 けれど何はともあれ、ザル警備なのはこっちにとっても大助かりだ。

 

 とにかく、どこでもいいからまず一部屋調べよう。

 

 ピタリと歩く足を止めた。

 

 現在、ボクは丁字状の曲がり角のど真ん中に立っている。前方、左、後方へそれぞれ一本ずつ廊下が伸びており、それらの壁にドアがいくつか貼り付いている。

 

 計算や駆け引きを交えて選んでいたらいつまで経っても決まらない。なので、ここはアバウトにいくとしよう。

 

 瞳を閉じ、心の中を一度白紙のごとくまっさらにする。

 

 そして勢いよく開眼すると同時に、入るべき扉を射抜くように指差した。そこは、左に伸びた廊下の真ん中辺りの壁にあるドア。

 

 周りに誰もいない事を確認してから、ボクはそのドアへと近づく。そして、音を立てぬように気をつけながら、ほんの少しだけ開いた。細い隙間の間から、その部屋の様子を覗き込む。

 

 そこは一言で言い表すなら、博物館の一室のような場所だった。正方形に広がったシンプルな空間の中には、所狭しと美術品が並んでいた。

 

 最奥の壁には、水晶で作られた巨大な太極図が鎮座しており、右の壁には美しい女性の絵画、左の壁には男の戦士の絵画が、左右それぞれ三枚ずつ飾られている。

 

 そして部屋の中央部には、陶製の人形が四隅の位置関係で四体置いてあった。それらは男型と女型がそれぞれ二体ずつ存在する。奥から数えて、右二つは女型、男型の順、左二つは男型、女型の順に並べられていた。

 

 おそらく、ここは美術品の保管場所か何かだろう。

 

 奥に置かれた巨大な球状太極図。左右の壁にある絵画。中央部にある人形四体。どれもこれも、いかにも高そうな感じがする品だ。

 

 一体どんな悪い事をやったらこんなに儲かるんだろう――そんな風にちょっとひねくれた事を考えてみたりして。

 

 いずれにせよ、試しに調べる価値はあるかもしれない。

 

 その部屋には人が一人いた。何も置いてない壁に寄りかかりながら煙管をぷかぷか吸っている、いかにも悪そうな面構えの男だ。

 

 調べたいのだが、そのためにはあの男が邪魔くさい。ていうか、こんな所で煙管なんか吸うなよ。美術品に臭いが付くでしょうが。

 

 ――とりあえず、彼には少し眠っていてもらおうかな。

 

 ボクはそう決めるや、ドアの面に体を貼り付け、ノブを持つ。

 

 そのまま体ごと手前へ引き、一気に開放。九十度開ききったところで止める。

 

「んっ?」

 

 部屋の中から、少しびっくりしたような男の声が聞こえて来た。突然ひとりでに開いた――ように見える――ドアに驚いたのだろう。

 

 ボクはドアの裏側に隠れながら、息を殺して出方を待つ。

 

 足音が、部屋の中から廊下側(こちら)へとゆっくり近づいてくる。勝手に開いた理由を確かめるためだろう。……狙い通りの反応だ。

 

 やがて足音が、ノブのある辺りにまで到達。

 

 男は反対側の面からこちらを覗き込もうと顔を出してきた――瞬間、ボクはその口元を左手で鷲掴みにした。叫ばれないようにするためだ。

 

 「もがっ!?」左掌に湿り気を感じるとともに、男のくぐもった声が聞こえた。

 

 ボクは迅速に左手で男の爪先を踏みつけ、もう片足で重心を鋭く相手の股下へ移動させた。

 

「ごっ――――」

 

 篭った呻き声が耳に届く。踏み込みと同時に放たれた右正拳が、腹に深くめり込んだのだ。それほど力を出してはいないが、片足を踏みつけてその場に固定しているせいで衝撃を後ろへ逃せず、男は正拳の威力を余すことなくその身に受けることとなったはずだ。

 

 男はひどく強張りのけぞっていたが、すぐに魂が抜け落ちたようにガックリとうなだれ、めり込んだボクの拳に体重を預けてきた。

 

 キチンと気絶している事を確認した後、ボクは男をうつ伏せに下ろし、足側へ移動。両足首を掴んで部屋の中へと引きずり込み、静かにドアを閉じる。

 

 ぐったりとのびた男を壁際に寝かせてから、ボクはようやく探索を開始した。

 

 部屋の中をゆっくり歩きながら、飾られた美術品を見て回る。

 

 ――奥の壁近くには、バランスボールほどの大きさを誇る水晶製太極図がどっしりと置かれている。一つの石を球状に削って作ったのではなく、陰の部分をかたどった煙水晶と、陽の部分をかたどった透明水晶の二つをかっちりとはめ合わせて一つにしたモノのようだ。おまけに使われている水晶の内部には不純物やひび割れ(クラック)が一切含まれておらず、ガラス玉と見紛うほど見事に澄みきっていた。

 

 ――右の壁に掛けられた三枚の絵画は、美女を描いたものだった。精緻な筆さばきによってとてもリアルに描かれているが、リアルな絵特有の不気味さが全く感じられない。半端にリアルではなく、毛一本や肌の隅々にいたるまで精巧に描かれているため、まるで一枚の写真のようで、モデルが元々持つ魅力を最大限に引き出している。モデルが良いのか、あるいは描いた人の技巧が卓越しているのか。いや、両方か。

 

 ――左の壁には、前述の女性の絵と対をなす形で飾られた三枚の男の絵画。武器を構えて勇猛果敢に奮い立つ男――おそらく武法士だろう――の姿が毛筆で描かれていた。多くの色が使われている女の絵と違って、これは黒単色。が、それでも描き手の圧倒的な筆使いによって、奮迅する戦士の姿が緻密かつ大迫力に表現されていた。色など付けずとも、見た瞬間に脳が勝手に色を補完してしまうほどに。

 

 ――部屋の中央部には、陶製の人形が四隅の関係で配置されている。力強く槍を構えた姿の男の像、上品な正装を身にまとった美しい女の像がそれぞれ二体ずつ。どの像も例外なく服のシワなどの細部まで細かく作りこまれており、今にも動き出しそうな迫力と生命感が感じられる。腕のある職人が焼いたものであることは想像に難くない。

 

 なるほど、置いてあるものは、どれも美術品としてはかなり上等なものっぽい。鑑定眼など無いボクでも、それがとてもよく分かった。

 

 ……しかし、どれも「美しい」「超高そう」以外の感想を抱けなかった。

 

 ボクは美術品を鑑賞しに来たのではない。瓔火(インフォ)さんを探しに来たのだ。その目的につながらないのなら何の意味もないだろう。

 

 ここはハズレだ――そう断じて、(きびす)を返そうとした。

 

「……ん?」

 

 けれど、ふと気がかりな点を見つけ、ボクは足を止めた。

 

 それは――美術品の配置だ。

 

 まず、部屋の奥に置かれた太極図に着目しよう。その太極図は、陰陽魚の位置する方向が左右半々に分かれていた。陰が右、陽が左だった。

 そして、右側の壁には女の絵。それと対面する形で左側の壁に男の絵。

 

 この配置は――陰陽の理論に基づくものの可能性が非常に高い。

 

 黒い陰陽魚が寄った右側の壁に女の絵。陰陽理論において、右と女は「陰」を表す要素だ。

 そして白い陰陽魚が寄った左側の壁には、女の絵と向かい合うようにして男の絵が飾られている。左と男、どちらも「陽」を表す要素に他ならない。

 

 そう。そこまでは陰陽理論にきっちり則った位置関係だった。 

 

 しかし、部屋中央部にある四体の人形の配置だけはその限りではない。男女二(つい)のうち、奥側に横並びしている一対は左右ともに陰陽的な立ち位置を守っているが、手前に並び立つもう一対は男女の位置が左右逆だった。

 

 他は全部陰陽を守ってるはずなのに、どうしてわざわざそこだけを逆にしたんだ?

 

 それがやけに気になったためか、足がほぼ無意識のうちに人形へと歩み寄った。

 

「――あっ」

 

 ボクは思わず我が足を止めた。

 

 陰陽法則を無視した男女の陶製人形。それらの間の床に――何かを引きずったような跡が走っているのを微かに視認したのだ。

 

「……もしかして」

 

 霹靂(へきれき)のように、ある考えが舞い降りた。

 

 ――この二体を陰陽法則に則った位置に置き直せば、何かが起こるかもしれない。

 

 ……我ながら、バカバカしさを感じずにはいられない。ゲームのやりすぎにも程がある。

 

 けど、ここまで常識ハズレに大きく立派な屋敷だ。常識的思考は捨て、あらゆる可能性を疑う心も必要かもしれない。

 

 ボクはすぐに実行に移した。

 

 一対となった目の前の男女のうち、右側に置かれた男の人形に両腕を回し、そのまま足腰を立たせる。

 

 すると、刺さった何かが引き抜かれるような感触とともに、ソレは持ち上がった。中身が空洞になっているようで、重さはさほどでもなかった。

 

 ボクは足元を見る。今抱えている人形の底部からは、メロンの網目にも似た奇っ怪な模様の刻まれた直剣が真下へ伸びていた。

 さらに、先ほどこの人形が置いてあった床には、菱形を潰したような小さな隙間があった。考えるまでもない。直剣はこの隙間に納まっていたのだ。まさしく剣と鞘のように。

 

 意味も無くこんな作りにする訳が無い――そんな確信にも近い予想をしたボクは、持っていた戦士の人形を一旦床に寝かせてから、左側に置かれた女の人形も持ち上げた。やはりというべきか、それの底にも模様付きの直剣が付いていた。さっきの人形のと違う点といえば、剣身に刻まれた模様の形くらいだ。

 

 女の人形を、さっきまで男の人形が置いてあった位置に下ろす。底部の直剣が床の隙間の中にするりと納まり、陶製の美女がそこへ降り立った。

 

 さらに寝かせておいた男の人形を、空いた左側のスペースへ同じように置く(差し込む)

 

 

 

 次の瞬間、床の中から「ガコンッ!」と何かがぶつかるような音が聞こえた。

 

 

 

 かと思いきや、部屋の奥にある大型太極図の位置が、さらに奥へゆっくりと水平移動し始めた。

 

 いや、正確に言うなら、太極図が動いているのではない――その下の床が前へスライドしているのだ。

 

 床が開き始め、細い横線状の溝が空く。

 

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、と仕掛けが動くリズミカルな音が、床の奥底から響く。同時に、太極図を乗せた床の一部がさらに前へ滑っていき、細い溝が徐々に広がる。「溝」から「隙間」、そして「四角い穴」へと拡大していく。

 

 程なくして、床のスライドが止まる。

 

 見ると、奥の壁とくっつくくらいに位置がズレた太極図の前に、四角い穴が現れていた。

 

 その中には――下へ続く階段がうっすらと見える。

 

 考えていたバカバカしい仮説が、今、現実として目の前に現れていた。

 この部屋にあるもの全てを陰陽の法則通りに並び替えると、隠されていた通路が開く――そんな仮説が。

 

 ベタだ。ベタ過ぎる。どこの名作ホラーゲームの世界だ。

 

 けれど、ここまで手の込んだ仕掛けを用意してまで通路を隠すなんて、いよいよもって怪しさ満点だ。

 

 何にせよ、これで進むべき道が見えてきた。

 

 ボクが喜び勇んで隠し通路へ歩み寄ろうとした、その時。

 

 四角い穴の奥底から、解き放たれたように冷たい空気が吐き出された。

 

「――――うっ!?」

 

 その冷風に乗って、なんとも言いがたい臭気が押し寄せてきた。

 

 思わず腕で鼻を覆う。

 

 奇妙な匂いだった。まるで強烈な悪臭を誤魔化すためにいろんな種類の香水を秩序なくぶっかけたような、そんな混じり気の酷い匂い。嗅いだ瞬間、鼻の奥に刃物のごとく突き刺さり、そのショックがそのまま脳へガツンと伝播したような錯覚を覚えた。

 

 立ちくらみのように頭がクラクラしたが、すぐに持ち直し、四角い穴を見つめた。

 

 大きく口を開け、妙な匂いの混じった空気を吐き出し続けるその隠し通路は、奥が真っ暗だった。進むとすれば、何か灯りとなるものが必要だ。

 

 周囲をキョロキョロと見回し、すぐに天井から灯りを発している行灯に目が止まった。

 あれを天井から引きちぎって使おうという考えが一瞬浮かんだが、即座に却下した。そんなことをすれば、地下室を調べたという証拠が残ってしまう。万が一この奥に瓔火(インフォ)さんがいた場合、「監禁場所へ来た」という情報を残すことは絶対に避けねばならない。その情報がタンイェンに知られれば、あいつはボクが治安局へ告発することを警戒し、彼女を他の場所に移してしまう可能性がある。せっかく監禁場所を見つけたとしても、瓔火(インフォ)さんがいないとなればその状況証拠は完全に効力を失うだろう。

 

 何か、他に灯りになりそうなものは……。

 

 ボクは部屋の隅から隅まで、くまなく視線を巡らせる。

 

「……あ!」

 

 やがて、床に転がっていた「ある物」を見つけた。

 

 その「ある物」とは――さっき倒した男がくわえていた煙管。

 

 ボクはそれを拾い上げ、火皿を覗き込む。微かにだが、まだ火が残っていた。

 

 ……これを使おう。

 

 そうと決めてからのボクの行動は早かった。着ているワンピースの裾の末端を手で引き千切り、細長い一枚の布切れを作る。その片側の先端をねじって細くし、小さな種火が入った火皿へ挿し込む。数秒間その状態にしておくと、やがて焼けるような臭いが鼻をつき、布切れの先端に火が灯った。

 

 その火は、最初は線香並みに小さなものだったが、布切れという燃料を糧にしてあっという間に大きく成長した。

 

「よしっ」

 

 それを見て満足げに頷くボク。これで準備は完了だ。

 

 ボクは階段の前まで来て、一度足を止める。そして、右手に持った灯火付きの布切れを前へかざしながら――ゆっくりと降り始めた。

 

 一段、二段、三段、四段……どんどん体が地下へ沈んでいく。それに伴い、鼻を刺す臭気がさらに強まるが、奥歯を噛み締めて意識をしっかり固定する。

 

 部屋の明かりが上へ遠ざかり、周囲の闇の色が濃くなる。布切れの火で足元を照らしながら、慎重に段差を降りていく。

 

 コツリ、コツリ、コツリ、コツリ……地下という事もあってか、段差を踏む音が空間に反響する。静かに降りているはずなのに、その足音がひどく大きく聞こえる。

 

 寒さに凍えたように、肩の辺りが粟立った。

 

 怖い――我ながら情けない話だが、そう思ってしまった。

 

 ただならぬ臭気。空間を包む真っ黒な闇。その闇のせいでどこまで続くかも分からない階段。五感として伝わったそれらの情報が見事なまでに相乗効果を生み、恐怖をボクの内に発生させていた。

 

 はかなく闇を照らすこの小さな火が、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように感じられた。もしこの火が消えたらと思うと、不安でいっぱいだった。

 

 それにこの奥からは、何かとてつもなく嫌な感じがする。

 

 この先へ進んでしまったら、きっと後悔する気がする。

 

 けど、今更引き返すことなんてできない。臆病風に寒がってる暇があるなら一段でも多く下へ降りろ。ボクは自身を叱咤激励しながら、ひたすら足を動かした。

 

 やがて、次の段へ降りようとした前足が、後足を付いている段と同じ高さの床を踏んだ。階段が終わったのだ。

 

 ボクは火を前にかざし、前方の風景を明らかにする。内壁全てを平らな石材で囲まれた狭い一本道が、奥まで貫くように続いていた。途中で闇が濃くなっているため、その奥まではまだ見えない。

 

 変な臭いも含め、まるで下水道を連想させる陰気な通路だ。ていうか、ネズミとかゴキブリとか出てきそうでヤダなぁ……さっさと調査して帰ってしまおう。

 

 階段を下っていた時より少し早めの歩調で進む。道幅が狭いせいか、足音だけでなく息遣いまでよく響く。

 

 前方へ進む道が石壁に阻まれる。

 

 一瞬行き止まりかと思ったが、よく見ると、そこから左右二又の通路が続いていた。

 

 まず右側の道を進む。するとすぐに、煤けた木の扉に差し掛かった。灯りを当ててみると「製作室」と書かれた掛札があるのが見えた。

 

 一度引き返し、今度は左の道へと進んでみた。が、またもや似たような木のドアで阻まれていた。今度は「展示室」と書かれた掛札。

 

 ボクは二つある扉のうち、どっちから最初に入ろうか考えた。

 

 しばらくして、当てずっぽう的に「展示室」を選んだ。

 

 ノブを捻り、ゆっくりと「展示室」のドアを開けた。

 

 部屋に入った途端、硬いながらも微かな弾力を含んだ感触を踏んだ。見ると、床材が石から木に変わっていた。しかも一般民家のと違ってささくれ立った部分が無く、まるでフローリングのようにツルツルで光沢があった。

 

 ボクは火を高く掲げて、部屋の全貌を照らし出す。

 

 今までの地下室とは一八〇度毛色の変わった空間だった。部屋の中央部からシミが広がるようにして敷かれているのは、大きな毛皮の絨毯。その上には丸い面のテーブルと、揺り椅子が一つずつ。そして部屋の奥の壁には――人影のようなものがいくつも立ち並んでいた。

 

「――!!」

 

 電撃的な迅速さで身構える。しまった、見つかった!

 

 ……しかし、向こうの人影は棒立ちのまま、全く動こうとしない。

 

 何か変だと思ったボクは【聴気法(ちょうきほう)】を使ってみる。そして、人影の並ぶ場所に【気】の存在が皆無であると知った。

 

 ボクは胸を撫で下ろし、構えを解いた。なんだ、あれは人間じゃないのか。

 

 人形か何かだろうか――興味本位から、その人影に向かって近づいてみた。

 

 灯りを受けて、その人影の正体が顕在化した。

 

 やはりというべきか、人形である。裸体となった美女をモチーフにした人形が、壁に何体も並んでいた。

 

「って、うわ……すっごいリアル……」

 

 ボクは顔を火照らせながら、動かぬ美女たちの裸体をまじまじ凝視していた。

 

 そう、その人形たちはものすごく精巧にできていた。

 

 大まかな外見を人間の女そっくりに似せているだけでなく、唇にできた皺や、瞳の模様、皮膚の一片一片までも細かく表現させていたのだ。本物の全裸の女性が目の前に立っているかのようである。そのため、ただの人形を見ているはずなのに、妙にイケナイ気分になってくる。

 

 さっきの絵画や人形も本物のようにリアルだったが、所詮「本物のようだ」という域を出ない程度のもの。目の前の人形は「ようだ」を抜きたくなるくらい、現実じみていた。

 

 ボクは一番右端に立つ人形に目を付け、寄ってみる。

 

「……ふぁ……」

 

 その人形に、ボクの目は釘付けになった。

 

 ――目を奪われるほどに美しかった。

 

 総身すべてが、静脈がくっきり透けて見えそうなほどの白皙(はくせき)。女性として細くあるべき所は不健康に見えない程度に細く、豊かであるべき所は形良く豊富な肉付きをした、シャープさとソフトさを一身に兼ね備えたプロポーション。

 

 おっとりして優しそうな印象を受ける美貌は、聖母のような微笑みで固まっていた。ただ前だけを見つめる双眸はとても温厚そうな垂れ目。右目の下に二つ隣り合わせで並んだ泣きぼくろの存在が、熟れた女の色気を醸し出している。腰の辺りまで下りた長い髪が、「ふんわり」と膨らみをもって広がっていた。

 

 ……美しすぎて、不気味なくらいだった。

 

 もっと近づきたい。触れてみたい――ボクにそう思わせるほど、その人形の美しさは群を抜いていた。

 

 心の中の何かに導かれるまま、その人形の下腹部辺りに触れてみた。表面は硬いが、指圧を押し返してくる程度にハリと弾力があった。

 

 ていうか、なんだか妙に感触が肉質で、生々しいというか――

 

「………………え?」

 

 人形の裸体の下腹部を触る手が、ピタリと止まる。

 

 ――ちょっと待って。この感触って……?

 

 記憶の中に強い引っかかりを得たボクは、再び触れる手を動かした。今度は確かめるように、入念な手つきで。

 

 触れる。押す。撫でる。掴む。揉む。

 

 それらの作業によって得られた触覚情報をまとめて考察。

 

 結論はすぐに出た。

 

 裸体のリアルな艶めかしさに赤熱していた顔の温度が、絶対零度にまで急降下する。

 

 そして、

 

 

 

「う――――うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 

 ボクはこの上なく恐慌し、絹を裂くような叫び声を上げた。

 

 一刻も早く離れたいという情動から迅速に後ずさりしようとするが、足同士がぶつかり、尻餅を付いてしまう。

 

 ボクは恐る恐る人形の顔を見上げる。"彼女"は変わらず前だけを見つめ、慈愛に満ちた微笑みを作っていた。

 

 ――まるでその表情しか知らないかのように。

 

 四肢が、意思とは関係なく震えをきたす。血を抜かれたかのごとき寒気に襲われるが、全身は大粒の汗を吹き出すという体感温度と噛み合わない反応を示していた。歯の根も合わなくなり、眼振が止まらない。

 

 違う。

 

 人形なんかじゃない。

 

 

 

 

 

 これは――――本物の人間だ。

 

 

 

 

 

 多少硬直はしているものの、"彼女"の表面の感触は、人間の肌と全く同じだった。

 

 さらには、その異常なまでの精巧さ。

 

 「本物のようだ」ではなく、「本物」だったのだ。

 

「まさかこれ……『尸偶(しぐう)』?」

 

 ボクは震えた唇で、誰が答えるでもない疑問を口にした。ほぼ正解に等しい疑問だった。

 

 ――以前、本で読んだことがある。

 

 この【煌国(こうこく)】が建国されてまだ間もない頃。

 【煌国】の始皇帝が老衰で崩御した後。当時の皇族は、始皇帝が成し得た建国の偉業を未来永劫忘れぬためにと、その御姿をそのままの形で保存したいと考えた。そして帝都中の薬師や知識人に「始皇帝の遺体を、生前と同じ姿のまま残す方法を考えろ」と(みことのり)を出した。

 その結果、決められた薬草や毒虫などを混ぜ合わせて作った特殊な薬で防腐処理などを施し、その死体を生きていた頃と変わらぬ姿のまま保存するという方法が考案された。それによって始皇帝の亡骸は腐らず、生前と違わぬ姿かたちのままとなり、今も内廷の地下室に飾られているという。

 

 そう。その腐らない死体こそが『尸偶』だ。

 

 人の遺体を材料にして作る、いわば「死体人形」。

 

 ようやく合点がいった。「制作室」は、この『尸偶』達を作るための部屋。そしてこの「展示室」は、出来上がったそれらを飾って楽しむための部屋。

 

 あの悪臭は、死体をいじった際の臭いと、薬品の匂いとが混ざり合って生まれたものだったのだ。

 

 全てを理解した瞬間、言い知れぬ不快感と非現実感から強いめまいが起こり、ボクは左手で口元を押さえて深くうずくまった。

 

「うっ……っくっ…………!」

 

 腹の奥から焼け付くモノが勢いよく食道を逆流してきたが、渾身の気合を込め、喉でせき止める。

 

 出かけた胃酸を飲み戻した後も、嫌な感じが胸に巣食って離れなかった。

 

 ――いくらなんでも、これは変態性癖すぎる。

 

 いや、変態性癖なんて可愛く思えるレベルだ。

 

 『尸偶』作りを「製作」と称し、そしてそれを並べる行為を「展示」と呼んでいるのだ。明らかに異常だった。

 

 こんなこと、おおよそ血の通った人間に出来る行為ではない。

 

 まさしく悪魔のごとき所業だ。

 

 これを作ったのは、十中八九タンイェンだ。ここは奴の屋敷だし、何より『尸偶』を作るための薬の材料は、どれも庶民では手の届かない高価なものばかり。状況的にも財力的にも、タンイェンが明らかに真っ黒なのだ。

 

 長距離を走った後のように動悸が続く。何度も深呼吸を繰り返して、ようやくソレは落ち着いてきた。

 

 ボクは再び、恐る恐る顔を上げていく。気味悪くてもう視界の片隅にさえ入れたくなかったが、勇気と気力を振り絞って『尸偶』の女性を見上げた。

 

 "彼女"は相変わらず裸のまま、ただ前だけを見つめながら棒立ちしていた。死体のはずなのに、その浮かべている微笑みはまるで生きているかのように生々しい。それがかえってたまらなく不気味だった。

 

「っ! ……ちょっと待った。あれって……!?」

 

 ボクはようやく気づいた。気づいてしまった。

 

 "彼女"の右目の下にある、隣り合わせに並んだ二つの泣きぼくろ。

 

 その泣きぼくろが――リエシンのソレと酷似している事に。

 

 脳裏に恐ろしい予想が生まれた。

 

 まさか、この人は――――

 

 

 

「――そこまでだ、このコソ泥めが」

 

 

 

 最悪の結末を思い浮かべる一歩手前でドアが開け放たれ、吐き捨てるような声が投げかけられた。

 

 唐突に訪れた人間の声に、ボクは先ほどまで抱いていた恐怖を一度捨て置き、跳ねるように立ち上がった。構える。

 

「え……嘘……」

 

 開放されたドアの前に立つ人物を見たボクは、我が目を疑った。

 

 そこには――光を放つ行灯を片手に持った馬湯煙(マー・タンイェン)と、長身の男が立っていたのだ。

 

「そんな……眠ってるはずじゃ……!?」

 

 語るに落ちると分かっていても、そう口にせずにはいられなかった。

 

 タンイェンは嘲笑するように鼻を鳴らし、

 

「やはりあの香は『枯木逢春塔』などではなかったか。おおかた、強い催眠効果のある香をソレに似せていたのだろう。その代表的な香といえば『円寂塔』あたりかな?」

 

「まさかあんた……見抜いたっていうのか!?」

 

「見抜いたわけじゃない。――疑っただけだ」

 

 ボクは唾を飲み込み、靴底をじりっと擦り鳴らす。

 

 タンイェンは口端を垂直方向に歪ませ、続けた。

 

「床入りをギリギリで渋り、厠所(べんじょ)に行きたいからと屋敷内部を歩きたがり、果てには「これを焚いて待っててください」と自前の香を差し出す。どうだ? 少しでも疑惑の目を向ければ、自ずと魂胆が見えてくると思わないか?」

 

「……ボクは思わないよ。ちょっと疑り深過ぎるんじゃない?」

 

 内心の不安を隠すべく、軽口を叩くように言った。

 

 ボクの手元の布切れに点いた火と、タンイェンの行灯。二つの光源が同時に部屋を照らしているため、人影は二つに折り重なって見えた。

 

「それが本来の一人称か。疑り深い? 大いに結構だ。べらぼうな資産を持っていると、それ目当てに寄ってくる糞虫のような輩が絶えんのでな。資産家にとって、猜疑心は強すぎるということはない。現に今も、その猜疑心のおかげで貴様らという糞虫を駆除できるのだからな」

 

「……貴様"ら"?」

 

 その言い回しに、ボクは違和感を覚えた。だって、この屋敷に潜入したのはボク一人だけなのだから。

 

 ――そして、その違和感を解消する材料はほどなく見つかった。

 

 ボクは、付き従うようにタンイェンの隣に立った長身痩躯の男に目を向けた。ヘソ出しの詰襟。ドレッドヘアーよろしく無数の細い三つ編みに結われた長髪。左腰には太刀に酷似した細長い刀、苗刀が帯剣されていた。

 

 こいつは知っている。【甜松林】からここへ来る時に乗った馬車でタンイェンと同席していた、用心棒の男だ。

 

 ……いや、今この男はさして重要ではない。

 

 問題は、その男の右脇に抱えられている一人の少女である。

 

「リエシン!? どうしてここに!?」

 

 そう。リエシンだった。

 

 腹部に回された男の右腕の上で、まるで物干し竿に掛けられた布団よろしくだらんと垂れ下がっていた。

 

 一瞬死んでいるのかと思い焦ったが、耳を澄ますと寝息が微かに聞こえてくる。どうやら眠らされているようだ。

 

「屋敷の周りをうろちょろしてたんでなぁ、【点穴術(てんけつじゅつ)】で眠らせて捕まえたんだぁ。その口ぶりから察するにぃ、おたくら案の定グルってたわけかぁ。いやぁ、手前味噌だがやっぱ俺の【聴気法】は化物じみてるねぇ」

 

 その男は、リラックスしたように間延びした口調で言った。

 

 ボクはほぼ本能的に一歩退いた。

 

 気だるげな口調。緩い物腰。一見「ちょっと変な格好をした男」程度にしか見えないかもしれない。

 

 けれど、ボクには経験則で分かる。

 

 こいつは絶対に只者じゃない。レイフォン師匠と似た、幾多の死線や地獄をくぐり抜けてきた人間特有のおぞましい雰囲気を感じる。肌がチクチクするほどに。

 

 が、奴の手元にはリエシンがいる。今は彼女を取り返して逃げないといけない。

 

 ボクは瞬発するために足に力を溜め――ようとする前に男が声高に発した。

 

「おっとぉ、動くなよぉ? ちょっとでも反抗的な素振りを見せたらぁ、この娘っ子の首を切り落としてやるぞぉ。こいつも見た感じ武法士みたいだがぁ、グーグー眠ってちゃ【硬気功(こうきこう)】は使えんよなぁ?」

 

「……っ!」

 

 その言葉に反応し、全身を硬直させた。

 

 ――今こいつ……ボクが動き出す前に止めた……?

 

 ボクはさっき、足腰に力を溜めようという考えこそ持った。しかし、まだ体はその行動を少しも実行していなかった。

 

 つまりあの男は、ボクが動き出すことを先読みした上で「待った」をかけたのだ。

 

 背筋に怖気が立つ。やっぱり間違いない。この男――相当な手練だ。

 

 タンイェンがくつくつと喉を鳴らしながら、一歩前へ出た。

 

「さて、慧莓(フイメイ)とやら。貴様は見てはいけないモノを見てしまった。その好奇心に見合った代償を、これから存分に支払ってもらうぞ」

 

 その顔には皺を強調するように暗い影が走っていて、まるで幽鬼のようだった。


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