一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜   作:葉振藩

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解き放たれた若虎

 ――腐っているのは貴様だろうが。

 ――俺を腐っていると形容する貴様こそ、真に腐った掛け値なしの屑だ。

 ――姿かたちは見目麗しい母に似たようだが、哀れなるかな、その醜い心はロクデナシの父親から受け継いだもののようだ。

 

 タンイェンから投げつけられた痛罵の数々は、高洌惺(ガオ・リエシン)の心に今なお深く突き刺さっていた。

 

 ……全く否定出来なかった。

 

 恐ろしいくらいの正論だった。あんな大悪党の口から出たとは思えないくらいに。

 

 母を助けるため――そんな最もらしい大義を掲げれば許されるなどという思い違いに身を任せ、関係のない少女たちを引きずり込み、タチの悪い野良犬の群れの中に放り込んだ。

 

 このような行為が、自分の趣味のために大勢の娼婦を『尸偶(しぐう)』に変えた憎きタンイェンと、一体何の違いがあるというのだろう。

 

 タンイェンは外道だ。しかし、外道と罵る自分もまた外道。とんだ物笑いの種ではないか。

 

 自分の犯した愚行で傷つけたのは、李星穂(リー・シンスイ)だけにとどまらない。

 彼女の二人の友人に、本来する必要の無いはずの心配をさせてしまった。

 善良な武法士だった兄弟子たちに汚い役目を押し付け、挙句流派の面子に泥を塗ってしまった。

 そして――娘である自分がこのような無様を晒したことで、大好きな母の名誉も連鎖的に汚してしまった。

 

 もしも死んだ母が魂魄となって現れたなら、きっと自分を許さないだろう。横っ面を叩き、怒号を発し、泣き崩れるに違いない。

 

 そして今。

 大広間(ホール)の奥にある大階段の前で横たわったリエシンの眼前では、周音沈(ジョウ・インシェン)と、シンスイの連れ二人による激闘が繰り広げられていた。

 

 地割れのような巨大な溝を生み出すほどの【勁擊(けいげき)】を見せられても、一歩も退かず、果敢にインシェンへと挑みかかる二人の少女。

 最初は、インシェンによる一方的な惨殺で終わると思っていたが、二人の実力は中々のもののようで、必死に食らいついていた。

 けれども、それはまだ殺されていないというだけの話。二人の状況は、はっきり言って優勢とは言い難かった。拮抗だけが今の彼女たちの限界のようだった。そしてそれも、おそらくそう長くはもたない。

 

 あの二人がインシェンの刀の(サビ)になったら、今度は自分とシンスイの番だ。散々辱められてから薬で殺され、その骸を玩具にされる。女として、人として最も屈辱的な死に様である。

 

 自分が死ぬ分には、まだ因果応報と諦めがつくかもしれない。死んだ後、母の隣に仲良く飾られるのも悪くない。あの世では、母からこっぴどく叱られる事になるだろうが。

 

 けれど、今自分の隣にいる李星穂(リー・シンスイ)は? その仲間であるあの二人は?

 

 完全にとばっちりではないか。殺されなければいけない理由が見当たらない。

 

 そもそも、あの二人が戦っている事自体、本来ならばありえない事なのだ。彼女たちは自分が原因でこの場にいて、そして戦わされている。それは言わば、自分で汚した部屋を他人に片付けてもらっているという体たらくである。

 

 まったくもって情けない話だ。情けなすぎて涙が出てきそうだ。

 

 こんな結果しか生み出せない人間が、一丁前に(はかりごと)など実行するべきではなかったのだ。策士ですらないのに策に溺れた結末がコレである。

 

 ――姿かたちは見目麗しい母に似たようだが、哀れなるかな、その醜い心はロクデナシの父親から受け継いだもののようだ。

 

 タンイェンの台詞が、再び脳裏にこだまする。

 

 この言葉が、一番効いたかもしれなかった。

 

 父――いや、「あの男」はどうしようもないクソッタレ野郎だ。母を食い扶持稼ぎの道具としか思っておらず、気に入らなければ暴力に走るのは当たり前。中毒のように賭博にのめり込み、外では愛人を作って母の稼いだ金を貢ぎ、果てには高利貸しから金を借りて豪遊し、その借金を全て母に押し付けて雲隠れ。他人の不幸と引き換えに快楽を貪るその様は、まるで美しい花の咲く木に取り付いて栄養を奪う寄生木(やどりぎ)である。

 

 そして自分もまた、そんな父と同じことをしている。自分の目的のために、何の関係もない他人を酷な状況に無理矢理巻き込んだ。そのくせ自分は「自分の手に負えないから」と言い訳して、血と汗の一滴さえ流そうとしない。暗愚な他力本願と陋劣(ろうれつ)な利己主義。血は争えないとはこのことだ。

 

 「あの男」は自分と母を捨てた後、ある【黒幇(こくはん)】の怒りを買った末に(おもり)を付けられたまま【奐絡江(かんらくこう)】に沈められたと、風の噂で聞いた。ざまあみろ、母さんを散々虐げた罰が当たったんだ。その噂を聞いた時は胸がすく思いだった。

 

 けれど、そんな風にせせら笑った自分も、今まさに「あの男」と似たような末路をたどろうとしている。自分の犯した過ちの応報を受けようとしている。

 

 このまま自分は、「あの男」の生き写しとして死んでいくのか?

 自分でやった事の後始末一つできずに終わるのか?

 死ぬ寸前までさもしい心を抱え続けるのか?

 

 ――そんなのは嫌だった。

 

 もう遅いかもしれない。手遅れかもしれない。

 

 でも、それでも「あの男」と同じ類の人間のまま死にたくはなかった。

 

 どのみち死す運命にあるとしても、せめて人としてのケジメは付けて死にたいと思った。

 

 そう考えた瞬間、長い間消沈していたリエシンの心に火が灯った。気力を失っていた四肢にも生気が蘇る。

 

 考えた。自分は今、何をするべきなのか。どのようにしてケジメをつければいいのか。

 

 決まっている。――インシェンを倒す手伝いをすることだ。

 

 用心棒達が一人残らず倒れ伏した現在、タンイェンの手元に残った手札はインシェンのみ。最強の、しかし唯一の持ち札。

 

 インシェンをどうにかできれば、シンスイ達はこの屋敷から生きて出る事ができる。それだけじゃない。『尸偶』という連続猟奇殺人の確たる物証を頑迷な治安局に突きつけ、タンイェンを破滅に追い込む事だって可能だ。

 

 けれども所詮、言うは易しな机上の空論である。

 

 見るがいい、今の自分の姿を。両手首と両足首を、頑強な鋼鉄の枷で拘束されている。こんな動けぬ体で一体どうやってインシェンを倒そうというのか。否、仮に自由に動けたとしても、武法士として半人前以下な自分では到底太刀打ちできない。一瞬で頭部が無くなるのがオチだ。

 

 ならばどうすればいい? やはり自分に出来る事など何もないのか?

 

 そう思いかけた瞬間、一つだけ打開策になりそうな策が頭に浮かんだ。

 

 リエシンの視線は、自然と隣へ移動した。

 

 

 

 ――自分と同じ状態で拘束されたまま横たわっている、李星穂(リー・シンスイ)の姿。

 

 

 

 もしも彼女が動けるようになったら、戦えるようになったなら、もしかするとあのインシェンも打ち破ってしまうかもしれない。

 

 現在、【麻穴(まけつ)】を打たれたせいで全身が麻痺しているらしい。

 

 だが自分は【龍行把】の修行がある程度成るまでの間、身を守るための術として【点穴術(てんけつじゅつ)】も教えられていた。つまり、自分ならばシンスイの麻痺を回復させることができるということだ。

 

 猛者揃いの【黄龍賽(こうりゅうさい)】予選を突破したことは言うに及ばず、あの兄弟子(ジエン)をして、「想像以上の力量」と言わしめるほどの力を持ったこの少女が参戦すれば、インシェンを倒す事ができるかもしれない。

 

 ……どこまでも他人任せな自分が恥ずかしい。

 

 けれど、他に良い案は思いつかなかった。

 

 迷っている場合じゃない。こうしている間にも、あの二人はインシェンにじわじわと追い詰められつつあるのだ。

 

 リエシンは意を決し、こちらに背中を見せたまま横たわるシンスイへ目を向けた。

 

 ――まずはシンスイにかけられた【麻穴】を解くための経穴を見つけなければならない。

 

 経穴とは、刺激を与えると人体に影響を与える点状の部位。突く力の強弱や鋭さによって、その人に健康も大病も与えられる。

 経穴は必ずしも一定の位置には留まらない。その時の時間帯、季節などによって、まるで星座のように位置が変わるものが多い。

 そして星と同様、経穴の位置移動にも法則が存在する。【点穴術】の修行者は数種類の経穴の移動法則を師から学び、そこの突き方、その経穴の効果の解き方などを教わるのだ。

 

 【点穴術】とは、いわば人体の天文学。そしてその技術は武法だけでなく、医療でも必須の技能として用いられている。

 

 ……自分が【点穴術】のある【龍行把】を選んだのは、医学を学ぶという夢に対して心の何処かで未練を抱いていたからかもしれない。

 

 滑稽な話だ。「夢なんてくだらない」などとシンスイに偉そうに言っておきながら、自分が夢から離れきれていないのだから。

 

 しかし、同時に幸運だ。シンスイを【麻穴】の鎖から解き放てるのだから。

 

 リエシンはこの大広間(ホール)と外を繋ぐ両開き扉へ目を向ける。立派な装飾の施されたその扉は、先ほどのインシェンの斬撃によって無惨に粉砕されていた。けれど、そこから外の様子と夜空が見える。

 

 その夜闇の濃さから、大まかな時間帯を予測。そしてそこへ現在の季節の情報を合わせ、経穴の場所を考える。

 

 ――見つけた。

 

 打つべき部位は、命門(めいもん)――ヘソの真後ろに位置する背中の経穴――の、左隣。

 

 そこを打てたなら、シンスイを蝕む【麻穴】の効力は消え、動けるようになる。両手両足に硬くはめられた枷も、彼女の馬鹿力ならば引き千切る事も不可能ではないはずだ。

 

 ちょうど良いことに、シンスイは今背中を見せていた。

 

 あとは、突くだけ。

 

 後ろ手に手枷をはめられているこの状態では、指で突く事はできない。

 

 ……手がダメならば、足で突くしかない。

 

 両足首も枷で固定されているが、それでも足を伸ばしたり引っ込めたりする程度は可能。爪先を尖らせ、足で突くのだ。

 

 シンスイのすぐ近くにはタンイェンがずんぐりと立っている。だが幸いにも、インシェンの善戦を気を良くしながら凝視しているようで、こっちには見向きもしていない様子。よほど派手な事をしない限り、こちらの動きに気づくことはないだろう。

 

 ――やるならば、注意が逸れている今しかない。

 

 身をよじらせ、両足をシンスイの背中へ向ける。両膝を抱え込み、蹴り出しの準備。

 

 準備を整えたリエシンは、語りかけるように心の中で念じた。

 

 全て私の蒔いた種だって事は分かってる。

 貴女に何かをお願いする資格がない事は分かってる。

 でも、このままじゃあの二人は、ほぼ確実にインシェンに斬り殺されることになる。

 お願い。あの二人を助けてあげて。

 

 

 

 

 

 そしてリエシンは――――爪先を突き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………!」

 

 浅い呼吸を刻みながら、紅蜜楓(ホン・ミーフォン)は鉄製の棍を中段で構えていた。

 

 隣に立つライライから聞こえてくる呼吸音も、吸気と吐気の間隔が短い。

 

 しきりに肩が上下しているせいで浮沈を繰り返す棍の先端。その延長線上には、インシェンが佇んでいた。

 

 長期に渡る苦戦で消耗した自分とライライとは正反対に、あの男はまだまだ余裕がある様子。

 

「……なぁんだか飽きてきたなぁ。必死に食らいついてくるのは良いんだがぁ、それでも俺が攻めてる回数の方が多いんだよなぁ」

 

 それどころか、退屈そうに黒刃の(みね)で肩を叩いてすらいた。

 

「やっぱ死合ってなぁ、攻めつ守りつの状態を繰り返すのが面白ぇし燃えるもんだぁ。だが攻め手の割合ばかりが増えちゃぁ、一方的ななぶり殺しと変わらねぇよぉ。そんな展開がぁ一番つまらねぇ」

 

 言いたい放題言ってくれる。

 

 けれども、その台詞には説得力があり過ぎた。

 

 ――強すぎる。

 

 ミーフォンの全身を、電気のように焦燥感が駆け巡る。呼吸の乱れがさらに激しくなった気がした。

 

 断言できる。この男、今まで戦った相手の中で三つの指に入るくらい強い。

 

 あらゆる攻撃を始まる前に避けられてしまう。どれほど質の高い技を使おうとしても、それら全てが空を切る、あるいは機先を制され潰されるという結果で終わった。そのくせ、向こうは非常に洗練された技の数々で無遠慮に猛攻してくる。まさしく防戦一方だった。

 

 自分を弱い者呼ばわりするのは屈辱だが、インシェンの言うとおり、これでは弱いものいじめと変わらない気がした。

 

「まぁ、贅沢は言いっこなしかぁ。俺ぁ旦那の用心棒ん中じゃぁ一番高い金もらってんだぁ。期待されてる分、お小遣い分の仕事はせにゃぁなぁ。つぅわけで、予定通りその首頂戴するぜお嬢ちゃん方ぁ」

 

 片足を退かせ、耳元で苗刀を並行に構えるインシェン。

 

 ミーフォンとライライは沸き立つ殺気に反応し、息継ぎさえ忘れて身構えた。

 

 まもなくしてインシェンが鋭く進歩。急速に彼我の距離が狭まった。

 

 鉄棍を横薙ぎしてやろう――そう考えた瞬間、インシェンの走る速度が急激に上昇。また得意の【聴気法(ちょうきほう)】でこちらの攻撃の意思を読んだのだろう。こちらの一手を始まる前に潰す気だ。

 

 長い間合いを最大限に活かした鉄棍のひと振りが走ったその時には、すでに敵の姿がミーフォンの懐のすぐ前へと到達していた。棍の遠心力が弱まるくらい間合いの中へ入られた上、すぐにでも刺突を繰り出せる状態だ。

 

 ――が、横薙ぎが直撃する寸前、ミーフォンは電光石火の速さで鉄棍を手前へ引っ込めた。そして胸近くまで戻ってきた棍先を、こちらへ接近しているインシェンへ真っ直ぐ向けた。

 

「っ!」

 

 変則的な棍の間合いの変化に、こちらと正対する金眼が見開かれる(見えないが)。

 

 いける。ミーフォンは駆け引きの成功を確信しつつ、インシェンの鳩尾を貫く気持ちで突きかかった。

 

 しかし、インシェンの黒刃もすぐに疾走。その剣尖が鉄棍の先端と激突した。

 

「うっ……!?」

 

 刺突による衝撃が武器を通して手根へ響き、梵鐘のように骨が震えた。同時に、余った勢いによって真後ろへ弾かれた。

 

 ――嘘っ、こんな防ぎ方ってある……!?

 

 反撃の可能性を覆したインシェンの防御に、ミーフォンは驚愕を禁じ得なかった。鉄棍の先端という小さな的に剣尖を正確にぶつける技巧。そしてそれを土壇場で平然とやってのける胆力。危険な世界に慣れているがゆえの妙技と豪胆さだと思った。

 

 しかし驚いている場合ではない。刺突の勢いに流されて体の自由が効かなくなっている今の自分は、隙だらけもいいところだ。そしてインシェンもそこを狙うべく、再び鋭く運足を開始。

 

 自分の立ち位置が黒刃の射程圏内に食われる前に、ミーフォンは行動を起こした。鉄棍の先端を後ろの床へつっかえ棒よろしく突き立ててから、先ほど弾かれた勢いに乗る形で真後ろへ跳躍。そのまま床に突き立てられた鉄棍に体重を預けながら、大きく放物線を描いて後ろへ飛んだ。

 

 放物線の頂点にまで達する。浮遊したミーフォンの眼下では、袈裟斬りを空振ったインシェンの姿が見えた。

 

 そして空振りの時に出来た僅かな隙を狙う形で、横合いからライライが肉薄する。蹴り足の膝を抱え込むように上げていた。

 

 インシェンはそれを斬り捨てようと、下段に降りている黒刃に動きを与えた。

 

「させないっ!」

 

 ミーフォンは太腿に納めていた匕首(ひしゅ)を抜き、それを投げつけた。銀色の軌跡を残しながら、敵へと急激に吸い込まれていく。

 

 当然、インシェンは黒刃でそれを叩き落とす。しかし、その対応はそのままライライに付け入る暇を与えるに至った。

 

 肌がむき出しの下腹部へ爪先が直撃。衝撃が爆発した。インシェンが床に足を付いたまま後方へと滑る。

 

 一見手応えがあったように見えるが、当のライライは眉をひそめていた。

 

 そして着地後、ミーフォンもまた同じような顔をする事になった。

 

「……やれやれぇ、もうちょっと反応が遅れてたら危なかったぜぇ」

 

 “青白い火花“が微かに走る腹部をさすりながら、インシェンはしみじみと呟く。――やはり【硬気功(こうきこう)】で防いでいたか。

 

「よく粘っちゃぁいるが、いい加減息も絶え絶えみてぇだなぁ。このままやり続けても、精神的にキツかろぉさぁ。このまま苦しめるのはぁ悪党の俺でも忍びねぇ。だから二人掛かりとはいえぇ、この俺相手に十分以上持ちこたえた事に敬意を評して――即死にしてやるよぉ」

 

 瞬間、インシェンの臍下丹田に青白色の光が集まっていき、光の塊が出来上がった。【気】を溜めたのだ。

 

 「即死にしてやる」という台詞から察するに、おそらく高威力の技を使ってくるのだろう。ならば、今溜めた【気】で使うのはほぼ確実に【炸丹(さくたん)】。

 

 ミーフォンは【烏龍盤打(うりゅうばんだ)】で出来上がった大きな裂け目を見やってから、血の気が引いた。あれに【炸丹】が加わったらと考えただけでゾッとする。

 

 インシェンは腰を落とす。背中の半分が見えるくらいに腰を絞り、黒刃を背後に構えた。

 

 やがて、回転しながら加速。

 

 黒いつむじ風を周囲に纏い、こちらへ急迫してきた。

 

 ミーフォンは思い切り床を蹴り、大きく後退。約半秒後、直前まで立っていた位置を漆黒の太刀筋が飲み込んだ。

 

 しかし、インシェンの攻め手は休まらない。旋回速度をさらに上げ、再び距離を縮めてくる。ほとんど間隙の見られない回転斬りのせいで、ライライもうかつに手出し出来ない様子。

 

 腹部に風圧を感じる。黒い殺人旋風が、今まさに接触しようとしていた。

 

 それに当たるまいと、ミーフォンは再び後ろへ跳んだ。間一髪、斬閃の間合いから遠ざかり、事無きを得る。

 

 ――しかし次の瞬間、その対応がインシェンの思う壺であった事を身をもって思い知る。

 

 インシェンの溜めていた【気】が、稲妻の落下地点のように弾けた。腰と(こかんせつ)を回す轆轤勁(ろくろけい)から、体全体をねじり込む纏絲勁(てんしけい)に変化。遠心力を直進に変える要領で、一直線に剣尖を飛ばしてきたのだ。

 

 【炸丹】によって強化された【勁撃(けいげき)】の刺突。腕の長さも加わり、回転斬りよりも大きな間合いで突き進む。ミーフォンに余裕で届く長さだ。さらに、跳躍したことで虚空を舞っている今のミーフォンは、自分から動くことができない。つまり、良い的であるということだ。

 

 ミーフォンは刺突の来るおおよその位置を確認し、即座に鉄棍を構える。正直、防げるかどうかは博打だが、何もしないよりはマシだった。

 

 そして、幸運は訪れた。剣尖は、構えられた鉄棍の真ん中に激突。身体に刺さらずに済んだ。

 

 ――しかし、受け止めきれるかどうかとはまた別問題だった。

 

 刺突に込められた勢いに身を委ねた瞬間、インシェンの姿が急激に小さくなった(・・・・・・)

 

「がはっ――!!?」

 

 不意に、背中全体にとんでもない激痛が襲った。まるで高所から叩き落とされたかのような強烈な衝撃に、腹の中の空気が一欠片残さず絞り出される。

 

 インシェンの姿の圧縮が止まっている。そして、背中には平べったい感触。それらの情報から、吹っ飛ばされて壁に激突した事を悟る。

 

「う……っ」

 

 ミーフォンは呻きをもらす。激突の余韻が今なお身体中に残響していた。身じろぎするのにも痛みを伴う。普通の人間だったなら粉砕骨折だけじゃ済まなかっただろう。

 

 目玉だけ動かし、手元の鉄棍を見る。刺突を受け止めた箇所が深く潰れており、その一点から見事にひん曲がっていた。これではもう使い物にならない。

 

 小さくなっていたインシェンの姿が再び大きくなっていく。こちらに近づいているのだ。

 

 このままではマズイと思い体を起こそうとするが、少し動いただけでも全身が痛みという名の悲鳴を上げる。それによって体が本能的に硬直し、起きかけていた体勢が崩れた。

 

 そうしている間にも、インシェンとの間隔がさらに狭くなる。おそらく、あと二秒ほどで黒刃の射程内に入るだろう。

 

 豹を思わせるしなやかな瞬発力で駆けるインシェンの横合いから、ライライが飛び出す。進む方向に回し蹴りを先回りさせ、走行を妨害しようとした。

 

「あぁらよっとぉ!!」

 

 しかし、インシェンは止まらなかった。止まるどころか、走行の勢いをほとんど殺さぬまま回転。その状態を維持したまま腰を急激に沈下させ、向かい側から飛んできた蹴りの下をくぐり抜けた。

 

 回し蹴りが頭上を通過するや、再び回転しながら腰を上げる。そしてすぐさま、回転の力を利用した峰打ちをライライの脇腹に叩き込んだ。黒い横線がゆったりした生地の奥へ食い込む。

 

「が――!?」

 

 彼女は表情で苦悶を訴えると、すぐに後方へと弾き飛ばされた。胎児のような姿勢のまま床を大きく滑る。

 

 インシェンはさらに鋭く歩を進める。疾る。間隔を狭める。

 

 そして、とうとう黒刃の間合いの内にミーフォンを含んでしまった。

 

 漁師の投げた網にかかった魚の気分を味わった。

 

「安心しなぁ、痛みはねぇ! 一瞬で首ぃはね飛ばすから「パッ」と逝けるぜぇ!」

 

 その言葉に呼応したように、漆黒の刀身がギラリと輝く。不気味なほど鮮明で、美しい虹色の反射光が顔に突き刺さった。

 

 ――その時、ミーフォンの脳裏に数多の映像が押し寄せた。

 物心ついた時には、(ホン)家の娘として【太極炮捶(たいきょくほうすい)】をやらされていた事。

 友達の盗みを告発したことで、仲違いしてしまった事。

 出来の良い姉に強い劣等感を抱き、苦しんだ事。

 その苦しみを少しでも和らげるために、驕り高ぶった事。

 その驕りを李星穂(リー・シンスイ)に真っ向から打ち砕かれ、それと同時に彼女に惚れ込んだ事。

 

 これまで「紅蜜楓(ホン・ミーフォン)」として生きてきた記憶が数珠のように一繋ぎとなり、脳裏を高速で通過していく。その速度は、徐々に首元へと近づいている黒刃よりもずっと速かった。

 

 これが走馬灯ってやつなのね――ミーフォンは驚くほど冷静にそう考えた。

 

 走馬灯の後には死が訪れるのが法則(セオリー)

 

 その死をもたらす漆黒の刀身は、首の薄皮一枚の距離まで到達。

 

 やがて――

 

 

 

 

 

 首元から急激に(・・・・・・・)遠ざかった(・・・・・)

 

 

 

 

 

 その事に驚く前に、甲高い金属音が鳴り響いた。

 

 そして驚いた時には、一本の柳葉刀が宙高く舞っていた。

 

 そして驚いた後、自分がまだ死んでいない事にようやく気がついた。

 

「――え?」

 

 ミーフォンは呆けた顔で、呆けた声をもらした。

 

 眼前のインシェンは苗刀を背後に構えながら、心底楽しそうに破顔させていた。

 

「…………へぇ?あんだけ厳重な拘束から抜け出すたぁ、一体どんな手品を使ったんだぃ?」

 

 その言葉の終わりと同時に、宙を舞っていた柳葉刀が床にカツゥン、と落下した。

 

 その音に導かれるように、視線がインシェンの向こう側へ向いた。

 

「……あ…………!!」

 

 ミーフォンの瞳が大きく開かれた。

 

 両目の奥から、否応無しに涙がにじみ出てくる。

 

 視線の遥か先には、一人の少女の姿。

 

 大きな瞳が眩しい、大輪の花を思わせる美貌。毛先辺りがふわふわと広がった、長く美しい髪。薄手の連衣裙(ワンピース)から伸びた、細くしなやかな四肢。手首足首にはまった分厚い鉄輪。

 

 いつもと全く違った装いでこそあるものの、自分が慕う「彼女」そのものである事は疑いようもなかった。

 

 

 

 

 

「――手品じゃないよ。誰かさんが反省した結果だ」

 

 

 

 

 

 視線の先の少女は、ミーフォンの期待通りの声を出してくれた。

 

 瞬間、眼に溜まっていた涙が一気に決壊した。

 

「…………お姉様っ!!」

 

 気がついた時には、そう呼びかけていた。

 

 こちらの姿を見て、その少女――李星穂(リー・シンスイ)は安堵の表情を浮かべた。

 

「……良かった、二人とも生きてる。何とか間に合ったみたいだね」

 

「はい……!でも、どうやって拘束を解いたんですか?」

 

「リエシンが【麻穴】を解いてくれたんだ。その後は【炸丹】で体の内側から外に力を発して、手足の枷を無理矢理引きちぎった」

 

 ほら見て、と手首足首をぶらつかせ、分かたれた二対の鉄枷を見せびらかすシンスイ。

 

 あの頑強そうな枷をそんな方法で断ち切った事も面白い。だが、ミーフォンがそれ以上に驚きを隠せないのは……

 

「……助けたんですか? あのアバズレが? お姉様を?」

 

「まあ……信じられないかもしれないけど、そうなんだよ」

 

 シンスイは苦笑混じりに答える。

 

 部屋の奥の大階段前に寝転がっているリエシンに思わず目を向けた。手足を枷で繋がれたリエシンはこちらからの視線を受けると、気まずそうに顔を背けた。

 

 正直信じらんないけど、お姉様がそう言うのならきっと本当なんだわ――ミーフォンはそう思うことにした。……無論、それだけで許してやろうなどとは微塵も思わないが。

 

 シンスイは裕然と、それでいて迷いのない足取りでこちらへ歩き出した。

 

「二人とも、お疲れ様。あとは――全部ボクの手で終わらせるから」

 

 言うや、シンスイはちょうど足元に落ちていた方天戟(ほうてんげき)――先ほど蹴散らした敵の一人が落としたものだろう――の柄尻を踏みつける。全長約180厘米(りんまい)に及ぶ長大な武器は回転しながら真上に跳ね、彼女はそれを宙で掴み取った。

 

 自分の背丈より長い方天戟を器用に頭上で回し、そこから流れるように中段の構えとなった。

 

「……へえ。中々良いモノじゃないか。さすがはお金持ち」

 

 手元の武器を品定めし、不敵に微笑むシンスイ。

 

 彼女の表情を見て、ミーフォンは心の底から嬉しく感じた。

 

 ――そのお顔、久しぶりに見た気がします。お姉様。

 

 真剣味を帯びつつも、武法に関わる事への喜びを忘れていない表情。自分は、こんな彼女の顔が好きだった。

 

 それを再び見れた。

 

 そう考えると、【吉火証(きっかしょう)】探しにがむしゃらに奔走したことが報われたように思えた。

 

 インシェンは踵を返し、シンスイの方を向いた。

 

「……いやぁ、嬉しいねぇ。実はお兄さんなぁ、おたくと一番殺り合ってみたかったんだぁ。地下室で見た時から、ずっとタダモンじゃねぇと思ってたぜぇ?」

 

「やめた方がいいんじゃない? ボクはまだ手の内を見せてない上に、アンタの【聴気法】の秘密聞いちゃってるし。そっちが不利になるんじゃないかな」

 

「タネが割れてるから簡単に解決できる……そんな甘い能力じゃねぇぞぉ?」

 

「……なるほど。退いてはくれないって事でいいんだね」

 

 シンスイは稲光のような速度で槍先を引き、肩口の辺りで担ぐように構えた。

 

「それじゃあ――遠慮無く行くよ。アンタは結構危ない相手だから、今回ばかりはボクも出し渋りは無しでいく。せいぜい死なないように努力してね」

 


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