一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜 作:葉振藩
かくして始まった決勝戦。
相手は【太上老君(たいじょうろうくん)】。【道王山(どうおうさん)】という大流派の中で最高位の力を誇る極め付けの人物。
それでも、李星穂(リー・シンスイ)は、迷わず真正面から突っ込んだ。
劉随冷(リウ・スイルン)の使う【太極把(たいきょくは)】は、受け身に特化した武法。いかなる強大な「陽」も、術理の力のみで「陰」に帰し、無力化する。超攻撃型の【打雷把(だらいは)】とはまさに対極の技。
「最強の矛」と「最硬の盾」の衝突。それがこの決勝戦の本質であった。
だが、矛盾はあり得ない。勝者と敗者に分かれるのが必然。
自らが勝者となるべく、二人は力を尽くす。
大地を揺るがす震脚を伴ったシンスイの正拳。基本だが必倒の威力を誇る【衝捶(しょうすい)】である。
だがスイルンには、卓越した分析力、計算力から少し未来の攻撃軌道を観る【看穿勁(かんせんけい)】がある。なのでシンスイのその一撃を躱すことは容易かった。少し横へズレただけで、剛槍のごとき突きは空気を穿つ。
しかしながら、その【看穿勁】の能力を、シンスイもまた織り込み済みだった。だからこそ、息つく暇もなく攻撃を連打させた。
【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】、【拗歩旋捶(ようほせんすい)】、【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】、【迅雷不及掩耳(じんらいふきゅうえんじ)】……慣れ親しんだ技を矢継ぎ早に繰り出す。ここ一ヶ月の特訓の成果もあって、それらの技がすんなりと体から出た。
スイルンの未来視をもってすれば、いくら素早く連打しようとも、所詮は予定調和。回避は造作もない。
シンスイもそれを踏まえて連打していた。
なぜなら、この連打の目的は、攻撃ではないからだ。
「っ」
スイルンが、その無表情な顔をピクリと震わせる。
その背後には、壁。
壁が背にあれば、逃げる場所は左右に限定される。
さらにシンスイは両腕を開いたまま、渾身の体当たり【硬貼(こうてん)】を仕掛けた。この技は肩だけでなく、胸や背中でも打てる。仮に横へ逃れても、開いた両手で掴んでやるつもりだった。
「残念。今一歩」
だが、【硬貼】が当たる直前に、スイルンの姿が消えた。城砦さえ揺るがす体当たりが壁を打つ。壁面に小さくヒビが入った。
いや、消えたのではない。
スイルンは、シンスイを飛び越えて背後に着地したのだ。
だが、これも想定の範囲内。シンスイは一切まごつくことなく次の行動に移った。素早い震脚で一歩退くのに合わせて【移山頂肘】。
その肘打ちにスルリ、とスイルンの手が絡みつき、螺旋を描く。瞬間、肘一点に集中していた勁の指向性が紐のようにほどけ、霧散した。受け流されたのだ。
そのままシンスイの懐へ潜り込み、蝶の羽のようにつがった両掌で打とうとしてきた。両掌という大きな面で打ち込まれれば、その衝撃は体内へ浸透する。
危険と判断したシンスイは、両掌が直撃する寸前を狙って一気に腰と足底をひねった。
その強引なひねりによってシンスイの重心が崩れ、体が傾いた。だが、両掌の衝突は間一髪避けることはできた。
倒れる前に手で受け身を取って、空中で転がるように回ってから立ち上がる。
「やっぱり、そう簡単にはいかないか」
シンスイは苦笑混じりに呟いた。
やはりこの相手に小細工は通じにくい。
それでも、まだいくつか手はある。
互いの間合いが再びぶつかった途端、シンスイは拳ではなく、手を伸ばした。相手に掴みかかるためだ。
しかし、どれもスイルンからは観えているため、放った手のことごとくが空気を掴まされる。
だがシンスイも、闇雲に手を伸ばしているわけではなかった。
右手を避けるために、スイルンはシンスイから見て右へ体の位置をズラす。
シンスイは、今度はその右手で彼女の髪を掴もうとする。それも後ろへ下がって避けられる。
さらにそんなスイルンの頭部に左手を伸ばした。スイルンは頭の位置を下げて回避。
そこへ、シンスイは右手を素早く出しスイルンの左腕を掴んだ。
——何度も手を伸ばすことで自分の望んだ場所へと敵を誘導し、その瞬間に本気で掴みかかる。それがシンスイの作戦だった。
さらに、相手に掴まれた状態では、いくら未来を読めたって効果が半減する。
しかし。
「相手を掴んだということは、己も掴まれたということを意味する」
スイルンが言いながら、全身を動かした。
途端、全身の「力の流れ」を掌握された。背丈で勝るはずのシンスイの体が、幼子のような手によって紙のように操られる。
そのまま、制圧されそうになる。
「逆もまたしかり、だよ!」
だがシンスイは自分の動きを、スイルンの「力の流れ」になぞる形で動かした。
両者の流れが同調し、やがてその主導権をシンスイが握った。
そして、力の流れを思いっきり外側へ放り出した。スイルンの小さな体がそれに流された。
「っ!」
スイルンが、珍しく驚いた顔を見せる。
してやったり、という気分にさせられる。
彼女が力の流れを支配して、シンスイを動けなくしようとするであろうことはすでに「織り込み済み」だ。
力の流れを支配して相手を制圧する。それを実現するには、【筋(きん)】の優れた柔軟性が必要だ。
なら、その柔の技法についていくには、自分もまた体を柔らかくすれば良い。
シンスイがここ一ヶ月の間に特に力を入れた修行の一つが、その柔軟性の向上だった。相手の力に合わせて自分の体を動かす訓練も徹底的にやった。
全ては、スイルンの柔法に対抗するため。
無論、それがそのまま勝利に直結するわけではない。けれど、相手の持ち札を封じることには繋がる。それが、勝利への道となる。
シンスイはスイルンを見据え、言った。
「それなりの対策は取ってきたってことさ」
「そう」
そう返事しただけで、止まったままというスイルンの基本戦法は変わらない。
——それが【太極把】に流儀だからだ。
スイルンは【道王山】の頂点、【太上老君】。
立場上、【道王山】の教えを最も墨守しないといけない。
だからこそ、この「攻めを含んだ守勢」は崩さない。
シンスイが近寄り、震脚と肘を先んじて出してくる。【移山頂肘】。
スイルンはシンスイの横へと足を運び、肘打ちを素通りする。そのまま、目の前にあるシンスイの背中へ掌底を打ち込もうとした。
その掌底の直撃する寸前、シンスイは回りながら跳ねた。敵の位置がズレ、掌底が空を切る。
シンスイの回転に従って片脚が円弧を描き、スイルンへと猛然と迫った。
スイルンは顔を引いた。蹴り足が通り過ぎる——と思いきや、シンスイがもう片足を大地につけて強引に遠心力をねじ伏せて蹴り足を止めた。さらに軸足を跳ねさせてスイルンへ迫り、浮いた蹴り足でもう一度蹴りかかってきた。靴裏が鋭く直進する。
スイルンは横へ動いて避ける。しかし次の瞬間、即座に踏み替えて振り放たれたシンスイの回し蹴りが、スイルンの二の腕をしたたかにとらえた。
「……っ」
じんっ、と、衝撃が体の芯に伝播する。
その変幻自在な蹴り技に、スイルンは二度目の驚愕を味わった。
こちらの反応を利用された。
確かに未来は「観えて」いた。だが自分がシンスイの足裏蹴りを避けるべく横へ動いた瞬間、まるでそれを待っていたかのように即座に回し蹴りが飛んできたのだ。スイルンが退く方向から飛んできたため、とっさにうまく動くことが出来ず、それを甘んじて受けることになった。
——【縫天脚(ほうてんきゃく)】。【打雷把】の緻密な足の操作技術を最大限に活かして放たれる「必ず当たる蹴り」。
たたらを踏むスイルン。その隙を見逃さず、シンスイが身を寄せつつの【衝捶】へ繋げた。
スイルンはやってきた拳の側面に掌をぶつけ、拳を真横に弾く。
だが、拳を弾いたと思ったら、今度は肩を先に突っ込んできた。……その体当たり【硬貼】が持つ性質は【衝捶】と同じく、「自重を使った突撃」。つまり、拳を出している途中に払われても、肩口を使った【硬貼】へ繋げられる。
当たる——そう悟ったスイルンは回避を諦め、足を緩めた。両手で体当たりを受け止め、吹っ飛んだ。
馬鹿げた衝撃が体を突き抜ける。しかし、足をゆるめて流れに身を任せたため、それほど損傷にはなっていない。背中に【硬気功】をほどこし、壁の激突による衝撃から身を守った。
シンスイが虎のような俊敏さでこちらに近づいてくる。こちらが倒れるまで手を休めない気だ。
スイルンはすぐに体勢を立て直した。
もうこれ以上、隙を見せてはならない。【看穿勁(かんせんけい)】による未来視がある以上、シンスイは「未来が見えてもどうしようもない状況」を集中的に狙ってくることだろうし、その状況へ自分を追い込もうとしてくるはずだ。それを阻止しつつ主導権を握り、勝ちを得る。
シンスイは強烈な震脚を伴った勁撃を拳、肘、肩、背中と、あらゆる部位で連続させてくる。
【看穿勁】の未来視にしたがって回避しつつ、反撃に出るスイルン。だがシンスイはその巧みな足さばきを利用して細かく体の位置を移動させ、ことごとくスイルンの反撃を回避。また連続勁撃を繰り返す。
同じところをぐるぐる回るように、目まぐるしく、激しく立ち位置を入れ替える二人。何度も一定の箇所に震脚が繰り返され、闘技場の床の石材にヒビが入る。
一瞬たりとも気の抜けないやり取りだった。先に気を抜いた方が瓦解する。そんな緻密な攻防。
先に気を抜いたのは、シンスイだった。
「うわ……!?」
震脚で砕け、転がった石片。それを踏んだ拍子に石片が床を滑ってしまい、重心が崩れた。
スイルンの武法士としての本能が、そこを打てと五体を動かした。
だが、右掌底に勁力を乗せる踏み出しが完了しようとしていたまさにその瞬間、スイルンの理性が電撃的な警鐘を鳴らした。
——シンスイは、底面の広大な神殿のごとく盤石な重心を持った武法士である。そんな彼女が、あんなちっぽけな石で足を滑らせるなんて考えにくい。
罠だと気付いた時には、掌底で伸ばした右腕にシンスイの左手が掴みかかっていた。その後、シンスイはすぐに足の踏ん張りで滑りを止め、スイルンの懐深くへ歩を進め、その動きに右肘を付随させた。【移山頂肘】。
スイルンは覚悟を決めた。飛び跳ねながら両膝を胸まで持ち上げ、やってきた肘をその又で受け止めた。両の太ももで受けた衝撃が背中まで波及するのを感じた瞬間、スイルンの軽い体が飛んだ。
受け身を取って立つ。起きてすぐ、追いすがってきたシンスイの姿を視界に大きく捉える。
蹴りが鋭く疾る。スイルンは未来視にしたがってソレを避けるが、すぐにまた次の未来軌道が脳裏に浮かび、それも躱す。また次が浮かび、それも躱す。
水のごとく変幻自在に、蛇のごとく執拗に食らいつかんとしてくるシンスイの蹴り。巧妙極まる脚法【縫天脚】である。
このままではジリ貧だとわかっているが、この蹴りはまるで蜘蛛の糸のように、しつこく、しつこく、しつこくスイルンを襲う。
受け流そうともするが、この蹴りの動きは非常に巧妙で、受け流そうとするスイルンの手法すらも巧みにかいくぐって、新たな蹴りを打ち込んでくる。
そして——いつかはさばききれずに当たる。
「ぐっ……」
二の腕を蹴られた反動で流されるスイルン。その反動が働いている間にシンスイは距離を詰め、身を寄せながらの【移山頂肘】を仕掛けてくる。
その未来は見えていた。しかし避けられない! 足もまだおぼつかない。手だけが唯一思い通りに動く。
なので、一番威力の乗った肘先ではなく、その肘の上腕部に掌を滑らせた。
途端、竜巻に巻き込まれたような圧力が全身を巻き込み、スイルンの体が高速でもんどりを打った。ものすごい速度で回る世界をしばらく眺めた後、地面に手を付き、体の回転力に任せて身を転がした。ものすごい勢いでシンスイとの距離が出来上がる。
受け身を取りつつ、スイルンは考える。
このままでは負ける。
【太極把】が、自身の知る限り最高の武法であるとは思っているし、信じている。
だが、シンスイはその特徴を知った上で、その対策をしてきている。
どんな大国であれ、侮りや驕りは最悪の毒だ。その毒に冒され、取るに足らないと見下していた弱国に滅ぼされたという話は、歴史上、枚挙にいとまがない。
ここで対策を講じないことは、怠慢である。
ならばどうするか?
「守勢からの絶対的攻勢」を主義とした【太極把】の考え方を、技術の根底が歪まない程度に変化させる。……つまり、相手からの攻撃は待たず、こちらから攻めていく。
それは【太上老君】として褒められた行いでないことを、スイルンは自覚していた。しかし、主義を多少歪めなければ勝てぬ勝負もあるだろう。
それに【太極把】の技術をもってすれば、攻撃力も高められることをスイルンは分かっていた。最硬の盾は、最強の鈍器にもなり得る。
スイルンは気持ちを変化させた。——討つべきは、相手の攻撃ではない。相手そのものだ。
(……なんだ? スイルンの構え方が変わったぞ?)
シンスイもまた、そんな敵の不可視の変化を敏感に感じ取っていた。
スイルンが動き出した。その小柄な体が、滑るように懐深くへ入ってくる。
シンスイは、そんなスイルンの入り身に反応出来なかった——否、反応することが許されなかった。スイルンには、自分へ迫る未来の攻撃軌道が見えるのだ。もし攻撃すれば受けられるどころか、自分に隙を作るキッカケになりかねない。
水平に滑るような足さばきで体重を移し、その流れに掌の動きを同調させて放たれた掌打。シンスイは【打雷把】お得意に緻密な歩法を用いて、必要最小限の動きで回避した。そのまま動かず、スイルンの背中が目の前に流れてくるのを待ち、そこへ【衝捶】を入れようとした。
だがその正拳突きは外れた。スイルンが軸足をしなやかに屈し、体を前のめりに倒すことで【衝捶】の真下をくぐったのだ。スイルンの小柄さを活かした避け方であった。
次の瞬間、スイルンの体がまるで地面を弾んだ鞠にように急反発して跳ね上がり、回転しながら虚空に浮く。その回転力を乗せた蹴りを、シンスイは間一髪頭を引っ込めてかわした。
しかし回転はなおも続き、今度は踵が断頭台の刃のように振り下ろされる。シンスイは今度は両腕を交差させ、二撃目をその又で受け止めた。骨が軋み、体が地面に押し込まれる。
スイルンの今の蹴りは、技とは呼べぬ、名も無い動きだった。ただ、地面から垂直に伝わった反力を自身の回転力に変換し、その勢いをそのまま蹴りに利用しただけである。だがこれは柔法と螺旋を重んじる【太極把】だからこそできた離れ技であった。
さらに、蹴りつけたシンスイの腕を足場代わりに使い、跳ねる。股下にシンスイの頭を置いた瞬間、勢いよく足を閉じて頭部を狙った。しかしシンスイは頭を前に傾けて回避。
シンスイは背中を向けたまま、虚空を舞うスイルンめがけて勢いよく接近。後足による震脚で踏み出しながらの【移山頂肘】へとつなげた。肘がものすごい速度と圧力をもって迫る。
しかし、その軌道はもちろんスイルンに筒抜けだった。やってきた肘の上に掌を置き、その肘先に込められた勁の赴くままに従った。途端、スイルンの体が水車のごとく回転し、その回転力をそのまま蹴りへと転化させた。蹴りという形で跳ね返ってきた己の力を、シンスイは避けきれずに胴体へ受けた。
「がはっ……!」
大地に叩きつけられ、シンスイは思わずうめきを上げた。
ここ最近、自身の威力を自身で受ける機会が多くなっていると思いつつも、痛みをこらえ、強引に体を起こす。しかし衝撃の余韻はまだ残留しており、ゲホゲホと咳き込んでよろける。
スイルンは滑るように近寄り、掌底を当ててきた。小柄な体に込められた重さは微々たるもの。しかしそれが高速で打ち当たれば、大砲に匹敵する威力と化す。
衝突。シンスイは吹っ飛んだ。よろけていたせいで防御が間に合わなかった。……いや、たとえ防御が可能でも、あの掌底が当たる未来は変わらなかっただろう。
未来が見えること。
これは防御だけでなく、攻撃にも役に立つ。
いや、むしろスイルンは、この能力は攻撃の時にこそ真価を発揮する能力であると考えていた。
相手の攻撃軌道があらかじめ分かっているのなら、その未来の軌道を避けて進んでいけばいい。そうすれば、自ずと相手の隙までたどり着く。
スイルンが見せた「攻めの【太極把】」の攻撃能力は——正確性だけならば、すでに【打雷把】を凌駕していた。
シンスイは足を踏ん張らせて勢いを殺す。
前を見るが、スイルンの姿は無かった。
「がはっ!?」
平たい衝撃がシンスイの背中に衝突。スイルンが回り込んで打った掌底だった。
シンスイは負けじと、右回し蹴りをスイルンに放った。
スイルンはやはり身をかがめてその蹴りの下を潜る。だがシンスイはスイルンの真上で蹴り足をピタリと停止させ、直角の軌道を作る形で真下へ踵を振り下ろした。
しかしスイルンは横へ逃げることはせず、それどころかさらに加速。……「絶対当たる蹴り」が謳い文句の【縫天脚】は確かに当たった。しかし、かかと落としの太腿に当たったに過ぎないので、その威力は無いに等しかった。
スイルンは、抱きつくようにシンスイへぶつかった。
「うわ!?」
股の間に頭を当てる形でぶつかったので、その勢いでシンスイの体が持ち上がった。
お尻からびたーん、と落下するが、すぐに立ち上がった。
しかし次の瞬間、周囲から衝撃と痛みが訪れた。
スイルンは、シンスイの周囲を優雅に回転しながら、回し蹴りを何度も何度も行っていた。水面でひるがえる水蓮を思わせるその美しくも激しい蹴りは【転纏擺蓮(てんてんはいれん)】という技法だ。
スイルンの蹴りに合わせて、シンスイもまた苦痛の舞を踊らされる。
隙を見たスイルンは踏み込み、掌底。
シンスイはそれを間一髪、最小限の動きで避ける。すかさず、回し蹴りへとつなげる。
しかし、やはりそれは見えていた。スイルンは予定調和を踏襲するかのようにゆるりと頭を下げ、蹴り足の下をくぐりながら、シンスイへとぶつかりにいった。
直撃寸前、シンスイの姿が霞のように消えた。避けられた回し蹴りの勢いを利用し、スイルンの進行方向から身を逃したのだ。
スイルンの横合いを取ったシンスイは、すかさず踵を振り下ろした。
しかし、真上から垂直に走る「未来の軌道」を読み取っていたスイルンは、その軌道上から自身の体を外しつつ、一瞬後にやってきたシンスイの蹴りを柔らかく受け取った。
「しまっ——」
蹴り足にかかった力を柔法で溶かし、なおかつシンスイは宙に浮いた状態。スイルンの裁量でいかようにもできる状態。
スイルンは身を寄せる。胡蝶をかたどった両掌を先んじて、もたれかかるように接した。
「がはっ」
痛いというより、気持ち悪い。両掌という大きな面での衝突は、シンスイの体内に勁力の波紋を駆け巡らせ、内部に損傷を与えた。浸透勁。
シンスイの意識が遠のきかける。
しかし、渾身の意志力で、意識をこの世につなぎとめる。
下半身の安定を保ちつつ、スイルンから距離を取る。
やはり強い。これまで戦ってきた相手の中では、ダントツの実力だ。
でも負けられない。取り戻した「強さ」を無駄にしないために。
シンスイは着地するが、浸透勁の余波はまだ響いており、下半身がよろけた。
まずい。体の不調が続いている。
しかも、相手は自分の未来の動きを読んで攻防を行う。
今までシンスイが攻め続けられていたのは、スイルンが守勢に徹していたからだ。それは、自分の武法の流儀に則ったもの。だがその縛りから脱した今のスイルンは水を得た魚。これまでとは比べ物にならない精度で攻めてくる。
相手は、こちらの未来の動きが分かる。つまり、二拍子も三拍子も先に動けるということ。あのインシェン以上だ。
このままでは負ける。
ならば、どうすればいい?
決まっている。今までとやり方は変わらない。「見えていても、防げない攻撃」を出せば当たる。
だが、積極攻勢を決め込んだ今のスイルンに、それを取るのは難しい。
ならばどうする? 二度目の疑問。
……答えは、一つしかなかった。
だが、あの技は禁じ手だ。
しかし、もはや【打雷把】だけでは、勝つ見込みは薄過ぎる。
勝利。
保身。
シンスイはこの二択を迫られていた。
——ならば、勝つ方を選ぶ。
「あの時ああしていればよかった」と思いたくないから。
腹を括った。
間合いへ攻め入ってくるスイルン。その掌底が打ち込まれる寸前に使った——【琳泉把(りんせんは)】を。
人が、建物が、鳥が、雲が、空が、世界が灰色に染まる。その時間の流れは、まるで雲の流れのように緩やかである。
唯一、色彩と普通の時間の流れを持つシンスイは、ひどく緩慢にやってくるスイルンの掌底を一歩で避け、残りの四歩をスイルンへの打撃に費やした。
五歩歩き切ったことで、この世界にいられる歩数を全て使い切り、世界が元の色彩と流れを取り戻した。
途端、スイルンはまるで磁石に吸い寄せられたかのような速度で離れた。
複数の拍子を「一拍子」に圧縮して扱うことで、相対的な最速を手にする武法【琳泉把】。一撃の威力は【打雷把】よりずっと低い。だが拍子の圧縮を使い、数発を「一発」として扱えば、その威力は重複されて大きくなる。
——対し、スイルンは内心で動揺していた。
なぜ、あの少女が、帝都を荒らした賊徒と同じ技を使ったのだ。
まさか、シンスイも奴らの仲間だったのか——そんな憶測が浮かぶが、すぐに振り払う。彼女は賊徒の首領を止めるために瀕死の重傷を負い、一時期だけだが心まで病んだのだ。そんな彼女が賊徒だとは考えにくい。
——だが、その他大勢の考えはその限りではなかった。
救国の英雄たるシンスイが、帝都を恐怖と殺戮で覆い尽くした反徒と同じ【琳泉把】を使ったことで、会場は水を打ったように静まりかえっていた。
しかし。
「なぁ、あれって【琳泉把】じゃねぇか……?」
観客席にいた誰かが、そう一言。
……それはさながら、水面に落ちた一滴の雨粒だった。
「【琳泉把】って何?」「知らないのかよ。帝都を襲ったあの連中が使ってた武法だぜ」「聞いたことある。確か『獅子皇(ししおう)』が叩き潰して失伝させたっていう幻の武法でしょ?」「そうだったよな」
ぽつり、ぽつり、ぽつりと、次々に雨粒が落ちてくる。静まりかえっていた水面に、波紋がいくつも生まれる。
「でもそれって噂だろ? 本当に【琳泉把】なのかよ」「本当だって。あの連中、自分たちを『琳泉郷(りんせんごう)』って名乗ってたんだぜ?」「ってことは、帝都での事件は、そいつらの復讐ってわけ?」「そうとしか考えられない」「でも、そいつらはもう死んだり捕まったりしたから、一件落着でしょ」「でもシンスイ様、今あの連中と同じ技使ったんじゃない?」
雨足が強まった。波紋の数が数え切れないくらい増える。
「じゃあ何か? シンスイたんも『琳泉郷』の残党だってことか?」「嘘だろ? 俺たちのシンスイちゃんが、帝都をめちゃくちゃにした畜生共の仲間だったなんて……!」「俺は信じないぞ! 死にかけてまで国を守った彼女が、そんな……!」「馬鹿野郎、現実見ろよ。今あの女が使った技が事実を雄弁に物語ってんだろ」「嘘だ、そんな……」「何言ってんの。ならなんでシンスイ様は死にそうになってまで国を守ったのよ? 言ってみなさいよこのスカタン!」「良いぜこのスカタン、よく聞けや。全部、あのしたたかな娘っ子の自作自演だろ」「自分で騒ぎを起こして、自分でそれを食い止める。そうすればあら不思議、救国の英雄様の一丁上がりだ」「わざわざ死にかけてみせたのも、自作自演を真実っぽく見せるためだろうな」「意味分かんない。なんでそんな無意味なことするわけ?」「武法士として名声を手にするためだろ。都で武名を轟かせるのが、田舎の武法士の喜びらしいからな」「なんだよそれ、最悪じゃねぇか」「私の夫は、あの女の自己満足のために殺されたってこと……!?」「ハッ、さすがは【雷帝】の弟子、根性の意地汚さもしっかり受け継いでいるわけか」「最低」「信じてたのに」「裏切られた」「ひどい」「殺してやる」
かまびすしく雨音が連なる。静かだった水面はもはや波打っていない部分がないほどに、波紋で埋め尽くされていた。
いくつも寄り集まった無数の雨粒と波紋は——やがて濁流(だくりゅう)へと変わった。
『残党だ!! あの女も『琳泉郷』とグルだったんだ!!』
『殺せ!!』
『八つ裂きにしろ!!』
『俺たちを騙しやがって!! この女狐が!!』
『首をはねろ!!』
『殺した分だけ死ね!!』
『俺の子を殺した畜生め!!』
『私の夫を返してよ!!』
『今すぐ処刑しろ!! 処刑!!』
『腹かっ捌いて犬にハラワタ食わせろ!!』
『死ね!!』
『殺してやる!!』
『売女(ばいた)が!!』
大地を揺さぶるほどの憎悪の波。
シンスイは青ざめながら、その波を全身の骨でビリビリ味わっていた。
甘く見ていた。
まさか【琳泉把】を使っただけで、ここまで下衆の勘繰りを広げられ、いわれの無い非難を受けるとは思わなかった。少し物議をかもす程度だと甘くみていた。
シンスイは知らなかった。大衆の心理というものを。
衝動的な行動を後悔しかけていた、その時だった。
「静まりなさいっっっ!!!!」
憎悪の波を貫くようにして、尖った一喝が響いた。
スイルンだった。
「愚にもつかない憶測を並べるのはあなた方の勝手だ!! だがその憶測でこの一戦を汚すことは何人たりともわたしが許さない!! もしも邪魔をするのなら、我が【太極把】があなた方に牙を向けることになる!! それが怖くない者から、戯れ言をたれるがいいっ!!!」
滅多に出さないであろう声量は、この会場どころか、会場の外へまで遠雷のごとく波及するほどだった。
当然、それを近くで聞いたシンスイや観客は、まるで目の前に雷が落ちたような耳をつんざく音量に驚いていた。
あっという間に静まりかえった会場。
観客はおろか、シンスイさえポカンとしていた。
スイルンはくるりとシンスイの方を向くと、まるで何事もなかったかのように言った。
「再開する。準備はいい?」
「あ、うん……」
再び構える。
「その……ありがとう」
「気にしなくて良い。それよりも、その技は……」
「今は、聞かないでもらえるかな?」
こくん、と頷くスイルン。
「いずれにせよ、わたしはあなたを信じる。経緯などは不明だが、あなたには何ら後ろ暗いものはないことは確信している」
「ありがとう」
シンスイがもう一度感謝をすると、スイルンはもう一度頷き——鋭く飛び出してきた。