その日の夜、妹紅はベッドの上で未だデコを擦っていた。慧音が子供たちを怒る時、彼女が手を上げることは決してない。手を上げることはないが頭が上がる。すなわち頭突きだ。怒られる方は確かに痛い。だが、怒る方も同じく痛いのが慧音の頭突きだ。しかも、相手によって強弱を定め、脳震盪や脳に障害などが起きないように、たんこぶすら出来ないように細心の注意を払って痛い頭突きをしている。頭突きを極めていると言っても過言では無い。頭突きのヒーローだったのだろうか?
だが、妹紅はその痛みが嬉しかった。もちろん妹紅がマゾヒストである意味では無い。妹紅は痛みを感じない病気、無痛症だった。
妹紅は自分の母の顔を未だに知らない。名前すら知らず、はたまた生きているのか死んでいるのかも知らない。妹紅は父子家庭で育った。父は強個性で生まれた事からか短気で粗暴。過去には傷害や恐喝の前科もあった。
よくもまあ
実際、生まれてから寺子屋に引き取られるまでの記憶が僅かにしかないのだ。虐待された子供は自分の精神を守る為に、虐待の記憶を自ら抹消することが良くある。それでもなお、寺子屋に引き取られるまでの妹紅に残されたモノは断片的に残る虐待の記憶のみだった。
4歳の時、祖母が亡くなった直後のことだ。妹紅は父に殺された。腹が減って泣く妹紅が煩わしかったのだろう。酒を飲んだ勢いで、まだ小さな妹紅の体を持ち上げ、頭から床に叩き付けた。その一撃で妹紅の首はへし折れ、即死した。その時、父がせいせいしたのか、それとも焦ったのかは知らない。だが、妹紅はすぐに生き返った。死んだ筈の妹紅の死体が燃え上がり、その炎の中から確かに泣き声が聞こえる。炎が静まると死んだ筈の妹紅が色素の抜け落ちた真っ白な姿となって泣き続けていたという。
父の個性は『超再生』だった。母は炎系の個性だったのかもしれない。そして隔世遺伝で先祖の誰かしらの鳥系の個性でも混じったのだろう。それらは最早分からないが、結果的に妹紅が発現させた個性は『不死鳥』という超強力な個性であった。
その時の父の心境は如何なるモノだったろうか。『超再生』という強個性として生まれた自分を遙かに超える、完全上位互換の我が子……父の答えは更なる酷い虐待という形で妹紅に返ってきた。
その後の妹紅の境遇は酷いモノであった。父のサンドバッグとなり、何度死んだかも分からない。食事を貰った記憶もなかった。餓死しても生き返る。死ねば生き返るだけの数年をただただ過ごした。そして、ほとんどの記憶と感情を失った。痛みという感覚すらも失った。それが当時の妹紅が出来た精一杯の自己防衛だった。
数年後、父がまたも傷害事件で逮捕された。前科がある為に一発で懲役行きであったそうだ。そこでようやく妹紅の存在は発見されて救出された。
どうやら妹紅は病院などで生まれた子どもではなく、自宅出産かそれに近い形で生まれたらしく役所のデータベースに存在していなかった。もちろん、個性届けも出されているはずもなく、完全に存在しない人間であった。
捕まった父の証言から妹紅が『不死鳥』という強個性持ちであることが判明し、個性登録が行われた。その後は元プロヒーローの上白沢慧音が営む孤児院『寺子屋』に預けられたという経緯だ。
その時の妹紅は正に人形そのものだった。会話は出来ないどころか、目の焦点が合わない、意思が通じない、食事の食べ方すら分からない。それでも周りの人間は優しくゆっくりと何年もかけて妹紅の心の氷を溶かしていった。そうして妹紅は人間に戻れたのだった。
今では人並みの生活を送れている妹紅であるが、実は未だに喜怒哀楽などの感情が薄い。人と接する事で回復してきてはいるが、それでも外見からは酷く無感情に見えるらしい。親しい人間や子供たちに対しては人並みの感情で接することが出来るが、逆に『人並みの意識』というモノを意識して考え込んでしまうこともある。
また、当時の記憶は忘れたきりだが、こればかりは思い出す必要も無いだろう。きっと忘れたままの方が良い。少なくとも妹紅はそう思っている。
ベッドの上で、妹紅は唇をギュッと強く歯で噛み締めた。口の中で血の味が広がるが痛みは一切無い。無痛症だからだ。触ったり、触られたりする感覚、触覚はある。だがやはり痛覚は失われたまま戻っていない。すぐに唇の傷口がポウッと淡く燃えて治った。
他にも妹紅の無痛症は、暑さや寒さ、空腹感、痒みなどの感覚が分からず、味覚も辛みを感じる事が無い。血が噴き出すほどの傷を負っても、それに気づく事すら出来ない。自己再生系の個性でなければかなり辛い人生だろう。
だが、それでも…
「今日もけーねの頭突きは痛かったなぁ……」
唯一、慧音の頭突きのみが妹紅に痛みを与えてくれる。妹紅は1人こっそり試した事があるが、どんなに拷問じみた方法でも自身に痛みを与える事は出来なかった。
慧音だけが何故?と思った事がある。何日もかけて考えた結果・・・それは『愛』では無いかと考えついた事がある。自分で考えついて、嬉しくなって、恥ずかしくなって、馬鹿ではないかと1人顔を赤くしながら鼻で笑い飛ばした記憶がある。だが、それ以降、どう考えても答えがソレにしか行き着かなくなってしまった。
今もまた妹紅はベッドの中でそう考えてしまっている。振り払うかの如く寝返りを打った。
(そんな馬鹿な。愛がほしいから?だからわざと煙草を吸って慧音の頭突きを受けたがる?馬鹿な話だわ…本当に…本当に…)
そう想いながら、妹紅は睡魔に身を委ねるのであった。