発生した時のことは仔細に渡って覚えているよ。
初めに僕が認識したのは森の中にいるってことと、それが夢かどうか分からなかったこと。
え? どうして夢かと疑ったかって?
んー……どうして技官はこの世界が本物だと思うんだい?
もしかしたら世界は偽物で、僕らの夢の世界かもしれないじゃないか。
そんなこと言えばキリがない? おか……ナイグラートにも同じように言われたよ。
だけど僕には本物が何か分からないからさ……僕は
“贋者”には、この素晴らしい世界がどうしても“偽物”に思えてしまうんだよ。
まあ話しておいてなんだけど、僕は世界が本物だろうと偽物だろうと興味はないよ。
この辺鄙な地にある妖精倉庫で、家族と共に暮らす。その大切な日常は揺るがない真実だからさ。
……そんな目で僕を見るな技官。僕が家族を大切にしてなにが悪い! 言っておくけど、僕は技官のことを家族として認めてないからな! おい! その手はなんだ!? 僕の頭を撫でようとするな! 子ども扱いするな!
□■□■□■□■
フェイクは意識を覚醒させる。重たい瞼を開き、周囲の様子を窺う。必要最低限の物しか置かれておらず、物寂しい部屋。白のレースのカーテンの隙間からは陽光が差している。
(――朝か……)
ふかふかのベッドの上で呆然とする。まだ頭が働かないな。暫くこうしていようかな? ……いや、朝食の準備を手伝わないといけない。
だるさの残る体のままベットから立ち上がり、服を着替える。鏡で寝癖を確認し、跳ねている檸檬色の後ろ髪を手櫛で整える。
今日の献立は何にしようか……ナイグラートと相談しないとな。
自室から出て、漆喰の壁の廊下を歩き、厨房へと向かう。
「おはよう、今日はやけに早いわね?」
妖精倉庫の管理者ナイグラートはにこやかに笑う。
淡い赤色の髪を背中まで伸ばし、若葉色の瞳は澄み切っている。白いエプロンを纏い、その下には若草色のブラウスを着ている。童顔ではあるが母性を感じさせるその雰囲気から、彼女は妖精たちにとって母親代わりの存在である。
「おはよう、ナイグラート。今日の食事当番は僕だからね。皆が起きる前に朝食の用意を済ませないといけないから」
「まだ寝ていてもいいのよ? あの子たちが起きてくるまで、一時間くらいはあるんだし……」
ナイグラートは壁にかかった時計を見ながら、フェイクに言う。
「ナイグラートが起きてるんだ。僕だけ寝ているわけにはいかないよ」
早朝から一日の食事の下ごしらえをし、夜更けまで仕事の書類と格闘していることを僕は知っている。だから毎日は流石に無理だけど、食事当番が回ってきた時くらいは少しくらいゆっくりさせてあげたい。
そんなフェイクの思惑を知ってか知らないでか、ナイグラートはくすりと笑って――フェイクのでこを軽く小突いた。
「ナイグラートじゃなくてお母さんでしょ?」
場を茶化すようにナイグラートはフェイクに意地悪を言う。
とりあえず、無視だ。僕はもう子供じゃないんだし、何時までもお母さんだなんて言ってられない。
「酷い! フェイクが無視する!」
涙を目じりに溜め、うるうるとこちらを見つめられても困るんだが。
朝食の用意を進めるため、背伸びしないと届かない高さにある戸棚から包丁(チビたちが万が一触って怪我しないためにここに収納している)を取り出す。腕に痛みが走るが、いつものことと割り切る。
「はー、うちのフェイクもそろそろ反抗期かしら。昔はお母さんお母さんって私の近くから離れようとしなかったのに‥‥」
だからそれは昔の話だ。
色とりどりの野菜を食べやすい大きさに切り、それらを香辛料と共に加熱する。辛すぎず、苦すぎず、味が濃すぎず、薄すぎず。できる限り平坦な――当たり障りのない味付けにしようと意識する。子どもたちの舌にあった味付けをするのは難しい。
フェイクは隣のナイグラートを横目で一瞥する。鼻歌を歌いながら肉料理を調理する彼女の料理の腕前は一流だ。ナイグラートは人間種がまだ絶滅していなかった遠い昔、旅人を住居に招き入れ料理を振舞い腹を満たして寝静まったその旅人を食らっていた
朝食を作り終え、ナイグラートと些細な会話をしていると、扉が開き、蒼色の髪の少女が厨房へと入ってくる。
「おはよう、フェイク、ナイグラート」
「あら、クトリも今朝は早いのね」
「あんまり寝れなくて‥‥ベッドの中でうとうとしているなら、朝食の用意を手伝おっかなって思ったの」
目の下のクマを気にするように手でなぞりながら、クトリと呼ばれた少女は柔和な笑みを浮かべる。はかなく、悲壮感を感じさせる笑み。それが心の痛みを押し隠すために浮かべた偽りの仮面であることが見て取れる。
「朝食は作り終わったし……姉さんには食堂のテーブルを拭いてもらおうかな?」
「分かった。他に私ができることはある?」
「んー、どうだろう。ナイグラート、何かあるかな?」
「特にはないわ。ありがとう、クトリ。気持ちだけで嬉しいわ」
「ううん、私が好きでやってることだから。ならテーブルを拭いてくるわね」
クトリはシンクに掛けられた布巾を一つ手に取ると、厨房から出ていく。扉が閉まる音が鳴り、ナイグラートの澄んだ瞳から涙が零れだす。
「ごめんさい、あなたたちの前では泣かないつもりだったんだけど……我慢できなくて‥‥」
次々に溢れる涙を拭いながら、ナイグラートは申し訳なさそうに呟く。
二十日後、成体妖精兵であるクトリは15番浮遊島に襲撃する
ナイグラートに掛ける言葉が見つからない。惨めに泣く彼女の心を救うにはどうしたらいいのだろうか。
フェイクは暫く思惑した後、ナイグラートを抱擁する。まだ成長期の来ていないフェイクと成人女性のナイグラートの間には身長の差が大きく、抱擁というより、覆いかぶさるような形になる。
「あなたも……泣いているの?」
「……え?」
顔をくしゃくしゃにしたナイグラートがフェイクの顔を見てそう言う。
目に手をやると、生暖かい液体が頬に流れていることに気付く。
『涙』だった。
何年ぶりに泣いただろうか。使い捨ての兵器であることを理解してからは、この世に未練を残さまいと諦念していた。嬉しいことも悲しいことも、すべては無意味だと思い生きてきた。
「あれ……何でだ‥‥」
涙が止まらない。涙が、止まらない。
ああ、そうか。きっと僕は姉さんが死ぬことを恐れているんだ。いつも気丈に振舞い、皆の理想のお姉さんだった彼女が兵器として朽ちることがこの上なく悔しいのだ。
ナイグラートがフェイクを抱き寄せる。フェイクの顔が豊かな母性の象徴に埋没し、頭をナイグラートにゆっくりと撫でられる。
「………おか……あさん」
慰めようとしていたのに、逆に慰められるとは情けない話だとフェイクは思う。けれど、今くらいは居心地のよい母の胸で泣くのも悪くないとも思った。
涙が止まらない。涙が、止まらない。
□■□■□■□■
さて、フェイク・ティア・ハルジオンは妖精だ。
発生から今年で十三年が経った。彼は成体妖精兵ではあるが妖精倉庫にいる他の成体妖精兵と違い、戦場を経験していない。
フェイクは生まれつき両手の握力が非常に弱い。日常生活はなんとかこなせるが、戦場で剣を振り回すことなどもっての外である。故に彼は来るべき日に妖精郷の門を開き、自爆するだけの兵器として軍では処理されている。
他の成体妖精兵に負い目を感じずにはいられない。彼女たちが命がけで
自身の無力さを何度嘆いただろうか。
金属音が鳴る。
フェイクの手から落ちたフォークが床にぶつかった音だった。食堂で夕食を食べている妖精が一斉にこちらに振り返る。
「大丈夫……?」
くすんだ灰色の髪をツインテールにした少女、ネフレンが心配そうにフェイクの顔を見る。
「あー、少し考え事をしててな。手に力が入ってなかったよ」
顔に薄っぺらい笑みを貼り付ける。
地面のフォークに向かって手を伸ばし、掴もうとするが手が痙攣して上手く掴めない。
フェイクがフォークを掴むのに苦戦していると、何処からか手が伸ばされ、フォークを拾い上げる。
「手、やばいんじゃないっすか?」
枯草色の髪の少女、アイセアが呆れた顔をしてフェイクにフォークを手渡す。
「大丈夫だよ、フォークありがとう」
震える手を必死に鎮めながらフォークを受け取る。
また、金属音。
アイセアから受け取ったばかりのフォークがフェイクの手から滑り落ち、床に再度叩きつけられた音だ。
「たく、それのどこが大丈夫なんっすか? 今日、右手を使ったんっすか?」
「朝に包丁で野菜を切った‥‥だけだと思う……」
「それでここまでなるんっすか。日に日に悪くなってるんっすから、いくらナイグラートの手伝いをしたいからって無理する必要はないっすよ」
フェイクの握力が極端に低い理由は、彼の腕の病気にある。年々腕の筋肉が低下していく不治の病であり、最終的に腕は壊死し切断を余儀なくされる。原因は不明で、先天性のものと後天性のものがあるということ以外は分かっていない。最近は指を動かすだけで痛みが走る。それでも、周囲に悟られないようにしてきたつもりではあったが、どうやらネフレン、アイセアにはばれていたようだった。
「今日は僕が食事当番だったから手伝っただけだ。別にナイグラートのためじゃない」
本当はお母さんのためなのだが、恥ずかしいので正直には言わない。
「そうっすか。まったく、この弟の素直じゃないところは誰に似たんっすかね?」
アイセアは隣に座り、羊の肉料理を頬張るクトリを見る。アイセアの視線に気づいたクトリは口の中の物を飲み込むと、じっとりとした目でアイセアを見返す。
「何よ、フェイクが素直じゃないのは私のせいって言いたいの?」
「いやいや、似た者同士だと思ったまでっすよ」
「ちょっと! それどういう意味よ!」
アイセアの軽口に乗せられるクトリ。ぷりぷりと頬を膨らまし、顔を真っ赤にして反論している。
「……フォーク拾っておいた。フェイク、どうせまたフォーク落とすし、私が食べさせてあげる」
「いや、大丈夫だよ。子どもじゃないし一人で食べれるから――
「あーーーん」
食べやすい大きさにカットされた羊の肉をフォークに突き刺し、ネフレンは僕に差し出してくる。
何だか恥ずかしいが、今の自分の手では食器は扱えず、夕食を食べることはできない。ならば仕方ないと思い、目を閉じてそれを受け入れる。
「おいしい‥‥?」
「ああ、美味しいよ」
沈黙。
租借が終わり、肉を飲み込むと第二波が来る。
「あーーーん」
ままよ、と口を開け受け入れる。
羞恥の感情が沸き上がる。年長者として築き上げてきた威厳が音を立てて崩れ落ちる感覚。
「ん? ネフレンだけずるいっすよ。私にもやらせろっす」
愛玩動物に餌を与えることを羨むようにアイセアは言う。
いやいや、ずるいってなんだよ。
「はい、あーーーんっす」
銀の匙が迫ってくる。
口を開く。
肉を口に入れると同時に蒼色の髪の少女と目が合った。それはとても穏やかで、静かな瞳だった。
□■□■□■□■
食事を終え、自室に戻ったフェイクはベッドに寝転がり、羞恥に浸る。
自分はこれまで妖精倉庫内では、年長者として相応しい行動をしてきた(つもり)である。
それが、今日の夕食での醜態はなんだ。手の震えでフォークが持てないから肉料理を姉二人に食べさせてもらった? 仕方ないと受け入れた過去の自分を殴ってやりたい。
フェイクは利き手である右手をぼんやりと眺める。細かく痙攣を続けるその腕が義手となるのが先か、それとも自分が死ぬ方が先か。そんなことを考える。
『すまない、僕らには――今の医学技術では君の腕を治すことはできない』
昔、
付き添いとして来ていたナイグラートの顔がみるみるうちに青ざめていったのを覚えている。
医者の話した内容は理解できた。自分の腕が何時かは義手に変わるということを、何処か他人事のように聞いていた。どうせ死ぬのだから、腕があろうとなかろうと関係がないと思っていた。
妖精倉庫に帰ったその日の夜、厨房にあったナイフで腕を切り落とそうとしていたところナイグラートに見つかり、頬を叩かれた。
『どうして……? どうして自分の体を大切にしないの?』
あの日もナイグラートは泣いていた。僕を痛いほどに懐抱して、声を上げて泣いていた。当時の僕には、どうしてナイグラートが泣いているか見当もつかなかった。
いつか腕が動かなくなるならば、早いうちに義手に変えておいた方がいい。そのほうが、これからの戦いで聖剣を振るうことができる。戦いで使えない兵器に何の意味があるのだろうか?
そう伝えると、ナイグラートはとても悲しそうな顔を浮かべて言った。
『私は、兵器じゃない“妖精”のフェイクが好きよ。聖剣を持つための腕じゃなくて、大好きな人をハグするためのあなたの腕が好きよ。温かくて、脈を打ってて、生きてるんだって私に思わしてくれる、あなたの小さな腕が好きよ。だから、自分の体を自分のために大切にできないなら、お母さんのために大切にして? お母さんはあなたが傷つく姿を見たくないの……』
ちくりと心が痛んだ気がした。自分を大切に思ってくれている人が泣いている。自分を大切だと訴えかけてくれている。その事実が、その愛情がフェイクの心を動かした。それから、フェイクは一度も自傷行為をしていない。
回想からフェイクは現実に戻る。
夕食での羞恥心などはとうに消え、心を深い闇が覆っていた。
回想からの連想で今朝のことを思い出してしまったからだ。
二週間後、クトリ・ノタ・セニオリスは妖精郷の門を開き、死ぬ。
面識などあるはずのない浮遊大陸群の知的生命体を守るために、死ぬ。
死んだ後、クトリは英雄になるのではなく、消耗品の兵器の欄に使用済みのチェックが入るだけだ。
何とも報われない話である。
では、その報われない姉に、僕ができることはなんだろうか?
フェイクはしばし思惑に浸る。
クトリ・ノタ・セニオリス。兵器としてではなく“妖精”としてのクトリ。
妖精倉庫の最年長であり、皆のお姉さん。
最強の聖剣『セニオリス』を扱う、皆の憧れ存在。
珈琲に砂糖は入れない、でも本当は甘いものが大好きな、フェイクの姉。
彼女は死を前にして何を望むのだろう?
家族愛? 平穏な日々? 燃え上がるような熱い恋?
――分からない。
頭に鈍い痛みが走る。
その痛みは考えすぎるな、と警告しているように思えた。
考えれば考えるほど辛くなる。もう受け入れろと。
きっと疲れているのだろう。だから、心がどうしても悲観的に考えてしまう。
壁にかかった時計の短針は十二の数を指していた。
夜風を浴びて、気持ちを切り替えてから寝よう。そう思い、フェイクは部屋から出る。
漆喰の壁の廊下は今朝と同じように静かだった。
自然と息を潜める。フェイクにはその静謐を破ってはいけないように思えたからだ。
一歩一歩慎重に、まるでいたずらを内緒で仕掛ける子供のように忍び足で廊下を歩く。
玄関から、倉庫の外へと出る。
風が強く吹いていた。見上げると、曇りのない空では見るものを虜にする美しい星々が、互いに負けまいと煌めきあっている。
フェイクは歩を進める。
目的地点は第68浮遊等の外れにある、少し小高い丘。幼少期から嫌なことがあればそこに行って、夜空の星を眺めたフェイクにとってちょっと特別な場所だ。
丘には先客がいた。
風で揺らぐ蒼い髪が月明かりに照らされ、輝きを放つその後ろ姿は厳かな雰囲気を醸し出していた。
そっとしておいた方がいいと頭では理解していた、けれど――
「こんなところで何してるの、姉さん?」
どうしてだろう、自然と声が口から流れ出した。
蒼い髪の少女は振り返る。
水平線に浮かぶ月の逆光を浴びた少女の頬には涙が流れている。
「ふぇ、フェイク!? どうしてこんなところにいるの!?」
声の正体が弟だと気づき、少女は慌てて涙を拭う。
「ちょっと考えたいことがあってさ……」
「そ、そうなんだ! 私も考え事をしに来ていたの!」
早口で少女は言う。
その様子を見て、フェイクは思わず吹き出してしまう。
「え? ちょっと! 何で笑ってるのよ!」
「いや、姉さんが泣いているところを見られたからって狼狽え過ぎだと思ってさ」
「な! 何よ! 私だって泣きたい時はあるのよ!」
「姉さんは皆の前で絶対に泣かないもんね、素直じゃないから」
「君までアイセアみたいなことを言わないで!」
目が合う。そして、どちらともなく笑いだす。
「ふふ、フェイクと二人きりで話すのなんて久しぶりね」
「そうだね。本当に久しぶりだ」
心の闇が浄化されていく。
ただ目を合わせ笑い合うだけで、辛い気持ちが吹き飛ばされる。
「今朝……ナイグラートと君が泣いているところを見たわ」
ばれていたのか。
羞恥の感情が先ほどぶりに沸き上がる。
「心配かけてごめんね……でも、私は大丈夫!」
クトリは空を見上げる。
空の煌めきが、クトリの透き通った蒼の目に映る。
「覚悟したから……妖精倉庫の皆を守るためだもの」
樹木が風に吹かれて、葉をカサカサと鳴らした。
その音に共鳴するように、森の動物たちが次々に鳴き声をあげる。
フェイクにはそれらが戦地に赴く兵士の士気を鼓舞する死のオーケストラのように思えた。
「……悔いはないの? やり残したこととか、これからの未来のこととか……死んだらもうできないんだよ?」
クトリは答えない。
こんなことは彼女の尊い犠牲の上で生き永らえることができる、不良品の兵器の僕が問いかけることじゃないのだろう。分かっている、分かっているけど……それでも、問わずにはいられなかった。
「朝起きて、チビたちの世話をして……家事の手伝いをして……皆で話して……そんな日常に悔いはないの?」
感情が高まり『涙』が溢れ出す。
今日の僕は本当に泣き虫だ。一体どうしてしまったんだろうか。
クトリはフェイクの泣き顔を見て悲し気に微笑むと、落ち着いた声で話し出す。
「フェイクは優しいわね。消耗品の兵器の私を惜しんで泣いてくれるんだもの……」
自分のことを消耗品だなんて言わないでくれ。兵器だなんて言わないでくれ。
僕は姉さんの口からそんな言葉は聞きたくないんだ‥‥。
「悔いはあるわ。色々なことをやり残したし、倉庫のおチビたちが成長していく姿を見れなくなるのはとても残念。でもね、私は君たちの未来を守りたいの。君たちが戦わなくて済むような、平和な世界を作るために私は戦うの。君たちが幸せに過ごしてくれる、ただそれだけで報われるの」
クトリの透き通った蒼の瞳に涙が溜まる。
足が震えている。姉さんも死ぬのは怖いんだ。自分が自分じゃなくなって、どうなってしまうのか分からないのが怖いんだ。
逃げ出したくなるような暗闇に飲まれて絶望の渦中にいても、皆を守るという『覚悟』で自分を保っている。
強いなあ。
死への恐怖を、『諦める』ことで薄めてきた自分と比べてそう思う。
星々が輝いていた空に薄い雲が広がり、月の明かりを遮断する。
辺りに光源はなく、フェイクとクトリの互いの顔の表情は窺えなくなる。
「フェイク、笑って? どんなに辛い未来でも、そんな未来に絶望しても笑っていて。そうすれば、きっと乗り越えていけるから……私の命を――」
最後の方は掠れていたため、聞き取ることはできなかった。
フェイクは踵を返し、倉庫へと帰る道を歩き始める。
クトリ・ノタ・セニオリスに自分ができることは何か分からなかった。死を目前に控えた姉が望むことが何か分からなかった。
けれど、姉さんと話して分からない理由が分かった。
そりゃあ考えても分かるはずがない、とフェイクは自虐的に笑う。
姉さんは――クトリ・ノタ・セニオリスは何も望んでなんかなかった。自分にできることなどなかったのだ。
彼女の中では兵器として死ぬことは完結した話なのだから。
風に吹かれた樹木の葉の音。
森の生き物の鳴き声。
止んだはずのそれらは、いつまでもフェイクの頭に木霊し続けていた。