夏目の指定した店は案外近くにあった。窓も看板もないドアを開けると、カウンターが数席だけ。さきほどのワインバーに似ている気もするが、しかしここは純和風だった。
二席だけ空いていて、入り口から遠い方に夏目が座る。沙羅花もおずおずと腰掛けた。愛想がよいとは言えない強面の板前がお絞りとお通し、この時期の定番枝豆だった。
「私のかわいい後輩なの。遠慮なくよろしくね」
「……あいよ」
直接夏目と仕事はしたことはない。顔を合わせたのも、今日で数度目だ。カドの縁がなければ、内閣官房とは関わりは殆ど無いのだが、どうして夏目は沙羅花を。と、直接聞こうと思うと、小さなグラスに日本酒が注がれ、ふたりの前に置かれた。江戸切子だろうか? 幾何学模様に照明が跳ね返り、透明な液体も相まって綺麗だ。幾何学模様と聞いてどうしても羽田のあれを思い出すが、あんなに複雑な形はしていない。
「おいしいわよ」
「頂いてもいいんですか?」
「ええ。あなたとじっくり話したかったから」
夏目はにっこりと微笑んだ。普段はきつい表情の彼女がこんなに柔和な顔もできるとは意外だった。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
ちん、と硝子のあたる鈍い音。辛いようで芳醇な。口の中に酒臭さは一切なく、爽やかな香りだけ残して消えていった。
「緑川、純米吟醸ね」
「お詳しいんですか?」
「ぜんぜん」
いい酒だな、と沙羅花は思う。純米吟醸は大量には作ることはできないだろうが、ジャパニーズ・サケとして喜ばれるに違いない。交渉は相手を饒舌にさせたもの勝ち。その潤滑に、この日本酒はうってつけなのかもしれない。
そう思った時点で、沙羅花は夏目の策略にはめられていた、と自覚してしまう。どうしたものかな、ともう一口すする。そして、考えながら枝豆をつまんだ。
「これは……!?」
「わかる?」
「はい! 枝豆です」
率直な感想を言うと、夏目は苦笑した。しかしそうとしか表現できない。これ は 枝豆。これまで沙羅花が何も考えずに食べていたものは、緑色の莢に入っていた緑色の豆。茹でて塩もみしただけの枝豆が、こんなにも味が濃く手が止まらない食べ物なのだろうか。
「緑川はね、新潟のお酒なの」
「新潟の?」
「そしてこの枝豆も新潟の名物なのよ」
「それは、知りませんでした」
日本有数の米どころ、そして豪雪地帯には日本酒のすべてが揃っている。そして、田んぼの畦で育てられる枝豆は夏の風物詩だ。
「ねえ、徭さん」
「ふぁい……! はい、夏目さん」
八つ目の枝豆を急いで飲み込むと、沙羅花は少し赤面した。
「あなた、彼氏はいるの?」
「~~~!!」
酔鯨という、高知の日本酒を出してもらうと、大きな鰹のたたきも一緒に出てきた。にんにくの香りが結構強い。明日が非番でよかったと思う。
「今は、いませんが」
「好きな人は?」
「好きな人は、いません」
「じゃあ気になる人はいるのね?」
「どうしてそういうことになるんですかっ?」
顔をそらして鰹を頬張る。それを日本酒で流し込んだ。薬味の香りが酒の辛さで和らいでいく。
「夏目さんこそ、彼氏と飲みに来ればいいんじゃないですか? 綺麗なんだからいくらでもいるでしょ」
かーん。
と、陶器製のおちょこをカウンターに置く音が響いた。
「徭さん、私の大学の話聞いてくれるわね?」
夏目の頬は紅潮し、少なくない量を飲んでるのがうかがい知れたのだった。