推理もの。
1
ヴェルター青年はこの日を心待ちにしていた。
冴えない出自ながら確かな技量を認められ稀代の若さで市長付きの料理人として働くようになってからというもの、今日ほどの大仕事は未だかつて経験が無い。期待に胸を膨らませながら、やってやるぞと腕を振る。早朝の街は穏やかな沈黙に満ち、朝日は柔らかく大通りの石畳を照らしている。足取りは軽い。
南方の密林で魔獣討伐の任を果たした勇者が帰還したのはほんの数日まえのことであった。昼夜問わずの長きに渡る死闘だったということだが、そんなことはヴぇルターにとっては割合とどうでもよく、重要なことは他にあった。勇者によってもたらされた南方の土産のうちのひとつが瞠目を禁じえぬ珍味だったということで、急遽国王を招いての会談の折に供されることと相成ったのである。
間もなく市長の大きな屋敷が見えてくる。裏口から厨房にまわれば、料理長をはじめとした幾人かが既に到着していた。
「ヴェルター。おまえにしては遅かったな」
料理長は青年の姿を認めると鷹揚に頷いた。厨房を取り仕切るさっぱりきびきびとした中年の女性で、前料理長を鍋で撲殺したという噂まである豪傑である。実際のところ前料理長の死因は食中毒であり、全くのデマなのは明らかなのだが。
「すみません、昨晩なかなか眠れなくて」
「調理に支障が出ては困る。しっかり頼むぞ」
「はい、もちろんです」
やがて全員が集合すると、料理長はきりりとした視線で部屋全体を見回した。身長はそこまで高くないので台に上っている。ごほん、と咳払い。厨房は静まり返る。やはり今日は特別な日なのだと、そんな気がしてくるような雰囲気である。
「皆すでに知っていることとは思うが、これから我々はバロメッツの調理を行う。前例のない試みとなるが、基本を忘れず、落ち着いて各自の役割を果たすこと」
勇者の土産のひとつ、人の頭より大きいくらいの木の実がどうやら食材になるらしいことは、調味部の人間によって一晩のうちに解明された。なんの変哲もない植物の実の中でどういうわけだか稀に羊が眠っていて、細い器官がへその緒のように植物と羊を繋いでいることがあるのだという。名をバロメッツと言い、羊にも植物にも似ない妙味があり、ひとたび食した者は植物の実を見かけるたびに割って中身を確かめるようになってしまうらしい。実物の殻に穴を空けてみたところ、見事に羊の姿が確認できたそうだ。
この空前絶後の食材を調理することは料理人にとっての最高の名誉になるだろう。ヴェルターは確信していた。
「さて、肝心の食材は別室に保管してある。いまから準備を……」
不意に料理長の朝礼が途切れる。屋敷に続く扉が乱暴に開け放たれ、女中が駆け込んできたためである。どうしたと尋ねる間もない。
「た、大変です。貯蔵庫に保管していた貴重な食材がありません!」
厨房にざわめきが満ちる。うるさい、と一喝して、料理長が応じる。
「どういうことだ? 貯蔵庫は調味部の者が見張りに付いていた筈だが」
「そ、それが……」
「まあいい。とにかく、案内してくれ」
女中はすぐに頷いて、慌ただしく廊下の奥へと消える。
「馬鹿、全員で押しかける奴があるか。お前たちはここで待機」
大声で料理人たちを窘めて、料理長もあとに続く。
怒涛の展開にすっかり置いてけぼりになっていたヴェルターは、大変なことになったなあと厨房の高い天井を仰いでいる。盗まれたのはやはり例の食材なのだろうか。そうだとしたら相当悲しい。
不意に肩を叩かれ、振り向くと、先輩料理人が立っている。
「ようヴェルター。いったい何があったのか、おまえ気になンねえか?
「な、なります。けど、さっき料理長が――
「俺たちに代わって、なにが起きたのか偵察してきてくれや。全員で押しかけるわけにゃあ、行かねえからなあ」
行きたくなかった。料理長の命令に逆らえば碌なことにはならないだろうと目に見えていたからだ。しかし先輩は遠まわしに断ろとしても分からぬふりをして、肩に手まで回してくる。直截に嫌ですというだけの勇気は、残念ながら、青年にはない。
肩を落として、恨みがましく先輩を見上げた。
「……俺が料理長に叱られたら、ぜったいに庇ってくださいよ」
2
調味部とは、美食家であった先代市長が存命の際に私設された食専門の研究部門である。文献を濫読して食について研究したり、各地を渡り歩いて得た珍味や逸話などを書物として体系化したり、今回のように未知の食材が発見された際にはその調理法を模索し、料理人と連携をとってアドバイザーの役割を果たすこともある。しかし先代市長が不摂生が祟って病死してからというもの、給与は減らされ人員は削られ、調味部は凋落の一途を辿っていた。それこそ、貯蔵庫の見張り番なんて雑務を引き受けるくらいには。
事件の現場は薄暗い部屋であった。やや小さめの窓が部屋にひとつあるだけというのがその理由だろう。部屋の隅から詰めていくようにして今日使われる予定になっている野菜や肉の数々がそれぞれの場所に安置してある。その中央にあたる空間に四角く切り取られた陽光が降り注ぎ、無残な死体を浮かび上がらせている。判別はしづらいが、恐らくはヴェルターと同じくらいの歳だろう。仰向けになって、血塗れで倒れている。
バロメッツらしきものは部屋のどこにも見当たらない。
思わず漏らした声に耳ざとく反応してあたりを検分していた料理長が振り向き、嗜虐的に口端を歪める。こうなってはもうご寛恕に期待をする他はない。鳥肌の立った腕をもう片方の腕で支える。
「やあ、ヴェルター。貴様は耳が不自由なのだったかな。さもなければ、私の言うことなどクソ喰らえ、と思っているのか」
「い、いえ、決してそういうわけでは……」
「黙れ。貴様の言い訳に構っている時間は無い。これは緊急事態だ」
ほっとしていいのかどうかは微妙なところだったが、とりあえず怒鳴られることも追い出されることもなく、ヴェルターはとぎまぎしながら冷や汗を拭う。気を取り直す。「……これ、亡くなっていますね」
「調味部の方です。昨日の晩から夜通し貯蔵庫を見張っていてくださっていたのですが、私が朝食をお持ちした時には、すでに……」
ふたりのやり取りを心配そうに見守っていた女中が説明してくれる。恐らく仕事の先細っていた調味部が、働いた実績を残してこれ以上給与を減らされることのないようにと特別な食材の警護を自ら買って出たのだろう。まさかこんな結果になろうとは思ってもみなかっただろうが。
それにしても、困った。料理長がつぶやく。
「ええ、まさか、死人が出るなんて……」
ヴェルターが応じると、馬鹿にしたように鼻を鳴らして、
「馬鹿者。そうではない。バロメッツが失われたことが、だ。せっかくの珍味が食べられないと知られれば、罰されるのは間違いなく料理を供する予定だった我々になるだろう」
冷たいなあと思わないでもなかったが、なるほど確かに正論でもある。それも国王のまえで失態を演じさせられたとなれば市長の怒りのほどは想像もつかない。細かい事情をいちいち斟酌してもらえるとは期待しないほうが順当というものだ。
「このことは、他の誰かに話したか?」料理長が、女中に問いかける。
「はい、調味部長様には報告いたしました。他には、誰にも話していません」
「そうか。それなら、このまま決して他言はしないよう頼む」
「仰せのままに」
料理長は懐から財布を取り出して、銀貨を何枚か女中の手に握らせた。女中はそそくさとそれをしまい込み一礼して部屋を辞する
残されたのは料理長と青年。部屋はしんと静まり返って、淀んだ空気が漂っている。気まずさを感じながら、ヴェルターは沈黙する。謝ったものか、どう切り出したものか。ぐるぐる考えていると声がして、びくりと背を伸ばす。
「ヴェルター」
「はっ、はい」
部屋を見回していた猛禽のごとき視線がついに哀れな青年を釘付けにする。カツカツと音の出そうな仕草でもって靴先で床を叩きつつ、おもむろに口をひらく。
「きみにはバロメッツの捜索を行ってもらおう。市長の怒りを買わぬよう、なんとしてでも見つけ出せ」
これには相当驚いた。あまりにも驚きすぎてしばらく何も言えなかったせいで、暗黙の了承と解釈した料理長が部屋を出ていこうするくらいには驚いた。我に返り、慌てて引き止める。怒られなかったのは幸いだったが、しかし、素直に喜べない。
「ど、どうして俺が」
言いかけて、やめる。答えは余りにも明白で、先輩の重圧に耐えきれずに言いつけを破ったツケが回ってきたというただそれだけのことだったからだ。いやしかし。ただそれだけで、納得できるものか。青年はぶんぶんと首を振る。
「俺はただの料理人です。頭も悪いですし、他の誰かに頼んだほうが良いのでは」
「お前は本当に人の話を聞かないな。言ったろう。バロメッツが盗まれたことは、決しておおっぴらには出来んのだ。信頼のおける身内に頼むしかあるまい」
信頼のおける、という言葉に場もわきまえずに喜びかけたが、いまはそれどころではないと思いなおす。先輩料理人とのやり取りで勢いに押されて損をするのは自分なのだと気づかされたばかりだ。いくら相手が料理長とはいえここはひけない。度胸があるのかないのか、分からない。
「それでは、その、料理長みずから捜索された方が俺なんかよりも確実なのでは……」
「何を言う。私はバロメッツを奪還できなかったときのため、市長に対する言い訳を考えなくてはならないのだ。……うまくいかなければ、きっと、私は火あぶりにされてしまうだろう」
「ええっ、火あぶり!?
青年はまたしても仰天した。信頼がおけるとかうそぶいておいて自分は見つからない前提で行動するということにも驚いたが、まさか料理ひとつで火あぶりだなんて。いくらなんでも死罪に問われはしないだろう。そう思うけれども、料理長の眼は真剣そのもの。火あぶり。まさか本当に。ごくりと唾を飲む。やはり覚悟を決めるしかないのか。
実際のところは料理長のはったりなのであった。頭が悪いとは言っていたが、あながち韜晦でもなさそうだ。料理長はそんなことを思いながら、料理の仕上げに調味料を付け加えるように、言葉を継ぎ足す。
「全身まんべんなく、こんがりと。お前の苦手なウェルダンだ。困るだろう。これだけ部下思いの料理長が居なくなるのは」
「はい。料理長には、教わりたい技術がまだたくさんありますから……」
「まあ、それもあるだろう。それになにより、これだけ人望の厚い上司は滅多に居ないだろうしなあ」
「とにかく、分かりました。俺、やれるだけやってみます」
料理長は部屋を後にした。これから厨房で待機している調理人たちに事情を伝え、市長に対する言い訳を考えなくてはならない。忙しくなりそうである。そう思い、やってやるぞとやけくそに腕を振る。
3
一方の青年。最終的にはきりりと料理長の命に頷いてみたものの、ジャッカロープの照り焼きの段取りなら知悉していても捜索のノウハウなんて年若い学生にも劣る。どうしたものかと途方に暮れかけ、ようやく死体をよく見てみようと思い立つ。
相変わらず無残な光景である。生臭く不愉快な臭いもする。眼をそむけたくなるが、あれは豚の丸焼きなのだと自分に言い聞かせることでなんとか向き直る。幸運にも死体は太り気味だったので、イメージ置換は割合と容易であった。
どうやら胴体を正面から袈裟切りに切られたようで全身が血に塗れている。そのほかの外傷は特に見当たらない。死体の脇には未使用の蝋燭と溶け残りのこびりついた燭台が落ちている。蝋燭は高級品だから、あとで返していおいたほうがよさそうだ
「……?」
念入りに見渡していると、ふと気づくことがあった。死体の全身を染める血液の色がよくよく見ると各所で微妙に違いがあるように見えたのだ。黒ずみかけた血とまだそうでもない血があり、面積としては新しい血の方が大きいような。とはいえ自信はあまりない。料理人として日々新鮮な死体と向き合っている彼だからこその洞察であり、それでも確かとは言い難いくらいの差異である。
「ややや……なんとまあ、ひどい」
深い思考の海に沈んでいたヴェルターは戸の開く音にも気づいていなかったので、身体を飛び跳ねさせて驚いた。さすがに驚きすぎだろうと自分で思って、面はゆい気持ちになる。気を取り直して振り向けば、仙人じみた髭を生やした老人がしわくちゃの顔を歪ませ杖をついて立っていた。青年のことなど視界の隅にもなさそうだがヴェルターには見覚えがある。この超俗的な風貌の老人は、我らが都市のガストロノミーの最高権威、調味部を統括する長である。
「調味部長さま。このたびはお気の毒でした」
ヴェルターが頭を下げると、調味部の長はうむと小さく喉をうならせるようにして上の空な返事をする。死体の前から数歩引き老人に場所を譲る。そのままこの場から離れようかとも考えるが、第六感にも似た何かがこの場に自分をとどめようとする。予感の正体は何であろうと探るうち、やがてひとつの答えにいきあたった。つまり、バロメッツを探し当てるために必要になるだろう知識を得るためには、目の前の調味部長に尋ねるのが最適だろうということだ。
悲しみにくれる姿にやや躊躇いながらも、おずおずと口をひらく。
「その、調味部長さま……。彼の死を不名誉のうちに終わらせないためにも、俺たちはバロメッツを見つけ出そう思っています。ご協力をいただけないでしょうか」
遺骸を向いていた老人がゆっくりと振り返る。そうして、白い眉の奥の怯えた野生動物のような瞳が、深い眼窩の奥から青年を捉えた。言い知れぬ圧迫感を覚えつつも、何も言わないのを了承と受け取って、訊ねてみる。
「まず、バロメッツは知能をもって行動することがあるのですか。人を殺すことは可能ですか。勝手に歩き出して逃げることは、できるでしょうか」
前代未聞の食材が失われ、見張り番の男が死体となって発見された。この状況を説明できる筋書きをヴェルターはふたつ想定していた。
ひとつは、何者か――恐らくは盗賊か、とびきりのグルメか――が見張りを殺して、バロメッツを持ち去ったというケースである。この場合、犯人はいくらでも想定出来てしまい、殺害現場に居合わせたわけでもない調味部長に訊ねることは特に浮かばない。
もうひとつ考えられるケースは、バロメッツが自ら見張り番を殺害し逃走したというケースだ。本当にそんなことが可能なのかは無知なヴェルターにはさっぱり判断がつかない。だからこの博識な老人に訊いてみるのが一番手っ取り早く、信頼できる。
部長はしばらくの間長く伸びた髭をしごきながら質問の内容を整理しているようだった。ヴェルターはなんとかあくびをかみ殺す。老人はまだ黙ったまま。だんだん質問が通じたのかどうか不安になってくる。そんなころ、答えが返ってくる。
「……アレックスは、熱心な奴じゃった」
答えではなかった。
「奴は弟子の誰よりも一生懸命で、いつも机に向かって書物を読み漁っておった。口を開けば質問ばかり。見張りの仕事だって、調味部のためならと率先して引き受けてくれた。……他のやつらは、あれはダメじゃ。調味部の自覚も、誇りも、向上心もない。ただのグズどもだ」
ぶつぶつとした声は聞き取り難く、ヴェルターは耳を澄ませることで何とか内容を了解することが出来た。とはいえ会ったこともない人間の死を憾むことも愚痴に共感することもできず、反応に困る。的外れな答えは、それだけ悲しみが根深かったということなのだろうか。
そんなことを考えていると、調味部長は再び口をひらいた。
「バロメッツは知能を持ち、自走する。ただ、バロメッツを扱った文献は少ない。人を殺すような潜在能力についても、実際に人を殺めたという記録も存在しない。だからアレックスひとりに、あんなふうに見張りを任せたのだ。もっともこうなってしまった以上は、実は人を殺すこともできたと考える方が自然かも知れん」
ヴェルターは丁重に礼を言った。老人は無言で、杖をつきつつゆっくりと帰っていく。
何者かに持ち去られたのだと確定してしまった場合にその犯人を捜すことはひどく困難に思われたが、バロメッツが自発的に逃げ出したのならまだ一縷の希望はあるように思われた。なにせそう大きくない実と羊である。歩幅からしてもそう遠くまではいけないはずだし、人目につく。誰かに貰われていたにしたって買収する用意もある。迷子になってあちこち彷徨していたら不意に見覚えのある建物にたどり着いたような、そんな気分だった。
ヴェルターはしっかりとした足取りで歩みを進める。あとはひたすら足を使って町の隅まで虱潰しにバロメッツを探すつもりだった。四辺を壁に囲まれた狭い空間だ、半日もあれば見て回ることが出来るだろう。頭を使って考えるのは苦手だが、体力には少し自信がある。なにせこちらは料理人。毎日立ちっぱなしで重い器具をふるっているのだ。
屋敷を抜けて街道に出ると、陽はすでに真上まで登っていた。所狭しと並ぶ屋台のあちこちで、商人の威勢の良い掛け声が客を奪い合っている。血管のような道々を人が、馬車が、忙しなく行き交う。そこには都市というひとつの営みが息づいていた。ふとすれば一大事の真っただ中にあることを忘れてしまいそうなまでの、変わり映えしない日常である。
なんとか任務を完遂し、料理長に褒めてもらいたい。あわよくば給金も上げてもらいたい。
幅広な歩幅でもって、青年は、都市の喧騒に飛び込んでゆく。
4
風が冷たく感じられ太陽が赤く熟してくるようになると、片付けを始める店が段々と目立つようになり、とめどなく思われた人波も次第にまばらになってくる。代わりに石造りの無骨な家々からは夕餉の匂いが漂い始め、帰路に就く人々の足を速めている。名も知られぬ鳥が上空を横切り、郷愁を誘う鳴き声をあげる。熱気にあふれた喧騒はいつしかある種の落ち着きを取り戻し、夜の訪れを暗示する。
ヴェルターは路地へと通じる広間の石段に腰掛けていた。その悄然たる横顔が、半日もの探索の成果を雄弁に物語っている。脳裏に浮かぶのは磔にされて業火に炙られる料理長の姿。――人使いは荒かったけれど、悪い人では無かったのに。ひしひしと募る罪悪感と半日の徒労とが重なって身体が鉛のように感じられる。茜色に染まった石畳を見るに、市長と国王との会談まであまり時間もなさそうだ。なんの成果もなくどんな顔をして戻ればいいのだろう。そう思うと、ここからいくらも歩かないはずの市長の屋敷がやけに遠く感じられる。
ふと、視界の端に影が伸びているのをヴェルターは認めた。わずかに顔をあげれてみれば、自分の方を目指して歩いてくる少女の姿がある。歳は十台後半くらいだろうか。手には籠を提げている。何だろうかと訝しむうち、少女はヴェルターの前で立ち止まって、朗らかな笑顔を浮かべる。
「こんにちは。オレンジ、いかがですか」
眩しい笑顔から籠へ、視線をずらせばいっぱいにオレンジが載っていて、それで疑問は氷解する。しかしとても呑気にオレンジを頬張るような気持ちにはなれない。
「悪いけど、気分じゃない。また次の機会に頼むよ」
少女はそうですか、と残念そうに返事をして、ぷいと背を向ける。ヴェルターは少女から虚空に視点を落として、またあてもなくぼんやりとする。
空を仰げば陽は刻々と傾いている。料理長はいまごろどうしているだろう。市長への言い訳を考えているのだろうか。それとも俺を待っているのか。失望は免れないにしても、やはり屋敷に戻るべきだろう。ヴェルターは悶々と考え、溜息をつき、立ち上がろうとする。――その時。
「……ッ!?
目にぴりっとした衝撃が走り、その場にしりもちをついた。慌てて目元をぬぐってみれば、眼前で先ほどの少女が潰れたオレンジを手に悪戯っぽく笑っている。沁みたのはオレンジの果汁であったらしい。戯れのつもりだろうが、冗談じゃない。こっちはそれどころではないというのに。ヴぇルターは勢い込んで立ち上がる。
「――そういう悪戯はよそでやってくれ。俺はいま、気が塞がって水の一滴も飲めやしない気分なんだ。オレンジなんて、見たくもないね!
彼が早口でまくしたてるのを、少女はきょとんとして聞いていた。怯えるでもなく悪びれるでもなく、そんなに迫力が無いのかとヴェルターが内心ショックを受け始めるころ、ふたたび懲りない笑顔を取り戻す。
「……とても気が塞がっているようには、見えませんけど。まあ元気になったみたいで、良かったです」
「……」
ヴェルターは自分の出した声の大きさを思い出し、少しびっくりしたあと、むっつりと黙り込み、やがて少女に数枚の銅貨を手渡した。
5
「もしかして、それ、バロメッツのことですか」
「し、知っているのか」
うまいこと買わされた腹いせという訳でもなかろうが、駄目もとでこういう生き物を見なかったかと尋ねてみたところ、望外の答えが返ってきた。
「ええ、まあ、多少は。父がそういう変わった生き物を調べていて、家にもたくさん本があるのです」
しかしその存在について本で読んだことはあっても、昨日それを目撃してはいないという。
役に立つかと思ったが、そうでもなさそうだ。本で手に入る情報ならすでに聞いている。ヴェルターは肩を落とした。買ったオレンジを懐に仕舞い、せめて礼くらいは言おうかと口を開こうとする。しかし遮られる。
「それにしても、変なことを聞くんですね。あれが自分で町を歩いたりとかできるわけもないのに」
常識だろうとばかりの口調で少女は言う。だが、それは、間違っている。――間違っている、筈だ。
「おい、言ってることがおかしいぞ。バロメッツには知能があって、自分で走ることも出来るんだろ?」
「そんなわけないじゃないですか。確かあれの性質は極端に羊と似通っています。毛ももふもふしていて、温かい。しかし植物は植物なのです。自走はもちろん、知能なんて論外です
記憶を引きずり出すように中空をぼうと見詰めながら、少女は断言する。おや、おかしい。ヴェルターは考える。調味部長から聞いた話と完全に食い違っている。市民と部長では説得力は雲泥の差だが、これを単純な間違いと断じて良いのだろうか。
うんうん唸って考える。そのあいだに少女は、ひっそりとその場から姿を消している。
夜は更けてゆく。
6
ヴェルターは市長の屋敷を足早に歩いていた。表情は固い。無力感からくる自己嫌悪でなく、これから自分のやらなければならないことを思っての緊張が、そうさせている。
これではないかという結論が出たのはついさっきのことだった。食い違う証言と死体に残る微かな違和感、その他事件を構成する諸々の要素が奇跡的な閃きによって綺麗な列を成したのである。とはいえ正しいという絶対の自信はない。しかしやれるだけやってみると料理長に宣言したことを、ヴェルターはまだ覚えている。
目的の部屋に到達し、ノックを数回。「入れ」と声が帰ってきたので、その通りにする。
「失礼致します。貯蔵庫の一件の真相が分かりましたので、報告に参りました」
杖をつきつつ椅子から立ち上がる。そうして調味部長は、不思議そうな顔をした。
「どういうことだ。真相を話すならば、わしよりほかに適したものがおるだろうに」
ヴェルターは唇をなめて、震える足を整える。まっすぐに視線を伸ばして、答える。
「それは、あなたが、見張りを殺した犯人だからです。調味部長さま」
7
部屋には蝋燭が数本灯るのみで、薄暗い。炎の揺らぎは妖しく、不気味で、老人の立ち姿は異界の存在のようにすら見える。
「低能な料理人め。気でも狂ったか」
いきなりの暴言に少し傷つく。しかし負けてはいられない。ヴェルターは拳に力を込める。
「いえ、俺は正気です。調味部長さま」
悲しみに暮れる老人の姿は、いつしかどこにも見当たらなくなっていた。腕はしっかりと杖を握って、特注の包丁のように鋭い視線がヴェルターを睥睨している。さして面白くもなさそうに部長は鼻を鳴らす。
「では、問おうではないか。なぜ犯人がわしに絞り込まれたのか。そしてなぜ、わしは愛弟子のアレックスを殺さなくてはならなかったのか」
「そのふたつとバロメッツの行方はすべて同じ筋書きで説明することが出来ます。――バロメッツの運び込まれた深夜、あなたは差し入れを持って愛弟子のいる貯蔵庫に向かった。そして、」
大きく息を吸う。拍動する心臓に手を当てると、服越しにさっき買ったばかりのオレンジの感触がある。
「欲望に負けてバロメッツを貪っている弟子の姿を目撃した」
細められていた部長の眼がにわかに見開かれる。どういった種類の驚きなのか、ヴェルターには見分けがつかない。
「あなたは貯蔵庫で仰いました。アレックスは熱心だったと。彼はその熱心さゆえに、食欲に飲まれてしまった。……これが明るみに出れば調味部の名声は地に落ち、最低でも解散、ひどければもっと重罪に処されてしまう。だからアレックスを殺し、バロメッツを盗まれたように見せかけた。そうすれば罰されるのは料理人になるだろうと考えた。あなたはこうも仰いました。アレックス以外の弟子は調味部の誇りもないグズばかりだ、と。だからこの動機が通用する犯人は、あなたしかいないと考えました」
貯蔵庫で出会った時、老人は深い悲しみに包まれていた。初めは当然愛弟子を亡くしたからだと思っていた。しかし実際は違った。この老人は、唯一信頼を置いていた弟子が調味部の誇りも顧みずに私利私欲に走ったことを嘆いていたのだ。
「何を言うかと思えば、なんという戯言だ。ゴミめ。それはあくまで辻褄の通る可能性のひとつであって、他の選択肢を否定する理由にはならん」
「それでは、他の可能性ですが、――まずバロメッツは実際には知能なんてないし、自分では動きません。これは文献か他の調味部の方に裏付けてもらえるでしょう。あなたは記憶違いだったと主張なさるのかもしれませんが」
ガツン。ガツン。静謐の似合う調味部長の書斎に大きな音が反響している。部長が杖で、思い切り床を叩いているのだ。息が荒く、身体が小刻みに震えている。怒っている。理由はなんにせよ。ここまで来れば、もうあと戻りは出来ない。
「外部からの侵入者が殺したというのも、あり得ません。死体は仰向けに倒れていて正面を刃物で切られていた。もし見覚えのない人物が部屋に入ってくれば警戒するでしょうし、刃物が見えれば背を向けて逃げるに決まっている。これは見知った人物が不意打ちで殺したことを示唆しています」
「詭弁だ。アレックスが不審者に正面から立ち向かったのかも知れん。わし以外のアレックスの友人がバロメッツ食べたさに不意打ちで殺した可能性もある」
「あり得ません。そもそも犯行が行われたのは夜です。明かりをつければ目立ちますから、外部の人間はそんなリスクを冒すはずがない。内部の人間にしても、誰かに目撃されでもしたら真っ先に疑われてしまいます。つまり犯人は現場にたどり着くまでは殺すつもりなんて無かった人間です。だから目撃されることも恐れずに、夜に明かりをもって現場に足を運んだ」
ガツン。ガツン。音はやまない。
「待て。なぜ殺されたのが夜だと分かる。早朝に殺されたとしたらどうだ。人どおりも少なからずあるし、光源も要らぬ。目撃されたくらいではどこに向かっていたのかも特定できないし、一方的に疑われることもない。早朝に内部の誰かがバロメッツ食べたさにアレックスを殺したのだ」
「現場には蝋燭がまるまる一本まだ残っていました。早朝まで生きていたのならその蝋燭にも火は灯されていたでしょう。高級品の蝋燭を、調味部の人間が余分に持っていたとも思えません」
滔々と語る一方で、この推理に穴があるかもしれないともヴェルターは考えていた。しかし彼には自分の推論を裏付ける根拠がある。
それは遺体に残っていた血液の違和感である。乾き方に差異があるように見えたのは、人間の血とバロメッツの血が混じっていたからなのだ。バロメッツの性質は羊に酷似しているという。それなら果汁が血のようであってもおかしくはない。いまとなっては両方乾ききって証拠にはならないだろうが、ヴェルターの推理に自信を与えてはくれた。
「現場には、バロメッツの殻が残っていませんでした。真実を覆い隠すため、犯人が持ち去ったのです。部屋を調べさせてください。あなたが貴重なバロメッツの殻を、捨ててしまうとは思えない」
震える声が言い止むと、二人の間には永い沈黙が横たわる。杖を床にたたきつける硬質な音だけが老人の書斎に響いている。――その時ヴェルターは、あるひとつの致命的な見落としについて気が付いた。
凶器である。犯人はいかにして、被害者にあのような傷をつけ、死に至らしめたのか。それが明らかになっていない。老人はこの瑕疵を突いてくるだろうか。箍が外れたように噴出してくる焦りと恐怖をなんとか必死に抑えつけながら老人を見据える。その口が、ゆっくりとひらく。
「……貴様はひとつ、間違っている」
そういって調味部長は、杖の取っ手を持ち上げた。杖は二つに割れ、取っ手の先からほっそりとした刀身が露わになる。からんと音を立てて、鞘が床に転がる。
老人は呵々と嗤いだした。濃い影の奥の淀んだ瞳に見詰められ、論理の武装が白刃の前にどれだけ無力かということを思い知らされる。老人には初めから、いつでも殺す用意があったのだ。
「貴様はわしが調味部の誇りを護るために奴を殺したと言ったが、そうではない」
一歩、二歩。二本の足で矍鑠と歩く。ヴェルターは必死に逃げ出そうとして、足がもつれさせ転倒する。後ずさっても扉にぶつかり、そこで抵抗は終わる。あとは幼い野兎のように、縮こまって怯えている他に術はない。料理人は料理人。今さら考えても仕方のないことを考えて、泣き出しそうな後悔をする。
「奴は、このわしを差し置いて未知の食材を喰いおったのだ。殺す理由など、それを措いて何がある
空気の切れる音がして刃が動く。老人の手捌きとは思えぬ手際でヴェルターの頬に赤い線が引かれ、つうと鮮血が伝う。ひいと情けない悲鳴があがるのを肴にして、老人は刃先に付いた紅をぺろりと舐めとる。
「今となっては悔やんでも仕方のないこと。未知の食材ならば、わしの目の前にもあることだしのう……」
大振りに腕を振りかぶられてなお、ヴェルターは動かずにいる。老人を狂気が支え、狂気を食欲が支えている。人間の最果てのような姿を脳裏にべっとりと焼き付けて、恐怖のうちに死を垣間見る。
老人は躊躇わず、刀を振り下ろした。
「ぐああああああああああ!!
悲鳴をあげたのは老人の方だった。
直前ヴェルターが身体を引き、それで白刃は青年の身体を薄く切り裂くに留まった。そして切り裂かれた懐のオレンジが起死回生の飛沫を放ったのである。突如響いた悲鳴に、にわかに立ち上る柑橘系の香りに、ヴぇルターははっと我に返る。眼前には刀を取り落して両目を覆う老人がいる。
遮二無二立ち上がり、無我夢中で老人を目指して突っ込んだ。
叫び声が部屋に満ち、蝋燭の炎が揺れる。
8
四角く切り取られた窓枠の向こうは暖かな日差しに満ちている。時折揺れる木の葉のなかに在りし日の蝋燭の揺らめきが見えて、ヴェルターは天井のほうへと視線をずらす。
自宅のベッドで彼は無為な時間を過ごしていた。夜中に煩いと苦情を言いに来た執事が書斎の惨状を目の当たりにして料理長と駐在の兵を呼び、あの日の狂騒は終息した。ヴェルターはすべての事情を料理長に説明し、一方的に休養を取り付けて帰宅して、それからもう三日になる。
身体の方は何ともないが仕事に戻る気にはまだなれない。料理をしたい欲はあっても、ショックからいまいち立ち直れていないのだ。我ながら軟弱なものだと笑いながら、そのうち何とかなるだろうと楽観的に構えている。見舞いに来た料理人仲間たちには苦笑されたが、安心させることも出来たようである。
コンコン、とノックの音が響いて、ヴェルターは玄関に向かった。扉を開けると、料理長が立っている。会うのはあの日以来だ。
「やあ。上がってもいいかな」
ヴェルターは無言で、部屋の奥へと案内する。
「すみません、一方的に休んでしまって。……怒ってますか?
「構わないさ。私のほうこそ、あの件に関しては、すまなかったと思っている。それに、後処理が立て込んでしまって、今日まで見舞いの時間も取れなんだ
あの料理長が、謝った。ベッドに腰掛け料理長に椅子をすすめながら、ヴェルターは静かな衝撃に浸る。
「いえ、仕方のないことですから。こちらこそ、心配かけてすみません」
すみませんの応酬。いつも殴られたり叱られたりしている相手との会話とは思えない温度差が、なんとなし気まずく感じる。ヴェルターはやや慌てながら二の句を継ぐ。
「身体の方はもすっかり良くなりました。それよりあの日のことは、どうなったんですか」
「ん、ああ。お前が話してくれた通りのことが真相として市長の耳に入った。部長は地下牢で味のしない粥を毎日啜ってるよ
真相を知った市長の怒りは尋常ではなく、部長は火あぶりにされかけたが、調味部の弟子たちの嘆願によってなんとか免除されたのだという。しかし調味部は潰されてしまい、弟子たちはなけなしの手当てとともに市井に追いやられてしまったそうだ。部長の書斎から見つかったバロメッツの殻は、市長の私物となった。
「……これで、良かったんですかね」
ヴェルターは、ぽつりとつぶやいた。
好きなことをして、楽しく生きていきたい。できれば周りの人にだって、同じ気分を分け与えながら。ただそれだけの気持ちで料理人になったのに、あまりにも大きなことを成し遂げてしまったような気がする。大きいというのは、善いということには直結しない。それくらいのことは、しがない若造にもわかってしまう。
しばらくの間を置いて、料理長は、やれやれと大げさな溜息と共にヴェルターを見つめる。
「何をありきたりな落ち込み方をしているのだ、貴様は。このわたしにありきたりな励ましの言葉を吐かせようというのかね」
言うまでもないだろう? と不機嫌に言う。そうして身を乗り出して、ヴェルターの頬に指先を伸ばした。赤い切り傷の痕を不釣り合いな繊細さでもってなぞり、続く声は堅い。
「私のために料理を作れ。それが貴様の職務だ。……この傷が完全に癒えるころには、わだかまりなど失われていよう
ややもすれば戸惑いは消えて、ヴェルターも口端を緩ませて笑うことができるようになる。
「料理長がもうちょっと若けりゃ、それも考えていたんですけどね」
9
「ああ……そういえば」
街の中心部から鐘の音が聞こえてきて、そろそろ時間だと料理長は立ち上がった。見送ろうとするヴェルターを静止して玄関へと歩き始め、ふと途中で何かを思い出したように振り返る。
「単純な好奇心で聞かせてもらうが、お前は刀を持った料理部長をどうやって取り押さえたんだ? お前にはそんな力も度胸もないと思っていたが」
あの日のことを思い出すのは苦痛を伴う作業であったが、今に限ればはそうでもないとも言える。小馬鹿にしたような口調も対して気にならず、ヴェルターはいくらか気取った気分で、口を開く。
「そうですね。俺の勝因は、さしずめ……」
(了)