それでもええで!
という方のみ第百三十八話をお楽しみください!
暗い。目を開いているはずなのに、自分の手や体が瞳に映らない。目隠しなどの物で、瞼の上を覆っているわけではない。それほどまでに、頭上から降り注ぐ月光を木々が遮ってしまっている。
走っているうちに、山の奥に迷い込んでしまっていたようだ。木の一本一本が太く、かなり密生している。枝に頭をぶつけ、よろけたところを幹に体をぶつけ、姿勢を大きく崩してしまった。シットリと水分を含むコケの上に尻餅をつき、座り込んでしまう。
すぐに膝や太ももの筋肉で踏ん張り、時間をかけてもいいから立ち上がろうとする。しかし、実際はそうも簡単ではない。
足だけでなく、立つために働く体の骨格が限界を迎えている。仕方なく木の幹や地面を掴み、体を引きずって木の陰へ移動した。
負った怪我の確認で光の魔法を発動し、瞳に入って来る光量を調節することもできるが、今は回復を優先した方がいい。
木の幹から数センチの位置まで顔を近づけなければ見えないが、コケがびっしりと生えている木の根元に、寄りかかる。腹部や胸を押さえ、何も見えない景観周囲に意識を向けた。
目での捜索はほぼ意味がないが、魔力の性質や音から連中が接近しているかを探る。木が密集して群生しているおかげで、風はほとんど起こっていない。草木を揺らした音に惑わされることは無いだろう。
得体のしれない人物が森に入って来ている割には、動物たちの動きは感じ取れない。
人間よりもはるかに発達している感覚器官で察知し、逃げようとするはずだが、私の周囲では雑音が発生しうる状況が極限まで削がれており、かなり無音に近い。
これは、動物たちが息をひそめているのではなく、この周囲にはそもそも存在していないのだろうか。
私を追跡しているであろうあの四人の気配はない。追い詰めている事を理解し、足音を消している可能性を考慮して魔力の捜索もしたが、そこからも特定の周波数を持つ人物たちを感じることはできなかった。追手は、少なくとも周囲五十メートル以内には迫っていない。
「ふぅ……」
追われていないことで、安堵から来るため息が漏れた。それでも気を抜きすぎて意識を失うことを避けるため、適度の緊張は保つ。
これだけの重傷を負っていたのに、よくあの四人から逃げ出せた。そう自分を称賛してやりたいが、どうもそう言う事ではない。逃げられたというよりも、逃がされた。と表現した方が近い。
途中で気が付いたが、追ってきていたのが異次元妖夢と異次元早苗だけだった。異次元霊夢らは、力を奪うのはこの時ではないとしているようだ。それを察したらしく、二人は途中から追撃を切り上げた。
そりゃあそうか、これだけ出血して血痕を大量に残しているのに、奴らが追ってこれないわけがない。森の中でリグルを追跡した異次元妖夢は特に。
それならば今のうちに、異次元妖夢との戦闘から負っていた傷を治癒させるとしよう。ズキズキと痛む数多くの斬創や打撲痕、裂傷を魔力で回復を早めた。
疼痛からの苦痛が続くと、どうしても創傷付近を押さえている手に、自然と力がこもってしまう。握れば布の線維と繊維の間に包含される血液が、体内から新たに出てくる鮮血の代わりにジワリと滲みだす。
しかし、それも長くは続かない。十数秒、という短すぎる期間で完治する。異次元霊夢達と、したくない再開を果たした時と比べ、再生する速さが常軌を逸した速度になってきている。
私がどうかなど、どうでもいい事か。それよりも、異次元幽々子が保有する第二の能力の方が、半端じゃない程に規格外だ。
死んだ人間を。いや、厳密には異次元幽々子の持つ、死を操る程度の能力で殺した人間、もしくは妖怪を生き返らせるという物。悪夢と言える。
数万年、数億年、それ以上前から生と死の関係は、常に一方通行であることが原則だった。覆ることのない法則だったはずだ。人間や妖怪に限らず、万物に適応される基盤が、ひっくり返った。そんなありえないと言い切れるレベルだ。
異次元早苗の時は、すぐに移動していて見ていなかったが、着弾するコンマのタイミングで死に誘われたのか。それとも、撃ち抜いたとしても、殺しきれていなかったのか。
異次元妖夢の時は言わずもがなだが、異次元咲夜を殺した時、死を操る程度の能力を感じなかった。いや、メイドの殺気に紛れて見逃してしまっていたのだろう。
私が殺したと思っていたが、横からかすめ取られていたようだ。周りに気を向けている暇はなかったが、それをして異次元幽々子の存在を検知できなかった私の配慮不足が、この状況を生んでしまった。
失敗の尻拭いは自分でしなければならない。異次元幽々子が扱う第二能力の対策と、生きかえってしまった異次元咲夜達の処理を、しばらく念頭に置くとしよう。
「…ああ、そうだ」
周りに奴らがいないことは確認できたし、奴らが生き返ったことを紫に伝えて霊夢達を元の世界まで撤退させなければならない。
境界を操る程度の能力の性質を持った魔力。それが含まれている連絡用の小さなボールを取り出した。
「紫、聞こえるか?」
本当に紫へとつながっているか怪しい、陶器に近い材質のボールだが、それに声をかけて数秒すると、彼女の声が帰って来る。
『……どうかしたの?』
「端的に言うと、きちんと殺したはずだったんだが……こちら側の妖夢たちが生き返った」
実際に死んだ異次元妖夢たちが、蘇生されたのをこの目で見たとしても、荒唐無稽な事を言っているように自分でも聞こえてしまう。それなのに、他人に説明しなければならないというのは、難易度が高そうだ。
通信を始めた当初、彼女が応答するまでよりも、ずっと長い沈黙。第二の能力だったとしても、そんな生き返るなんという現象を、信じ切るつもりにならないだろう。しかし、私が冗談や嘘を言えるような状況下に居ないことはわかっている。
『この世界にいる幽々子がしていた、あれは…そう言う事だったの?』
紫の言うあれ。異次元幽々子が、部下である庭師の肩に白い歯を食い込ませ、食いついていた光景が脳裏を過る。
「……ああ」
『達ってことは、妖夢だけじゃないみたいね?』
話が速くて助かる。さっそく彼女に、霊夢達を元の世界に戻るように伝えなければならない。
「そう言うことだぜ。咲夜も殺したんだがな、また戦わなきゃならないみたいだ。…それよりも妖夢に襲撃を受けて、そっちはだいぶ被害を受けただろうし、…連中が押しかけて来る前に帰るんだ」
『……そうね…。退くとしたらここらが潮時だと思うけど、霊夢がうなづくかしら』
霊夢はそこまで頭の固い奴じゃなかったはずだ。頭の回る紫ならきちんと説得してくれるだろう。
「うなづかせるんだぜ、もし霊夢に何かあったら我慢ならんからな」
『ええ、何とか説得する。でも、あなたはあなたでどうするの?一度戦った相手を倒すのは、簡単じゃない』
そんな事はわかっている。一度目でも相当頭を捻り、苦労して実行した。今度は奴らもある程度は想定してくるから、さらに捻りに捻らなければならないかもしれない。
「そんなの、わかって……」
私が紫に返答を返そうとすると、本当に小さな音だったが左前方から、自然的ではなく人為的に草がかき分けられた音が聞こえてきた。
会話に意識が向き、周りに対する注意力が散漫になっていた。光の魔法で視界を確保する暇もなく、二十メートルは離れていた距離が一直線に詰められた。
座っていた状態から立ちあ上がり、攻撃に移ろうとしたところで、背の高い草をかき分けて何かが現れる。
その速度から人間でないのは一目瞭然だった。こちらに気が付いているのか、そのまま急速に接近してくると、立ち上がろうとしていた私に衝突した。
タックルや突撃が目的ではない事が、すぐにそこから読み取れた。私がいることなど想定したぶつかり方ではない。そのまま走り抜こうとしていたその人物は、立ち上がる前だった私に足を引っかけ、大きくバランスを崩して転げ込んだ。
人間の倍以上のスピードが出ていた人物に突き飛ばされ、私も例外なく転ばされた。来ているのに気が付かずにぶつかっていたら、頭を地面に打っていたかもしれない。それほどに力強い突撃だった。
そこでようやく光の魔法が発動した。仰向けに倒れたことで、視界が上下反対に映る。不意なことで痛みが生じている個所を押さえ、起き上がろうとしている人物を捉えた。
白狼天狗とは違う茶色の腰まで達する長い髪、夏だというのに熱そうなロングタイプのドレスを着て、隠れている豊満な胸元には、真珠の様な赤い装飾品が施されている。その頭部には特徴的である大きなオオカミの耳が生えていた。
彼女は、異次元今泉影狼。日本では狼男と呼ばれる人狼だ。ただの人間よりは暗闇でも鼻や目が聞くようで、頭を押さえていた奴がこちらに気が付くと、顔を引きつらせる。
「影狼!何やってるの!?」
人狼にばかり目が行っていて、気が付いていなかった。空中にもう一人いたようで、転んだ彼女の元にふわりと着地する。
「早くしないと…あいつになんて言われ……るか……」
異次元影狼の様子がおかしい事に気が付き、自然ともう一人も彼女が見ている方向に視線が誘導され、視界に私の姿を収めたようだ。人の顔を見るなり、みるみるうちに顔を青ざめさせる。
「なん…で………なんでお前がここに……!」
炎のように赤い瞳と、短髪の髪が印象的で、紫色の大きなリボンを後頭部で結んでいる。シャツは黒に近い色をしているが、スカートや首や顎の位置まで隠れるマントは真っ赤で、森の中だとかなり目立つ。
空から降りてきた異次元赤蛮奇は、マントを振り払ってこちらに手を向けると、今までの連中から比べると、大した威力ではない弾幕を放ってくる。
倒れていた体勢から、横に転がって避け切った。体中の筋肉をバネとして使い、瞬発力で流れる様に起き上がる。
二人がいた位置に手のひらを向け、レーザーで薙ぎ払おうとするが、その頃には背を向けて逃走を図っている。
いきなり会話が途切れ、何かが起こった音を紫は聞いたようで、私の身を案じる声が例の玉から聞こえてくるが、無理やり通信を途切れさせた。
逃げるのであれば放っておく、という選択肢もあるが、後々に奴らと戦闘になるのも面倒だ。ここで片づけておきたいのだが、なんだか様子がおかしい。
彼女たちからは、力を奪おうとする異次元霊夢達の様な気迫がない。弾幕も威力がなく、倒すためというよりは、私を追い払いたいだけのように見えた。
しかし、彼女たちは何をそんなに慌てているのだろうか。転んだ仲間に何をしている、と叱咤するほどに、追い込まれてしまっている。
何かから逃げているのであれば、うなづけるのだがそう言った事もない。あいつらになんて言われるかという異次元赤蛮奇の言葉から、なにかよからぬことをしでかそうとしているのを推知する。
ここまでわかっているのであれば、私の考え過ぎという一言で終わらせるわけにはいかない。走り去ろうとしている二人の追撃を開始した。
前方の木をかき分けて走っている二人が、何かを話しているのが遠目に見えても捕捉できた。耳の聴力器官に魔力を送り込み、一時的に聴覚を上昇させる。
普通の人間以上、もしかしたら犬や猫を超える聴力が発揮され、二人が介している会話を聞き取った。
「…っく…そ…!」
この声は異次元赤蛮奇だろう。追跡を始めた私に対して、悪態をついているようだ。こいつらの上に立つ者が何を考えているのかは知らないが、何かをされる前に作戦をぶっ潰してやる。
「あいつ…追って来た…!」
「ど、どうする!?このまま向こうに行ったんじゃあ、絶対についてくるよ!?」
「わかってる!…くそっ…くそっ…!」
荒っぽい口調の異次元赤蛮奇は、毒を吐くのが止まらない。進んでいた体を反転させ、私に向かって数発の弾幕をばらまいた。
殺気がない、時間稼ぎをしようとしているのが丸わかりな攻撃。こんな芯の通っていない弾幕など打ち落とすまでもない。
下をくぐり左右に体を傾け、走力をほとんど落とすことなくすり抜けた。殺すという考えは変わらないのだが、私の中では確実にやる。という意志が固まりつつある。
あいつらが向かおうとしているのは、私たちの世界である可能性が高い。組織が分割されており、そこの部隊と合流する過程での向かう、ならば別に問題ない。そこごと潰せばいいだけだ。
しかし、その向かうが、世界を渡る物だとすれば、由々しき事態となる。特に恐れなければならないのは、こちら側と異次元側の者とで、入れ替わりが起こることだ。
内部から集団を破壊されかねない。一度それが見つかれば、居ないはずの敵に怯えることになる。人間不信に陥り、信用できる者がいなくなり、群れが崩壊してしまう。それが考え得る中で最悪の事態だ。
「……」
このように入れ替わりを危惧していたが、それも奴らの様子を見ていると違う気がする。入れ替わりはバレないように動かなければならず、私に見つかったことで計画が狂い、罵倒しているのかと思った。
状況を客観的に述べると、奴らから見れば私は霊夢達と敵対しているように見えるはずだ。連中にも情報網はあるはずで、霊夢達と行動していない所や、私が彼女たちから攻撃を受けている場面から、それらはわかるだろう。だから、誰が入れ替わったかを伝える術はないと考えるだろう。
私に着いて来られれば確かに邪魔なはずだ。だが、本人さえ殺すことができれば、成りすますことは簡単だ。奴らが嘘を付けば、それが事実となって御尋ね者の私がむしろ攻撃の対象となる。
それなのにあれだけ動揺するという事は、自分たちの他に別部隊がないと言っているようなものだ。異次元影狼達はこのまま私を引き付け、別動隊に私たちの世界へと侵入させれば、顔も見たことのない別動隊が、誰と入れ替わったのかもわからないからな。
そして、奴らが青ざめた理由はここからだ。上からの命令で向こうは私を殺せないが、私は奴らを殺せる。初めはこういう理由があったから、殺されるかもしれないと青ざめたのかと思った。
ここで思い出してほしいのは、異次元影狼の向こうにまでついて来てしまうという言葉だ。この段階で私に見つかって追われたくないということは、彼女たちの作戦を座礁させる要因と為り得る。そして、私に元の世界に戻ってほしくはないのだろう。
こいつらの邪魔をするのであれば、向こうに私が行った方がいいのだろうが、異次元霊夢達の注意が霊夢に向くのは困る。ここで彼女たちを片づける。
レーザーを二人に向けて照射しようとした直後、私の手元に魔力が集まったことを、振り返っていた異次元赤蛮奇が察知する。
「影狼!先に行け!」
体を浮かせ、進んでいた方向とは逆方向に力を働かせる。対照的な動きで接近され、体感的には倍以上の速度で異次元赤蛮奇が突っ込んできた。
奴の手には、見慣れない鎖鎌が握られている。長い鎖の片側末端には、金属で重量が確保されている分銅が取り付けられているであろう。
確信がないのは、鎖を握る手を軸に、唸る速度で振り回されているからだ。妖怪の腕力を遺憾なく発揮し、分銅が付いているはずの先端が速すぎて見えない。
その鎖を目で辿り、反対方向に向かわせる。戦闘前に研いだであろう、新品の様な滑らかな刃に仕上がった草刈り鎌が、奴の手の中に握られている。
分銅で私の動きを止め、草刈り鎌でそのうちに攻撃する算段なのは、その武具について多少の知識を持っていればわかることだ。
腕に巻き付けるでも、直接当てるでも、どちらも追跡の障害になるのは間違いないが、後者については特に面倒だ。妖怪の腕力を考慮すると、どこの骨だろうと簡単に砕けてしまうだろう。
魔力の性質を、レーザーからエネルギー弾に変更し、鎖の長さから分銅の射程に入る前に、飛んでくる妖怪へと放った。
プログラムを書き加えておき、数メートル進んだ淡い光を放つ弾幕は、爆発にしてはしょぼ過ぎる音を鳴らしてはじけ飛ぶ。
奴は私が目測を誤って射撃したとでも思ったらしい。分銅側の鎖を掲げ、投げつけようとした瞬間に、見通しの利かない視界でも感づいたようだ。
空間が歪み、爆風という名の壁に衝突した。魔力で制御していた進行では、当然ながら抗うことなどできない。強力なGが身体にかかっていそうな、急峻な角度で跳ね返した。
驚き、鎖を放してしまったようだ。振り回していた分銅付きの鎖が、あらぬ方向に進んで伸び切っているが、引き戻すまで奴の思考が行きついていない。
咲夜や妖夢の記憶を元に、伸びきった鎖につながる草刈り鎌の柄に左手を伸ばす。驚きで柄を握る握力が緩んでいる奴から、鎌を捻り取る。
大きく振りかぶり、体勢を整い切れていない異次元赤蛮奇の首元に、鎌を左方向から横凪に叩き込む。弾幕で跳ね返したことによる位置関係を、十分に考慮しきれていなかったようだ。
首を跳ねるはずだったが大幅にずれ込み、こめかみの目側に近い場所へ鋭い切先が抉り込む。手ごたえは十分とは言えない。
空中では、魔力で足場を作らなければ勿論踏ん張りがきかない。己の腕力だけで刃を振るわなければならず、威力が半減してしまった。
切先が数センチ潜り込み、頭蓋を貫通したところでそれ以上進めずに止まってしまう。それでも眼球に到達することにはなったらしく、異次元赤蛮奇の右目が充血し、だらりと血の涙を零す。
刺さった草刈り鎌に執着することなく手離し、奴の腹部へ真上からエネルギー弾を放った。避けようとする素振りは見せたが、奴は片目が使えなくなったことで目測やタイミングを誤ったのだろう。概ね狙い通りの場所へ、弾幕を被弾させる。
空中で爆発を起こさず、接触による起爆により、奴の肉体には8~9割程度の爆発の運動エネルギーが伝わった。
着弾時の腹部が、本人の意思に反して押し込まれ、上半身と下半身がそれに遅れる形でついていき、体がくの字に曲がる。
ほぼ垂直に放っていた角度により、数メートル下の地面へと突き刺さるように落下した。その速度たるや、萃香が扱っていた岩を投げつけるスペルカードの一つに匹敵する。
当然ながら目測を測れぬ目と、状況を把握できていない頭では、受け身を取ることなど当然できるわけがない。
異次元紫が私に射出した電車を超える速度で、骨格を無視した格好で地面にめり込んだ。地面を掘り下げる音や衝突音を除き、硬くて乾いた木材を無理やりへし折ったような、そんな乾いた粉砕音が響く。
これで奴は、しばらく戦闘不能に陥ったことだろう。止めを刺さなければならないが、殺すのは後にしなければならない。できるだけ短期間で戦いを終わらせるつもりだったが、奴の言う時間稼ぎはある程度達成されており、異次元影狼の後姿が遠い。
人間とは比べ物にならない、白狼天狗に匹敵する身体能力を上手に運用し、まっすぐに伸びている木々の幹を蹴って進んでいる。ああいう動きのできる人物からすれば、この地形というのはパフォーマンスを披露するのに、最高の場所だ。
三角飛びで木々を縫って行くが、幹を蹴りつけるごとに加速している気がする。私が全力で追っていても、その距離を離されていく。
レーザーで追撃したいところだが、左右に激しく跳躍している異次元影狼に当てるのはほぼ不可能だ。射撃で追跡が遅れるのであれば、やらない方がマシだ。
奴を追って数百メートルほど森の中を飛びぬけていると、木々の密生具合が散在していく。森の切れ目に近づいているのだろう。
私よりも一足先に、森の中よりも見通しの利く、月明かりに照らし出された外へと異次元影狼が走り抜けた。
ここからだと木々に遮られ、その先にある建造物が見えない。奴に隠れられる前に、手先に魔力を送り込む。
さっきとは違い、木を使用していた時の高速移動をしていなければ、密生していた大量の足場が邪魔をすることもない。奴を追尾する性質をレーザーに加え込み、上空に向かって放つ。
射撃した直後から追尾が開始され、草木を焼き切ってくぐり抜けた熱線は、柔らかくしなる金属のように弯曲して前方へと進んでいく。
頭上を越え、森の先へと落ちて行く。ここからでは直撃したか躱されたかわからないが、それもあと数秒だ。
密生していた樹木の密度具合が目に見えて低下し、大きく避ける必要のなくなった森の中からようやく抜け出した。
視界が一気に開かれた。森を抜けて来た私を迎撃する可能性を考え、魔力で体を覆っておいたが、その必要はなかったようだ。
草の生えていない地面に、異次元影狼が倒れ込んでいる。剥き出しにされている犬歯や眉間に寄った皺、目つきからこちらに対する敵意が感じ取れた。
倒れている彼女の焼けただれた片足からは、レーザーが直撃したことを物語る、白い蒸気がうっすらと上がっている。
後方からレーザーが飛来し、足首を貫いた。その過程でアキレス健を焼き切られたようで、異次元影狼は走り続けることができずに倒れ込んだのだろう。
異次元影狼にばかり注目していて、周りの景色に目が行っていなかったが、この場所には見覚えがあった。
月に照らし出されるその建物の外装は、自分の元いた世界でも飽きるほど眺め、目に焼き付いている物と同じ形をしている。
博麗神社だ。長い石畳が鳥居から本殿へと続き、一部の壁が破壊されている。生活スペースは、昼に私が破壊したままで、部屋の中に障子の残骸が転がっている。
本殿から離れた場所に位置する、古い納屋の扉が開いているところが昼とは違うが、そっちは特に気にする必要はない。
気にしなければならないのは、異次元影狼の更に後方数メートル先に、森の暗闇以上に黒一色の時空の歪みが存在する。
境界を操る程度の能力で作り出された、見開かれた目と同じ形をしたスキマだ。手入れという物をされていない、庭の中央に位置しているのには不適当な、明るい景色が映し出されていた。
大量のヒマワリが見えるそこが、元いた世界である。ということを、流れ込んできている空気の雰囲気やスキマの性質から感受する。
スキマから見渡す限りヒマワリが生えており、これだけの量のヒマワリが群生している場所など、太陽の畑以外はないだろう。
こっちとそっちでは時間の流れが違うのか、明るい景色で目が眩みそうだ。カンカン照りの太陽の下、手入れが行き届いているヒマワリが風でゆっくりと揺れている。
風に乗って、ヒマワリが醸すフローラルな良い匂いが鼻腔をくすぐった。久々で懐かしさすらも感じてしまう元の世界の空気に、浸ってしまった。
そして、失態を犯してしまう。その僅かな時間を異次元影狼は見逃さず、片足を引きずりながらもスキマを潜ってしまった。
スキマから見えていた範囲から、その外へと異次元影狼が跳躍してしまった。連中が異次元咲夜達の様な、第二の能力を所持している事を考えると、大体の戦力を異世界へと移している元の世界は、非常に危うい。
異次元影狼に続き、世界と世界を結ぶ境界の切れ目をくぐった。
夜になってから大分時間は経つが、日中の内に熱せられた気温というのは、中々下がらない物だ。コンクリートなどで地面や壁を覆っていた街に比べれば、気温の低下は急峻ではあるが、今すぐにとはいかない。
風が吹いても、生暖かくて気分の晴れない。僅かに死臭や血の匂いが含まれている不快な空気が、粘度が非常に高い粘液のように、べっとりとまとわりついてくるようだ。
どの世界線においても、非日常的であまり見ることのない現象だろうが、この世界ではただの日常で、いつも通りの風景だ。
他の世界の人間がいきなり今場所に現れれば、そのきつい死臭に鼻だけでなく、口まで塞ぐ勢いで抑え込んでいただろう。
嗅ぎ慣れた死臭は、今の私にとってはただの空気と変わらない。人間型の生物特有と言える、順応力の高さは恐ろしいものであるとつくづく痛感する。
しかし、そんな些細な体の変化などどうでもいい事だ。腕や指の間、首回りなどを通り抜けていく風を感じながら、歌でも一つ詠じたい様な気分になった。
唇をすぼめ、適当な力加減でゆっくりと息を吐き出した。フルートと呼ばれる楽器と同じ原理で気流が発生する。通常の酸素を取り込むことが目的である呼吸では、まず発生しないノイズが生じた。
それが綺麗な音色となって、風という五線譜に音符を乗せて音楽を奏でていく。自分でも機嫌がいい事を理解している。目的の達成がすぐ目の前まで来ているとすれば、誰でも晴れやかで、音楽でも謡いたくなることもあるだろう。
自分の好きだった歌を再現しているわけでも、何か元があるわけではない。ただ心のままに演奏していた。なのに、なぜこんなにメロディーが次々と浮かんでくるのかはわからない。まあ、どうでもいいか。
「♪~~♪~」
私のすぐそばに妖夢がいてくれれば、本当にそうは思っていなくても、称賛の一つでもあったかもしれない。主従関係である以上は、少なくとも形だけはそうしてくれることだろう。
「…♪……♪~…」
あの子には重い仕事を課している。力を手に入れた後で、やってもらわなければならない事があった。
ずっと隠していた目的を告げた時、戦争が始まってから哀という感情を捨てていそうだった妖夢は、初めて涙を見せた。哀しみ、憐れみを私に向けた。しかし、その裏では私のことを忌み嫌った。
忠誠を誓う部下がいて、それを利用してそんなことを懇願する主がいるか、と。あの顔を思い出すたびに、申し訳のない胸の苦しさを感じる。
しかし、私の胸の内は硬く、強固で、彼女の刃でさえ切り崩せないと気が付くと、諦めて従ってくれた。
我儘な私を許してほしい。本人がいないというのに、私は心の中でそう願った。
「いい音だね。こんなに綺麗な月が見える日には、持って来いだ」
物思いに耽っていいて、第三者の接近に気が付いていなかった。後方から聞こえてきた声に振り返ると、頭にツノを二本生やした小さな鬼が浮かんでいる。
鬼、というのにはあまりにも細く、華奢な肉付きである印象が強い。勇儀の様な活発的な雰囲気や、萃香の押し潰されるような重圧を感じさせることのない、弱そうな鬼。
「あらあら、嬉しいわね……でも、その賛美は本音の方ではなさそうね」
「心外だな~。こんなにも心の底から褒めてやっているのに」
傷ついた。そんな表情や仕草をして見せる人物は、戦争が起こる前からの問題児、何でもひっくり返す程度の能力を持つ天邪鬼。
「私としては…貴方みたいな小物が、未だに生き残っていることに称賛を送ってあげたいわ」
「そいつはどうも、ありがとう。でも、そりゃあそうだろう?私以上の悪党が出てくれば、悪は悪でも、いきなり豹変したりしない者のところに自然と妖怪は集まるもんさ。博麗の巫女から逃げ続けられるというお墨付きがあれば、天邪鬼だったとしても目を瞑る」
そうして、集まった者の大半は、トカゲの尻尾切りや犠牲として使い捨てられ、天邪鬼が生き残って来たわけか。
「それで、何の様かしら?最近は霊夢達が潰そうとしなくなったから、そのうちに成長させた組織で私たちを一人ずつ潰そうってわけかしら?」
「あ~正解正解、やりたくはないがね。私は…お前たちのセカンドプランであることが不満でね。……私の計画で滅茶苦茶にしてやるよ」
こいつの言っている事がどこからどこまでが本当なのかわからない。しかし、今まで逃げるだけだった鬼人正邪が、追う側へと移行しているという事だけで、こちらの邪魔をしようとしていることだけはその通りだろう。
「貴方も私の邪魔をするつもりなら、容赦なく死を賜ってあげましょう」
「いいね。とことんやり合おう」
私が死を操る程度の能力を持っていることを知っていたとしても、依然としてやり合う姿勢だ。だが、こちらとしてもただで倒されるわけにはいかない。
「たとえやれたとしても、貴方に私は救えない」
「お前の救うがどういう定義なのかは知らないが…私の、私なりのやり方で救ってやろう」
上下逆さまに浮かぶ鬼人正邪は黒色を主体とし、赤と白の混じる髪の間から、笑みで細めた目を覗かせる。ベロッと下を唇の間から突き出し、かかってこいと言いたげに中指を立てた。
次の投稿は9/12の予定ですが、リアルが多忙のため9/19になる可能性が高いです。