それでもええで!
という方のみ、第百四十四話をお楽しみください!!
小鳥はその聞き惚れる美しい声でさえずり、蝶やトンボなどの昆虫は餌を求めてるのだろうか。番の相手を探すべく、求愛行動で自分の魅力をアピールしてゆったりと羽ばたいている。
ここは森の中では珍しく、群生する木々の切れ目となっている。寿命か、災害かわからないが、数本の木が横たわってそこから新しい命が芽吹く。
私の数倍は長生きしている周囲の植物は、幹から枝が伸び、そこから更に葉っぱが広がる。大きく枝を広げても、密生具合が薄くなったことで山肌全てを覆うことが難しく、森の中に太陽の光が降り注ぐ。目を細めるほどに眩しい。
薄暗い森の中に降り注ぐ陽光に、腐った倒木と花々、昆虫たちが照らし出される。のどかな、どこにでもありふれている風景は、私の緊張する精神を少しではあるが落ち着かせてくれた。
せっかく戻って来たが、私はあの世界へとまた帰らなければならない。二度目であるが、やはり慣れるものではない。先ほどから心拍数が上がり、呼吸が乱れている。
改めて向こうに行く事を自覚すると、耳から心臓が飛びだしてしまいそうになる程、私は緊張してきてしまった。それを平和という言葉がよく似合う自然が、僅かに解消してくれた。
大きく深呼吸し、副交感神経を活性化させて、精神状態をリラックスさせる。一度や二度ではなく、ゆっくりと遅い呼吸を数十秒も数分もかけて行う。
まだまだ平常時とは言えないが、それでもある程度は心拍数も呼吸も戻すことはできた。雲一つないそれを見上げ、この世界に暫しの別れを告げた。
紫に連絡を取り、向こうの世界に行く手筈を整えようと思ったが、その必要がない事に気が付いた。魔力に、スキマの性質を持つ性質を持たせてやればいいだけだ。
紫をわざわざ呼び出す必要が無くなり、向こうからこちらにつながるスキマがある、太陽の畑へとわざわざ出向かなくてもいい。
前方にあの世界へつながる性質の魔力を散布し、空間の歪みを作り出す。スキマとは違い、空中にビー玉程度の小さな平べったい平面の球体が出現した。
これがゲートだとするならば、手のひらよりも小さいサイズでは当然ながら人間は通過することができない。
そのまま少しの間待っていると、真っ黒な海の底を連想する球体は、捻じれる様に巨大化すると、私が余裕をもって通れる大きさとなる。
トンネルが開通したのであれば、空気や光、音、物体に至るまで一方通行という訳にはいかない。何が入り込んでくるかわからないので、向こうにわかるのであれば手短に済ませなければならない。
だが、いざ目の前に道が現れ、向こう側の景色が見えると、躊躇する物がある。
こちらの木々が発生させたのか、向こうから伝わって来た物なのかわからない。前からも後ろからも聞こえる木々がざわめく擦過音が、鼓膜に振動という形で音を伝える。
ただの自然音のはずなのに、黒板をひっかくような、不協和音で精神をかき乱す煩音に聞こえてくる。私の精神的な弱さを現しているようだが、後戻りはできない。
前に進もうとすると、この世界よりも向こうの方が気圧が高いらしく、死臭が僅かに含まれる、生暖かい人肌の温風がゲートから流れ込んでくる。
それらは粘度が高い粘液であると、空気であるはずなのに錯覚する。ゲートの入り口にいる私の体に手を伸ばしてはねちっこく、舐め回すように肌を撫でる。非常に遠慮したい名残惜しさを残すと、ゆったりと後方に流れて行く。
殺気や敵意など、己の欲望に満たされている負の空気は、こちら側に入り込むだけで、正常な空気を汚染する汚染物になりそうだ。
異質な空気を肌や肺などの循環器、それらを持っていなければ野生の勘や感覚器官で感じ取った正常な野生動物達は、それに近づいてはならないとわかっているらしく、周囲から俊敏に立ち去っていく。
せっかくリラックスできる、平和な和やかな雰囲気で満たされていたその場所は、瞬くうちに戦場と変わらない空気で汚濁する。
自然が遠ざかるのに対し、その摂理に逆らって行くのは、動けない植物を除いて、生物では私だけだ。
できる事なら、虫や動物と一緒になって逃げだしたかったが、生憎ながらその思考は、奴らを倒すという戦闘意欲によって放棄され、止まりかけた足が無理やり前に歩を進めた。
紙芝居のページが捲られ、次のコマに移ったようだ。ゲートを境にして、世界がガラリと変わる。
森の中であるため、見た目はまったくと言っていいほどに変わらない。写真でも撮って、どちらが自分たちの世界の風景かを聞いたとしても、視覚情報からはどちらか判別することはできないだろう。
現像されたフィルムからは図ることはできない、音や肌で感じる触覚的な部分から、その違いは火を見るよりも明らかだ。
生暖かい風が肌を撫でる感触は、デカい舌で舐められているようで、ゾクリと鳥肌が立ってどうしようもない。
葉っぱや枝が風に靡かされ、大きく揺らめく。自然現象でこれまでにどれだけ聞いたかわからない、ごく普通で当たり前だった聞きなれた音だったはずなのに、不穏さが非常に際立つ。
耳障りと思えるほどに、大きい。いや、木々が揺れる音が大きいのではない。それしか、聞こえてこないのだ。
小鳥の綺麗で美しいさえずりも、シカやイノシシなど中型動物が大地を踏みしめる跫音や、荒々しい気道を通過する呼吸音もまったくと言っていいほどに聞こえてこない。警戒を怠らず、私は歩き出した。
この戦争に巻き込まれないように、身をひそめているのか。それとも、人食いの妖怪が食い殺す人間がいなくなったことで、その対象が動物たちに変わり、食いつくされたのだろうか。
そこに居合わせたわけではないから、真偽のほどはわからない。だが、森の中を歩いて見晴らしができる場所へと向かっているが、かなりの頻度で転がっているのは、長細い頭部と思われる頭蓋骨だ。
形からシカだろうと推測でき、むき出しになった草食動物特有の平たい歯がズラリと並んでいる。眼球が収まっていたであろう眼窩は、側頭部に近い位置でどこを見つめているかわからない暗い影は、吸い込まれてしまいそうになるほど不気味だ。
なぜ死んだのか私には知る由もないが、白骨化した動物の死体から目を離し、また歩き出した。頻度としては高くないが、歩いていると固い物がつま先や踵など、靴越しにその感触が伝わって来る。
木の枝か、動物の骨なのか。片手で数えられなくなってきた頃から確認もしなくなった。十分ほどの時間が経過すると、ようやく森の終わりが見えて来る。
初めてという言い方は不適切であるが、紅魔館に行く最初の侵入時とは、この世界の風景もだいぶ変わって来た。
辛うじて残っていた街並みは、七割か八割ほどが壊滅的に瓦解し、壁や屋根と思わしき瓦礫は家の数だけ積み重なっている。
遠くに見える山の斜面の一部が地滑りを起こしているように見え、山肌が露出している。私が戦った形跡のある場所が、遠目にちらほらと見えた。その数の分だけ人を殺めていると考えると、敵が減ったと手放しには喜べない。
聖に言われたことを思い出し、どうすればよかったのだろうかと悩みが再度浮上してくる。治ることのない癌の様に、脳を苛まされた。意識が思考に向けられ、処理能力が著しく低下していく。
そのせいだ。超高速で接近してきていた飛行物に気が付きはしたが、反応して行動に移るまでが遅れた。米粒ほどに小さかったその影は、たった一度の瞬きで突っ込んできている人物が誰なのか、判別できるほどまでに詰め寄られた。
幻想郷であらゆる妖怪の中でも、最速の名を数百年も前から譲らず、今も尚最速であり続ける種族。その中で特にスピードに秀でており、異変があるたびに情報をかき集め、新聞を作る文屋だ。
出来事に対して、狼や犬並みの嗅覚を誇る異次元文は、その持ち前の鼻の良さで森を抜けたばかりの私を見つけたのだろう。
真っ黒な翼を羽ばたかせ、細かい微調整を済ませた。構えるために手を上げようととしたが、一歩も二歩も早い。
私よりも一回りも大きく、硬く先鋭な爪が伸びる異次元文の手が首元に伸ばされると、頸椎を握りつぶされる勢いでがっちりと掴み込まれた。
人間をはるかに凌駕する握力を前に、振り払うことなどできない。それができるとしたら、肌や肉の一部をごっそりとその爪で抉り取られることだろう。
どれだけ私が踏ん張りを効かせ、異次元文の突進を耐え忍ぼうとしても、体重的にこちらよりも勝っている奴を止めることなどできない。
ほぼ動いていなかった状態から、人間が自力で出すことは到底不可能な速度に、急に加速された。重たい重量のある物体が、全身にのしかかって来たような重力を感じる。
異次元文が発揮する握力や突進の衝撃だけではなく、急加速での重力が気道を塞ぎ、肺を押しつぶされそうになる。空気を体内へと取り込むことができず、圧迫感から来る息苦しさが思考を塞ぎ、対応を更に遅らせた。
掴まれた直後とはまた違った方へ方向転換したらしく、新たにGがかかり、それに体を適応させなければならなくなる。流れて行く景色を確認し、識別する暇がない。
どの方向に向かっているかも、目的地も掴む間もなく。首を掴んでいた異次元文が手を緩めると、足をこちらに向ける。抵抗が間に合わず、無様にも蹴り落とされた。
体が動いている方向から、落ちているのは確実であるが、いつの間にか高度を取っていたのか落下が長い。眼下に広がる大量の瓦礫へと突っ込む寸前に、魔力操作によって空中で体勢を立て直した。
追撃を受けないよう、そのまま向いていた方へと前進する。私を蹴り落とした異次元文の気配が上空から羽を伸ばして来る。
すぐさま体を空の方へと半回転させ、手先に留めて置いたレーザーの性質を持つ魔力を狙いもつけずに撃ち放つ。
射程に使われる分の魔力を減らし、飛距離が短くなる代わりに威力へ多めに魔力をつぎ込む。それを三分割し、降下してくる異次元文を迎撃する。
一発の貫通力ではなく、面での制圧力を高めた弾幕で迎え撃つ。魔力操作と翼による翼力、風を操る程度の能力が掛け合わさり、アクロバティックで同じ生物とは思えない飛行の仕方で接近された。
まさに針に糸を通す身のこなしで、放った三発の熱線などかすりなどしない。彼女の下駄を履いた足が、土足で胸を踏み上る。
左右に避けたとしても、その俊敏さは一切衰えることは無い。その猛スピードと全体重が掛け合わさった踏みつけを食らえば、魔力制御など何の意味も持たない。
異次元にとりが放ったミサイルによって、舞い上げられていた砂煙がようやく降り積もったというのに、落下の衝撃で砂が宙に飛散する。
鼻だけではなく口からの呼吸に徹しても、砂埃の存在感は大きい。息が詰まりそうで、繰り返す呼吸を止めて砂が舞い上がっている区画から逃げ出したい。だが、止めていられる時間は限られる。その間に異次元文を殺害することはほぼ不可能だ。
埃がわずかにむくまれる砂煙を胸を膨らませて大きく吸い込み、脳に酸素を送り付ける。無理やり脳の回転数を上げてやり、次の一手を繰り出そうと異次元文に手を伸ばす。
あと数舜だけ手を伸ばすのが速いか、数ミリでも腕が長ければ、飛び去って行く文屋の足を掴むことができただろう。
身長よりも長い翼を大きく広げると、風を巻き起こしてはためかせて飛んでいく。そのまま上空を飛行する異次元文が、何かしらの攻撃を仕掛けて来るかと思った。いつ来ても対応できるようにしていたが、倒れたままの視界からは姿や気配を感じることはできなくなった。
十秒、二十秒と時間が経過していくが、一向に現れない。いきなりの奇襲に度肝を抜かれたが、時間さえあれば大したことはされていない。地面に半分埋まる形で放置されているが、体の上に乗っている土や瓦礫をどかしながら上体をゆっくりと起こす。
以前、異次元文が異次元妖夢を連れてきていた所から、天狗らが異次元霊夢とつながっていることはわかっている。街に連れて来るだけ連れて来て、その後に鴉天狗が何もしないなどありえず、異次元霊夢が何かしらの策を用意していると容易に見抜ける。
しかし、なにをされるかわからないのと、なぜ街にわざわざ連れてきたのかがわからず、足元から周囲へと注意深く視線を移すが、何かが見えるわけではない。
あるのは瓦礫、瓦礫、瓦礫。どこまで行ってもこの光景が続いていそうなほどで、人影などまったく確認することができない。動いている物があるとすれば、それは風に吹かれて舞い上がった砂埃か。瓦礫が重なっている山の一部が崩れ、転がっていく破片だけだ。
異次元文が起こす風圧に煽られてか、倒れていた地点の瓦礫や土が吹き飛ばされ、小さなクレーターを形成している。
そこから立ち上がり、改めて街並みに目を向けると、遠目で眺める以上に現地であれば、威力の高さが如実に伝わって来る。
この状態であれば、この町は一か月と持たないだろう。全体の七割から八割の建造物が崩れ、残っている家もその構造を保っているのがやっとのようだ。
私が落下した衝撃と異次元文が飛び去った風によって、ギリギリで維持していた均衡があっさりと潰れてしまう。
この周辺は家が比較的残っていたが、いくつかの傾いていた建物の側壁や屋根の一部が剥がれ、埃や砂をまき散らして地面へと落ちた。
自らが起こす衝撃に、自分が耐えられなくなっていたようだ。剥がれ落ちた重量分だけ建物のバランスには偏りが生じ、崩壊は全体に広がっていく。倒壊は耳を覆いたくなるほどの喧騒となる。
今回は巻き込まれなかったが、いつ崩れるかわからない建物しか見当たらない。それらに近寄らないルートを歩んでいく。しかし、奴らの居場所が分からず、どこに向かっていいのだろうか。地面に転がる大量の瓦礫に足を取られぬよう歩きつつ、視線は生きた者がいないかどうか目を皿にする。
河童達と戦っていた時と比べるとその面影もない街の中だが、爆風の影響が弱い地域へと差し掛かってきた段階で、じりじりと頭の奥で痛みを感じる様になってくる。
「…?」
なんだろうか。この頭痛は、普通じゃない。異次元鈴仙を見つけた時と似た痛み方をしている。自分にとって、この辺りは思い出したくない出来事があったのだろうか。
「………」
そんなことを思いながらも、歩みは止めなかったが、かすかに私が立てた以外の音が鼓膜を刺激した。
他の人間や妖怪がいるわけでもなく。小動物が居たとしても、異次元にとりとの戦闘でこの町から遠ざかったことだろう。私以外で物を動かす人物はいなかったはずだが、カランと進行方向で石が転がる。
瓦礫の上で何かがバウンドしている。目を凝らさなくても見えるそれは、手のひらサイズの小石だ。それが飛んできた方向に目を向けると、先ほどまでは半壊した家に隠れ、確認することはできなかったが、遠目に誰かがいるのが見えた。
ごちゃごちゃと考えていたことを放棄し、異次元霊夢らを倒さなければならないと、自分の中で緊張感を高めていく。
奴らの策がこれから始まるのか、もう始まっているのかはわからない。なのだが、様子見はできない。
見つかっている以上は、奴らも自分達の作戦を想定される行動はしないだろう。だから、私はこのまま奴らがいる方向へと行くしかない。
飛んできた小石が最初にバウンドした辺りまで歩くと、瓦礫で隠れて見えていなかった人物たちが視界へと入って来る。
全部で人影は五つ。そして、若干だが古さが際立つ、見慣れない木製の木箱が異次元霊夢の傍らに置かれている。
「待っていましたよ。霧雨魔理沙」
手元で白銀のナイフを弄ぶ、異次元咲夜が口を開いた。私はそれに返答はしない。返事を返すよりも、別のことで頭が一杯なのだ。
異次元咲夜たちが生き返った時にも思ったが、一人一人、順番で戦えるのであれば、まだ勝機はある。どうにかして、固まっているこいつらをバラバラに引き離すしかない。
「運が悪かったわねぇ。あと…数か月か一年…逃げ延びることができてればぁ、戦わなくても済んだのにねぇ」
奴らをばらけさせる案をたてようとしていると、異次元霊夢に先を越された。微笑みながら、縦横奥行きが正確に一メートルで作られた木箱の縁をゆっくりとなぞる。
「幻想郷を滅茶苦茶にして、十年も私を探してた奴が、そんなに簡単に見切りを付けられるとは思えないぜ。死ぬその瞬間まで他の世界に渡って、人を殺しまくるだろうよ」
「ええ、そうねぇ。………それより…向こう側の世界の居心地はよさそうだったわねぇ。一緒に戦ってたから…腰を据えてから一年や二年の付き合いじゃないんじゃないかしらぁ?」
異変を一緒に解決しようとしていた様子から、霊夢達との付き合いがたった数年ではないことは想像に難くない。
霊夢と二人で異次元霊夢を押せるだけのコンビネーションを発揮していれば、その考えは強く感じることだろう。
「十年前はいなくて苦労したけど…今回は簡単に出来そうねぇ」
十年前に爆発が起きたというのは、異次元鈴仙や鬼たちから聞いた。しかし、なぜ大爆発が起きたのか、過程を知らない為に動くに動けない。
何がトリガーとなるのか未知であり、異次元霊夢から目が離せない。隣に置いてある木箱の中身はわからないが、確実にその中にはトリガーに為り得る物体が入っているはずだ。
異次元霊夢との距離があり、箱自体の高さによって中を覗き込むことはできない。いや、見なくていい。中を知れば奴らの思惑通りになる可能性が高い。そうなる前に奴らを全員倒さなければならない。
異次元霊夢との会話を無理やり切り上げ、整っていた戦闘体勢から戦いへと移行するべく腰を落とそうとした。
自然現象で、異次元霊夢らがなにか仕込んだわけではない。雪の様に瓦礫の上や地面の上に降り積もる砂を、舞い上がらせることは無い程度の弱々しい風が立つ。
ふわりと向かい風で、奴らがいる方向から吹く。生暖かく、不穏さがにじみ出ている風がねっとりとしつこく抜けていく過程で、この戦争がはじまったころから比べるとだいぶ嗅ぎ慣れた匂いがする。
体内から体外への大量出血を物語る鉄臭さ、内臓が零れ出ている事による腐臭の混じる生臭さは、箱の中に誰か人間が入れられていると想像できた。
異次元霊夢達の中に怪我をしている人物がいなければ、それだけの匂いを発する死体や、奴ら以外に怪我人がいるわけでもない。
漂ってきた血の匂いに、何か、嫌な予感が沸き上がる。湧き水や間欠泉のように、予感から派生した不安が留めなく溢れて来る。
先ほどの異次元霊夢が言った、居なかったから苦労したという言葉は、何が居なくて大変だったのか。今と昔で、何が違うのか。何があって、何が無かったのか。と考えを巡らせる。
当時の私になかった物とはなにか。いや、状況を見れば、者だろう。守りたい人、守ってくれる人、一緒に肩を並べて戦ってくれた大切な人が居なかった。
今はどうだろうか。薄っすらとそれが脳裏をよぎり、異次元霊夢の言葉の意味を理解し始めると血の気が引いた。呼吸が早まり、荒くなる。私が状況を飲み込み始めたことを異次元霊夢は察したらしく、口角を僅かに上げる程度だった口元を、裂けてしまうのではないかと思うほどまで吊り上げて嗤った。
心拍数が増悪し、胸に手を当てなくても動悸を起こしているのがわかる。冷や汗が額を伝い、膝が小刻みに震える。
いや、ハッタリだ。あの霊夢が、こいつに簡単に負けるはずがない。そうハッタリだと思いたいのだが、置かれている古びた木箱の隙間から、赤黒い血液が漏れ出しているのが見えてしまい、押し込めようとした不安が逆に大きく膨らんだ。
「今回は楽そうだって、誰のことを言ってんだ?」
怒りか、恐怖心か。ぐちゃぐちゃに混ぜられ、渦巻いている感情はどちらを指しているのかわからない。わかっていないまま奴へと言葉を発すると、声が震えていた。
「あらぁ?そんなこと…貴方が一番よくわかってるんじゃないかしらぁ?」
考えたくない。認めたくない。見たくない。否定する逃走的な思考が次々と脳内を駆け巡っていき、それで私は慄然しているのだと理解した。
力強く、奴らを倒すと息巻いて進んでいた足は、不安定でおぼつかない様子で後退しようとしている。
「どこにいくつもりかしらぁ?」
奴らが殺気立ち、その気迫に押されているわけではない。ただ言葉を放っているだけだというのに、それ以上の効力を発揮してきた。精神面で気圧されている私がまた一歩と下がろうとした時、異次元霊夢が引き続いて口を開く。
「貴方に、この子を置いて行けるのかしらぁ?」
聞き捨てならない異次元霊夢の言葉に、下がりかけていた足が止まった。奴の口ぶりから、その中には霊夢がいることになる。彼女が倒されるはずがない。そう思いたいが、血液の漏れ出る箱の中身を確かめなければならない。
「嘘を…付くな…!そう簡単に…霊夢がやられるわけがないぜ…!」
箱の中身が、殺されている別の動物か人間の可能性も否定できない。自分にそう言い聞かせ、苦し紛れの反論をする。
「そおぉ?なら…自分の目で確かめたらどうかしらぁ?」
異次元霊夢は古傷だらけの手を箱の中へと突っ込み、誰かを掴んだ。勿体ぶる様にゆっくりと、人が入るにしては小さい正方形の棺桶から、人型の物体を引き抜いた。
黄色人種特有の血色のいい肌は、血の気が引いて青白い。特徴的な白と赤の和服は、体のあちこちから漏れだした体液で染め上げられ、垂れ下がった手足からは赤黒い液体が地面に滴っていく。
瞬きを行う気配のない、目を見開いたままの霊夢は、生物としての生をまったくと言っていいほどに感じない。
美しくもはかなくもあり、見とれるほどに整っているきれいな顔立ちの彼女は、指先の一本すらも動かす様子がなく。私に笑いかけてくれることも、話してくれることも、触れてくれることも、できなくなっている。
放っておけば微生物などの働きによって腐っていく。そんな人の形をした肉の塊を、異次元霊夢は私の目に焼き付けさせる形で見せびらかす。
ぐにゃりと、視界がゆがむ。極度のストレスによって脳が変調をきたし、視界不良を起こしているのか。それとも、私自身の体が傾いているのだろうか。
数十秒の時間をかけ、おぼろげながらに気が付いた。両方だ。しかし、それがどうした。そんなことが分かったとしてもこのクソったれな現状は一切変わることはない。
変わり果て、死体となった彼女を目の当たりにしても信じられず、認めていない、認めたくない自分がいた。
「嘘………だ………」
命という炎が燃え尽きかけ、風前の灯火と言えそうなほどの、か細い声。自分でも発声された音をほとんど聞き取れなかったというのに、奴は正確に聞き取ったようだった。
「嘘かどうかは…あなたの目で確かめたらどうかしらぁ?」
死んでいそうな人の死体を、ゴミを投げ捨てるように無造作に投げつけてくる。空中に放り出された彼女の体は、人形と変わらない。抵抗する様子を全く見せず、地面へと落下していく。
「霊夢……!!」
崩れ落ち、膝をついていて座り込んでしまっていた体は、もつれてしまうが自然と動き出した。手を差しだし、落ちてくる彼女の体をつかみ取る。
予想以上に重く、踏ん張りを聞かせることができず、よろけて後ろに倒れこんでしまった。突き出ていた瓦礫の一部が背中に刺さっても、何も感じなかった。今はただ、無我夢中だった。
「霊夢……!霊夢…!!」
倒れている彼女をこちらに向きなおらせても、だらりと意識を感じさせない投げ出された四肢から、私の絶望が加速する。
霊夢が、死んだ?
胸や肩で繰り返す運動が見られず、呼吸をしていない。開いたままである彼女の瞳は、濁り、私の方向ではなく虚空を見つめる。頭の重さを支えきれない首は、四肢と同様に首が座っていない赤ん坊のように地面の方を向く。
「…………………そん…………な…」
外気とそう変わらない冷たい彼女は、物を言わず。震える指先からズルリと逃げると、砂や瓦礫が散らばる地面へと倒れこむ。
「……あ…………ああっ…」
フラッシュバックとも、走馬灯とも言えるだろうか。この十年間、彼女と過ごしてきた思い出が頭の中を駆け巡っていく。楽しかったこと、悲しかったこと、苛立ったこと、眩し過ぎる幸せだった思い出が、鮮明に蘇ってくる。
これまでも、これからも守りたかった彼女の時間は、すべてが水の泡となった。霊夢を失ったという喪失感は胸に杭でも打たれたようで、計り知れないほどの大きな穴を穿った。
私は、この感情を言葉で表せるほど語学に長けているわけでも、知識が豊富であるわけでもなかった。
この行為に何の意味があるのか私自身もわからないが、頭を抱えて蹲る。自分を戒めるためか、気が付くと爪や指先が血だらけになるほどに頭を掻き毟っていた。
大量の負の感情が、脳内を埋め尽くしていく。今まで感じたことの無いほどの、一人で請け負うには莫大なストレスが発生した。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
理性などどこかへとかなぐり捨て、感情の赴くままに、獣となった魔女は悲痛な絶叫を上げた。
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