それでもええで!
という方のみ、第百四十五をお楽しみください!
東方繋華傷 第百四十五話 暴走
彼女を力の限り抱きしめても、彼女の体に生気が戻ることはなく。血がこぼれる彼女の口に唇を重ね、吐息を送り込んで蘇生を試みるが、息を吹き返すことはなかった。
今更手遅れだった。人間は体温が三十三度を下回るとかなり危険な状態と聞いたことがあるが、機器で温度を測定しなくても霊夢の体温がそれを下回っている。
どんな攻撃を受けても、異次元霊夢らに暴行を受けても、精神をある程度は維持できていた。今まで精神を保てていた心の壁を、人肌よりも十度近く温度の低い霊夢の遺体は、いとも簡単に砕いていく。
これ以上彼女を見るなと、自分を保ちたがっている精神の障壁は警笛を大音量で鳴らして警告するが、崩壊の波はそれよりも足が速い。
聖、すまない。この戦争が終わっても、私が霊夢と一緒に過ごせるようにと、そちら側へと手を引こうとしてくれた。その気持ちや期待に応えることはできなさそうだ。霊夢が死んでしまった今では、私にそちら側へと戻る意味がなくなってしまった。
確かに聖の言う通り、私は復讐に囚われている部分もあったかもしれない。しかし、自分の中で霊夢という存在は非常に大きく、かけがえのない人だった事は変わらなかったようだ。
そして、正邪。お前はどちら側に行くか決めなければ、最後の最後まで戦い抜くことは難しいと言った。誰かに言われてそれに従うのではなく、自分で骨の髄まで考え抜いて決めろと。
殺さなければならないと、思ってずっと行動はしていた。しかし、それは感情や復讐心からくる突発的なもので、後先を考えていないものだった。
冷静にどちらを取るか判断できていれば、直前で迷うこともなく、終わった後も後悔や懺悔に苛まされることはない。誰かを手にかけるときは、それが一番の理想だろう。
今回も、私は冷静に判断が下すことはできなかった。しかし、感情的な部分で殺生を決めたとして、冷静に判断した時よりも強力になるものがある。
殺意だ。
感情を殺して機械的に処理するのと、感情的に任せて力を振るうのとでは、敵に対する殺意は後者が圧倒的に上回るだろう。
だから、私は奴らを確実に殺せるほうを選ぶ。選ぶといっても現時点でそこまで冷静に居られるわけがなく、その選択しか見えてはいなかった。
そう、明確な殺意を用いて、霊夢が味わったであろうあらゆる苦痛や無念を最大限に味合わせ、冷酷無比にむごたらしく奴らを一人残らず殺してやる。
頭の中に残っていた倫理や道徳など、煩瑣的で非常なまでに鬱陶しくあった。こんな物、今更何の役に立つ。それらを念頭に掲げて正義にぶら下げていようが、霊夢は帰ってこない、生き返らない。生き返らないんだ。
殺す。殺す。殺してやる。そう何度も、自分の中でその言葉を反芻する。あいつらにこの世をこれ以上歩ませてたまるか。どこに逃げようが、どれだけ抵抗しようが、殺して殺して殺しきる。肉体だけでなく来世も生きられないように、魂までも完膚なきまでに壊してやる。
十数メートル先に立っていた異次元霊夢らは、殺された巫女の体を抱える魔女の異変に気が付いた。
明るくなってきて雲間から指す微光があっても、それははっきりと異次元霊夢らの目に映った。青白い、魔力特有の燐光が時間の経過で段々と濃くなっていく。
恐怖から怒り、憎しみへと感情が変わって高ぶっていくごとに、魔女の血圧が高まっているらしい。目にある毛細血管が張り裂けたようで、白目が真っ赤に充血していく。
口の端を吊り上げ、犬歯をむき出しにする魔女の表情は復讐者に相応しく、まるで鬼だ。眉に寄った皺や釣りあげられた目、充血した瞳からそれが相乗効果で強く見える。
その様子を見て、いいぞいいぞと異次元世界の博麗の巫女は口元を緩ませる。その様子を見て、ほかのメイドや巫女、花の妖怪もそろそろだと身構える。
力を手に入れられる瞬間が、もう、目の前にまで来ている。彼女たちはそう喜びを謳歌し、それぞれの武器を手に巫女を抱える魔女へと突っ込んだ。
時間を操れる異次元咲夜が初めに到達する。今までの手加減など一切なく、首を掻き切り、心臓を幾本の銀ナイフであらゆる角度から串刺しにしていく。
次いで、手入れが行き届き、切り裂くことできない物体の方が少なさそうな切れ味を誇る日本刀。前方に大胆に陣取った異次元妖夢は、腹を掻っ捌き、同時に背骨を両断する。
正面から後方へと走り抜け、往復して背中から血まみれの観楼剣で突きを放つ。あらゆる角度から胸に突き刺さる銀ナイフごと心臓を貫いた。
そのまま頭まで刀を振り上げようとする異次元妖夢だが、力を手に入れようと、わずかに遅いタイミングで花の妖怪が魔女の元まで到達するのを見て、巻き込まれぬように飛びのいた。
すでに血まみれで、常人なら死んでいるその魔女へと更なる追い打ちをかけられた。周囲の瓦礫しかなかった場所から植物が急成長し、魔女の両手両足を縛りつけた。
繊維が複雑に絡み合い、ちょっとやそっと人間が引っ張っても千切れない強靭な蔓が締め上げた手足は、いともたやすく半ばからへし折られる。
固定されている魔女の胸に拳が叩き込まれると、身長差から華奢な体が三十センチほど持ち上げられる。後方に大量の肉片や血液がまき散らされ、胸に大きな穴が穿たれる。
口から大量の血液が漏れ出し、拳を叩き込んだ人物の腕にボタボタと垂れるが、本人は気にも留めない。それどころかさらに胸へと腕を抉りこませる。
「……かっ…」
口から赤黒い血液と、血の混じる唾液を垂れ流す魔女は何も言わない。ヌルつく唾液と血液で、気道が塞がれているのだろうか。胸に抉りこむ腕が気道や肺を押し上げたらしく、ゴボッとくぐもらせて反吐を吐く。
赤黒い血液と肉片がこびり付く腕を異次元幽香は引き抜くと、傘を握る逆の手で魔女の顔をぶん殴る。腕を肉体に抉りこませた時と同じ、ぐしゃりと骨や組織がまとめて潰される音がする。
顔が潰れ、血肉が弾ける。殴った衝撃に体が後方へと吹き飛ぶが、手足を縛りつける蔓に魔女の身体は押さえつけられた。だが、長くは続かない。
衝撃に蔓ではなく、魔女の肉体が耐えられなかった。骨が折れ、破片で周囲の組織が損傷していた部分が断裂し、巻き付いていた手足を残して宙を舞う。
他の者に追い抜かれ、一番後方を走っていた異次元霊夢はその段階ですでに立ち止まっていた。
異次元霊夢以外の誰も気が付いていなかった。四人が口角を上げ、悪魔に取りつかれたのように笑っている中で、一人だけ訝しげに表情を曇らせていた。何かがおかしい。十年前と、違う。
他の連中に力を奪われるかもしれない。という、焦りがあったとしても、十年前の経験から疑念を拭えず、この場でただ一人だけ魔女に向かう足を止めた。
吹き飛んだ直後にはすでに手足や胸、顔の傷がきれいさっぱりと再生している魔女を三人は追おうとしたが、動こうとしない異次元霊夢の姿にその足を止めた。
それに気が付かなかった異次元妖夢だけが、異様なまでにゆったりと地面へと落ちていく魔女へ、跳躍する。
魔女に切りかかった後、血を振り落としていなかったらしい。薄紅桜色に光を反射している観楼剣を、淡青色に身体が発光している魔女に刃を薙ぎ払う。
確実に命を取る軌道だ。得物を振るう音が全く聞こえず、目の端でとらえるのがやっとのスピードで、魔女の首に刃が撫で抉る。
魔力で身体を全く強化されていない魔女の体は、庭師の刀を弾くほどには頑丈にできていない。豆腐にスッと包丁を入れるように、刃先が脊椎にまで到達する。
頭を支える背骨ですらも皮膚と変わらず、柔らかいバターだ。骨が切れれば筋肉や皮膚などでは刃は止められない。刀が首を通過しきったが、頭が魔女の胴体から離れることはない。
復氷の現象のように、切られたそばから肉体が上下にくっつき、何事もなく異次元妖夢から離れ地面に着地する。
異次元妖夢はさらに走って距離を詰めようとするが、魔女を追っているのが自分だけだと気が付いたらしく、前に出かけていた足を止め異次元霊夢の方向を振り返る。
異次元霊夢以外、この場にいる四人は気が付いていない。爆発する気配すら見せないこの状況が、すでにおかしいことに。
目が真っ赤に充血している魔女の体が纏っている発光は、最高潮へと達していく。怒りに身を任せ、握った拳を地面へとたたきつけた。
怒りが頂点に達しているのか、握った拳が丸ごと地面の中へと抉りこみ、魔女周囲の地面が陥没する。舗装に使用されている古いコンクリートや地面がめくり返されていく。
異次元霊夢ら全員、衝撃が自分たちの場所へと到達する前に空中へと逃げ、余波を食らうことはなかった、しかし、皆が欲している力を奪う唯一のチャンスを失った。
魔女の体の周りで朧気に光っていた魔力のような物は、身体に溶け込んで消えていく。十年前と明らかに異なっていることで、異次元霊夢は怪訝そうな信じられないものを見る目が止まらない。
なぜ。この疑問が暴露されると、脳内をどんどん浸潤して広がっていく。作戦は完璧に上手くいっていたはずだと、自分のミスを疑ってはいなかった。
しかし、間違っていないはずであるならば、どこでミスを犯したのだろうか。行動や魔女の様子がどうだったのか、思い返して熟考しても非の打ちどころがない。
それもそのはず、彼女の計画は完璧に成功していた。魔女は面白いぐらいに、まんまと作戦の罠にはまっていた。
単純な方法で、魔女から力が奪えるはずだった。ぶん捕ることができなかったのは、異次元霊夢の考えが間違っていたわけではない。
ストレスなど、負の感情で高まっていく魔女の力を極限まで上昇させ、魔女が保有する力を制御できない状態へと追いやる。
制御下にない魔力を、保有している人物を殺せば、行き場をなくした膨大で独り歩きしている魔力は、空気中に拡散する。それを自分と同じ波長に変換し、魔女の力の源となっている魔力を取り込めば、その力を得られる。そういう算段であった。
実際に成功し、力を暴走状態に至らせたところまではよかった。だが、異次元霊夢の誤算はただ一つ。魔女が10年前と全く同じと考えていた部分だ。
先ほど、十年前には居なかった、魔女にとって大切な人間を利用したばかりだった。その変化を異次元霊夢は甘く見ていた。
10年前とは違って、守るべき人がいることは、魔女にとっては不利にも有利にも働く。人質やトリガーとして使われる反面、やられたことをバネに憤怨を爆発させる。
それを見落としていたことと、それに次いでもう一つ異次元霊夢らの思考が及んでいなかった部分がある。
それは、皆が10年間も待ち焦がれていた力を、魔理沙が扱っていたということだ。昔は使用したことが無く、自分で抑え込むことができずに力を爆発させるしかなかった。
今回は違う。力を使っており、異次元霊夢らと何度も交戦した。多少、扱っていた事実は大きく、前回に起こった風船が耐えきれずに破裂したような爆発は起こらない。
それでも暴走していることには変わらないが、魔力をどの方面に向けて爆発させるかは、彼女次第である。
魔女が爆発させようとしている矛先が、自分たちに向けられていることを、今まで感じたことの無い殺意と敵意。その異質さに百戦錬磨の異次元霊夢らでさえも動くことはできなかった。
視線の先にいる、四つん這いのままでいた魔理沙に異変が生じる。首筋のうなじのあたりから、白く白濁した粘度が高い液体が溢れてくる。
前とは明らかに異なるが、それが暴走の合図であることは、異次元霊夢でなかったとしても想像に容易い。
力を手に入れたい欲求もあるが、欲望以上に体が正体不明の液体に覆われていき、この世界でも類を見ないほどの殺気を醸し出す魔女を、今すぐに殺さなければならないと動き出す。これは防衛的な反射に近かった。
「殺せ!!」
誰だろうか。奴の殺意に耐えられなくなった人物がそう叫ぶ。しゃがれた声から察するに、異次元霊夢が声を荒上げたようだ。それが異次元霊夢達が動き出すきっかけとなる。
通常起こるはずの物理的な動きをすべて無視し、地面に一滴も滴ることなはない。液体よりも柔らかい、個体に近い液体に身を包んでいく魔女に、四方八方から襲い掛かった。
各々の得物が、体液に包まれていく魔女をとらえようとした直前に、そこにあった人型の物体は、影も形もなく消え去った。
上空へと跳躍して逃げたわけではない。写真から一部分を切り取ったように、忽然と姿を消した。
狐か狸に化かされた感覚に陥る。異次元霊夢の正面で得物を振っていた庭師が息をのむ。この十年で一度として、見たことが無い啞然とした様子で目を見開いている。
振り返るまでもなかった。背中にひしひしと気配が伝わってきた。死神を彷彿とさせる死の化身が、後ろに立って高い位置から異次元霊夢を見下ろしている。
気が付けば異次元妖夢だけでではなく、メイドや守矢の巫女に至るまで驚愕を隠し切れない。暴走することをわかっていたとしても、平常を取り繕うことは難しかったはずだ。
振り返って視界にとらえると異次元霊夢も周りの者と同様に、息を飲み込むことになる。見たことも聞いたこともない、異形の化け物がそこにいた。この世の生物とは思えず、見慣れた世界であるのにもかかわらず、周囲が丸ごと別世界に隔離されたようだった。
元は魔女であったはずだが、その姿は液体の中に飲み込まれているようで、彼女の姿は全く見当たらない。溶けた液体がゆっくりと、5方向に向かって手を広げていく。それらはそれぞれが頭や手足へと形作る。ある程度の体の大きさや形が決まって人型に収まっていくが、表面を白い液体が流動的にうごめいて形状はいびつに歪んでいる。
そこから数秒で、粘液が固定化されたようだ。徐々に皮膚は陶器のようにつるりと透き通りそうな質感で、殴りつけたりすれば割れてしまいそうに見えるが、皮膚下に存在する繊維的な筋肉に見える器官が蠢くごとに、皮膚も動いているため非常に柔らかそうである。
太い首の上にある、頭部と思わしき部位をこちらへと向けた。目という器官が存在せず、異次元霊夢らという存在を視覚的にとらえているかは謎だ。しかし、正確に彼女たちの方向を覗いているところから、それ以外の感覚器官で感じ取っているのだろう。
口は存在し、口端は耳があったとしたらその辺りまで、笑っているようにも怒っているようにも裂けている。その間には、血と相違ないほど真っ赤な歯茎と、肌よりも真っ白な歯がずらりと並んでいる。
歯並びは、雑食動物や草食動物とは違う。臼状の植物をすり潰す平たい歯ではなく、肉食動物の肉を切り裂く犬歯が、耳元まで裂けている口の間から覗いている。
大きさも、長さも、順番もバラバラなのに、咬合はきっちりとしている。並びは非常に揃っており、噛みつかれれば腕を持っていかれ、腸はズタズタに引き裂かれるだろう。
腕や脚は筋肉質で膨張し、腕だけでも断面の大きさは異次元霊夢の胴体ほどもありそうだ。手はボーリングの玉や人間の頭程度の大きさであれば摘まめ、少し力を加えるだけで握り潰してしまいそうなほどに握力がありそうだ。
手と足には人間や妖怪、妖精と同じく爪が生えているが、それの凶悪性は比べ物にならない。先が先鋭の上に強靭で、人間が鍛えた鈍らなど紙同然に切り裂くだろう。観楼剣でもどうなるかわからないと、異次元妖夢や異次元霊夢は奴の切れ味があることを獣並みの感で嗅ぎ取った。
化け物の臀部からは、体長と同等の長さはある長い尾が生えている。自由自在に蠢き、そこだけは独立した生物が生えているみたいだ。
霧雨魔理沙の体から白い液体が溢れだしていた。同様の場所である項を中心に、稲妻状の模様が枝分かれして全身に広がっている。特に頭部や腕、足などの四肢と尾っぽに集中している。
何を意味しているのか分からないが、血管の拍動のように、薄っすらと青色に変色している。
そして、何より異次元霊夢らの息を飲ませたのは、化け物の巨体だ。体長が三メートルを超える巨躯から、顔や牙の大きさ。手や鉤爪の大きさが伺えるだろうか。ガタイもよく、巨人といっても相違ない。
じりっと身構えていると、化け物の頭に変化が現れる。顔の上面に内側から真っ白な体液が滲みだすと、大量の水泡が膨れ上がる。膨らんだそれが長く薄く伸び、溝や基線が引かれて何かの辺縁を形作る。
溢れた水泡が萎んでいくと、眼と推測できる器官が顔に備わっていた。人間と同じ機構をしているようには見えない。瞼といえる部分は存在せず、眼球は視線を反映する瞳が見当たらない。
血のように真っ赤に染まり、瞳も白目も判別できない目は吊り上がり、異次元霊夢達を捉える。肌とは質感が異なり、水気を帯びてテラテラと光を反射している。
眼の形は、どの動物にも属さず鋭く吊り上がっている。大きく裂けている口だけでは、笑っているのか怒っているのか判別がつかなかったが、眼が加わったことでどちらであるのかが明確となる。
状況の流れからわかりきっているが、怒りだ。深く、底が計り知れないほどに化け物は激怒していた。その瞋恚は、この場にいる全員を皆殺しにするまで、収まることはないだろう。
理性が働いているかすらも怪しいが、異次元霊夢がどう動くのか出方を見ているのか、それともどう血祭りにあげて料理してやるか悩んでいるのだろうか。上半身上げ、膝を地面についたままじっと動くことをしない。
唸り声とは違う、連続的に骨と骨を打ち合わせような、軽く乾いた顫動音が化け物から発せられる。なんてことのない音のはずだが、警笛となって異次元霊夢達に緊張を走らせる。
我慢ができなくなったのか、手のひらサイズの小さなスキマを庭師が作り出した。わずか十センチの空間の歪みから、錆が見受けられる十数本もの観楼剣が連続で射出される。
そんな攻撃的な行動を起こされても、化け物は腕や指を動かす気配すら見せず、一メートルを超える長さがある得物を食らうことになる。
狩人である庭師の攻撃は冷徹でいて正確で、心臓や頭部へと集中的に観楼剣を突き刺した。身構えてすらいなかった化け物はその衝撃に身体を若干だが震わせた。
刀が弾幕のように飛行していくが、そのスキを使って観楼剣と変わらぬ速度で庭師は疾走し、体に得物が突き刺さる化け物へと一太刀入れた。
人間の皮膚と変わらない。もっと言えば、人間の皮膚よりも耐久能力の低い化け物の体は、ほとんど何の手ごたえもなく首が両断される。
異次元妖夢は、その異様なほど身体が脆弱な化け物に不信感を持ったらしい。そのまま後方へと通り過ぎようとするが、抵抗や回避をする間もなく、首なしの妖怪とは言い難い魔物に掴まれた。
「あぐっ…あああっ!?」
身長や重量差から、かなりの握力であることは推測できる。身体を強化しても尚、ただ掴まれただけで庭師が苦しみだすところから、その強さが判じられる。
石鹸水の中にストローで空気を吹き込み、泡を膨らませたようだ。切断面から巨大な水泡が盛り上がり、不規則な形をしていたが、少しずつ丸みを帯びていくと先ほど見た頭部を形成する。
膝をついて身長が低く見えたが、化け物がその巨躯に見合った下肢で地面を踏みしめて立ち上がった。数百キロから一トンにも及ぶであろう重量に、古びたコンクリートも耐えきられずに砕けた。
膝をついて重量が分散していたから座っていられたが、足だけで立ち上がると鋭い爪が地面を抉り、十センチほど足が地面に食い込むが、巨体の大きさからすれば誤差の範囲でしかない。
立ち上がると化け物の巨大さが特に際立つ。今まではあらゆる世界の庭師を殺してきて、殺す立場にいた。だが、人間の数倍は大きい顔の前に掲げられている異次元妖夢は、完全に殺される立場にある。
化け物の手は、剣士の腕を覆う形では握っていない。両手は自由が利くため、吐血をしながらも刀を振るう。切れないものはほぼ無いと言える観楼剣が、化け物に牙をむく。
どんな妖怪、神であろうとも、数度は死んでいるであろう。掴まれた状態であるというのに、鋭く激しい斬撃が繰り出されるが、まるで液体を斬っている。
斬ったそばから化け物の肉体は再生が開始され、刀が通過した後では既に傷は完璧に塞がっている。切り殺そうとした庭師が、化け物から攻撃される番がくる。
一枚の紙すらも隙間に入らないほど密接に生えている歯が、上下に開く。最外の歯だけでなく、サメと同じく口の中には喉のあたりまでずらりと鋭い歯が大量に並んでいる。その中には唾液で濡れ、真っ赤な血が固められて形成されているように見える長い舌が、べろりと露出する。
牙をむき出してその中へ異次元妖夢を押し込もうとしている様子から、食い殺すつもりであるらしい。頭の形が変形したと思うと予想よりも大きく口が開いており、人間一人を食うのだとしたら過度なほどだ。
あれに食いつかれれば、全身の皮膚や肉を引き裂かれてズタズタにされる程度では済まない。四肢など簡単に千切れ、喉の奥に移動するごとに肉は削がれ原型など残るまい。
口を開いてから食いつこうとするまでに、長いラグがあった。その間ずっと何もせずに見ているほど庭師は馬鹿ではない。
濃密な魔力の流れが、庭師の方向から感じる。スペルカードを握りつぶし、回路を抽出して起動する。
「断迷剣『迷津慈航斬』」
刀身を覆う魔力によって、一時的に刀の太さが化け物の腕の大きさを上回る。肉体の間に刀が入り込んだことで、巨人は切られながら再生することができない。見た目は柔らかそうな、筋肉質であらゆるものを粉砕できるであろう腕が切断された。
庭師は、体を握っている奴の手を放り捨てた。再度、異次元妖夢はスペルカードを発動させた。一度目以上に高出力で濃度の高い魔力が込められていく。
剣士はここで決めるつもりであると、その魔力の量から察するが、それでは倒せない。その程度では、この化け物の恨みを断ち切るには至らない。
地面に着地してからスペルカードを発動するまでに、切断された腕が再生している化け物へと、異次元妖夢は再び技を放った。
スキマからもう一本観楼剣を引き抜き、既存の持っていた刀と二刀流でスペルカードの構えへと体勢を変える。掴まれた時に脇腹の骨を折っていそうだったが、それでも型を崩すことの無い完璧な形で技へと入った。
「断霊剣『成仏得脱斬』!」
最大まで強化され、魔力で可視化された斬撃が、庭師よりも身長が倍以上ある化け物の体を包み込む。あれだけの威力では、人間など食らえば肉体の一片すらも残るかわからない。
異次元霊夢でもいなし切れるかわからない斬撃であるが、可視化された刀の軌道は、斬性の魔力が組み込まれているようだ。実物の幅よりも大きくてやたらと派手に見えるが、申し分ない火力に魔力の爆発が起こったようにしか見えない。
スペルカードは目標にだけでなく、周りの地面にまで影響を与えた。持っている刀の長さでは、到底つけることのできない長さと幅、深さの溝を深々と刻んだ。
これだけの威力を発揮したというのに、スペルカードは完全に発動しきる前に阻害され、不発に終わっていた。
桜の花びらが弾ける斬撃の光に目を奪われ、上空へと飛んでいく二つの物体を見逃していた。振り終わった庭師の両手に持っている刀身が、スペルカードの前と後で長さが異なっている所で、ようやく気が付いた。
異次元妖夢と化け物の十数メートル上空で、二つの独立して動く物体が舞っている。高速で回転しながら放物線を描き、一メートル近くも長さがある刀身が落下してきた。
やたらと響く金属音を弾ませ、一本は地面に刺さり、もう一本はかろうじて残っていた建物の壁に切っ先を食い込ませた。
数度の斬撃で、観楼剣の鋭さと強度がどの程度の物なのか図ったらしい。先鋭で何十、何百人の血と命を吸った刀の切れ味などものともせず、化け物の体は庭師が持つ最高品質の刀をへし折った。
錆など刀身に一遍もなく、研ぎあげられた刀は文字通り人間業をかけ離れた業物だった。そこに何百人分の魂と命を吸わせており、鍛えられた観楼剣でさえも切断して見せた。おそらくどの世界に行こうが、これほどまでの刀剣を持っているのは異次元妖夢だけだろう。
世界をまたにかけても最上級の代物を、未知の化け物は攻撃態勢に入ることなく身体で受けた。液体のように刀を受け流していた時が嘘のようだ。
剣士はスペルカード使用直後の硬直によって、活動再開までにラグが生じる。どこまで鍛えようが、鍛錬を積もうがこの時間を短縮できても、ゼロに無くすことはできない。
硬直時間をたっぷりと使っても、現在得物に起こったことを理解しきることはできないだろう。自分で手塩にかけて整備し、何十年も使い込んできた刀剣がいとも簡単に壊れてしまうなど。
柄しか残っていない二本の刀を、茫然と見下ろしていた異次元妖夢に、化け物の自由自在に曲がる尾っぽが、俊敏に伸びてくると腹部を貫いた。
爬虫類の毛のない尻尾に似た先の鋭い尾は、皮膚や臓器をズタズタに引き裂き、背骨を粉砕して背中から真っ赤に薄汚れて露出する。
「かぁっ…!?」
先が細くなり、直径が二十センチ程度しかなくても、場所によっては致命傷になりえる。血を吐いて倒れてようとする異次元妖夢を化け物は許さず、人間の頭より一回りも大きさで上回る拳を、虫の息になりつつある剣士に容赦なく叩き込んだ。
庭師が視認できる速度を超え、立っている異次元霊夢達の頭上を通過して後方へと吹き飛んでいった。瓦礫の山を薙ぎ払い、残っていた建築物を崩壊させる。そこまで勢いをそがれても止まる気配はなく、異次元妖夢の姿は見えなくなった。
荒々しい呼吸音を零し、血のこびり付く拳を握る化け物は、動けていなかった異次元霊夢達の方向へと足を延ばす。驚愕が隠し切れず、大きく後ずさった異次元霊夢が花の妖怪に背中をぶつけた。
百戦錬磨で、あらゆる人間や妖怪を屠ってきた、あの庭師が全く手も足も出なかった。それが分かっているのか、メイドや花の妖怪も、巫女と似た反応を示している。
しかも、あの化け物はあれが全力ではない。霧雨魔理沙が暴走を起こしたのであれば、十年前と同じ爆発かそれと同等のことが起こるはずだ。
数百メートル規模で、地形を大きく変動させるあの力が、この程度で上限であるはずがない。人の数が減ったこの世界で、トップレベルの実力を誇るあの剣士が全力を出しても、致命傷の一太刀すら、与えることができなかったことから示唆される。
ここでこの化け物を抑え込むことができなければ、こいつを止めることができる人物はこの世界にはいなくなる。力を手に入れられたのが荒廃した世界など、何の意味もない。
ここまでは仕方がなく手を組んでいたが、ここからはそれ以上の団結を望まれる。できなければ、力を手に入れる前に殺される。
震える手を闘志でごまかし、さらに下がろうとする足を食い止めた。その場に陣取り、顫動音を低く鳴らす化け物に向きなおる。
唇が裂ける化け物は、大きく口を開いた。何をするつもりなのか、想像もつかない。油断なく構えていると、喉を震わせて咆哮した。
声を発しているだけだというのに、災害の一つに数えられそうだ。音は大地と空気を振動させ、すべてを吹き飛ばす。地震と継続的な爆発による爆風を受けている錯覚に陥る。
声力だけで何十メートルも吹き飛ばされそうになり、幻想郷全体に広がる絶叫に意識を失いかけた。生存本能も目の前にいる化け物の強大さに、どこに逃げても無駄だと察したらしく、逃走的な思考が消え失せていく。
これで、他の妖怪たちにまで化け物の存在を知られたことだろう。異次元霊夢は自分の願望を叶えるため、異形の天災に立ち向かった。
自分から興味がなくなった奴らから、逃げ出せたのは運がよかった。変わり果て、前と比べて面影程度にしか共通点を見つけられない世界を走る。
やせ細り、意思を持って動く枝にしか見えない腕や手足でも、自重を支えて走ることができているのは少々驚いた。
魔力を扱え、体が多少頑丈な妖怪であるからできることだ。思考に意識を向けすぎていると、何年も使っていない筋肉がぎこちなく働いてしまい、足をもつれさせて倒れそうになった。
いけない。今は考え事をしている暇はない。とりあえず町から離れることを専決にしなければならないのだ。あんな、化け物同士の戦いに巻き込まれれば、一瞬で一片の肉体すらも残さずに殺されてしまう。
息が上がり、苦しくなるが、それでも森に入るまでは足を止めるわけにはいかない。そうやって走っていると、不意に後方から鼓膜を揺るがす爆音に体を煽られた。
体が軽くなっているせいもあるが、爆心地から一キロ以上も離れているのに草をなびかせ、木々を傾かせる威力に耐えきれずに地面に倒れこんだ。十年前に起こった爆発。あれがまた起きたのだ。
博麗の巫女たちが行った作戦は、私のせいで成功してしまった。一度犯したミスから学んだあいつらに、二度目の過ちはない。誰かしらが力を手に入れ、振るったのだ。そうでもなければ、こんな爆風がここまで来るはずがない。
そう決めつけて後方を振り返るが、世界は何も変わっていない。死臭の香りが漂い、十年間放置された風化した景色。地形を壊すほどの爆発などどこにも起こっておらず、瓦礫の海が遠くに見えるだけだ。
ならば、今のは何だったのだろうか。疑問が浮かび、街を観察しようとするが、爆風によって舞い上げられた大小さまざまな瓦礫が降り注いで来た。森の中へと慌てて逃げ込んだ。
頑丈そうな大木の後ろに隠れ、瓦礫の雨からやり過ごしたが、これからどうすればいいだろうか。私の居場所は、十年前に変わり果てた。頼れる人物などいない。あとは、ただ殺されるのを待つだけなのだろうか。
十分、二十分と時間が経過していき、時折すさまじい轟音が世界に轟くが、恐ろしいほどまでに関心が向けられない。
「…」
というか、なぜ逃げてきてしまったのだろうか。こんな世界、生きる意味なんかない。恐怖に負けず、あのまま町に残っていた方が、楽になれたのに。
座り込み、地面をぼんやりと眺めていた私の頭の中に、そんな言葉が溢れてくる。今からでも向かえば、そうなれるだろうか。
いや、無理だ。あんな恐ろしいところに戻るなど、体が言うことを聞かない。ガタガタと震える身体は、地面に縫い付けられて固定されているようだ。
だが、だといって自分で自分の命を絶つ勇気もない。あったら、博麗神社に閉じ込められている時点で、舌でも嚙み切って死んでいた。そうできなかった不甲斐なさ、情けなさに涙が出てきた。
「くっ……うっ…うぅ…っ」
何度も、何百回も、何前回も、チャンスはあった。何年も、何年も、自分で命を絶つことはできたはずだった。
「なんであそこで死ななかった…!私なんて……あそこで…野垂れ死んでいたらよかったんだ…!なんで、なんで!…なんで、生きちゃったんだよ!!」
頭を抱え、癇癪を起こした子供のように騒ぎ、泣きじゃくる。自分に対する鬱憤が爆発し、敵に見つかるかもしれないなどの心配は、すでに頭の中には無い。
どれだけ自分を呪っても、罵倒しても、勇気のない彼女は、自分を自分で殺す選択を選べない。それがまた怒りを助長する。
「死にたいのに……!」
死にたいのに、自分で殺す覚悟を育めない。殺されるのも、恐怖に立ち向かえない。そんな身も心も弱弱しい自分に腹が立ち、声を荒上げようとしたとき、手元に目が移った。
いつからそこにいたのだろうか。体長が十センチ程度の、小さな小動物が心配そうに私のことを見上げている。全身が毛でおおわれ、尻尾が自分の身長よりも長いこの哺乳類は、鼠だ。
友人がよく使役していたことを思い出した。私の匂いを嗅いでいるのか、クンクンと鼻を動かして、地面につく手に近づいた。
泣いていることも怒りも忘れ、手を伸ばそうとすると、その鼠は体を反転させて森の中へと消えていく。
「あっ…」
悲しげな声には目もくれず、黙々と歩いていく鼠の後ろ姿が、草むらの中へと入っていってしまった。
何をしているのだろうか、私は。あれを友人に見立て、許しでも請おうとしたのだろうか。自分の、弱さに怒りを通り越して呆れてくる。
「はぁ…」
大きなため息をつき、項垂れている。ある意味生き殺しで、彼女にとっては地獄であった。このまま、意識する間もなく死ねたらいいのに。そう甘い考えを浮かべていると、鼠がいなくなった方面から、音が聞こえてきた。
鼠が移動する小さな音ではなく、人間大の大きな者が、草をかき分けてゆっくりと歩いてくる音だ。
「っ!?」
殺される。一瞬で現実逃避から現実へと引き戻され、地面で丸くなっていた私は息を飲んだ。恐怖で歯が嚙み合わせられず、ガチガチと震えた。
そんな中で懐かしく、温かみのある優しい声が耳に届いた。
「そんなの、当り前じゃないか。自分で自分を殺すなんて、普通の精神でできるものじゃあない。……だから君は、こんな世界でも正常で居られてるってことさ……そう思わないかい?ぬえ」
私は、一度目とは全く違う意味で、また息を飲むことになった。町や世界以上に変わり果てた姿をした、友人がそこには立っていた。
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