それでもええで
と言う方のみお楽しみください。
カチッ…カチッ…。
時計の進む音が異様に大きく聞こえる。正確に一秒を刻む音は普段の生活ではさほど大きくなく、ほとんど気になる事はないだろう。
だが、ただ自分の名前を呼ばれるのを待っているだけで何もすることが無ければ、針がゆっくりと進んでいく音ですら気になって仕方がない。
大きくため息をつくように呼吸すると、慣れて来たと思っていたが独特な消毒液に似た匂いは、何となく嗅ぎ分けられた。その匂いで満たされている広いロビーには、私のほかにも自分の名前を呼ばれるのを待っている人物が他にも座っている。
十数人はいる筈だけれども物音が殆どしていないのは、誰かと話したり無暗に歩き回る人物が居らず、全員が口を噤んで座っているからだろう。
いつもはたくさんの患者で溢れかえって煩いぐらいには賑わっており、明るい看護師同士の会話が聞こえてくるはずだが、職員の声ですら聞こえてこないのは私たちに気を使って静かにしてくれているらしい。
なぜそんなに病院が静まり返っているのかは、今日が私達の為だけに永遠亭の外来が開かれる日だからだ。
うつむいたまま項垂れて座っている人物の殆どの顔は、無表情で感情が読み取れない。目の下には厚い隈を張り付けている所からわかるように、鬱やそれに近しい疾患のある人物が集っているのだ。
これだけの人数が集まっているというのに、看護師が名前を呼ぶ声とその患者が移動する音以外聞こえてこないのは、異質な空間にも思える。
また一人、兎の看護師に名前を呼ばれ、重い足取りで診察室へと向かっていく。一人一人にたっぷりと時間を使うため、私が呼ばれるまでもう少しかかるだろう。今日はなんだかいつもよりも遅い気がする。
「…」
あの戦いから一年程度の時間が経過した。あれの影響で、心を病んでしまった人物が多い。かなり大きく成長していた村の99%を吹き飛ばされ、半分以上の人間が巻き込まれることになった。
死者数は数百人にも上り、未だに身元不明の死体が掘り出されることも少なくないため、正確な数字はわからない。しかし、現在残っている人数から想像するに、六割から七割の人間が吹き飛ばされたことになるだろう。
なるべくあの惨状を思い出させないように、河童たちが爆発で変形した地形を綺麗に整地してくれたりしたが、百人余りの心が蝕まれるのを止めることはできなかった。
「はぁ…」
小さくため息を再度ついた。一時間程度の時間が経過しただろうか。その間には一人、また一人と診察を終え、薬を貰って岐路についていく。来るのが遅かったせいで、気が付くとロビーに残っているのは私だけになっていた。
最後の一人になり、診察を終えた患者が薬を貰って帰っていくのをぼんやりとみていると、小さい兎の看護師に名前を呼ばれた。
小さく、短く返事を返し、けだるさを感じる重い体を持ち上げた。体を起こした時以上に重い足取りで、診察室へと向かった。
看護師が私の代わりに金属のドアをノックし、横にスライドするタイプの扉を開けてくれた。彼女に促されるままに診察室の中に入ると、ロビーの時とはまた違う、濃い消毒液の匂いに包まれた。
「久しぶりね、調子はどうかしら?」
柔らかな口調で、赤と紫色の白衣を着ている永琳さんに出迎えられた。ロビーのよりも高そうな材質の椅子に座る様に促され、私は座り込んだ。
永琳さんの後ろに立っていた兎に、前に診察していた人のカルテを手渡し、代わりに私が来た時に書いたと思われる問診表を受け取った。
既に開かれていた私の物と思われる厚いカルテの上に問診票を置き、少し目を通している。机の上にもう一冊カルテが置いてあるが、字が小さくて名前までは見えなかった。
「そうですね。…書いてある通り、あまり…よくないです」
「そうみたいね」
私の表情が曇っている所からも、その辺りの推察は容易だったらしい。否定せずにカルテに何かを記載していく。
「その、最近異変があったせいで…眠れてないんです。……少し、強い薬は出せないですか?」
「うーん、あんまり強い薬を出すと依存性の問題にもなるから……別のお薬を出しておくわね」
「そうですか。……わかりました」
前に強すぎる薬は依存性が高まってしまうという説明を受けた。薬物に溺れたくはないため、私も退き下がることにした。
博麗の巫女によって、つい数日前に解決された一番新しい異変。規模からすれば、異次元の巫女達が攻めてきた時よりも小さくはあるが、それでも幻想郷のバランスを崩すのには十分すぎる規模だった。
外の世界から流れついて来た者たちが起こしたのではなく、元からいる人物という事だ。天狗の新聞では、鬼人正邪が首謀者とされていたが、酒呑童子などの鬼も参加した大規模な異変だったらしい。
鬼人正邪は二枚舌と聞く。萃香さんは決して頭が悪いわけではなく、そう簡単に騙されるとは思えなかったが、今回は口車に乗せられてしまったのだろうか。
あの爆発から、あの戦いから、あの戦争からせっかく生き残ったというのに、この世界の何が不満だというのだろうか。私にはまるで理解ができない。
「……迷惑な話です」
「そうね。あの爆発があってから、異変に敏感になってて避難したりしてるし…村の周りに住んでると大変よね。まあ、擁護するつもりは無いけど、向こうにも向こうで私たちにはわからない事情があるのかもしれないわね。…ただの気まぐれかもしれないけれど」
私たちにはわからない事情とは何だろうか。人を巻き込んでまでやる価値のある事なんて、あるとは到底思えない。
怒りがどうしようもなく込み上げてきて爆発しそうになるが、程なくして膨らんだ感情は穴の開いた風船のように萎んでしまった。今度は萎み過ぎて、気分がどんどん落ち込んでいく。
気分の上がり下がりが大きく、コントロールができない。上がり下がりに振り回され、理由もわからず悲しさが込み上げて来た。
今日は特に情緒の不安定さが強く、涙が溢れてきそうになってしまう。瞳に涙が溜まっていくのが見えていたのか、永琳さんが小さなハンカチを差し出してくれた。
それでこぼれそうになる涙を拭きながら、私は無理だと分かっていても聞かずにはいられず、彼女に質問をした。
「その……魔理沙さんに行ったみたいな…記憶を消す処置はできないですか?」
精神が削られている今、暗くて深海のような圧迫感のあるトンネルに迷い込んだようだった。先が見えない程に長く永遠に続いており、先の見えないトンネルから逃げ出したい一心で彼女に縋る様に訪ねた。
「そうね。どうしようもなくなった時にはいいかもしれないわね。でも、中々に大きな決断になるから、ここで決めるのには早計だと思うの。だから、落ち着いて考えられる状況になったらまた考えてみましょう?」
他の村人たちが言っていたように、私ものらりくらりとかわされてしまった。魔理沙さんが大丈夫でなぜ私たちがだめなのかがわからず、不満が募る。
「理由はいろいろあるわ」
永琳さんはそう言うと、机の上に置かれていた私のとは別のカルテを開いた。さっきは角度のせいで見えなかったが、表紙には患者の名前が記されていた。霧雨魔理沙と。
「許可は貰ってるけど、個人情報だから…あまり詳しいことは言えないわ…。それに、気分のいい話でもないから。だだ勘違いされても困るから、少し事情を話しておくわね」
机の上の、すぐに取れる位置に置いてあったのは、こういう質問をする人が私のほかにもいたんだと想像がついた。
「この子が目を覚ましてから、大体八か月が経ったわ」
約四か月、魔理沙さんは昏睡状態で生死を彷徨っていた。私も含めて霊夢さん以外の誰もが諦めかけていた時、彼女は奇跡的に意識が回復した。
「魔力を使えたから肉体のリハビリはほとんど必要なかったけれど…肺へのダメージは未だに残ってて、酷い時では肺活量が1リッターを下回る時があったわ」
数字で酷さを伝えられてもわからなかったが、追加で永琳さんが私へ説明をしてくれる。
「煙草ってあるでしょう?あれを何十年と吸い続けると肺の細胞が破壊されて、呼吸がままならなくなるんだけれど、それに近い状況になっているわ」
そう言えば、前に見かけたときには青白い顔をして、何かと乾いた咳をしていたのを思い出した。しかし、私が聞きたいのはそこではない。
「肺のリハビリも今のところ順調だったのだけれど、大きな問題がもう一つ出て来た。それはね魔理沙も心に傷を負ってたみたいなの」
それは知らなかった。いつも異変の解決には我先にと参加していて、私たちのように心を病むというイメージが無かったが、いくら肉体が強靭でも精神はただの人間のそれと変わらなかったのか。
「幻想郷を存続させるのには、子をなさなければならないのはそうだけれど。いざしようとすると、魔理沙から拒否反応が出てしまってそれどころじゃなくなっちゃうみたい」
拒否反応。彼女達の年で子供の作り方を知らないわけがない。顔を赤らめてしまう年ではあるかもしれないが、そこで抵抗してしまうというのは普通ではない。二人は傍から見ていても仲睦まじい様子だったため、拒否するのはあり得ないだろう。となると、魔理沙さんは向こうで強姦紛いなことをされた。
「そう、察しの通りよ。昏睡中に潰れた子宮は治したけれど、心の傷は薬ではどうにもならないわ」
明るく振舞っているように見えていたが、彼女なりに心配をかけないように振舞っているだけだったのだろう。子宮が潰れるとなれば、どれだけ激しく乱暴に扱われたのか私には想像できなかった。女だからわかるが、ちょっとやそっとの痛みではないのだけはわかった。
「ここまで言えばわかるかしら、あの子が記憶を消す処置を受けた理由が」
異次元霊夢と霊夢さんの顔は瓜二つ。魔理沙さんはその時のことがフラッシュバックして、子供をつくるどころではなくなってしまうのは想像がついた。
処置を受けたという事は、私たちと同じく症状が慢性化してしまったのだろう。霊夢さんが巫女として入れる時間もそう長くない。長い年月をかけて治るのを流暢に待っている時間が無かったため、処置に乗り出したのだろう。
「そう…ですね」
「自分のしたことから、されたことから逃げるために処置を受けたんじゃなくて、先に進むために処置を受けたことは忘れないで上げて。最後まで渋ってたのは魔理沙だから」
そう言われると、何も知らずに羨んでいた恨んでいた自分が恥ずかしくなってくる。そして何も知らないで外野が喚いたと考えると申し訳が無くなってくる。
「まあ、形はどうあれ…速さはどうあれ、私が絶対に治すから安心なさいな。この病気は人それぞれで治る速さが違うから、周りを見て焦らなくていいわ。あなたの歩幅でいいからね」
そう言ってにこやかに笑う永琳さんに肩をたたかれ、診察は終了した。礼を言って診察室を後にし、薬の受け取りへと向かった。
全ての患者の診察を終え、時計に目を向けると短針が6を刺している。病院は午後5時で終わりであるため、全員診終わるのに一時間も余計に遅れてしまった。
でも、精神疾患外来の日は大抵この位までかかる為、周りでカルテ整理をしている兎たちも特に気を止めている様子はない。
「遅くなってごめんなさいね。…コーヒーを一杯もらえないかしら?」
近くでカルテの整理を終えていたウサギに頼むと、台所の方へと向かって行った。鈴仙でないのにはもう慣れたが、あの子なら気を使って用意してくれるのにと考えてしまうのは都合が良すぎるか。
しばらくすると、コーヒーの独特な匂いが漂ってくる。湯気の立つマグカップを持った兎が戻ってくると、茶色の液体が注がれたコップを手渡された。
礼を言いながら受け取り、一口口へと運んだ。独特な苦みと香りが一気に口内に広がり、沸騰しているのと遜色ない熱い液体を飲み込むと心身ともに温めてくれる。
真夏では脱水症などになってしまう可能性も低くない。病院に来て倒れないように冷房を付けていたが、効きすぎている。冷え切った体にはちょうどいい熱さだ。リラックスの効果は大きく、疲労で落ち込んでいた精神の持ち上がりを感じる。
大きく伸びをしながら、今しがた説明に使った霧雨魔理沙のカルテに目を落とした。予想はしていたが魔理沙に記憶を処置をしてから、記憶処置の依頼やそれに対する妬みが増えた。
とはいえ、精神を患っている患者をさっぱりと切り捨てる訳にもいかない。話しを聞いて、その処置ができない理由を伝え、代替案の説明をしなければならず、その言葉遣いにも気を使うために少々疲れた。
「ふう…」
カルテを見るたびに思い出す。記憶を失った魔理沙に自己紹介をした時の事を。知っているはずの人間に自己紹介をするのは何とも奇妙な感覚で、彼女はずっとこんな感覚を味わっていたのだろうか。
処置で記憶を完全に失うと分かっていて、自分で施しているはずなのに忘れられるというのは少し悲しかった。それでも戦い抜いた彼女の精神には脱帽する。
「…」
適当なページを開くと、彼女の全身を映した画像が出て来た。全身と言っても、魔力による観測であるため、被写体が生身で写っているわけではない。
A4程度の大きさのある紙は黒い背景が主体となっており、そこに白い線で人間の輪郭が描かれている。体の中枢部から、末梢に向けて白い稲妻模様に似た線が無数に走っている。
特に手足に集中しており、体の輪郭の内側は真っ白で黒い背景を探す方が大変だ。次いで胸元に多く張り巡らせられているこの稲妻模様は魔力による再生痕だ。
魔力をほぼ持たない人間では、ほぼ見られることはない。魔力を使える者でも、輪郭の内側を再生痕が埋め尽くしている画像など、見たことが無い。あの勇義や全身に雷を受けた萃香ですらここまでの再生痕は付かなかった。どれだけ傷ついて来たのか、簡単には想像がつかなかった。
最初に彼女の身体を調べた時、卒倒しそうになったのを思い出す。死んでいないのが不思議な位に全身にダメージを受けていて、いつ死んでもおかしくはなかった。命を落とさなかったのは私の薬のお陰でもあるが、何よりも彼女の生命力の高さだ。
回復能力の高さは人によって異なるが、魔力で回復させた肉体は普通の肉体よりも魔力が通りやすい。先ほどの再生痕は魔力の通りやすさの差を画像として出力する物だったが、彼女のは色濃く描写されている所から、再生能力が抜群に高い。
魔力の質が高ければその差も当然大きくなるが、彼女の魔力の質から、そこまでの差が出ないのは経験則からわかる。色濃く描写されるもう一つの理由としては、一度だけではなく、度重なる負傷による再生の重なりだ。
何度も何度も傷を負い、戦闘の数だけ負傷と欠損を繰り返しながらも戦い続けていたことで、妖怪でも類を見ない再生痕が刻まれた。彼女は戦いで負傷し続けたが、魔力の浸透力が高まるその行為のお陰で自分の命が助かったとは、皮肉な話だ。
「このカルテもお願いね」
魔理沙のカルテをウサギに手渡し、手元に残った薬剤の書類に目を落とした。在庫が無くなりそうな薬もあり、また薬を作り直さなければならなさそうだ。
次の精神外来は来週であるため、休診日や来院人数が少ない時にまとめて作ってしまうとしよう。
明日から必要になる薬の在庫にはまだ余裕がありそうで、今日のところはこれで終わるか。机に書類を落とし、傍らに置いていたコーヒーに手を伸ばした。
熱い液体を再度飲みながら、ふと今日の事を思い出した。あの説明で納得してくれる人物もいれば、納得してくれない人もいて、説明の難しさを改めて痛感した。健常な精神状態の患者のように、上手く説明できない。
納得できないだろうが、彼女が最後まで渋っていたのは本当で、霊夢と紫に押し切られる形で承諾した。しかし、渋っていた理由は周りからの批難を恐れていたからではない。
その決定は周りの人間からすれば、トラウマに近い過去から逃げる為だと思われているが、だからこそ彼女の中では残したかったようだ。
自分の犯した罪から、過去から逃げたくはないと。苦しみは罰であり、贖罪なのだと。それにより、霊夢や紫とぶつかることは少なくなく、破局寸前まで行きかけた。
私が先のようにこれは逃げじゃないと伝えたことと、二人が懇願して渋々と頷いた。他の人にはおそらくは無いだろうが、記憶を消したとしても魔理沙の苦しみはこれからも続くだろう。
以前の犯されたトラウマから来る物ではなく、消えた部分の自分に。その影響は既に出ており、数日前に行った診察では、たどたどしくも怖いと言っていた。
それに加えて、鏡を見た時の自分が自分ではないような感覚になると。それはおそらく目の色だ。以前に撮影された自分の写真からくる自分のイメージと、鏡で見た自分が乖離している事から来る感覚だろう。
毎晩のように見知らぬ人を殺す夢を見ると。服装や相手の顔つきを聞く限り、異次元の連中だと想像がついた。奴らを倒し切り、因縁に決着をつけたかに思われたが物事はそう簡単に終われるものではない。
連中の残した置き土産は、記憶の消去では拭いきれない深層意識にまで届いてしまっており、居なくなっても尚我々を苦しめる。不快な連中だ。
潜在意識の下にある過去の自分に潰されてしまわぬか心配である。記憶の処置は私も初めてであるため、どのような影響が出てくるか予想不可能で、定期的に経過を見ていかなければならないだろう。
コーヒーを飲み干し、診察室の中にある据え置きのシンクへコップを置いた。水道のハンドルを捻って蛇口から水を出し、コップの大まかな汚れを流した。
シンク近くに置かれていたスポンジで汚れを拭い、水で泡を流し落とした。ハンドルを捻って水を止め、洗い終えたコップを食器を乾かすかごへと置いた。
指先から水がチタチタと垂れてシンク内に落ちていく。軽く手を振って大まかに水気を落とし、近くの壁に掛けられていたタオルで残りの水分を拭い取った。
いつの間にか兎たちは自分たちの仕事を終えて帰ってしまっていたらしく、診察室には私一人の息遣いしか聞こえなくなっており、静まり返っていた。
異変と言うよりも戦争に近いあの戦いは、私たちに深い傷を残した。それは、物理的な物だけでなく目に見えない者が大部分を占める。
個人に限定されるものや、人間関係、存在としての在り方など、大きく変わってしまった部分など数は計り知れない。
私も私で、失った者は大きい。しかし、医者である私がいつまでも後ろを見ていて泣いているわけにはいかない。
「戦争に、勝者はいないわね」
自室に戻るために電灯のスイッチを消し、私は静まり返った診察室を後にした。
長い道のりを重い足取りで歩いていく。周囲は薄暗さを通り越して暗い。蝉も鳴くのを止める時間帯で、永遠亭から戻ってくるのに少し手間取ってしまったことを示唆している。
今の時間帯は仕事も終わっており、再建中で作り直している家が多くみられる街の中を一人で歩いていく。
街灯などは付いているがその数はあまり多くなく、薄暗さは拭えない。暗い所では足元すら見えない薄暗さのあるこの道は、以前なら繁華街だった場所であるはずだが、再建中という事を差し引いても以前の活気はない。
一人か二人、ぽつぽつと人が歩いているだけで、元気な声が飛び交うことも無く、周りの家々から漏れてくる光の量も少ない。以前のこの時間を知っていれば、酷く閑散としている印象を受けるだろう。
町の中を通り過ぎ、私は街はずれへと向かう。家が無くなっていくと他よりも大きい街灯と、私の目線と変わらない位の高さしかない看板が見えてきた。
これが見えてきたという事は、自宅まではもう少しだ。獣道を少しの間歩いていくと、ようやく私の家が見えて来た。
正面の扉に向かおうとすると、その近くに誰かが立っているのが見えた。暗さのせいで気のせいだと思ったが、歩いて来た私に気が付くと上を見上げていた彼女はこちらに向き直る。
「やあ、随分と元気がないね」
「……。そうですね。異変が起こったばかりなので、調子は良くないです」
昔ながらの店、ガラス張りで観音開きのスライド式の扉があり、その前には暖簾を通すフックが天井から下げられている。
風が吹くたびに暖簾が通されていない軽いフックが揺れ、カタカタと小刻みに揺れる音を鳴らす。静まり返っている店の周りには嫌に響く。
その扉の前に立っていたのは鼠のようなマルイ耳を頭部に生やす、私とそう変わらない低い身長の女性だった。
「ナズーリンさん。開店するかどうかは街外れにある街灯でわかるので、次に来るときには確認してくださいね」
来る途中に通り過ぎて来た、看板と一緒に設置されていた大きめの街灯だ。これについては前に言っておいた気がするが、覚えていないのかそれとも聞いていなかったのか。どちらでもいいが、今日のところはお引き取り願うとしよう。
「いや、酒を飲みに来たわけじゃない。君の様子を見に来ただけさ」
ここ最近は開店した時に来てくれることが多く、知らない仲ではない。だけれども、そこまでするほどの仲ではないと思っていた。それとも、様子を見に行かなきゃならない程に酷い顔をしていたのだろうか。
「立ち話も何ですし、入りますか?」
勘違いでただ飲みに来ていたのであれば、突っぱねて返そうと思っていたが、本当にそういうわけではなさそうだった。
手に持っている手提げ袋からは、揚げ物の良い匂いが漂ってきた。先ほどまで風で匂いが流れてしまっていたが、風の流れが弱まったことでこちらにまで届いてくる。そこまでしてもらっているのに、突っぱねて帰すほど病んではいない。
「無理して付き合わなくてもいい。開店してるかどうか確認してなかった私の落ち度だからね。また、日を改めさせてもらうさ」
「いえ、せっかく来てくださったので、少しだけ話をしましょう」
鍵穴に鍵を差し込み、軽く捻ると内部の施錠が解除され、固く閉じられていた扉が開いた。真っ暗な店の中にナズーリンさんを招き、カウンターの照明をつけた。
「それじゃあ…お邪魔します。……そうだ。揚げ物を買って来てみたんだけれど、嫌いじゃないかい?」
夜にコッテリしたものはあまり食べないが、最近は食べなさ過ぎて少し瘦せすぎている。少量でもカロリーの取れる唐揚げをわざわざ選んでくれたのだろう。
「……食べられます。ナズーリンさんはいつものでいいですか?」
「いや、今日は本当に様子を見に来ただけだから、お酒はいらないよ」
そう手を振っていらないことを示すが、彼女が好んで飲む日本酒をすでにカウンターへ出している。徳利からお猪口にお酒を注ぎ、ナズーリンさんの前に出した。
持ってきた揚げ物は自分で作って来たのか、それとも市販の物を買ってきたのかはわからないが、私のために買ってきてくれたのは明らかだ。
妖怪でお金を持っている者は珍しい。ナズーリンさんの能力は物を探し出すのに長けているため、持ち主のない物を売ってお金を作ったと思われた。
「……遠慮しないで下さい。せっかくですし、…揚げ物に合う辛口のお酒ですよ?」
お猪口に注がれた透明なお酒と、カウンターに広げられている自分で買ってきた唐揚げを交互に見た後、礼を言いながら酒に手を伸ばした。
取り皿を自分とナズーリンさんの所に置き、揚げ物を一つずつ皿の上に乗せた。目の前に持ってくると、より一層揚げ物の匂いが立ち込めてくる。以前なら食欲が促された良い匂いだったが、今は空腹感をあまり刺激されない。
ナズーリンさんは酒と唐揚げを嗜み、口元を綻ばせている。おいしそうに食べている様子に、私も久しぶりに食べ物を意欲的に摂取することにした。
一口かじりつくと、油と鶏肉の良い匂いが鼻孔を擽る。思ったよりも揚げたてで、内側は肉汁が出るぐらいには暖かい。
咀嚼した食べ物を飲み込んだ。店に来た人には普通に料理を作って出すが、自分で手の込んだ料理を食べるのは久しく感じた。喉の渇きを感じ、用意していた水で口に残った油を流し込んだ。
「あんまり元気が無いように見えるのは、霊夢と魔理沙の話しかい?」
飲んでいた水を噴き出しそうになった。心の中に残る蟠りを見透かされたようで、心臓を掴まれたように心拍数が上がったのを感じた。顔色の変化を読み取られ、やっぱりと少女は呟いた。
「……。よくわかりましたね」
「最近じゃもちきりだからね。私も正直驚いた」
命蓮寺に出入りしているのと、鼠を介した独自のネットワークで情報を集めているのだろう。百人程度の精神疾患患者がいる為、集めるのは容易だったろう。
「……永琳さんから話を聞くまでは逃げたんだって思ってました。でも、話しを聞いて違うんだって理解はできました。けれど、処置をしてくれない事に関しては納得はできませんでした…」
何の味もない冷たい水を飲み、一息ついた。ため息をついた私へ何か言おうとしたが、しゃべることなく酒を一口煽った。度数の高い酒が喉を通っていき、香りと喉を焼くアルコールに小さく吐息を漏らした。
「……でも、理解しているはずなのに……妬んでいる…羨んでいる自分が恥ずかしくてしょうがないです…」
わかっているのにその思考を止められない自分が悔しい。そして、そう考えてしまえばしまう程に、落ち込んでしまうジレンマにハマってしまっている。
感情の浮き沈みが激しく、落ち込んだ感情に促されるまま瞳に涙が溜まり、ポロリと涙が溢れ出した。涙を近くに置いていたティッシュで拭き取り、誤魔化す様にコップに分けていた水を一気に飲み干した。
「そう自分ばかり攻めるのはよくない。永琳から言われてるだろう?そう急ぐことはないさ。……何か困ったことがあったら言ってくれ、力になるから」
先ほど思ったように、ナズーリンさんと私はそこまでする仲では無かったと思ったが、なんでそこまでしてくれるのだろうか。
「…ありがとう…ございます……。でも、なんで私なんかにそこまで気にかけてくれるんですか?」
「そりゃあ、友人が落ち込んでたら私だって悲しいし、苦しんでたら助けたいと思うのは当たり前だろう?」
逆の立場だったら、私もそうしていたかもしれない。つくづくこうしてくれる彼女には頭が上がらない。俯いて空のコップを見下ろしていると、ナズーリンさんが私の手に指を伸ばしてくる。
「申し訳ないとかそんなことは思わなくていい。気兼ねなく言ってくれ」
投げかけてくれる優しい言葉に、今度は別の意味で目頭が熱くなるのを感じ、目元を手の甲で拭った。カウンターに座っていたナズーリンさんは立ち上がるとこちらに身を乗り出し、ゆっくりと優しく抱き寄せてくれた。
「すみません…」
離れていては感じることのできなかった彼女の良い香りや久しぶりに感じた人肌の温もりに、私を支配していた不安感がゆっくりと引いていくのを感じた。
いつぶりかわからない安堵感に満たされ、私は彼女に甘えてこちらからも抱きしめ返した。
「すみません…!」
訳も分からず私は謝ってしまう。彼女はそれに否定も肯定もすることなく、ただ黙って私を抱きしめてくれた。
気が付くと夜が明けていた。窓から差し込んで来た窓明かりに照らし出され、睡眠から覚醒へと引き戻された。泣き疲れてしまった私は座敷に横になっていた。
布団で横になっているのと違い、硬い畳の床で寝てしまっていたせいで体の節々が痛い。起き上がろうとするが、体が痛くて急には動かせない。
しかし、久々にまともに寝れた気がした。これでまともに寝れた気がするのであれば、普段がどれだけ眠れていないのだろうか。そんなことを思いながらも起こした体で座敷の縁に座り込んだ。
視線を店内に泳がせると、腰から生える鼠の尻尾を力なく床に垂れさせている少女が見える。カウンターに突っ伏している様子と意志の感じられない尻尾から、ナズーリンさんも眠ってしまっている。
彼女の事を起こそうと立ち上がり、薄暗い店内を歩いて近づこうとすると、昨日彼女が持ってきてくれた唐揚げの匂いが若干漂っているのを鼻腔が感じ取った。
「ナズーリンさん…もう朝ですよ」
あの後に徳利をもう一つ出して渡したのだが、中身は空になっている。酒は強いイメージは無かったが、無理して飲んだというよりもペースがかなり速かったのだろう。寝方には酔いつぶれた印象がある。
彼女の肩を揺らして声をかけると、閉じていた瞼がぴくぴくと小さく動き、眠気眼を私へと向ける。寝起きで頭が働かないのか、ボンヤリと見上げてくる。
「大丈夫ですか?」
もう一度聞いてみる頃にようやく意識がしっかりし始めたのか、口の端から垂れそうになっていた涎を袖で拭い取った。
「すまない…あの後帰るつもりだったのに寝てしまった」
「いえ、大丈夫ですよ…私も昨日は楽しかったですし」
彼女は謝りながらカウンターから立ち上がる。申し訳なさそうにしていたが、返答を返すと少し安心したように胸を撫でおろす。
「それならよかった…じゃあ、私はそろそろお暇するよ…っとその前に片づけないとね」
箸や徳利を取ろうとする彼女を制止した。客人に片づけまでさせていられない。
「大丈夫です。自分の洗い物も残っているので、一緒にやっちゃいますから」
そう言って昨日使ったコップ類をシンクの中に入れた。あまり引き下がらないのは迷惑になると思ったのか、意外にあっさりと引き下がった。
「それじゃあ、お願いするよ。…また今度」
彼女はそう言い残し、昨日店に入った扉から外へと出ていった。一人残されるとそれはそれで寂しさを感じるが、いつまでも彼女に甘えてもいられない。
自分と彼女が飲み食いした食器類を、いつも通りに綺麗に洗った。元からあった食器の数が多かったため時間がかかると思っていたが、さほど時間もかからずに終えた。
「……」
とは言え、時計を見ると三十分ほど時間が経ってしまっている。冷水で冷え切り、濡れた手をタオルで拭きながら、ナズーリンさんが出ていった扉から私も外に出た。
快晴の空は眩しい日差しと共に私を出迎えてくれた。薄暗い店内とは打って変わって明るいため、自然と目が細まった。
日差しが強いため今日は暑くなりそうだと思ったが、強すぎない心地の良い風がざわざわと周囲の草と私の髪を揺らす。暑くも冷たくも感じない風が頬を撫でるのを感じながら、私は固まった体を解す様に大きく伸びた。
ナズーリンさんと昨日話したのが良かったのか、今日はいつもより少し調子がいい。これが夜まで続くなら、店を開いてもよさそうだ。肩を回し、コキコキと音を鳴らして解した。
食材の確認をして、仕込みを始めなければならない。そう思いながら店の方を振り返ると、最近はあまり開店する機会が無かったせいで、雑草がちらほらと見える。
扉の周りだけでも雑草を抜いておこう。思ったよりも草は広く生えていて、なかなか大変そうだ。
手当たり次第に引き抜き、雑になりつつも片っ端から山積みにしていく。雑草を力任せに抜いて捨てるという簡単な作業であるが、中々に重労働である。
作業を始めてから一時間ほどが経過しただろう。腰をかがめての作業に、疲れてきてもうそろそろやめようかと思えてきたころ、掴んだ草の感触が他の雑草と違う物があった。
そちらに目を向けると、紫色に近い綺麗な花が咲いていた。いつの間にか生えていたが、私が植えたわけではない。
どこからか種が飛んできたのかわからないが、このまま引き抜くのは勿体ないと思った。茎から手を放し、綺麗な花を改めて眺めた。
アサガオに似ているが、何となく違う。何となく違う事しかわからなかったが、花にはさほど詳しくないため、それでもいいかと結論付ける。
風に吹かれ、ゆっくりと揺れている花を見下ろしていたが、私は仕事に戻ることにした。まずは外観と中の掃除からだ。今の感情の盛り上がりがどこまで続くかわからないが、改めて自分に気合を入れた。
無理をすることはない。私は私のペースでゆっくりとやっていけばいい。永琳さんと私を励ましてくれたナズーリンさんに礼を呟きながら、店の扉を潜った。
よかったら他の後日談も読んでみてください。
どう仲良くなって、どう進んでいくのかはまた別のお話。
他のちょっとした設定等は、ユリオプスデージーにて