――――これは、なんだ。
見渡す限り地獄の世界。
奇声を上げ醜くくも恐ろしい形相で、人成らざる速度と力をもって襲い掛かってくる人間の形をした死徒。
巨大な体躯と見たこともない体を持つ幻想種と呼ばれる獣達。
黒く禍々しく変質していようと、生前磨き続けた技を惜し気もなく振るい殺しにかかるシャドウサーヴァント。
そして、神がその存在を始末するために持ち出してきた虎の子、霊長類の守護者達。
全てが戦場を駆けるたった一人の
「せあッ!」
自分の意思では動けないのに、身体が勝手に反応する。
最小限の動きで正確に敵を殺し、遅い来る死神の鎌を避ける。
迫り来る異形達を圧倒し続けた。
「しつ、こい…………あぐっ!?」
けれども。
一瞬でも気を抜けば瞬時に肉の塊へと変貌するこの場で、無限にも続く数の暴力に対して消耗していくのは必然。
迫り来る凶刃。『避けて!』と、内側で叫んでも声は届かない。
避けることが間に合わずに、彼女の身体に浅くない傷が付く。
「ッぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
殺して殺して、殺し尽くして。
周りを見渡してもまったく変わることのない敵の数。変化があるのは、消耗し傷付く己の身体のみ。
それでもあの子は、絶望しかない戦場で希望を失わず剣を振るい続けた。
血と焦げた臭いが充満する牢獄の中、あの子の悲鳴と男の声が良く響いた。
「ギぐッゥウウヴヴヴ!!!!」
「あははははははは! 今度は目が抉れちまったな騎士様!」
――――もう、止めて!
悲鳴を上げるあの子と、彼女から抉り出した瞳を目の前に掲げて楽しそうに嗤う男。
ここにはいない第三者のような自分は、何も出来ずにただその光景を眺めることしかできない。
地面に倒れているあの子の姿は、とても無惨だった。
彼女の片方の足は鉄球付きの錠で捕らえられ。床に転がる折れ曲がった細長い赤黒色の物体、そこから伸びる錠の鎖と繋がっていた。
彼女の両腕は消失してしまったかのように、在るべき所に無く。
壁から垂れ下がっている彼女の腕らしき物が在るだけ。
男もまた異様で、全身に浴びた血の飛沫で服は殆ど真っ赤に染まっている。どころか所々に千切れた肉片が付着していた。
「ああ、綺麗だ! このアメジストのような瞳。どんな宝石よりも輝いている!」
「…………もぅ、…………して」
「ん? なんか言ったか?」
大切な彼女をこんな酷い目に合わせる憎いアイツが、気持ち悪い表情であの子から奪った目に魅入っていると。
今まで声を我慢するか悲鳴を上げるしかなかった彼女が、小さな声で何かを呟いたのだ。
「も、う…………ンヌ…………じて」
「聞こえねーよ」
アイツはあの子の髪を掴み上に引っ張ると、彼女の顔を上に向かせる。そして、私もあの男も、ようやくあの子の状態に気付いたのだ。
泣いていた。あの子が。
片方だけ残った目で涙を流し、もう片方からは血の涙を流して、泣いていた。
その姿が痛ましくて、もう見ていられなかった。男を止めることはおろか、目を背けることも出来ない。
出来ることは、これ以上アイツが彼女に酷いことをしないよう祈るだけだった。
「もう…………帰して」
「…………はっ?」
涙と血で顔を濡らし、ズタズタに裂かれた口からあの子は懸命に言葉を絞り出した。
「もう、ジャンヌの所に…………帰してッ!」
弱りきったあの子の声。初めて見た彼女の弱音。
それは無理だと彼女自身もわかっているだろうに、それでもただただ延々と意味の無い拷問を受け続けた彼女が吐いた言葉であった。
怖い、苦しい、戻りたい、会いたい。
色んな感情があの子を通して流されてくる。
胸が締め付けられたように痛い。存在しない自分の視界が揺れる。
男の性欲を満たすためだけに彼女はなぶられ、いつ終わるかもわからないような、目的と言う名の終着点が存在しない虐待に、彼女はとうとう耐えられなくなったのだ。
代わってあげられたら、どれほど嬉しいことか。あの男を殺せたらどれだけ満足か。
そんな考えが生まれるのと同時に、冷静な部分はあの子が泣くことを止めようと必死になる。
「…………ぷっ、くははははははは!!!」
「おごッ!?」
危惧通り。
あの子の言葉に笑いだした醜いアイツが、彼女の顔を蹴り上げると、吹っ飛んだ彼女に興奮しながら近付くのだ。
「アギッ!」
「もう心が壊れたってか? 主を守る為の騎士がそんな事言っていいのかよ? それとも、女だからやっぱり耐えられませんてかぁ!?」
「ぶっ、がッ! っぁ!」
顔や胴体にできた傷口を狙ったあの男の蹴りが、幾度も彼女を襲う。
――――――止めろ、止めろ!!!
涙を流しながら吐血する彼女を見て、無意識に届く筈がない声を出す。
そして、そこから数分ほどたった頃だ。
ひたすら醜い言葉で何事か喋りながら蹴り続ける男は、一度あの子を踏みつけるとその足が止まった。
そこで冷静になったアイツは、あの子にとって最も気づいて欲しくない事に気付いてしまった。
「…………ん? なんだこの飾り?」
「ッ!!!!!」
アイツの声があの子に届いた瞬間。
あの子は必死な形相で片方だけの脚を動かし、這いずるように男から逃げようとし始めた。
「あ? 急に動いてどうし…………ああ。なるほどぉ」
あの子の必死な様子に、意味に気付いた男はあの子の頭を掴むと、もう片方の手で彼女の耳に手を伸ばす。
「やだ! やだやだ!! 止めてください、これだけは!!」
「すげぇーいいよお前ぇ」
普段、髪に隠れて見えないあの子の耳。
そこにあるアメジストの宝石が付いたピアスを掴むと、強引に引きちぎった。
「返してッ!! それは! それだけはッ……!」
あれは、記憶の中でジャンヌがあの子に渡した誕生日プレゼントだった。
戦果を上げ始めた頃のジャンヌが買った、あの子の目と同じ色の宝石が付いたお揃いのピアス。
彼女が肌身離さず持っていた物。
「これ、大事なのか? そうかそうか。大切にしなくちゃ駄目だぞ? もしかしたら、悪意ある誰かに壊されちゃうかもしれないんだから。こんな風に」
アイツはそう言いながら、床に転がっていたハンマーを手に取ると、ピアスを床に置く。
それだけで意味に気付いたあの子は、血と涙でぐちゃぐちゃになった顔を気にせず、叫んだ。
「お願いします! もう帰りたいなんて言わないから! それはジャンヌから貰った大切な物なの!! だからそれだけは――――」
「…………ちっ。うるせーな。そんな叫ばなくても聞こえてるよ」
「わりぃ、手が滑った」
アイツは、無情にも、あの子の目の前でそのハンマーを振り落としたのだ。
ガラスが割れるような音が牢獄に響き渡る。
大切にしていたのだろう、傷一つ無かったピアスの宝石が砕けひしゃげた光景が目に入る。
あの子の目から光が失った。
「ぁ…………ぁああッ」
それをニヤニヤと嬉しそうな表情で眺めるアイツが、憎くて堪らなかった。
「ぁぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
絶望の声が。嘆きの絶叫が、彼女から聴こえてくる。
心も身体も折れた彼女の声が、ずっと耳に纏わり付く。
大切な人との唯一の繋がりが壊れた。拠り所だった物は失われ、これからも無為に、永遠に虐待され続ける。
あの子の心を壊すのに十分だろう。
そんな彼女の何が可笑しいのか、男はただただ笑っているのだ。
人の尊厳を。あの子の大切な物を。彼女の全てを壊して。あの男は悪魔のように笑い続けた。
「そうだよ、その表情ッ!! 絶望と苦悩で満ち溢れたその表情が見たかったんだ!!」
「ーーーーーーー!!!!!」
もう声にすらならない叫びを上げるあの子に、アイツは再び暴力を振るい始める。
抉れて失った目の穴に靴先を捩り込み、 折れて飛び出したあばら骨を踏みつけ、体重を乗せた蹴りを細い腰に打ち込む。
心も身体も壊れたあの子を助けることはできない。それどころか私の意識が薄くなっていく。まるで夢から覚める直前のように。
――――駄目だ。駄目だ駄目だ!!
これが、あの子の記憶にある過去だと既に気付いている。だからと言ってあの子を見捨てることはできない。したくない。
なのに、意思に反して世界は薄れていく。
あの子を残して、私は世界から切り離されていく。
牢獄も無くなり、あの男もいなくなり。そして、倒れたあの子すら輪郭が見えなくなり始める中。
「…………ジャン、ヌ」
私はあの子の声を、聞いてしまった。
「ジャンヌ、ジャンヌッ…………助けて……私をここから、助けて………ジャンヌ……!」
きっとあの女は知らない。例えソレが無理だったとわかっていても。
最初にリィルを裏切ったのは
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「――――……ぁ」
「あ…………良かった。起きてくれました」
オルタがゆっくりと目を開けると、そこはオルレアンの宮殿にある一室の中であった。傍らには安心して彼女を見るローズリィの姿。
オルタは起き上がるとボーっとした状態でローズリィを見る。その様子はローズリィを心配させるのに十分で、彼女はたまらず声を掛けた。
「まだ調子が悪いですか、ジャンヌ? いくらサーヴァントには効きづらい失神魔術とは言え…………私の魔力で活性化させてしまったんです。体調が優れないのならもう少し休んだ方が…………」
「…………いえ、大丈夫です」
「そうですか…………すいませんジャンヌ。まさかあの女が周辺にルーン魔術を仕掛けているとは…………しかも暴走した私の魔力を用いるなんて。やはり、あの女は私の事を知っている…………」
「……リィル―――」
苦々しい表情で何か考え事をしているローズリィに、オルタはそっと彼女の頬に手を伸ばす。
本来ならいつもはローズリィが行う仕草。
それをオルタが自分にやろうとしていることに気付いたローズリィは、呆然とした様子でそれを受け入れた。
「…………ジャンヌ?」
「あなた、は…………」
オルタに頬を撫でられ、首を傾けながらただただポカンとするローズリィ。
何故、普段やらない行為を。それもスキンシップの嫌いなあのオルタが頬を撫で始めたのかわからない彼女だったが。
優しく撫でてくるオルタの手にそんな疑問も薄れてしまい、彼女は身を委ねた。
「ん…………」
「…………ッ」
モチモチと柔らかいローズリィの肌とは別に、オルタの指先に何か硬い物が触れる。
髪の隙間から見えたのは、半壊したアメジストのピアス。砕けて半分ほど無くなり、無事なところにすら罅が入っていた。
「やはり、ただの夢じゃ…………」
「? どうしたのジャンみゅッ!?」
何か呟かれた言葉にローズリィが尋ねようと声を掛ければ、唐突に勢い良く抱き付いたオルタによって、その声が途中で阻まれてしまった。
先程から起こる不自然なオルタの様子に、それの文句を吐くことすら出来ない。
あのオルタが。抱き付いても離れようとし、ハグをねだっても嫌がられ、キスを強行しようとすれば炎を投げ付けてくるあのオルタが。
自分からローズリィに抱き付いたのだ。驚くなと言う方が無理であろう。
「………………………………!!!!?!?」
目を白黒させながら抱き付かれているローズリィが、無意識ながらゆっくりと彼女を抱き締め返そうと手を伸ばすが。
「――――――ッ!!」
驚いたオルタが猫のようなしなやかさで後ろに跳び上がることで、彼女の伸ばした手から逃げてしまう。
そして、何故かオルタは武器を構えていた。
「フー! フーッ!」
「…………えっと…………落ち着いてジャンヌ。私は別に貴女に危害を加えるつもりはありませんよ?」
自分の行動に混乱して警戒しているジャンヌ。そんな彼女にそろそろと近付いて、威嚇する彼女の頭にローズリィは手を伸ばす。
ビクッと反応するオルタに優しい手付きで怖がらせないよう撫でる。
そんな風に宥めていると、俯いている彼女の耳が真っ赤になるのが見えた。
どうやら正気に戻ったらしい。
「……落ち着きましたかジャンヌ?」
「……………………違います。なんでもありません」
「はい?」
「ッ~~~だから! なんでもないって言ってるのよ! つーかさっきの忘れなさい!!」
そう言ってオルタが頭に置かれたローズリィの手を払い除けようとして。
その手が唐突に止まった。
先程オルタが見たローズリィの過去。
壊れた後もひたすら暴力を振るわれただろうに、ひたすら耐えて、最期にはジャンヌの為に復讐を志した少女。
どんな英雄より強くても、心は人並みで。自分の事は蔑ろにする癖に、大切な人の為に頑張ろうと必死になる、愚かで優しい彼女。
―――――あの時、助けなかった私達を彼女はどう思ったのだろうか。
裏切られたと思ったのか…………それとも、仕方の無いことだと諦めるしか無かったのか…………
きっとこの子は…………―――
中途半端に空中で止まった手をしばらく眺めているオルタに、ローズリィは首を傾げる。
「ジャンヌ?」
「…………………なんでもありませんリィル。
ただ…………フランスに復讐するよりも先に、やらなければならない事が出来た…………それだけです」
ローズリィの顔を見ながら、決意した表情で拳を握り込むオルタ。
彼女の目に宿るのは与えられた復讐の火ではなく、何かを為し遂げるために灯した覚悟の焔であった。
疲れた
史実では女とバレてませんし男装してます