お久しぶりです。
月の輝きが夜の海を照らし、照らされた海に真円の月が漂い浮かぶ。
その上を一人の艦娘がゆっくりと航行していた。
少女の恰好は激しい戦闘後を思わせる酷い有様で、ワンピース型のセーラー服は所々焦げており、脚部に身に着けているストッキングも脱線して、あちらこちらに穴が開いてしまっていた。
背中に固定された艤装も、主砲が付いていたアーム部分が左右どちらも途中で脱落し、艤装本体も相当な負荷を掛けたらしく若干の異音を立てている。
だが、服装の破れや艤装の損傷に反して艦娘自身の表情は非常に明るいもので、程よい疲労と満足感に加えて達成感も感じているらしく、端から見ても上機嫌だった。
それを証拠に後頭部付近に浮遊している二つのデバイスが、時折青い光と赤い光を交互に点滅させて本人の弾むような航行に合わせて上下に揺れていた。
「そろそろ泊地の明かりが見えてくる頃ね」
『そうだな。先ほど工廠妖精と主計妖精から帰還予定時刻の確認があった。恐らく泊地の妖精たちが総出で出迎えてくれるだろう』
「それは……なんだがちょっと照れくさいわね」
顔の横で揺れる赤い紐で結んだ髪を照れ臭そうに指先で弄びながら、叢雲は頬を赤く染めて月明りの中を往く。
照れ隠しの延長なのか、話題を変える様に叢雲は両腕で大事そうに抱えたものに視線を落とす。それは小さな金属片のようなもので大きさは直径15cm、形状は完全なる真円で厚さは3cmほど、表面は丁寧に研磨されたかのようにツルツルで手触りがいい。そして一番の特徴は、その表面の中心に描かれた錨のマークと、そこに散りばめられた桜の花のシンボル。
それはその物体の鉛色に光る表面に、シンプルな意匠ながらも丁寧な彫り込みで描かれていた。
「司令官。この
『いや、建造中の新しい艦娘たちも含めて明日一緒に合流してもらおうと思っている』
「そう。まぁ、その方がいいかもしれないわね」
夜遅いことも考えれば妥当な考えだと思い、叢雲は手の中にある艦娘の『復原盤』の表面を撫でる。
叢雲たちがこれを手に入れたのは、軽巡洋艦ホ級との戦いを終えて帰投しようとした時だった。
⚓⚓⚓⚓⚓
「ねぇ、アンタ。帰るのシンドいからおんぶしなさいよ」
『とんでもないことを言い出すな、お前は』
周囲に敵影がないことを確認し、ようやく少しだけ気を抜くことが出来た叢雲が提督に無茶ぶりをしてそれに対して提督が苦笑を漏らしていた時だった。
「功労艦として当然の――え?」
『どうかしたのか? 叢雲』
叢雲の異変にすぐに気づいた提督が尋ねると、叢雲は人差し指を口元に立てて『シーッ』と静かにするように促す。提督も叢雲の様子に只ならぬものを感じ、すぐに口を噤んで周囲の様子をディスプレイに表示して周辺警戒を行う。
「声――声が聞こえたのよ……」
『声……?』
切羽詰まった叢雲の様子に、提督は伝声管に模したスピーカーを引き寄せて耳を澄ませる。伝声管から聞こえる音は当然乗艦している叢雲の耳が捉える音であり、二人は周囲を警戒しつつ耳に神経を集中させた。
「――っ! はっきりと聞こえたわ、あっち!」
音の出所を突き止めた叢雲が後方へ振り向いて指を指す。艦橋から見える景色、叢雲が視ている視界が映し出す先に見えたのは、青い光だった。
まるで海底から探照灯を照らしているかのように、絞られた筒状の光が海の中から海面を照らし空へと昇り拡散していた。
それは決して強い光ではないのだが、青い光は美しく何より柔らかい光を放っていた。
『あれは――復原盤か』
「復原盤って、ならあそこにっ」
提督が資料で見ていた状況と今の状況が完全に一致することからそう判断すると、叢雲もそれを聞いて講習で受けたことを思い出して、すぐさまその光へと向かった。
光の傍までいくとその光が照らす丸い光の輪が、まるで夜の海に空いた水底に続く海底への穴のように見え、光の美しさとその先にある絶望的なまでの闇に叢雲は息を呑んだ。
提督と叢雲がその光の美しさと、それによって引き立てられる『海』という存在の広大さに改めて戦慄する中、二人を現実に引き戻したのは水底から押し上げられるように浮かんできた丸い金属板だった。
水面へと浮かび上がってきたそれを叢雲が手に取ると、後光のように射していた光はやがて薄くか細くなって消えていった。
『……これが海底からの復帰艦を再生させる復原盤か』
提督の零した言葉に叢雲はゆっくりと頷くと、そっと復原盤を抱きしめた。
「おかえりなさい。また一緒にいきましょう」
⚓⚓⚓⚓⚓
「ねぇ、この復原盤の娘って駆逐艦なのよね?」
『そうだ。復原盤の表面に菊花紋章ではなく桜の花があしらわれているのは、現在までの報告では駆逐艦だとされている』
「そう。なら尚更会うのが楽しみだわ」
やはり自分と同じ艦種には思い入れが強いらしく、叢雲は上機嫌に航行を続ける。
行きは進路から見て右方西方に見えていた蒲生田岬の灯台を通過する際、叢雲は行きと同じく再び灯台に向かって敬礼をする。
灯台が照らす導きの光を過ぎ去って一時間と少し、もう児島泊地は目の前だ。
何とかここまで無事に戻れたことに安堵しつつ、叢雲は己に乗艦している提督のことを考える。
第一印象は悪い意味で強烈だった。
いきなり工兵のような恰好で、まるで塹壕でも作ってるかのような勢いで地面を掘削している場面で出会い。その後は提督室でミカン箱を机替わりに執務を行い、そこから工廠地下での開発と建造――。
「あっ。そういえば、あの開発で出来たぬいぐるみ達はちゃんと保管してくれてるのよね?」
『勿論だ』
「そう、ならいいのよ」
ふふんと満足そうに鼻から息を吐き、叢雲が再び今日の出来事の記憶を辿ろうとしたすると、それを遮って提督の静かな声が聞こえてきた。
『叢雲、泊地の光が見えたぞ』
その声を聞いて叢雲が視線を進路方向へと向けると、島のある泊地は煌々と照明がたかれており、帰還する艦艇をまさに出迎えるような様相だった。
「母港の光……」
その温かで柔らかな光を目にし、叢雲は少しだけ口を開けて茫然とその光を見つめた。
「……綺麗」
戻るべき場所があり、そこが自分を導く為に放つ光。
その何と美しく心に染みることか。
『無事の帰還、任務ご苦労。叢雲』
言葉は硬いが、声音は幾分柔らかい提督の労いの言葉を受けて、泊地の光に目を奪われていた叢雲はボロボロの恰好ながらも笑みを浮かべた。
「ま、当然の結果よね」
⚓⚓⚓⚓⚓
ここ児島泊地は元々は海洋学の研究施設であり、港部分には最低限の船着き場としての機能は備わっていたが、泊地としての――ましてや艦娘を運用する軍港としてはまったくの手つかずに近い状態であった。
これには理由があり、簡易的ではあったが出撃用ドックを工廠直結で作った後は、港部分の工事に取り掛かる予定であったのだが、候補がおらず決めあぐねていた提督の選任に思わぬところから候補が上がった。その後トントン拍子に話が進んでしまい予想よりも大幅に早く提督の着任が決まってしまった。この事態を受けて海軍省は、新たに着任が決まった提督に――
『港と居住区画の補修が完了するまで待機すること』
――を命じたのだが、新任提督から意見具申があり、その内容が――。
『泊地の増設は護国防衛の急務。先の四国陥落とその奪還で世論は防衛軍備の増強に関して寛容になっています。その世論の風を追い風とするためにも、新たなる泊地を早期に立ち上げ中四国の防衛と哨戒に加わりたく思います。その為に、泊地の運営を行いつつ各施設の補修作業は独自で行う許可を頂きたい』
新任の提督が言う通り、過去に四国が一時的にとはいえ敵の手に落ちたことを踏まえ、大本営としても早急に四国の守りを強固なものとしている、という具体的な成果を世間に示す必要があった。その為に提督の意見は受け入れられた。
――ちなみにこの新任提督からは先の提案に補足があった。
『本来掛かる筈だった泊地の工事費用に関して、浮いた分を泊地の運営に回したいので、支度金としてその三割を計上して頂きたい』
と言ったもので、これには大本営も難色を示すものと誰もが思うところではあったのだが、意外にもこの要望は通り泊地の帳簿に支度金としてそれなりの額が加えられた。
この提案が受け入れられた理由としては、この泊地へ着任する提督の選任にはその特殊性と極めて限られた資質が必要であるが故に、海軍省も相当苦慮していた。その問題を――成果が出るかはともかく、直近の問題を片付けてくれた提督に対する配慮という部分もあったのだろう。
⚓⚓⚓⚓⚓
工廠直結の出撃用ドックに、叢雲は無事に帰還した。
港部分を横切る際は泊地の妖精たちがほぼ総出で出迎えてくれた。まだ始まったばかりの泊地ということもあり、妖精たちの人数も決して多くはないのだが、それでも泊地の初陣を単艦ながら勝利で飾った初期艦に妖精たちは誇らしげに手を振っていた。
そんな妖精たちの前を叢雲は少し照れた様子ではにかみながら敬礼をして通過し、洞窟型の水路を通り出撃時に使った現在児島泊地唯一のドックへと戻ってきた。
スロープ状になった海面と陸地の境目で止まり、一度息をつく。
そして水面から陸地へと足を延ばして、スロープ状の陸地を踏みしめてゆっくりとコンクリートの坂を上がり切りドックに立つ。
水面から離れたことで艤装が重量を増したような錯覚を覚える中、ドックを見渡せばそこにも大勢の工廠妖精たちが笑顔で敬礼をしていた。
その様子を見て叢雲は、またはにかみながら敬礼する。妖精たちの純粋な笑顔を見て、叢雲が感じた艤装の重量が増したような感覚も消え、幾分気持ちも軽くなった様に思える。
『叢雲、私は下艦する。今回の出撃に対する一通りの事務作業はやっておくので、しっかり入渠しておくように』
「え? えぇ、でもあんただけだと大変でしょ? 私も手伝うわよ」
『気持ちは嬉しいが、君は小破している状態だ。些事は私に任せてゆっくりしてくれ』
「些事って……まぁいいわ。じゃあ入渠が終わったら司令室に行くわね」
『了解した』
大本営に提出する重要書類を些事と言う提督に呆れながらも、着任初日に緊急の初出撃となった自分のことを労わってくれている、ということは分かるので叢雲もそれを無碍にはせず『仕方がないわね』といった様子で苦笑しながら頷いた。
そして自分の中――正確に言えば艤装部に存在していた提督の意識が揺らめく波のように消えていった。
この感覚は昔にも覚えがある。
自身が正しく艦艇だった頃に母港へと帰還した際、艦長を含めた過半数の水兵が下艦をして人の気配が無くなった艦内のことを思い出す。
右手を胸に当てて目を瞑り思い出そうとすると、まるで霞掛かったようなあやふやな過去の記憶が浮かぶ。眉間に少し皺が刻まれるが、今はそれを振り払うように頭を振って目を開いた。
すると叢雲の様子を工廠妖精たちが心配そうに見ていることに気づき、叢雲は不甲斐ない自分に喝を入れるかのように右手で自身の頭を『ボスっ』と叩いた。
そして気を取り直したように笑顔で妖精たちに敬礼した。
「妖精さんたちお世話になるわ。艤装の解除、お願いね?」
叢雲の明るい表情に妖精たちも笑顔を浮かべて頷くと、一斉に作業に掛かるべく動き始めた。
出撃時に艤装を装着した場所に立つとクレーンが頭上へと移動してきて、そこからフックが降りてきて艤装に掛けられると一度作業が止められる。
すると下でクレーンの位置誘導をしていた妖精が叢雲に許可を求めるように視線を向けてくるのを見て、叢雲がそれに応じて頷く。
クレーンのフックが艤装にしっかりと固定されると、青白い光と共に叢雲と艤装が繋がる部分で電流が迸る。
「……っ」
叢雲が艤装の解除に伴う衝撃に声が漏れない程度に呻く。艦娘にとって艤装と接続している状態こそが自然の状態であり、その接続を解除することには衝撃と痛みが伴う。
背骨に接続されたモノを無理やり引き抜く感覚には中々慣れないのだが、ともあれ衝撃も痛みもほんの一瞬のことなので、叢雲はそれにも今では慣れてきていた。
艤装がクレーンに吊り下げられたまま艤装用の入渠ドックの奥へと移動していくのを見送り、自分を見上げて敬礼している工廠妖精に返礼すると艦娘用の入渠用ドックへ向かって身を翻した。
出撃用ドックから向かって右方へと繋がる通路へと進む。地下通路の天井には等間隔で防護用の金網に覆われた蛍光灯で照明が取られており、打ちっぱなしのコンクリートの壁にぼんやりと光が反射して暗さはあまり感じない。しばらくその無機質な通路を進むと、向かって右手に周囲の無機質な灰色に不釣り合いな温かみのある木製の扉が目に入る。
擦りガラスこそ使われていないが丁寧な彫り細工の施された木製の横開き扉、その扉の前面には暖簾がかかっており、そこには大きくかつシンプルに『湯』の一文字。
「……センスの問題? いやあの司令官のことだから、なんかズレた認識してそうよね……」
間違っても最初からこうであったはずはないであろう、その木製の横開き扉を開けて中へと入る。入って最初に目に入るのは段差を備えた床、そこへ上がるために今履いている靴を脱がないといけない。
段差に腰掛けて突起の付いた防護カバー外してローファータイプの靴を脱いで脱衣所へと上がる。脱衣所は十二畳ほどの広さで床には竹製のタイルが敷き詰められ、壁も下地は通路と同じコンクリート壁だったはずだが、今は木のタイルが丁寧に張り巡らされていた。
段差を上がったところから部屋は左方向伸びており、正面から見て左側――壁の向こう側に今通ってきた通路がある方には四段の棚が設えてあり、そこに脱いだ衣服を入れる竹細工の編み籠が置かれている。正面奥には壁全面覆うほどの大きな鏡があり、その下には四つの洗面台が敷設されていた。そして右側には入渠ドックへと続く擦りガラスの扉。
「これって……資料で見た銭湯とか温泉施設の脱衣所に雰囲気がかなり似ている気がするわ」
訓練艦娘として海軍総隊にいた頃にも訓練や演習で負傷していくつかの施設で入渠したことはあったが、その入渠施設は何処も無機質なもので『入渠』を行う以上の用途を必要とせず無駄が全部省かれた、まさに軍港の入渠ドックのような場所ばかりだった。
そこに比べると今叢雲の前に広がるのは、まるで『人間』が寛げるためにまだまだ稚拙ながらも可能な限り配慮しようとした痕跡が伺えるものだった。
「ふっふふ……うふふっあはははっ!」
自分以外の誰も居ない脱衣所で叢雲は堪え切れないとばかりに肩を震わせて、やがて身体をくの字に折って腹を抱えて大笑いする。
「あーもう、おかしいったらないわ。何なのよあいつ」
ようやく笑いが収まると、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら叢雲は笑みを浮かべたまま、自分が着任したこの児島泊地を統べる司令官のことを思い浮かべる。
最初は本当に変な奴だと思ったが、初の実戦に出る際には自分に躊躇なく乗艦してくれた。戦場でも冷静に指揮をし、余裕のない自分を和ますために冗談さえ言ってくれた。そして掴み取った勝利と戦果を胸に帰港して――極め付けに目の前のこれだ。
「はぁ~……」
叢雲は海軍総隊で生まれてそこで過ごし学ぶ期間があったからこそ、自分たち艦娘という存在の現状を良く理解出来ていた。
艦娘は現在の日本における海防戦力である『日本国防人海軍省』において、最も重要な役割を担う存在であるのは間違いない。
だが、そのあまりにも突拍子もない存在の在り方に対して疑念や拒絶の意思を示す人間も当然一定量存在し、正体が不明確な艦娘の運用に疑問を呈する声も小さなものではない。
そういった声を抑えるためにも海軍省は艦娘を基本的な姿勢として、『人間』として扱わずあくまで『兵器』であるというスタンスを打ち出し、メディアへの露出を最小限に止めて情報も出来る限りの範囲で統制を行っている。
情報統制は平和な時代では無理であっただろうが、深海棲艦の出現とその跋扈によって
その点において日本は大陸から近いことだけが救いではあるのだが、島国という最悪の条件を抱えているため、現状様々な物資が完全な供給を行えていない。その為、配給制度が必要とまではいっていないものの、社会的弱者に食料や物資を行き渡らせるには政府主導による支援が必要となつており、情報統制を行っても強打な批判をされない状態にあった。
話が逸れてしまったが、つまり現状艦娘には『人権』を保障する定義が存在せず、海軍総隊でも艦娘には机とベット以外何もない狭い部屋が与えられ、質素な食事と訓練以外には自室を出ることも許可されず、自由な時間なども当然なくテレビやラジオなどのメディアはおろか、基本的には読書すら認められていなかった。
そんな自分たち艦娘の立場をよく分かっている叢雲だからこそ、この入渠ドックの異常性が分かってしまう。そしてここをあの提督が――妖精の手伝いはあったのかもしれないが、一人で整えたのだと思うと、もう叢雲は笑わずにはいられなかった。
戦闘によって破れたり焦げたりしているワンピースタイプのセーラー服を脱ぎ、身体の傷を確認しながら脱線したタイツと下着を脱いでいく。痩身でまだ幼さが目立つ体つきながら、美しい銀髪を肢体に滑らせた叢雲は既にある種の色気を醸し出していた。
身体のチェックを終えた叢雲は、いくつかの小さな傷を確認し『ふんっ』と不機嫌そうに鼻息を漏らすと擦りガラスの引き戸を開けて中へと入る。
「うわっ……」
部屋へと中入ると、まず碧い石タイルを張りめぐらせた床と照明の光を反射させて室内を明るくさせる象牙色の壁が目に入る。そしてドックは部屋の左右の壁際に入渠用の浴槽があり、それは四角い間仕切りのされた長方形の風呂のようなもので、左右の壁際に四つずつ計8個あった。
部屋の中央には目隠し用の壁があり、そこは洗い場にもなっていた。シャワーノズル付きのカランが壁を挟んだ両側に3箇所計6箇所あり、それぞれにプラスチック製の青い腰掛けと片手掴みの取っ手がついた風呂桶が置かれていた。
海軍総隊での同じ使用目的の入渠ドックはを思い出し、叢雲は少しの間その場で茫然と立ち尽くしていたが、若干の肌寒さを覚えて慌てて背後の引き戸を閉めた。
洗い場に行って放水のノズルをシャワー側に捻ると、壁に掛かったシャワーから細かな水の粒が溢れ出て叢雲の頭へとかかる。
撫でつける様にして全身にお湯が渡り切った頃合いに、叢雲は洗い場に備え付けてある『シャンプー』と書かれた容器のポンプディスペンサーをカコカコと押す。しかし押してみても出てくる筈のシャンプー液を受けようと伸ばした手には何も出ず、ノズルは空気を吐き出すばかりだった。
「んー……?」
眉根をひそめて更に何度か押すと、急に手ごたえを感じて白く濁った液体が叢雲の受けていた手の平に出てきた。
「ひゃっ!?」
油断していたので急に勢いよく出てきたシャンプー液に困惑していたが、すぐにこのシャンプーが開封したてのもので、まだ誰も使っていない新品だということに思い至った。すると叢雲は思わず嬉しくなってしまい、上機嫌で両手を擦り合わせるように泡立てたシャンプーで髪を洗い始めた。リンスとボディーソープでも新品を最初に使う気分の良さにニマニマして、最後にもう一度シャワーで全身を洗い流すと風呂にしか見えない入渠ドックへと向かって踵を返した。
部屋には8つの槽があり、今液体が満たされているのはその中で『五』と書かれた一槽だけだった。
位置的には入って右側の入り口に一番近い手前の位置。
叢雲は特に深くは考えず、極僅かにだが薄い緑色をした液体の満たされた浴槽に爪先から入る。長く浸かっていられることを前提としている為か、浴槽に張られた液体は温水程度の水温でしかなく、先に身体を洗っていたこともあり叢雲は熱さを感じずにすんなりと入渠を開始することができた。
「ふぅー」
ただゆったりと浸かっているには丁度いい温水に肩まで浸かり、叢雲は目を瞑りながら軽く息を吐いた。しばらくの間はそのままじっとしていたが、やがて眼を開くと自分が使っている温水を両掌で掬いあげる。
掬って少量を一見すればただのお湯のようだが、入る前に見たときに分かったように極僅かだが緑色をしているので、それが単なるお湯ではないことは確かだった。
海軍総隊でも入渠ドックの利用の仕方は説明されたが、この液体が何であるかは教えては貰えなかった。
艦娘として叢雲が理解しているのは、この謎の液体に満たされている浴槽の並んでいる部屋を入渠ドックと呼び、艦娘がそれに浸かることで戦闘で負った傷を癒すことができるということ。
入渠ドックは小破以下用と中破以上用が存在し、負ったダメージによって振り分けがされる。叢雲は今回の初実戦と海軍総隊で参加した演習も含めて小破までしかダメージを負ったことがない。なので中破以上のドックは未経験なので実はそれがどういったものなのかは知らなかったりする。
入渠を開始して30秒ほど経過したところで、叢雲のいる浴槽から正面。ちょうどさっきまで身体を洗っていた洗い場の上に縦15cm横50cmほどの大きなデジタル時計が現れ、そこに『00:08:34』と表示され右の数字が段々と小さくカウントされていく。説明されるまでもなく、それが入渠完了まで必要な残り時間だった。
その数字をドックに漬かったままジっと見ていると、何処からか一人の妖精が現れて浴槽の縁をトコトコと歩いてくると、叢雲の入っている浴槽の縁で止まりビシっと敬礼をするとその場に正座した。
「……?」
妖精の意図が分かりかねて叢雲がキョトンとしてしまうが、真剣な表情で叢雲を見つめ続ける妖精の様子を見ている内に、その妖精が叢雲がちゃんと入渠を行っているかの監督に来ているのだということに思い至った。
あくまで『監督』であって『監視』と思わないのは、妖精にそういった悪意が持ち得ないことを艦娘として叢雲は知っているからだ。
「ご苦労様。でも退屈じゃない?」
真意が分かれば気にする必要はなく、お湯で濡らしたタオルを手に取り真剣な表情を浮かべたまま正座する妖精の顔を拭きながら尋ねる。
温かなタオルで顔を拭いてもらい妖精が一瞬幸せそうな表情を浮かべるが、すぐに我に返ってきりりっと表情を引き締める。
その様子を見て叢雲はふふっと笑い、両手足を伸ばして束の間の入渠に息を吐いた。
⚓⚓⚓⚓⚓
時刻は二〇〇〇。
入渠を終えた叢雲は寝間着として妖精から渡された浴衣に着替えて提督室の前までやって来ていた。
身体にはもう入渠前にあった小さな傷痕はなく、疲労感すら回復しているようだった。
入渠を終えたばかりの身体は普段よりも少し高い体温となっているが、決してのぼせているような感覚ではなく、むしろぽかぽかと心地良い感覚ですらある。
叢雲は扉の前に立つと特に躊躇することなく扉をノックする。すると中から『入ってくれ』という大きくはないがハッキリと耳に通る声が聞こえてきた。
扉を開けて部屋へと入ると、昼間と同じようにミカン箱に書類を広げて書き物をしていた提督が手を止めることはなく、僅かに顔を上げて視線を叢雲へと向ける。
「問題なく入渠は出来たか?」
「えぇ、快適に入渠出来たわよ」
「そうか。それならいいんだ」
ポーカーフェイスを装いながら叢雲が澄ました顔で応じると、同じく提督も掴み所のない表情で素っ気なく返すと、再び書類へと視線を落とした。
その様子と先ほどの入渠ドックとの落差に叢雲はまた吹き出しそうになり、全忍耐を総動員して耐えると提督の向かい側へと座る。
「で、今は何の書類を書いてるの? 今日の出撃について?」
「そうだ。まさか初期艦着任の日に初出撃になるとは思っていなかったからな。だが、戦果は望外な出来だ。おかげで報告書が書きやすい、感謝している」
「なっ!? と、当然のことよっ」
急に褒められて叢雲は顔を赤らめてフンっと顔を横に向けるが、後頭部付近を浮遊しているデバイスの発光灯がピンク色に染まり点滅していた。
非常に分かりやすい。
「いや、本当に感謝している。人・物・時間と全てに窮した状況下で生まれたこの新設の泊地には、今は何よりも
書類の最後に署名を書く万年筆の滑らかな音がキュッと響く。一枚の書類を仕上げた提督が顔を上げると、そこには少しだけ人の悪い笑みが浮かんでいた。
「――戦闘による勝利ほど分かりやすく、軍令部向けに受けのいい結果はない」
「あんた……何か悪い顔してるわよ」
呆れたような表情の叢雲にそう言われ、提督は口元にだけ微かな笑みの残滓を残した表情でおもむろに立ち上がる。
「とりあえず遅くなったが食事にしよう。食欲は?」
「もーペコペコよ」
朝から何も食べていなかった叢雲は素直に空腹を訴えた。
その声に頷く、提督は部屋の外へと歩き出す。そして扉の前で立ち止まって振り返ると、ミカン箱の上を片付けようとしていた叢雲と目が合う。そして不意に右手を上げて、部屋の隅を指さした。その指が示す方へと叢雲が顔を巡らせると、そこには一台の折り畳み式の座卓が立てかけてあった。
「そこの机を出しておいてくれ」
「机あるならミカン箱で執務してんじゃないわよっ!」
叢雲の叫びを背に提督は部屋を後にした。
艦これしてると書きたくなって、でも艦これしてると書く時間が取れないジレンマ。