瀬戸内の提督日誌   作:シヴ熊

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本当は一週間くらい叢雲と二人きりでも良かったかな。


始まりの夜

 

 時刻はざっくり言えば変わらず二〇〇〇(フタマルマルマル)

 

 叢雲が準備した組み立て式の座卓の上には、ホカホカと湯気が立つ料理が一品置かれていた。

 白い陶器の深皿は横に長く、そこに炊き立ての証拠とばかりに湯気を放つ白い御飯が左に寄せて盛られていた。

 その逆側には食欲をそそる刺激に富んだ匂いを放つこげ茶色のルーが盛られている。飴色になるまでよく煮込まれた玉葱に大き目に切られたじゃがいもや人参、そして柔らかそうな牛肉がごろごろと盛られて見るからに美味そうだった。

 

「これって……もしかしてカレー?」

 

「知っているのか?」

 

 目の前に置かれたカレーを見て叢雲の零した一言に、自分の分をカレー皿によそいながら提督が反応した。叢雲が海軍総隊に居た時に与えられていた食事についても全て目を通していたので、叢雲がカレーを食べたことがないのは把握していた。

 だが、目の前に行儀よく座って座卓の上に置かれた料理を見てカレーだと言い当てたということは、叢雲はカレー食べたことはないが知っているということになる。

 

「えぇ、と言っても知っているのは艦だった時のことよ……。土曜日には皆『カレーということは、今日は土曜日か』って言って美味しそうに食べていたわ」

 

 カレーを見つめながら懐かしそうに、それでいて少し寂しそうな表情でそう言った叢雲の表情は少女とは思えないほどに諦観めいたものを感じさせ、見るものにある種の不安を抱かさざるえないモノを孕んでいた。

 その雰囲気を払拭させるためなのか、提督は手際よく座卓の上に福神漬けの入った銀色の四角い容器と二人分の牛乳が入ったグラスを置いた。

 

「そうか。ならその頃共有できなかったカレーの味を、今日やっと叢雲も感じられるというわけだな」

 

「え? あ……そっか。そう……よね。そうなるわよ、ね……」

 

 提督の言葉に叢雲は不意を突かれたような表情を浮かべたが、すぐに言葉の意味を理解してまるで自分自身に溶かし込む様に何度か反芻していた。

 顔を少しだけ俯かせてカレーを見つめながら口の中で何度も言葉を繰り返しているのを提督は黙ってみていたが、俯いた拍子に肩を流れた叢雲の髪がカレーに入りそうになっているのを見て口を開いた。

 

「さて、冷める前に食べるとしよう。こういったものは熱い内に食べてこそだ」

 

「……そうね。頂くわ」

 

 提督が銀のスプーンを手に取ったのを見て、叢雲も同じようにスプーンを手に取りカレーと御飯の丁度境目あたりに匙を入れてそのまま掬い上げる。

 銀の匙の上にこげ茶色と白の対比が生まれ、湯気と共に漂ってくる匂いは刺激的で叢雲の食欲を大いに刺激するものだった。

 叢雲が視線をチラっと上げると、提督は既に匙を何度も皿と口で往復させて静かに食事をしていた。それに倣い叢雲も銀の匙を口へと運び最初の一口を頬張った。

 

「っ!?」

 

 数度口をモグモグと動かすと、叢雲は目を見開いて目の前の皿へと視線を落とす。そしてすぐに次をすくい上げて口へと運んだ。

 カレーの香辛料による辛さと熱さもあってか、頬を紅潮させて僅かながら汗すらかきながら無言でカレーを食べていく。

 小さな口ながらも忙しなくスプーンを往復させ、程なくカレー皿に盛られていたカレーは綺麗に平らげられて、牛乳をグイっと飲み干して息をついた。

 

「……美味しかったわ。カレーって、こんなに美味しいものだったのね」

 

「気に入ったか?」

 

「えぇ、きっと艦娘なら誰でも好きになると思うわ。なんたって、()()カレーなんですもの」

 

 自信を持って頷きながら叢雲は「でも……」と付け足すように悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「辛さには好みがあると思うわね。私にはちょうど良かったけど」

 

 そう言って辛さを中和してくれた牛乳の入っていた瓶を人差し指でピンと弾くと、執務室内に硝子の澄んだ音が響いた。

 

「なるほど、貴重な意見だ。今後着任する艦たちの好みも把握するように努めよう」

 

「そうね。後付けで辛さを調節できるのなら、言うことなしだわ」

 

 うんうんと満足そうに叢雲が頷くのを見て提督は小さく笑みを浮かべ、食器を下げようと腰を浮かせたところで執務室の扉が開いて割烹着を着た妖精たちが数名入ってきた。

 八名の妖精が提督と叢雲に敬礼をすると二人が食べた食器類を数人がかりで頭上に掲げる様に持って机の段差などをものともしない、物理法則を無視した動きで食器類を部屋の外へと運び出し、その班とは入れ替わりに別の小さな硝子の深皿を持ってきた。

 小さな青い硝子の深皿を提督たちが囲む机に置くと、妖精たちは敬礼をする。その様子に穏やかな笑みを浮かべた提督が返礼すると、妖精たちは嬉しそうに笑みも浮かべて部屋の外へと出て行った。

 

「これって……苺?」

 

 その小さな青い硝子の深皿には、青い皿とは対照的な赤い果実が盛りつけられていた。

 

「実家の近くに苺農家が多くてな。随分と季節外れなんだが、児島泊地(ちかば)へ着任する旨を伝えたら送ってくれた」

 

「ふーん……」

 

 興味なさげな返答をしつつも、口の中で小さく「ご実家近いんだ……」と呟いて苺をフォークでつついてみる。

 

 その様子に小さく笑みを浮かべると、提督は備え付けの小さな冷蔵庫から可愛らしい牛のパッケージが描かれたラミネートチューブの練乳を取り出して机の上に置いた。

 

「これをつけるのが古島家式だ。試してみてくれ」

 

 言われた通りチューブから苺の上に練乳を掛けると、青い皿に苺の赤が映えそこに練乳の白い筋が美しさを際立たせる。

 叢雲はそれを見て嬉しそうに微笑みを浮かべた。

 

 今でこそ苺に練乳を掛けること自体は別段珍しいことではないのだが、昭和の――それも海軍の軍艦内では見たことのない食べ方だったので、提督に促された叢雲は早速フォークで苺を一つ取り上げると赤い果実をジッと観察してから、おもむろに小さな口に開けて大き目の立派な苺を齧った。

 

「――ッ!」

 

 思わず絶句する美味さ。

 最初に感じたのは口に広がる苺の甘み。そしてその後すぐに練乳の濃厚な甘さに目尻が下がり、その甘みがくどさに変わる前に苺の酸味が中和してくれる。

 

「おいしぃ~……」

 

 甘未とは恐ろしく甘美なもので、カレーとは違うベクトルの喜びを叢雲にもたらした。その美味しさに思わず相好を崩し、朱の差した頬に手を当ててうっとりとする。

 その様子に満足そうに頷きつつ、提督も久々に食べる地元の苺に舌鼓を打った。

 

            ⚓⚓⚓⚓⚓

 

 

 食事を終えた後しばらくの食後休憩を挟んで、提督と叢雲は今後のことについての会議を始めた。

 議題は直近として明日の予定と、ゆるやかな展望としての今後の泊地運営に関して。

 

「明日は現在建造中の艦娘二隻と、今回の出撃で回収に成功した復原盤の復原を行う」

 

「当然ね。この泊地って私たちで整備していかなきゃいけないんでしょう? だったら戦力の増強は勿論だけど、根本的に労働力として人員の補充は急務よね」

 

 食事後何故か折り畳みの机は提督の手によって片付けられ、今は再び提督と叢雲の間には裏返されたミカン箱の執務机が置かれており、その底面に頬杖をついて叢雲は提督の顔を見ている。

 

「当然だ。設備の整備に関しては私が一通りの知識を持っている。一部の専門的な分野に関しては大本営に要請して専門業者を手配するが、これも軍内部の直轄業者だから君たち艦娘が気にすることはない」

 

 艦娘の存在は現在のところ一応秘匿扱いされている。それでも既に艦娘が世に出現して数年が経過していることもあり、一般メディアにもその姿を何度か捉えられて報道されている。

 これ関しては軍がメディアに圧力をかければ、艦娘に対する誤った――ないし歪んだ報道をされる可能性があると軍令部は考え、正式には発表していないものの小出しに情報を出してメディアの火消しを行っている。

 提督が言っているのは、泊地に入ってくるのはあくまで軍関係者のみ、ということだった。

 

「艦娘の特異性……ね。まぁその辺りは軍の方針に任せるわ。私たちはあんた達の指揮の下で与えられた役割を忠実に果たすだけ――今はそれでいいって、私は思っているもの」

 

「賢明だな。君たちに愛想をつかされないように全力をすくそう」

 

「そうそう、そういう殊勝な心掛けは大事よね」

 

 ふふん、と得意そうな顔で頷く叢雲に少しだけ表情を和らげた提督だが、すぐに表情を戻して手元の資料を捲る。

 

「新規建造艦と復原盤による復原艦だが、基礎訓練の期間について詰めておきたい。海軍総隊で叢雲は半年間の訓練を受けているんだったな?」

 

「えぇ、そうよ」

 

「叢雲をして半年間か……」

 

「なによ、叢雲をしてって」

 

 提督の言葉に唇を尖らせる叢雲に、提督は書類から目線を上げることなく口を開く。

 

「初期艦候補の中で一番優秀だと思った君でさえ半年の訓練を必要としたと考えれば、我が泊地での初心者(ビギナー)訓練にどの程度の時間を必要するのかと考えたものでね」

 

「なっ!? べ、別に私以外の候補の子だって優秀な娘ばかりだったわよ……ほ、ほら吹雪なんてネームシップだし、凄く真面目で優秀な子よ! ちょっとおっちょこちょいなトコロもある……けど」

 

 顔を赤くして捲し立てる様に言葉を放つと、最後の方は尻すぼみになり自分の髪を一房撫でつける様にして下を向く。

 

「だが、私は君を選んだ」

 

「っ!? なっなに……を、言っ……」

 

 提督の言葉に弾かれたように顔を上げた叢雲は真正面から提督の顔を見て、その視線が完全に合った。赤の強いオレンジ色の瞳が映す提督の瞳は日本人らしいブラウン色の瞳なのだが、数瞬見つめ合う刹那、提督の瞳の中に黒い影がざわめく様によぎったような気がして、叢雲は息を呑んだ。

 

「気の強そうな君なら、私も楽が出来るんじゃないかと思ってね」

 

 硬直している叢雲を助けるかのように茶化した物言いをする提督に、叢雲は顔を真っ赤にして口をへの字に曲げていく。

 

「ふ、ふんっ! そんなの考えが激甘よっ! しっかりお国の為に身を粉にして働かせてあげるから覚悟しなさいっ!」

 

 提督の助け舟に乗るのは釈然としなかったが、叢雲は誤魔化す様にそう嘯くと腕を組んでどっかりと正座で座り直す。そして薄めの開けて目の前の提督を盗み見る。

 叢雲の様子が可笑しかったのか薄い笑みを浮かべたまま書類を見る提督の瞳には、もう先ほど見えた影のようなモノは一瞬たりとも認めることは出来なかった。

 そのことに安心しつつ、叢雲は早鐘のように打つ自分の心臓の鼓動が早く収まるように祈りながら、背中にかいた冷や汗の冷たさに眉根を寄せた。

 

(司令官の瞳に見えた影の色……アレはまるで、360度見渡す限りの水平線に何一つ存在しない夜の海の昏さ。それは、まるで――の色)

 

「――くも? 叢雲」

 

「え? あっ、なに?」

 

 自身の思考に没して呼びかけられていたことに気づかなかった叢雲は、怪訝そうな顔をした提督の顔が近くにあったことに硬直しかけたが、漲り理性で動揺を捻じ伏せて努めて冷静に返事をした。

 

「いや、新規建造艦たちの訓練期間だが二週間を目処に水上訓練まで漕ぎつけたいを思っているのだが、もしかして熱でもあるのか?」 

 

 物凄い鬼訓練カリキュラムを耳にしたような気がしたが、それよりも提督が軽く身を乗り出して叢雲の額に右手の手の平を押しつけたことに思考が持っていかれた。

 またも不意をつかれた叢雲は口をパクパクをさせたが、先ほど見た瞳の影が思考に過りアップダウンの激しい感情に処理できなくなった叢雲は、やんわりと提督の手を押しのけた。

 

「……なんでもないわ。ちょっと考えごとしていただけよ」

 

「そうか? まぁ着任初日に実戦となったわけだからな、疲労もあるだろう。残りのことは明日に持ち越してもいいが」

 

「大丈夫よ。着任初日だもの、秘書艦としての役割もちゃんと果たさせてちょうだい」

 

 心配無用と強い意志を宿した瞳を自分に向けてくる叢雲に、提督は少しだけ口角を上げて笑みを浮かべると、その頭にポンと手を乗せて撫でた。

 

「っ……」

 

 反射的に怒鳴りそうになった叢雲だが、撫でる手の優しさと温もりに棘が抜けて威勢は萎んでしまった。

 

「…………」

 

 大きくて温かいそれでいて、様々な用途に酷使された手は硬くてゴツゴツとしていた。それなのに何度も叢雲の頭を撫でる手は優しくて、思考を蕩かすような魔性の効能があった。

 

「………………はっ!? も、もういいでしょ! いつまで撫でてるつもりなのよっ!」

 

 されるがままになっていた叢雲だが、ようやく元の勢いを取り戻して提督の手から逃れる様に身を引くと、浴衣の胸元で裾を掴んみ息を吐く。

 そのネコのような仕草に目を細めつつ、提督は身を引くと書類を再び手に取る。

 

「で、新規艦の訓練の件よね? 二週間で水上訓練まで持っていきたいって話だけど、かなり無茶な話だと私は思う」

 

「君は水上訓練まで一か月だったな。その経験で今の意見を?」

 

「そうね。海軍総隊ではそうだった、だから私もその経験で言っているわ」

 

「なら問題ない。これが現在までの各鎮守府・泊地における、初期建造艦や復原艦が最初の水上訓練を行うまでの記録だ」

 

 そう言って提督が渡してきた紙を見た叢雲は絶句する。

 

「なによこれ、平均すれば大体一週間で何処も水上訓練を実施してるじゃない」

 

「今でこそ情勢が安定してきているが、艦娘が配備された当初はそれこそ建造されたその日から近海の哨戒くらいには出されていたようだ。最初の世に言う『四鎮守府』は、まさに本土陥落寸前のところからの盛り返しを行わなければいけなかった。君たち艦娘たちに多大な犠牲を出した」

 

 黙祷するように頭を下げた提督に、叢雲もまた同じように頭を下げた。

 

「艦娘による作戦を成功させるために、陽動として動いた海軍の人達にも多くの犠牲が出たことは知っているわ。互いが互いの為に捨て石になっていたなんて救われないけど……でも、どちらか一方だけがそうであるよりかは、残された私たちは救われているもの……だからいいわよ」

 

 俯いた叢雲の声に澱みはなく、ただ事実だけを悲しんでいる様子だった。だがすぐに顔を上げると書類を提督に返しながら笑みを浮かべる。

 

「でもウチは他のところと違って施設の建設も訓練と並行して行うんでしょう? 本当に二週間で大丈夫なのかしら?」

 

「なに、これは私の推論なんだが本来君たちに水上航行の訓練などさせるだけおこがましいとさえ私は思っている」

 

 書類を受け取った提督がそう言うと叢雲は怪訝そうに眉をひそめた。

 

「君たちは今の姿がそうであれ、元々は艦船として大海原を駆けていた存在だ。ならば本来であれば地上よりも水上にいる方が自然だと言えなくもない」

 

「そっ……」

 

 その極論に対して異を唱えようとしたが、それを提督が手を挙げて制した。提督の話が今ので終わりでないことは叢雲に察せれたので、大人しく口を噤んで続きを促した。

 

「だが、今の君たちの姿は我々と同じ人の形をしている。ならば当然、姿形だけで言えば地上にいる方が自然という方に傾くところだ。君たちには人魚のように尾びれや手に水掻きがあるわけでもないからな」

 

 そう言われ叢雲は思わず自分の手に視線を落としてしまう、当然そこには水掻きなどない普通の人間と同じ手の平があった。

 

「君たちはこれから地上にいる方が多くなるだろう。最初こそ人員の少なさもあって過剰なローテーションで水上にいることの方が多いこともあるかもしれないが、仲間が増えればそれは必ず逆転するだろう――いや、私がそうさせる」

 

 提督の言葉に叢雲が驚いて目を見開くが、今はそれを無視して言葉を続ける。

 

「少し話が逸れてしまったが、君たち艦娘には潜在的な経験値として艦船の頃の経験が大いに蓄積されている。これは今までの艦娘たちの動向や聞き取り調査の結果から考えて間違いないと判断されている。ならば君たちにとって何が障害となって『初歩的な水上訓練』などというものが必要となるか、だ」

 

 そこまで説明されて叢雲がすぐに合点がいった。それは叢雲自身がこの姿で再びこの世に生まれた時に感じた最初の疑問だったのだから。

 

「私たちが人の形をしていること……ね」

 

「そう。君たちが人型で生まれたことによる自分自身への混乱。それを出来る限り早く解消し、人型で動くことに違和感を感じなくしてやることで、君たちは早期に水上での活動を行えるようになるだろう」

 

 提督の説明を聞いて叢雲は自身でも覚えのあることが多くあり、それは理にかなっていることだと素直に思えたので、反論することなく静かに頷いた。

 

「いいと思うわ。ということは最初の二週間みっちりと(おか)での行動に費やすということね」

 

「そうだ。建造直後でも普通の生活が出来る程度の身体能力は有している、だったな?」

 

「えぇ、生まれたての何たら、みたいなことはないわよ。普通に立てるし歩けるわ」

 

「結構だ。ではそれでいこう」

 

 二人は方針が決まったことに満足そうに頷いた。

 

「明日建造後に行うことは追って説明しよう。泊地の今後もまずは施設の整備を主に訓練と並行して行う。今日のような急務の出撃要請があった場合は――」

 

「分かってるわよ。しばらくは私一人で対処するわ」

 

「すまないな。だが、その時は私も必ず座乗して直接指揮を執る」

 

「期待しな……してるわよ」

 

 プイっとそっぽを向いた叢雲が大きく欠伸をした。それを見た提督が時計を見て時刻を確認する。

 

「今夜はここまでにしよう。人員が揃うまで夜間の活動は免除されているから、安心して眠ってくれて構わない」

 

 欠伸をした口を不覚とばかりに少し恥ずかしそうに抑えていた叢雲が、夜間の活動は免除とうい言葉を聞いて安心したように息をつくと、すっと立ち上がった。

 

「じゃあ部屋に戻るわ。あんたもあんまり無理するんじゃないわよ?」

 

「あぁ、おやすみ叢雲」

 

「おやすみ」

 

 片手で手を振りながら部屋を出て行く叢雲を見送り、提督はミカン箱の執務机の前に座ると残っていた細かな書類を片付けていく。

 日中は施設の整備に精を出しているので、空き時間だけでは書類を捌ききれずに夜に残してしまうことが続いていた。今日は日中の出撃がなければ終わらせれていたであろう書類に目を通していくが、その作業は実に軽快なものだった。

 

(初日からの緊急出撃であの戦果……まさに望外な結果と言っていい。叢雲にはいくら感謝しても仕切れないな)

 

 そんなこと思いながら軽快に筆を走らせていると、司令室の扉がそっと開いて音を立てないように閉じられた。

 書類から顔を上げると、そこには今日開発に失敗して出来た綿毛と南国の鳥のようなぬいぐるみと枕を押し抱いた叢雲が顔を赤くして立っていた。

 

「ひ、一人だと、その……眠れなくて、あの……」

 

 らしくなくボソボソと歯切れの悪い言葉を口にしていたが、すぐに自分らしくないとかぶりを振り枕に顔を埋めて呻くと、更に赤くした顔をがばっと上げる。

 

「ぐぅぅぅ~……ここで寝たいんだけど! いい!? いいわよねっ!? いいって言いなさい!!」

 

 半ばヤケクソ気味に叫んだ叢雲に対し、提督は可笑しそうに笑いながら予備の布団を出すために立ち上がった。

 

「あぁ、構わんよ」

 

           ⚓⚓⚓⚓⚓

 

 あれから叢雲用に予備の布団を敷くと、まだ提督が執務をしている事実に若干引け目を感じている様子だったが、これ以上我儘をいうわけにもいかず叢雲は提督に促されるまま素直に布団に入り、ジト目で提督を見ていたが頭を数度撫でられると目を瞑り、提督が執務に戻ると程なくして静かな寝息が聞こえ始めた。

 

 頼もしくも可愛らしい初期艦に苦笑を漏らしつつ、執務を終えた提督はデスクランプ替わりの蝋燭を吹き消すと、本棚の奥から琥珀色の液体が入った酒瓶と安っぽいグラスを取り出す。そして窓辺に移動して窓を少しだけ開けると腰を下ろした。

 月を見上げながら酒瓶からグラスへと注ぎ入れて、月を見上げながら一口二口舐める様に口をつけた。

 開けられた窓の外から虫の鳴く音が聞こえてくる。

 真円に近い月を食い入るように見つめながら、提督は小さくその名を呟いた。

 

「深海棲艦……」

 

 その名を呟いた瞬間、小さな悲鳴のような音を立てて右手で握っていたグラスを握り潰していた。少しだけ茫然とした表情で自分の手から零れる琥珀色の液体とガラスの破片を凝視していたが、部屋の入り口側から人の声がして我に返る。

 

「こらぁ……もぅ、しっかり……しな、さい」

 

 それが叢雲の寝言だと分かりホッとすると同時に、ほんの少しだけの偽善が提督の心を締め付けたが、それを振り払うかのように首を振り手元に視線を戻すと、驚きで目を見開いた。

 グラスを握り潰した時に破片で手を切り、いつの間にか琥珀の液体と一緒に赤い血が流れて口を開けたままにしていた酒瓶へと流れ込んでいた。

 琥珀色の酒に赤い血が次々と混ざり、あっという間に酒は赤く濁っていく。

 

 その様がまるで――赤く染まった海を彷彿をさせて。

 

 提督は窓を開け放つと、酒瓶を外に向かって放り投げた。

 虫たちの奏でる静かな音色の中に、ガラスの割れる音が遠くで響いた。

 

 




次回はいよいよ叢雲以外が出ます。
いつになるかは不明です……早ければいいな、うん。
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