とある公園のベンチで、石壁は座り込んで頭を抱えていた。
「……何してるんだろうか、僕」
あの時、衝動のまま少女を助けたまでは良かった。だが、少女に駆け寄ってきた母親の姿を見て、石壁は再び冷静さを失った。
「そりゃ……母親の深海棲艦だっているのは……考えれば分かるだろうに……」
助けた少女は、深海棲艦と人間のハーフだったのだ。石壁は目の前の母親を、そして場合によってハーフである少女すらも殺さねばならなくなる。そう思った瞬間、石壁は逃げ出した。想像するだけで吐き気がする程に、その未来予想図を耐えられなかったのだ。
それから石壁は走って、走って、走り続けて……ついに疲れて動けなくなった。そしてたどり着いたどことも知れない街角の公園で、再び無気力状態となってベンチに座り込んでしまったのだ。
「……平和、だな」
疲れ切って現実逃避気味に呟く石壁。公園のベンチから見る町は平和そのものだ。そして目の前の公園では人間の子供と
そうやって頭を抱えていると、唐突に腹が鳴った。そういえば、今朝から何も食べていなかった。
「お腹減ったなあ……」
こんなどうしようもない状況でも、腹が減る。石壁の胃が空腹を訴えるが、それを満たす事さえ出来ない。今の石壁は完全なる無一文であり、パンの一欠すら買う事が出来ないのだから。しかも先ほど火事に飛び込んだせいで服は煤けており焦げ臭い、完全に浮浪者の様相を呈していた。
「……」
こうして一人街角で空きっ腹を抱えていると、孤児となって当て所なく彷徨い、行き倒れた記憶が否が応でも蘇る。故郷は燃え尽き、家族は死に絶え、あの時の少年はただ彷徨い歩くしか出来なかった。
薄汚れていく服を着替える事も出来ず、雨が降れば橋の下や廃墟の軒先で眠れぬ夜を明かした。残飯を漁り、古新聞で寒さを凌ぎ、ただ歩いた。
前へ、前へ……戦火から遠ざかり、生き延びる為に……少しでも前へと歩き続けた。
やがて歩く事さえ出来なくなった少年は、どうしようもない茫漠感に包まれて座り込んでしまった。
どうしようもなくて、何も出来なくなって、ただ死を待つだけとなったその時……突然少年の前に握り飯が差し出された。
『……腹が減っているなら、食べなさい』
握り飯を差し出していたのは、孤児院の院長である男性だった。
少年は、無我夢中で握り飯を貪った。塩で握っただけの、海苔すら巻かれていないただの握り飯なのに……今まで食べたどの握り飯より美味かった。涙が溢れる程に、美味かった。
あの時の握り飯の味を思い出し、石壁の腹が鳴る。
「畜生……腹へった……」
ひもじさ程、苦しみに直結するものは無い。不幸に次ぐ不幸で擦り切れている石壁のメンタルが、更に落ち込んでいく。あの時の様に、何もできなくなっていく。そしてーー
「あの、ヲ腹、減っているんですか……?」
「……え」
--あの時の様に、誰かが目の前に立っていた。
「もしよかったら、どうぞ?」
そこには、頭に異形の帽子(ヘルメット?)らしきものを被った女性が居た。石壁達が何度も討伐してきた深海棲艦、ヲ級だ。彼女は石壁にむけて、何か板状のモノを差し出していた。
「あ、ありがとう、ございます」
石壁は、咄嗟に彼女が差し出してきた包み紙を受け取った。それを見て優し気にほほ笑む彼女は、石壁の隣へと腰かける。どうやら買い物の後らしく、傍らに置かれたスーパーの紙袋の中にはいろいろな食材が詰まっていた。
「これは……チョコレート?」
包みには、チョコレートと書かれていた。軍のレーションにもなる、高カロリーで美味しいお菓子である。だが、深海大戦勃発後はカカオの輸入が滞り、滅多に食べられなくなった貴重品でもあった。
「こんな高級品……良いんですか?」
「ヲっ?」
石壁の言葉に、ヲ級がコテンと首をかしげる。
「ヲ―ストラリアは、チョコレート安いよ?」
「えっ」
あまり知られていないが、オーストラリアはカカオ豆もしっかり栽培されており、海上輸送が断絶しても国内でチョコレートを作れるのである。
「だから遠慮せずに食べてね」
「あ、ありがとう」
そういって、石壁は片手でチョコの包装をはがそうとする。だが、これがなかなか難しい。
「ヲ……ちょっと貸して?」
見かねたヲ級が石壁の手からチョコを貰うと、包装紙を剥がしてもう一度手渡してくれた。
「ハイ、どうぞ」
「……重ね重ね、ありがとうございます」
石壁はヲ級へ礼を言ってから、チョコレートに齧り付いた。もう10年近く食べていなかったその甘みに、彼の脳裏に昔日の平和だった日本の姿がフラッシュバックする。
「……」
まるで戦争なんかなかったかのような、シドニーの町の姿。奪われ、失い、悲しみもがき苦しんだ10年もの月日。己の道すら見失いかねないこの現状……石壁はどうして良いのか分からなくなって、感情があふれ出すのを止められなくなる。
「……ッ」
「ヲ……」
気が付けば石壁は、色の違う片方の目から涙を流していた。感情を上手く吐き出せない石壁の代わりに、武蔵の目が涙を流している。彼の内心を代弁するように。
「すいません……チョコレート、美味しいです」
勝手に流れ出す涙を乱暴に拭いながら、石壁はチョコレートに齧り付く。悲しくても、苦しくても、腹は減る。昔は簡単に食べられた筈のそれが、どうしようもなく美味しかった。
「ああ畜生……旨い……旨いなぁ……」
「……」
ヲ級は、泣きながらチョコレートを食べる青年を、ただじっと見つめていた。
声をかける事もなく、彼が落ち着くまでずっと、見守っていたのだった。
***
「おちついた?」
「はい……すいません、急に泣いちゃって」
10分後、石壁が落ち着いた頃合いを見て、ヲ級は声をかけた。空腹が満たされ少し活力が湧きだした石壁は、己の醜態を恥ずかしく思って顔を赤らめている。
「良いよ。きっと……色々あったんでしょう?」
ヲ級はそんな彼に優しくほほ笑む。地獄で仏に会うとはこの事であろう。石壁は空腹と一緒に、荒み切っていた精神状態が癒されるのを感じた。
「……もし良かったら、何があったのか話してみない?辛い時は、誰かに話すと落ち着くよ?」
ヲ級のその言葉に、だいぶ精神的に参っていた石壁は考え込んだあと、ポツリポツリと話し始めた。
「実はーー」
***
それから石壁は、自分の故郷が深海大戦で消えてしまった事。軍人として深海棲艦と戦ってきた事。捕虜になってこの町に来た事。人と深海棲艦が共存する姿を見て、どうすれば良いのか分からなくなってしまった事など……今の思いの丈を赤裸々に彼女へと語った。初対面の相手に話す事ではないし、捕虜である事など言ってはいけないとは思ったが、もう抑えきれなかったのだ。そして石壁は己の愚痴も、この人なら受け入れてくれるだろうという確信があった。
「それで……今ここで一人何もできずに座っていたんです……」
石壁が語り終わると、ヲ級は俯いている石壁の背中をそっと撫でてくる。
「……頑張ったね」
ヲ級は暫く石壁の背中を撫でてから、言葉を続ける。
「私には、貴方が進むべき道を教える事は出来ない……どうすれば良いのか分からなくなって立ち止まってしまった時、だれかの意見に従っても結局後悔するものだから。結局は貴方が自分で答えを見つけるしかないの。沢山考えて、沢山悩んで、雑念を削いで、削いで、削いで……それでも無くならない、本当に大切にしたいモノが何かを考えて……それに従うしか、ないんじゃないかな」
ヲ級の言葉は、この苦しみの中から己の答えを見つけ出せという極めて厳しいものであった。だかそれは、口先だけの答えで誤魔化しているのではない。故にこそ信頼できる言葉であった。
「大切にしたいモノ……か……」
石壁はヲ級の言葉に、己にとって本当に護りたいモノとは何かを考える。この都市に来て、なぜ自分はここまで苦しんでいるのか。何故、ここまで躊躇うのか、何故……何故……
「何故かって……そんな事……」
そうやって、己に問いかける。何故、何故……思考の余計な部分を取り払って、一番シンプルな、己の思いの核へと深く深く沈み込んでいく。
「……ああ、そうか」
そして、思い至る。何故、ここまで苦しむのか。気が付いてしまえば、それは極めて単純な話であった。
「僕は……この平和な町を……人と深海棲艦が共存する町を……壊したくなかったんだ……」
余りにも単純すぎて、立場や柵のせいで、見てみぬふりを繰り返していた。故にこそ、石壁は苦しんでいたのだ。軍人として己の責務を果たせば、否が応でもこの平和は終わりを迎えてしまうから。
「……ありがとうヲ級さん。お陰で、成すべき道が見えてきた」
石壁は立ち上がってヲ級に礼を言ってから、走り出した。
「さようなら!本当にありがとうございました!」
走り出した石壁に、ヲ級は微笑んで手を振る。
「ええ、『またあいましょう』」
その言葉は、石壁には聞こえなかった。もうかなり遠くまで走り出していたから。
「この奇跡みたいな都市を、壊させてたまるものか……ッ!僕は、僕は……ッ!」
石壁は全力で走りながら、言葉を紡いだ。
「僕は……ッ!!『護りたい』と思う人達の為に、戦ってきたんだから……ッ!!」
目前に迫る軍事衝突を防ぐべく、一人の男が動き出したのであった。
***
石壁が元来た道を戻ると、やがて捜索隊を率いて歩いていたル級と遭遇した。
「……み、見つけた!!」
「見つけたはこっちのセリフだ!!どこに行っていたんだお前は!?色々と聞かねばならない事がある!!大人しく捕まれ!!」
石壁は護送中に護送車の扉をこじ開けて逃げ出した挙句に、人命救助を行い行方をくらました捕虜である。ル級が怒るのも当然の反応であり、出会い頭に銃殺されなかった段階でかなり優しい対応であった。それだけ少女を救った事で印象が良くなっていたのだろう。
「僕を捕まえるのも拘束するのも構わない。質問にも出来る限り応える……だけど、貴方に頼みがある」
「頼み……?」
あれだけ迷惑をかけておいて、まだ何かあるのか?そう言いたげなル級に、石壁は正面から向き直り口を開く。
「ここの最高指揮官の元に案内して欲しい」
「何を言っている……?」
石壁は真っ直ぐとル級を見つめる。その眼差しは、熱く、力強い。この島にやってきた時の曇り切った瞳とは違う、魂を焦がす様な力が籠っていた。
(これは……本当に同一人物なのか……?)
ル級は思わず息を呑んだ。石壁の瞳は
「僕はこの後大日本帝国がどう動くのか知っている。結論から言えば、シドニーの陥落はそう遠くない未来に、現実のものになる。断言してもいい。この町は滅びる」
「……ッ」
ル級も薄々感づいているその未来予想図、それを真っすぐに突き付けられて一瞬言葉が詰まる。そうなるだろうと理解しても、納得出来ずに心がぐらつく。
「だけど!!僕はそれが嫌だ!!この町が消えるのを、僕は見たくない!!」
「……え?」
ぐらついた心に、石壁が更に予想外の言葉を叩きつける。轟々と決意が燃える瞳と言葉を叩きつけられて、ル級の心を更に揺るがせていく。
「この町が戦争で消えるのは嫌なんだ……!今なら……今ならまだ間に合うかもしれない……僕が行けば、衝突を止められるかもしれないんだ」
ル級は石壁の言葉に嘘を感じる事が出来なかった。どこまでも真っ直ぐに、石壁の言葉はル級の心に染み入っていく。
(どういうことなんだ……)
『信じられる』という根拠のない納得感があった。それが彼女を混乱させる。
「頼む……僕は深海棲艦と人が共に歩む、この奇跡を失いたくない……ッ!」
ただの捕虜の大言壮語の筈なのに、この男の言葉を否定できない。港湾棲姫に合わせるべきだと、そう考えてしまうのだ。説明不能な感情のまま、ル級は口を開く。
「貴様は……いや……貴方は一体何者なんだ……?」
ル級の問いに、石壁は答える。口にすれば殺されても可笑しくはない、その名を。
「僕はショートランド泊地総司令官にして、ソロモン諸島方面軍最高指揮官……石壁堅持中将だ」
「……ッ!?」
ル級は目を見開く。あり得ない。ここに居てはいけない筈の、大敵の名であった。にも拘らず、ル級の胸には納得があった。ただ会話しているだけで感じられる尋常ではない将器は、英雄のそれに相違ないのだから。
「貴方達と向かい合っている方面軍の最高指揮官として、貴方達のトップへ会談を申し込む……ッ」
動き出した英雄が、再び運命を突き動かそうとしていた。
体の損傷を回復させた直後に、全身の筋骨格バッキバキにされて、内臓(本体)をクッション代わりにされた挙げ句後始末を押し付けられた大和はキレて良い