東方迷子譚   作:甲光一念

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3 八雲の従者

 揺れる九本の尻尾を追いかけ、屋敷の廊下を歩いていく。部屋の多さはその道中に並ぶ襖の数から察することが出来た。自分が小学生の頃に行ったことのある旅館と比べたならば、広さでは劣るだろうが、豪華さという点でならば比べるまでもない。都運のような素人でも判断することのできるほどに、この屋敷には多くのものがあった。

 あんまり首や視線を動かすのは失礼どころか、もはや無礼に値する行為な気がするので、視線は目の前の藍の背中に固定。というか、それより下に動かすと目立つ尻尾が否応なく視界に入ってくるので、そこで固定する以外にないと言う方が正しい。

 後ろの人間の視線が自分の背中に集中していることに藍は気付いていた。そして同時にありえないとも思う。紫からは、外来人の少年だという風に言われたが、外来人がこんな目立つ異常を注視しないなんてことがあるのか。姿自体は藍は普通の人間と変わりないのだ。だからこそ、尻尾の存在が際立つ。

 気配は完全に人間だ。ただの人間。何の変哲もない人間だ。だからこそ、その異質さが浮き彫りになっている。都運は今、目の前の尻尾の生えた女性に対して気を遣っているのだ。九尾の狐に不快な思いをさせないように視線を背中で固定している。身長的には藍とほぼ変わらないとはいえ、そんなことが出来る人間がどのくらいいるかという話である。

 どう話を切り出せばいいのか迷っているというわけでもなく、目の前のものを現実として受け入れたうえでなお、その対応なのだ。霊夢と魔理沙に、空を飛んでここまで連れてこられたらしいので、そこから現実逃避でもしているのかと思ったが、どうやらそういう感じでもない。

 藍としては、この廊下で彼がどういう人間なのか――具体的に言うならば、紫に危害を及ぼす可能性のある人間かどうかを判断するつもりでいたのだが、この段階では、おそらく大丈夫、程度の曖昧なことしか言えなくなってしまった。

 都運は質問をすべきかどうか悩んでいた。これから尋問的なニュアンスに近い何かしらを受けるかもしれないという状況において、彼にはどうしても聞いておきたいことがあった。もしこれから自分を待ち受けているのが最悪の末路だったとしても、聞いておきたいことが。

 さっき庭を歩いている最中に気付いてしまったのだが、この問題は放置するには少しばかり大きすぎた。

 もしかしたら自分は、本当に神隠しにでもあってしまったのかもしれないと、そう思ってしまうくらいには。生来彼はリアリストなのだが、柔軟性は人一倍持っていた。もし仮に、真っ当な生活の中に空を飛ぶ人類が現れたとしても、彼は疑問には思ってもそれを夢だと疑うことはなかっただろう。

 だからこそ、気付いてしまったそれを、彼は勘違いだと切り捨てることは出来なかった。思えばもっと早く気付いておくべきだったのだ。少なくとも人里で、いや、目覚めた直後に気付いてもよかったくらいだ。自分みたいに体力のない人間が、人里に辿り着けてしまったというそれを疑問に思うことすらなかったというのは、やはり自分もいっぱいいっぱいだったということだろうか。

 別に彼は自分を責めているわけではない。本当に自分は訳の分からない状況に巻き込まれてしまったんだなと、あらためて再確認をしただけだ。

 溜め息を一つ吐いたところで、目の前の藍が足を止めた。そして顔だけを都運の方へ向ける。

 

「ついたぞ」

 

 藍はそう言うと、襖の前に膝を付いた。そして中腰の体勢のまま襖を開く。自分も膝を付いた方がいいのかなんて思っているうちに、藍はするりと部屋の中に入って行ってしまったので、出来る限り腰を低くして都運も畳を踏む。

 その部屋は広かった。ただ純粋に広かった。強引に表現するなら、戦国時代あたりのドラマとかでよく見る、将軍が偉そうにふんぞり返っている部屋みたい、とでも言おうか。すごく印象悪いけど。そしてその将軍がふんぞり返っている位置に、彼女はいた。

 八雲紫は、周囲よりも少し高くなっているところに座っていた。

 見下すように、とは言わないが、それに限りなく近いように。

 

「紫様、郷瓜都運を連れてきました」

「御苦労様。下がっていいわよ」

「はい、失礼します」

 

 都運が部屋に入ると、すぐさま藍が部屋から出て行ってしまった。誰かと二人きりという状況そのものはそんなに苦手でもないが、狐の尻尾が生えている女性が様付けをするような人と二人きりというのは、少しばかり緊張するものがあった。

 腰を低くとは前述したものの、実際はただ中腰で入っただけなので腰がだんだん痛くなってきた都運だった。座った方がいいんだろうか、あるいは面接みたいに座っていいですよと言われたら座るべきなんだろうか。あまり大人と話さないで生きてきたツケがこういうところで回ってくるとは思わなかった。

 仕方ないので、都運は常識知らずの振りをして、紫から離れた場所の、紫の真正面に座った。一応正座である。怒られたらその時は立ち上がろうと思いつつ、顔色を窺うが、庭でも浮かべていた不敵な笑みが崩れていないので、どうやら大丈夫そうだと判断する。

 さて、自分は一体何を聞かれるのだろうかと思いつつ、お互いに見つめ合う。

 

「……………………?」

 

 しかし、この場には沈黙が流れるだけで、一向に質問、あるいは詰問といった類の言葉はない。ただ、黙ってこちらを見ている。何かしらの心理テストだろうかなんて思いつつ、少しだけ首を傾げる。

 でも、よく考えたら訪ねてきたのはこっちなんだしこっちから何か言うべきなのかなとも思うのだ。

 

「八雲紫さん、こんな夜遅くにどうもすみません」

 

 そう言いながら都運は頭を下げる。手をついてしまうと土下座になってしまうので、下げるのは頭だけ。過度な謝罪というのは時として侮辱になりうるのだ。

 なにを言うべきなのかを考えつつ、口を開く。

 

「そして、この近辺に立ち入ってしまい本当に申し訳ありませんでした。迂闊に山に踏み入り、警戒を怠った僕の責任です」

「頭を下げないで頂戴。それに、貴方がここにいるのは山に入ったからではないわ」

 

 紫の言ったとおりに都運は顔を上げる。それは下げないでくれと言われたからでもあるし、山に入ったことが原因でないと言われたから――つまり、彼女は都運がこの場所になぜいるのかの原因を知っているということでもあるはずだと判断したからだ。

 

「……どういうことですか? 僕がこの山村にいるのは、偶然ではない、ということですか?」

「まず、その山村という認識が間違っている、と言った方が正しいわね。あなたは山で遭難して、ここに辿り着いたというわけではないのだから」

 

 つい十分ほど前に初めて会った人が、なぜそんなことを知っているのかと質問したくなった都運ではあったが、逆に考えれば、知っているからこそ自分を家の中に入れたのではないかとも考えられる。まさか目の前の女性が自分をここまで連れてきたわけでもないはずだ。さっき自己紹介した時には、都運の事情なんて把握していない素振りを見せていたのだから。

 つまり、さっきまでの会話のどこかに、自分がここに迷い込むことになった原因を理解するための何かしらの要素があったということだ。都運でも思い当たるとすれば。

 霊夢が反応を見せた、人里に辿り着くまでの時間。

 

「貴方は人里に行ったんでしょう? で、あそこを見てなにを考えたのかしら?」

「え? なにを考えたって……」

 

 突然話が変えたのには意味があるのだろうと判断し、彼は考える。

 

「……時代が、違う。あれは現代の生活じゃない。だから僕は、外界とは隔絶された山村であると考えていましたが、そうじゃないんですか?」

「外界と隔絶されている、という点は間違っていないわ。現代の生活じゃない、という点も、貴方から見れば正しい。けれどここは山村ではないし、山村なんかではないわ」

「……なんかではない?」

 

 紫としては、これ以上の説明をするならば、彼にもっと深く踏み込むならば、ここがどういう場所かを説明しなければならないだろうと思っていた。本来ならばありえないはずの訪問客の処遇を、現時点で紫は決めかねていたのだ。

 普段ならば、さっさと結界の外へと解放してしまっている。それをしないのは、都運がなにかしらの、紫ですら把握できていない異常事態に巻き込まれていると推測されるがゆえだ。彼女の頭の中にはすでにいくつかの仮説があったが、そのどれもが、いまいちしっくり来ない。

 彼がこちらへ迷い込んだ理由、原因には目星がついている。だが、具体的に掴めてはいない。賢者と呼ばれる紫が理解できていないというのは、実際非常に珍しいことである。それが何を意味するかと言えば、その理解できていないなにかしらは、幻想郷になにを引き起こすか分かったものではないということだ。

 異変と呼称される事件群は、ある意味では紫が容認したうえでの戦争と言ってもいい。彼女が本気を出せば、どれほどの規模の異変だろうと一瞬で終結させることは可能なはずなのだから。

 だからこそ、郷瓜都運を放置するわけにはいかない。

 具体的な位置を掴むまでは。

 

「ここから先に説明を進めるならば、この地についての説明をしなくてはならないわ。貴方が不運にも迷い込んでしまったこの地について、ね」

「…………」

「ここは幻想郷。幻想の郷。外とは切り離された世界、妖怪達の最後の楽園。本来ならば外の人間が入って来ることは叶わない不可侵の地。ここまで言えばわかるでしょう? 私があなたに何を聞きたいのかを――」

「――僕が一体、どうやってここに入ってきたのか、ですか?」

「正解。話が早くて助かりますわ」

 

 ここで紫にとって誤算があったとするならば、都運にしてみればここが幻想郷だろうが山村だろうが大した違いは無いということだった。妖怪という単語には一瞬だけ、ん? とは思ったものの、ふざけて言っているようには感じなかったし、わざわざ自分にそんな荒唐無稽な嘘を吐く理由もない。

 そして都運はここで完全に理解してしまった。目の前の女性に対して、嘘を吐いてはいけないということを。たとえ、話を聞いた後に自分を殺すような物騒な思考が紫にあったとしても、誠実にすべての質問に答えた方がまだ少し余命が伸びるはずだと思った。

 この人は、必要なことは何でもやる人だと理解した。

 紫としては、荒唐無稽なことを言うことで都運を掌握しようとしたのだが、それが失敗したことも瞬時に悟った。

 目の前の少年は諦めている。常識外の事実も常識外れの言動も通用しない。

 これが腹の探り合いだったならば、郷瓜都運は非常に優れた人間だと言うこともできただろうが、実際はそうではない。都運は常に平常で、紫はそれを掴めていない。それだけの事だった。

 ついさっき気付いてしまった事実で少なからず混乱してはいるのだが、それはそれと後回しにできるのが都運だった。

 

「…………」

 

 どうやって入ってきたか。

 おそらく紫は自分のことを疑っているのだろうということくらい都運でもわかる。

 不可侵という言葉がどういう意味合いで使われているのかははっきりとしない。自分が登っていた山が本州の山であった以上、どこだろうと地続きであり、人が入ることが叶わないということがありえるのかは疑問だった。だが、妖怪が会話の中で肯定されている以上、少し常識を捨てた方がいいのかもしれない。

 自分のことを侵入者だと捉え、侵入した手段について聞き出そうとするのは別におかしいことではないと都運は思う。問題は、都運が本当に、紫に提供できるような情報を何も持っていないということだ。

 だからこそ返答に困る。

 

「……さっき、庭でも言いましたが、僕は気付いたら森に倒れていました。どうやってここ――幻想郷に入ってきたのかは、僕にもわかりません。ただ、あえて言うならば、僕が登っていた山に、幻想郷があったのではないですか?」

「考えられない――と言えるほど、馬鹿にできた話でもないとは思うのよ、それも。ですが、登っていた、のでしょう? 下山ではなく、登山の途中だったのでしょう?」

「……そう、ですけど……、あ、そうか。登っている最中に気絶したとしても、そこから全く違う方向に転がり落ちていくわけがないんだ……」

「ええ、その通り。気絶した状態で幻想郷に入ってきただけならば、私は貴方の存在に気付くことが出来ていたはず。でも私は貴方を知らなかった。つまり、私も把握していない方法で、貴方は幻想郷に入ってきたことになるわ」

「……あの、なんで、入れないんですか?」

 

 ただ単純に山の中にあるというだけならば、登山でもヘリコプターなどでも立ち入ることは可能なはずだ。しかも、目の前の女性は侵入に気付くことが出来るときた。気絶している人間でないとは入れないようなにかしらが、この幻想郷の周囲にあるということだろうかと都運は考える。

 

「幻想郷はね、結界に覆われているのよ。博麗大結界という、常識の壁に」

 

 常識の壁が何なのかとか、博麗大結界ってさっきの巫女と関係あるのかとか、そういう疑問がいくつも浮かび上がりはするものの、とりあえずは聞かない。自分のなんとなくの仮説が概ね外れていなかったことに内心驚きながら、壁があるから入れないという認識に留めておく。

 

「壁ですか……、入る手段は皆無なんですよね?」

「いえ、気絶している人間ならば通れないこともない、と言ったところかしら。でもね、その結界から歩いて四十分以内の範囲に、人里は存在しないのよ」

 

 その言葉でようやく、さきほどの会話で紫と霊夢が反応していたことに合点がいった。ただ、もしそういった確信があったのならば、もっと自分を問い詰めていたはずだ。つまり、今の都運は、その場所に外の人間が現れることもまあありえなくはないけれどまずありえないだろうみたいな立場に置かれているということになる。

 なにかしらのイレギュラーが、都運を幻想郷へと運んできた。

 

「じゃあ、僕は結界を越えて入ってきたわけではないということですか?」

「おそらくは、そういうことになるでしょうね」

「……そうなると、僕はどうやって入ってきたんでしょうか?」

「それを調べるためにも、貴方を今すぐ外の世界に帰すというわけにもいかないのよ。先程は、今日はうちに泊まってもらうと言ったけれど、その原因がわかるまではうちにいてもらうわ」

「……わかりました」

 

 ここで素直に返事が返ってくるのは紫としても予想外だった。拒絶するような言葉が返ってくるものだとばかり思っていたのだが、一瞬の沈黙を挟んだだけで、彼は首を縦に振った。最初からではあるが、どうにも会話のペースが合わないと感じる。

 都運としては、今の状況は納得のいくものではあった。自分がここに入って来てしまった原因がわかったらその時は、自分はここから――幻想郷から追い出されるのだろうということは想像が付くが、まあその時はもう一度山に登ればいいかとも思うし。

 泊めてもらうということに心苦しさは感じるものの、下手に放置できないからこの家で見張るという意味合いが籠っていることも理解してはいたので、拒否するようなことはしなかった。

 

「でもね、ただ置いておくだけというのも体面上都合がよくないと思うのよ。私の不手際ということに目を付けた誰かさんが喧嘩を売ってきかねないし」

「幻想郷ってそんなに荒れてるんですか?」

「一部だけ、ね。全ての妖怪が幻想郷の存在に賛同しているわけではないというか……、どんな意見だろうと全員一致はあり得ないっていう話でもあるのだけれどね」

 

 実際、外の世界にいては消滅してしまうため、仕方なく幻想郷に入ってきた妖怪は少なくない。外と中ではそもそもの文化や常識が異なるため、外の世界では幅を利かせていたけれど、中では大人しくせざるを得ないような境遇の妖怪もいる。

 内外問わず、強力な脅威となる妖怪も、いるにはいるが。

 

「となると、僕はどういう名目でここに置かれるのが正しいんでしょうか?」

「……さっきここまで貴方を案内してきた藍、あの子って結構多忙なのよ。私が表立って色々出来ないから、どうしたってあの子に任せる形になってしまうの」

「……まあ、偉い人は偉くい続けるのが仕事、みたいなところはありますからね。となると、僕は八雲藍さんの手伝いをすればいいんですか?」

「人間が手伝えるようなことは少ないわ。飛べるわけでもないでしょう」

「まあ。……普通は飛べないと思いますけど」

 

 少しだけ愚痴る都運。

 

「というわけで、これから貴方を私の従者ということにします。平たく言って藍の後輩ね」

「なるほど。新しい従者という形にしておけば、不審な目を向けられることもないと」

「ええ。従者が一人増えた程度では、騒ぎ立てる輩もそう多くはないでしょう」

「……でも、実際僕はなにを手伝えばいいんですか? こう言っては何ですけど、無能ですよ、僕」

「そんなに難しいことは言わないわ。この屋敷の掃除、それをお願いしたいのよ」

「掃除ですか。それなら確かに僕にもできますね」

 

 この部屋に来る途中も、異常な数の部屋があった。それに加え、どうにも紫と藍以外の気配を感じない。ひょっとしたら二人か三人しかいないのかもしれない。これだけの広い屋敷を従者であるとはいえ藍一人が掃除するのは、いくら彼女が有能であれど無茶というものだろう。主人である紫が掃除なんてするわけにもいかないだろうし。

 これは紫から都運への気遣いでもあった。人の家に泊まるということを都運が快く思っていないのは見れば分かった。その気持ちを出来る限り緩和するために、仕事を与えた。

 まあ、紫からすれば一石二鳥みたいな考え方ではあったとはいえ、実際に都運はその提案で気持ち的に楽になっているのだから、流石は賢者の手腕であると言えなくもない。

 

「それに伴い、私は貴方を名前で呼ぶわ。これは上下関係を示すためのもの。勿論貴方も、私を名前で呼びなさいね。」

「え」

「敬称も忘れずに」

 

 笑顔で言う紫に、当然逆らえるわけもない。それに、従者である以上は主に敬意を示した呼び方をするのも当たり前ではある。それは分かってはいるのだが、他人を下の名前で呼んだことのない少年に、いきなり美女を下の名前で呼べというのもなかなか酷な話ではある。

 なんのプレイだと言いたいくらいだった。

 ただ、それでも聞いておかなければならないことが一つだけ。

 

「あの、や……紫さ……ま」

「なにかしら、都運?」

 

 相手を下の名前で呼ぶことに一切の迷いや戸惑いがない様子に、ひょっとして自分がおかしいのか、と思いつつも、都運は訊く。

 

「あの、今日って何月何日でしょうか?」

「……四月十七日だけれど。……どうかしたの――?」

 

 紫がそう訊き返した時には、都運は気を失っていた。ショックが大きかったからとかではなく、純粋に空腹が限界に達したというだけの事なのだが、日付はしっかりと耳に入っていた。

 横に身体が倒れ、長い間正座をしていた足が崩れる。本来ならば痺れが都運を襲うはずだったが、気を失っている彼はそれを感じることはない。

 四月十七日。

 春。

 都運が無計画に無断の登山を決行したのは、通っている学校が夏休みに入ってすぐだった。

 夏。

 七月二十五日。

 九か月進んだのか、あるいは三か月戻ったのか。

 それを考えることは、今の都運には不可能だった。

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

 

 目を覚ました都運は、自分の腹の音で眠りから目覚めたのであろうという現実を認めたくなかった。確かに空腹は限界を超えてもはや吐き気に達しているし、最後に記憶にある限りは自分自身でも何となく限界を感じ取ってはいた。

 にしても空腹で倒れるとは。恥ずかしいやら情けないやらで泣きそうである。いや、泣きはしないけれども。

 改めて考えれば最後に水を飲んだのがいつかも記憶にない。確か田舎に行く途中の電車に揺られているときにペットボトルのお茶を飲んでいたのはなんとなく覚えているのだが。

 そして一際大きく腹の虫が騒いだ原因はすぐにわかった。

 目覚めた部屋の外、襖の隙間からから漂ってくる涎の出てくる匂い。

 のっそりとした動きで布団から抜け出し、這うように襖へと向かう。襖を開けると目の前にはまた襖だったが、廊下の奥から漂ってくる匂いはより一層強くなった。柱に体重を掛けながらどうにか立ち上がり、匂いを辿っていく。

 人間どんな状態でも空腹にだけは抗えないというのを再認識しつつ、少し廊下を進むと、匂いの発生源であろう台所にようやく到着する。

 

「……尻尾」

 

 都運の先輩にあたる紫の従者、八雲藍が台所に立っていた。床に足の裏を擦るようにしてここまで来た都運の気配にはとっくに気付いていたようで、藍は顔だけを後ろに向け、挨拶をする。

 

「おはよう。昨日は色々あったから、倒れるのも無理はないとも言えるが、従者ならば、紫様の前で突然倒れるなどということはもう二度としてくれるなよ」

「はい……すみませんでした。おはようございます……」

 

 平坦な声での注意ではあったが、かなり真剣に怒られているということが伝わってきた。確かに形だけ見れば都運は、質問をしたにもかかわらず主人の前で突然寝てしまった不躾な奴だ。怒られるのも仕方ないと言える。

 季節が一つ戻っている、あるいは三つ進んでいるということについても報告しなければならないというのは分かるのだが、いかんせん空腹で頭が回らない。記憶が朧気になっているというようなことはないのが不幸中の幸いだろうか。

 

「そこに座っていろ。朝食の準備が出来たところだ」

 

 そう言いながら、台所の向かいの部屋にある卓袱台を指さす藍。何か手伝わなければならないのではと一瞬思うが、こんなにフラフラの状態では邪魔しかできないというのはすぐに分かった。大人しく吐き気を抑えながら畳に座る。

 少しすると、藍が結構な大きさのお盆を持ってきて、その上に乗っている三人分の食事を卓袱台に並べていく。続いて持ってきたのは、現代の日本においてはほとんど見られなくなったおひつだった。いくらお屋敷とは言っても、そこまで来ると旅館みたいになってるのでは。というか本当に幻想郷の時代っておかしくない、と思いつつ、目の前の食事に目を奪われている都運だった。

 藍色のお茶碗と青色のお茶碗にご飯をよそう。逆さになっているもう一つのお茶碗に少しだけ視線を向けるが、小さく溜め息を吐くと、都運へと視線を向けた。

 

「都運、私のことは藍でいい。と言っても、お前は呼び捨てにはしないだろうがな」

「そうですね……、では、藍さん、ということで」

「ああ、それでいい。では、頂くとしようか」

 

 藍がそう言うと二人は自然と手を合わせる。藍は少しだけ驚いたような素振りを見せたが、注意力散漫状態の都運がそれに気付けるわけもない。

 

『いただきます』

 

 二人が声を揃えて言う。

 十分後。

 

「あぁ~~……美味しかったです……」

 

 藍からすすめられた結果、ご飯をお茶碗山盛り三杯ほど平らげた都運が、幸せそうな、満足そうな、死にそうな顔で笑みを浮かべていた。それはもう見ている藍がこいつこのまま死ぬんじゃなかろうかと本気で心配になるほどの笑顔だった。

 

「……そうか、それはよかった。寝ているお前の腹の音は凄まじかったからな。腹の中に化物でも飼っているのかと本気で思ったほどだ」

「え。そんなに鳴ってましたか……? うう……」

「ふっ、冗談だ。真に受けるな」

「でも、絶対鳴ってましたよね? 僕、朝自分のお腹の音で目が覚めたんですもん」

「はははっ。それは凄いな。お前、一体どれだけ絶食していたんだ?」

「えっと、夜が明けてるので、二日半くらいですかね……」

「ほぼほぼ、人間の限界を迎えているな……」

 

 会話をしながら藍は微笑む。こんなに普通の会話をしたのは一体いつぶりだろうか。仕事に忙殺されていたりするせいでどうにも一般的な会話が頭の中から消えていたのだが、目の前の人間が自分に普通に接してくれているおかげだろうか。

 主人や式、巫女や魔女、幽霊や吸血鬼。どう足掻こうとも普通な会話など望めない面子である。

 それにしても未だ尻尾に関して何も聞いてこないとは。もはやこれは気遣いではなくただ興味がないだけなのではないかと、藍がそう思ってしまっても無理はない。

 

「それにしたって、食べすぎですね……。すみません……」

「別に構わん。食糧事情が切迫しているわけでもないしな。それに、今日からここで働くんだ。しっかり食べてもらわなければこっちが困る」

「……確かに。お腹が空いて動けないなんて、笑い話にもならないですね」

 

 言いながら都運は、未だに伏せられているお茶碗に目を向ける。食事中も何度か藍が目線を向けていたので、気になってはいたのだ。夢中で食べ過ぎて聞く暇がなかったが。

 

「えっと、このお茶碗はゆ……かりさ……ま、ですか?」

「いや、紫様は今は寝ている」

「寝てる?」

「ああ。なんというか、万能である分、活動時間が限られているとでも言えばいいのか……。掃除する際は紫様の部屋には入らないようにしろ、とだけ言っておこう。で、そのお茶碗なんだが……」

「らんさまー! ただいま戻りましたー!」

 

 庭へと続いているの縁側の方向から、元気な声が響く。反射的に顔をそちらに向けるが、その姿はどこにも見えない。声からして、少女、だろうとは思うが、はたしてどこに。

 屋根の上。

 上から庭へと降りてきた少女には、尻尾があった。二つに分かれた尻尾が。

 都運はもう一度、卓袱台の上に載っている橙色のお茶碗を見て、藍に問う。

 

「……そのお茶碗って」

「あの子のものさ。彼女は橙。橙と書いて橙だ」

「……紫色、藍色、橙色ですか。虹にも含まれている三色ですね」

「そうだな。まあ、私と橙の名前は後付けのようなものだ。いくらでもこじつけは出来る」

 

 今まで背中を向けていた橙は片足を軸にして二人の方を向く。そしてそこで首を傾げた。見慣れない顔がそこにはあったし、匂いからも気配からも人間だというのはすぐに分かった。

 

「……誰?」

 

 漫画のように可愛らしく首を傾げながらそう言った橙の方へ体を向け、都運は自己紹介をする。

 

「初めまして。僕は郷瓜都運と言います。幻想郷の郷に、胡瓜の瓜、都を運ぶで、郷瓜都運です。昨日外から中に迷い込んでしまったんですが、その原因を紫様が突き止めるまで、ここに置いていただけることになりました。短い間ではあると思いますが、よろしくお願いします」

 

 正座の姿勢のまま頭を垂れる都運に少しだけ戸惑った橙は、その様子を見ている藍に目線で訊く。藍はそれに小さく頷いただけだったが、式の式である彼女にとってはそれだけで十分以上だ。

 靴を脱いで庭から部屋に上がると、都運の前に座る。

 

「こちらこそ初めまして。橙です。よろしくお願いします」

「…………」

 

 従者だからって受け入れるのが早すぎなのではないかと思わなくもないが、自分にとって都合の悪い展開ではないのだ。下手につついて藪蛇になるようなことがあっては目も当てられないし、ここは素直に感謝しようと、微妙に打算的なことを考える都運だった。

 必要充分なカロリーを摂取し、久しぶりにまともに動けるようになった都運は、とっくに冷めてしまった朝食を食べようと舌なめずりしている橙を横目に見ながら藍に問う。

 

「藍さん、雑巾とか箒ってありますか? あと、できれば新聞紙も」

「ああ。昨日の内に用意しておいた。新聞紙もいらないものが結構ある」

 

 新聞はあるかどうか分からないまま聞いたのだが、どうやらあるらしい。前時代的な風景なのに、中身はなかなか近代的というか。つまり活版印刷とかそういう技術はあるということだろうか。それならば昭和の三種の神器くらいならあっていいような気もするが、さすがにそれがあったら黒電話とかもあることになってしまうだろう。諦めた方がよさそうだ。

 そして都運には、確認しておかなくてはならないことがあった。

 

「……あの、このお屋敷の掃除って、どのくらいかかりますかね?」

「……今日中に全体の半分終わればいい方じゃないか?」

 

 半分の半分で。

 日暮れまでかかった。

 こうして、ただの人間――郷瓜都運の幻想郷生活は幕を開けた。

 それは比較的静かなスタートだったが、俗に言う、嵐の前の静けさだった。

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