ナイトクラウドの供養塔   作:雪国裕

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第一章
沈黙の書物


 第一話 沈黙の書物

 

 夜雲の家は神社と併設している。神社の名は、流水。古い建物と、そこから少し離れた場所にある増築改装した住居がある。どちらも外観は日本家屋そのものであるが、寒冷地に対応して縁側を取り囲むように、壁と窓が設備されている。それでもいささか、いやかなり冬場は寒さに苦労する。

 鍵を開け玄関で草履を脱ぎ丁寧にそろえると、濃い木目が美しい廊下を進んだ。礼装に汚れがないか確認し、しわを伸ばして収納した。暗くなってきたので、電気をつけて部屋のカーテンを閉じる。外観こそ日本家屋であるが、人が住むための部屋は防寒対策として洋室のこしらえがなされている。それがすべてというわけではなく、当然来客をもてなすための和室も存在している。

「うっ……やっぱまだ寒いな」

 春の到来とはいえ、まだまだ肌寒い。暖房のスイッチを入れると、夜雲は部屋のテーブルの前に座った。そして迷っていた。自室に向かおうか否か、考えているのだ。

 部屋の数は住んでいる人間に対し多い。そのくせ自室は廊下の最奥にあるために、かなり不便だ。部屋を替えることも考えたが、それすらも気だるく感じるため現状維持しているが、やはり面倒くさい。

 移動を諦めると、夜雲は台所へ向かった。父は今遠方へ赴き家を空けている。一週間は戻らないそうだ。そのため、彼が一時的に代行という形を取っている。しかし仕事は受けるなと念を押されているため、窓口対応以外は行っていない。父は滅多に家を空けないが、一族、いやこの仕事に携わる人間すべてに関わる重大な事件が発生し、緊急招集を受けたらしい。場所は京都である。仕事熱心なのもいいが、少しは観光を楽しんだらどうだとも思う。

 夜雲は、幼いころから父の背中だけを見て育った。他人の親についてはわからないが、誇れる父親だと思っている。片親で業務も忙しい中で良く自分に構ってくれたものだ。

 ピンポン。とそんな擬音が適当なところか。

 突如鳴り響いたインターホンの音に夜雲は顔を上げた。こんな時間に、か。謝罪文を一面にちりばめた休業中という張り紙を本殿にしてあったはず。こちらに用があるのだろうかまあこういう例もあるだろう。夜雲はしぶしぶ立ち上がって身なりを確認する。ワイシャツにズボン。まあ、普通に出てもいい格好だろう。

 玄関へ向かった。人が来るとは思っていなかったため、切ってあったスイッチのそれを上げて電気をつける。

「今行きますね」

 廊下に出てやや大きめの声で告げた。投げやりな声であったがまあ良いだろう。照明がつくと、柔らかい橙色の光が屋外、訪ねてきた人物の足元を照らした。すりガラスの向こう側に、小柄なシルエットが浮かび上がる。近づくと、学生服の色合いと形状がはっきり見えた。

 

 夕陽はとうの前に沈んでいるというのに、その髪は色鮮やかな緋色だった。

 

「あなたが、ここの神主の……代行のひと?」

 可愛らしい声だが、その端々に凛とした強さを感じる、そんな口調。

「きみは……?」

 扉の向こう側へ声をかける。声の主は――小柄な女の子だった。薄いベージュのカーディガンを羽織ったセーラー服姿の。引き戸を開けるなり、張り紙を読んだ事を裏付けるように少女は訊いてきた。

「あ、夜遅くにごめんなさい」

 彼女は付け加え発言した。年頃は12歳位だろうか。顔は幼く、顎や唇、鼻などはまだ丸みを帯びていて、髪を二つ結びにしているのが、余計に幼さを引き立たせている。瞳に少し緑が混じった――純粋な日本人ではなさそうだ。体はやはり小柄で、背中に大き目のスクールバックを背負っている。それはまるで下校してそのままここに訪れたような、出で立ちだった。

 思わぬ来客に面を食らってしまう夜雲だったが、冷静になるのには時間はかからない。すぐに少女の顔を見据えた。

 こういう時、言うことは決まっている。

「初めまして。いかにも私が流水神社、流景征の代理、流夜雲でございます」

 一度言ってみたかった。夜雲は少しいい声色で自己紹介を澄ます。それに対してだが、知っていますよといわんばかりに少女の反応は薄かった。

「私は冠城汐音といいます。玄関、上がってもいいですよね」

 その間約9秒。あまりにもあっさりとした自己紹介を交わす。冠城汐音というこの少女はツンとした態度を崩さず、靴を脱ぎ始めた。困惑の次、憮然とした感情が沸き上がる中で夜雲は少女に問う。

「なにしてるの?」

「だから……靴を脱いでるんです」

 見ればわかるでしょ?と言わんばかりに、半目で汐音は言った。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ……」

 ときに話のテンポ、都合が良すぎると頭の中の回路がうまく機能しない。脳が処理落ちを起こすとはこういうことなのだろう。ちなみに少女は半ば無理やり、自分で玄関に上がってしまった。少女が腰掛けると、木の床がきしんだような音を立てる。歩き疲れたらしく、左手でしきりに脚をさすったりしている。

「疲れてるんです。お話は中でいいですよね?」

「う、うん」

 長い渡り廊下を二人で抜けてゆく。床は相変わらず、一歩進むごとに軋んでいる。結局、根負けして家にまで上げてしまった夜雲だったが、彼はすこし落ち込んでいた。今日はそういえば、女難の相が出ていたか。

 今朝のテレビ番組を思い返しつつ、少し振り、返り彼女、汐音を見た。全体的に薄い、華奢な肉体は頼りない。外は暗いし、ここで突き返すのも悪い。そういうことから、ここに少しの間だけ居させることにした。もちろん、要件を聞いたのちはすぐさま親を呼んでもらい、迅速に帰宅を願いたい。

 この神社はかなり高台にあり、赴くためには傾斜の激しい長い登り階段か、道路から続くこれまたとても長い坂道を上る必要があった。運動に慣れていない子なら息切れを起こしても不思議ではない。しかし、この子は案外足腰がしっかりしているように見える。意外と運動部だったりするのだろうか。

 少女は長靴下を履いていて、濃紺のスカートから一部分だけ覗く柔らかそうな素肌が、少々目に毒だが。

「いやらしい視線を感じます」

 ムッとするような表情と口調で言われ、夜雲は目を背ける。仕方がないだろう男なんだから。でも別にやましい気持ちがあるわけじゃない。生憎、年下は妹のようにしか思えないからだ。

 いわゆる対象外ってやつだ。まあ妹などいないのだが。

 夜雲は彼女に見せぬよう顔歪めながら、自分に言い聞かせた。居間につくと夜雲は適当に座布団を出し、そこに座るよう促す。彼女は一瞬戸惑ったように動きを止めたが、すぐにスカートを手で押さえながら腰を下ろした。

 第一声は、夜雲から発した。

「それ、この辺の中学の制服だよね。たしか」

「桜町中学校です」

「そうなのか。それで、どうして俺の家に用があるんだ?まずそれを訊いていいかね」

 少女は考え事をするように、横を向き、斜め下へ視線を落とすと、すぐさま顔を上げて夜雲の目を見た。その表情には、あからさまな怪訝さが見て取れた。言うか言わないか迷っている様があからさまに確認できる。

「なんというか、すごく言いにくいんですけど……」

 言いにくい?いったいどういうことだろうか。実は理由もなく、ここにたどり着いたから寄ってみたというわけではあるまい。このような場所、しかも内部へ赴くには何かしらの目的があるからに決まっている。現に訪れる者たちは皆そうだ。この場所は一般的な神社の中でも異例、供養することに特化した場所だ。しかも物語を、という二重の条件付きで。

 書物を預け供養してほしいと言いう目的の者以外は、あまり現れない。だからこの少女も、事情があれそのたぐいの問題を持ち寄ったのは間違いないだろう。

 しばしの沈黙を破り、少女はようやく口を開いた。

「昨日、図書室で本を借りようとしていたんですけど、そうしたら借りようとした本の隣に、見慣れない一冊があったんです」

 汐音は、静かに語り始めた。思ったより丁寧に経緯から説明しているあたり、説明しようがない事柄なのだろうか。そういうケースばかり見てきたので、端追ってくれて構わないのだが、詳細を語ってくれるのはありがたい。

 夜雲は静かに耳を傾ける。

「いつも立ち寄っていたから、それが新しく入った本だと思った。でも、それはかなり古い本で。次に私は、それが誰かが持ち込んだものだと思った。いたずらか、それとも図書委員の人がどこからか取り寄せたのかって」

「へぇ。それで?君はそれに惹かれて」

「はい、わけがわからないのに手に取っていました。どうしてなのかは分かりません」

「ふむ…」

 なるほど、無意識のうちに操作されるという事は、よく聞く話だ。いわくつきの書物の力が強すぎる場合、その声で対象の思考すら操るという事がある。実は夜雲も、そういった経験をしている。最初のうち、夜雲は書庫に近づかせてもらえなかった。興味本位でそこへ行こうとした時には父親に本気で怒られた。

 過去に夜雲は、無意識のうちに塔に惹かれ、そしてその裏の崖へ向かったらしい。異変に気が付いた父によって救われたのだが、怖いことに当人は全くそのことを覚えていなかったのだ。

「どうぞ続けて」

「私の考えは両方外れでした。結局、そのあと誰に聞いても答えてくれなかったんです。みんなその本を見ても変な顔をするばかりで」

「でも私はどうしてもそのことが気にかかっていて、それで放課後その本を」

 開いてしまったと。汐音の表情は強気なものから、一気にしおらしくなった。顔色も悪いように見える。夜雲は眉根を寄せた。

「そこに書いていったんです。見たこともない文字で……で、でも確かに私には読めている。訳が分からないでよね……?」

 確かに、これだけ聞けば宇宙系、だの電波娘だの言われかねない。

「気味が悪すぎて、燃やそうと思いました」

 おいおい。随分過激な事をする。祟られたらどうするつもりだ。夜雲は口が半開きになってしまった。

「でも……燃えないんです。それで」

 汐音の声が上ずったものに変わった。

「それで、気味が悪すぎてこれを、その場に放置したんです。でも、次の日になってもまた、同じ場所にあって……戻ってて」

 なるほど。この娘の先ほどまでの態度、強気なふるまいの意図が理解できた。得体の知れぬ事態に対し唯一彼女ができることが、ここに来ることだった。そして今まで虚勢を張り続けた。そうしていないと、心が呑み込まれそうだったのだろう。

「ここならそう言った類の物を何とかできると、昔おばあちゃんから聞いたのを覚えてて」

「それでここへ、ね。ああ。君が言ったことは決して変な事じゃないと思うよ」

 寧ろ、そういう類の話でなければ我々の出番がない」

「それで例の本は、今君が持っているのか?」

「あ、はい。本当は嫌なんですけど…」

 汐音は紺色のスクールバックを開け、一冊の本を取り出した。大きさは……ちょうど学生が使う漢字の辞典ほどの分厚い物だった。

 その様は本、ではなく書物、と呼ぶのが正しい。言い方を変えただけであるが、“それ”は一般的という言葉で表すのは、はばかれるほどの気味の悪さを放っていた。紺色の表紙と、年月経過でかすれた辺縁。しかし中身の紙は白く、焼けていない。そしてなにより、タイトルがない。この異様なさまを、夜雲は知っている。供養塔にある、あの物語とよく似ているのだ。いびつに紡がれた、つぎはぎだらけの物語。

 夜雲は手を伸ばし、本を掴んだ。分厚い表紙をめくると、次に確かに文字が描かれていた。それは、彼女の言った通り読めるものではなかった。もはや字ではなく、絵である。

 夜雲はその本質を読もうとする。しかし。

 なにも聞こえないし、話そうとしない。本はそれを拒んでいるのか、本当に何もないのか。黙りつづけたままだ。物語は何にせよ自己主張をするものであるが、これはそれをしないのだ。

 文字列を目でなぞりながら、夜雲は彼女が言い渋るだろうと思いつつも、切り出すことにした。

「すまないが、これを読み解くことができない。なんて書いてあるか、読んでくれるか?」

 やはり、彼女は表情を暗くした。しかしすぐに面を上げ、震える唇で言葉を紡ぎだす。

「流水を鎮め 黒霧を消せ」

 戦慄という言葉が相応しい。夜雲は、厳しい顔をする。

「なんてことだ……」

 黒霧、流水。同時にこのワードが出現することの異様さを知っていたからだ。しかも、その所以も知らぬ彼女の口からそれが告げられている。この異常性をどう正当化したらよいか言葉が見つからない。

「とりあえず、ここまでで君は無事でよかった。少し話を整理したい。一分だけ時間をくれないか」

「いいですけど、別に……」

 断って、夜雲は目をつむった。色々考えて、やはり憶測であるが答えは一つだった。

 普通ならばこれがいたずら、ひいては呪物かとも思ってしまう。彼女もそうだと思ったからこそ、此処を訪ねてきたのだろう。しかし、呪物は当人に見つかってはいけないのだ。よく聞く物語では呪いのビデオとかあるが、あれは事象であり、呪いは断続的に続いていることを云う。呪いの本質は見えないという恐ろしさにある。呪物としては藁人形がいい例である。見つかって撤去となると、行き場を無くした呪いは術者に返っていくという、あれだ。

 しかし、彼女は二日も無事でいる。

 彼女が見つけてしまったこれは、そのようなものと同じ本質を持ったものなのだろうか。しかしたったこれだけの文字で、効力はあるのだろうか。全面に描きこむべきではないのだろうか。しかもこれはどちらかというと助言に近い気がする。

 誰かがこれを通して、彼女を護っている?

「少し話をするよ」

 そう切り出して、夜雲は話し始める。

「流水とは、夜雲の家系の名字であり、このあたり一帯の水神の名前でもある。

 読みは“ながれみず”であり、夜雲を含め、一族の名字を“ながれみ”と呼ばせている」

「それはこの地の神の名を冠する事を形式上、防ぐためだ。それを、鎮めるということは、つまり、此処で何らかの異変が起きているという事になる」

「君は、此処までの話で、知っていること、隠していることはないよね」

「ありません」

「ふむ、そうか。話を戻すが、この地には今別にこれと言って異変があるとは思えない。この地域はここ数百年、安泰だ」

 「という事は、そこに描かれていることは一種の予言に近い事柄だと俺は思う」

「予言……?」

「それに触れること、君が……俺にも語り掛けてこない、いや読み解けない本の言葉を読めること、それらはたぶん、起こるべきために起こったことだ」

 堂々として夜雲は言ったが、確証はない。しかし供養者としての性質が、これが無害だと言っている。

「運命とか、そういう類のものとか、今まで考えもしなかった。けど、これはどう説明を付けていいものか、私にはわかりません」

「オカルトな話題ですまないな。でも、ひとまずは安心してくれ」

 安堵のため息とともに汐音は、身を崩した。その様はあからさまにひどく疲れているようだった。問題はない。汐音の疲れは、意識してしまうことで精神をすり減らしてしまった健全なものに過ぎない。これが呪いの物語であるならば、常に彼女の周りに張り付いてしまっているはずだ。耳を貸したくもない気味の悪い声を発し続けているはずだ。

「何も感じないのがかえって不気味であるが、今のところ問題はない」

「今のところって……」

 汐音がため息交じりに言う。呆れられているかもしれないと、夜雲は苦笑した。

 その次の瞬間、信じられないことが起こった。開けられた一ページ目の文字列の後ろに、新しい文字が浮かび上がってきたのだ。ジワリ、ジワリと、にじむように。赤く、次第に黒く。はっきりとしていく。

 張り詰めた緊張感が空間ごと包み、二人は金縛りにあったように身動きが取れなくなっていた。その光景をじっと見つめるほかなかった。

「……なんて?」

 冷や汗をかきながら、夜雲は問う。汐音は生唾を飲み込む。

「夜の月を翳す雲 川からたちこめる黒い霧を祓え とだけ……」

「意味が分からん……しかも誌的だな文面」

 夜雲は頭を抱えた。せめてこの本と会話ができれば、話は進むだろうが。相変わらずこいつは黙ったまま。そうすれば、文面が正解ということだろうか。胡散臭いがまるで予言の書のようだ。

「ふむ。とりあえず、これはどうする?君が持っているか?」

「冗談でしょ!?私はこれを供養してほしくてここへ来たのに!」

 机をたたいて、汐音は抗議した。

「でも悪い物じゃなさそうだって」

「不気味!そっちで預かってよ!」

 セミロングの髪を揺らし、机に乗り上げる。汐音は敬語が吹っ飛ぶほど必死な様子だ。しかし別に突き放すわけで言ったわけじゃない。夜雲も、これをどうしてよいものか。正直持て余しているのだ。

「それもいいが、これが君の危険を察知しているということを考えないのかね?だとすれば、君が持っている方がいい。そういう類のものは、結構あるしな」

「ええ?これが?でも、不安だから!それにここには、あなたを訪ねるように書かれていたようだし」

 それが引っ掛かっていた。先ほどの夜の月を翳す雲というのは、おそらく自分のことだろう。夜雲は物語に、確実に自分か絡んできていることを悟り始めた。

「どうにか、できないの?」

 汐音は目を伏せた。この短時間でわかったが、この子は強気な表情ばかりだが、時折不安な顔を隠さない。つまりかなり素直な性格と見えた。この状況で歳上、そして専門家の自分を頼ることなどは、別に変な事じゃなく当然と言えよう。

「ふむ……。とりあえず、父親が戻るまでの2週間。代行の俺がこの件を特別に受け持つことにするよ」

 本当は、戻るまでは何もするなとのお告げだったのだが。こうして華奢で可憐な少女が相手では……というのは冗談として、見捨てるわけにもいかず。夜雲は約束した。

 しかしどうしたものか。事態はまだ始まってすらいない。対策を講じるのにも材料が不足している。

「もうこんな時間か。送っていきたいところだが大丈夫?」

 時計は20時半を差していた。辺りは当然暗黒になってしまっている。立ち上がると、少し足がしびれていた。廊下に出て電気をつける。しかし後ろに気配がしない。振り返る。

 やはり動いていなかった。

「帰りたくない」

 汐音は座布団の上に寝転がり、丸くなったままの状態で言った。

「ええ……」

 意地でも避けない猫のように、彼女はピクリとも動かない。夜雲が汐音に寄って眼前まで近づくと、その丸い頭を見下すような形となる。ちょうど見えているのが、綺麗な赤毛のつむじ。汐音は俯いた顔を上げた。宝石のような緑色の瞳と目が合う。

「私、一人暮らしなの。家に帰っても、こんな状況じゃ心細くなるだけよ」

 想像すると確かに可愛そうだった。

「しかしなぁ」

 機嫌を損なえば豚箱へ送られそうで、夜雲は唸った。

「さっき、受け持つって言ったよね。だったら今日くらい、私を絶対守って」

 夜雲の言葉を遮り汐音は続ける。日常じゃ絶対に聞けない、私を守ってというセリフに、くらっと来てしまったのだが。

「いや、俺が捕まる」

 やはり冷静に思うとまずい。苦笑しかない。第一着替えもないだろうに。

「あなたは、そんなことはしないわ」

 汐音は真剣な眼差しのままだった。何がそんな事はしないだ。そんな仮初の信頼はいらないものだ。初対面なんだぞ。

「はぁ……まぁいいか」

「やった」

 年相応の笑顔を見ると、まあ許容してやりたくもなる。夜雲は、本当は自分がロリコン、ひいてはシスコンなのではないか(まあ妹はいないが)と呆れた。

「まあ本当は、独りが心細いだけなんだけどね」

 汐音は髪を弄る。照れた様子で、ちゃんと本心を語るこの子のこんなところは良いと思う。

「そうだろうな。でも簡単に大人を信用してはいけないからな。いざとなったら反撃できるようにしておけよ」

 念を押しておく。この子が今後悪い大人、悪い男に引っかからないように。

「はい。わかりました」

 わかっているわよ!と、言われると踏んでいたのだが、予想に反して礼儀正しい返答をもらってしまった。調子が狂う。

 テレビの電源を付けると、部屋は幾らか賑やかになった。どうにも、家が広いと静寂が気にかかり不安になる。バラエティ番組の面白おかしい内容が、少しこの雰囲気を払拭してくれただろうか。

「慌ただしくて茶も出せなかったが。代わりに何か食べていくか?夕飯まだだろう?」

 奇妙な空気にまだ慣れないが、とりあえず常套文句でも言ってみる。

「まだだけど……いいの?」

 問いかけると、汐音は大きい目をさらに大きくして言った。

「ああ。泊める時点で食事も提供することになってる。まあ一応な。嫌ならコンビニに一緒に行くか?あ、でも俺が補導されるかもな」

 夜雲が首をひねっているところに、汐音は少し考えて、

「うん。じゃあ、料理いただきます」

 そう答えた。

「苦手なものは?」

「ピーマン」

 子どもだな、とは言わない。

「了解。あ、今更だが足崩していいぞ。楽な体制でくつろいでくれ、お客さん」

 言い残し、居間の右奥の部屋に夜雲は消えてゆく。その後姿を眺めながら、汐音は不安げな顔を浮かべていた。

 台所の電気のスイッチを入れる。少し遅れて電灯が点灯した。包丁とまな板を出して、冷蔵庫内の食材を確認する。必要なものを外へ出すと、さっそく調理を始める。とはいえ、別段凝ったものが作れるというわけじゃない。手早く包丁を動かして、下ごしらえを終える。

 まあ、そこからは流れ作業だ。

 

「――和食?」

「なのかな。簡単だけどだからこそ味はぶれない」

 お盆を運んできた夜雲は、机の上に食事を置いた。米もおかずも、分量の差が大きかった。

「いただきます」

「いただきます」

 手を合わせて、二人はしばしの間無言で、箸をすすめた。

「でもどうして、独り暮らしなんだ?」

「ああ……うん。両親と、あんまり仲が良くなくて」

 深入りしてほしくないというサインだ。多くは訊かない方がいいと思った。

「それは複雑で……」

「あなたほどじゃないわよ」

「ん?」

「なんでもない」

 告げると、少女は頬を赤らめて顔をそむけた。何を言いたかったかは、訊かない。

 

 今のところ、頼れるのは俺だけ、か。食事を終えた夜雲は、ふとそんなことを思っていた。

 食器を片付けながら、これからどうしようか考えていると。

「手伝うから」

 そう言って、汐音が隅から顔を出してきた。やはりよく見なくとも、可愛い顔をしているなと思った。

「客人はくつろいでいていいぞ」

「いいの」

 制止するものの彼女は割って入ってくる。二人とも無言で、食器が軽くぶつかる音だけが台所に響いていた。

 もし妹がいたならこんな感じなのだろうか。

 いや、これはなんというか、妹ではないな……。

 懸命に食器を洗う健気な横顔を見ていると、良い性格をしている子なんだと思ってしまう。

 べたべたするつもりはないが、せめて夜が明けていくまでは。その不安を拭ってあげたいと思った。

 

 まるで幼妻のような印象を受ける少女との出会いは、あまりにも唐突に運命的で、そして必然的だった。そしてこの出会いが、事件解決の中核を担う大きな力になっていくとは、まだ二人とも知らなかった。

 

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