一月某日。
「神林は進路どうすんの?」
唐突に投げかけられたその言葉に私は面食らった。失礼な話だが、彼女の口からそんな真面目な話題が飛び出して来るなんて想像もしていなかったからだ。
「どうするって……」
そしてその時、私は初めて気がついた。
進路、そう言えば決まって無いじゃないか。
いやしくも来年度には受験生になる身、進学する大学の一つくらいするりと出てきても良いものだと思うのだけど、驚くほど何も出てこない。私の口が何か言葉を捻り出そうと空回る。
「お、お前こそ……進路どうするつもりなんだ」
しかし、何もないところからは何も出てくるわけがない。
結局私は、同じ質問をそっくりそのまま投げ返すしかなかった。
「あっはは、私もわかんないから聞いたんだけどさー」
すると町田さわ子は、いつものようにヘラヘラと答えてみせるのだ。
「どうする、って……」
結局答えることが出来ないまま一日が過ぎ、ベッドの上で私は独りごちる。
部屋の天井を眺めながら、その言葉の続きをひねり出そうとしてみたけども、やはりそこから先はどうしようもなく曖昧な気持ちが広がっている。とても言葉では現しきれないような、思考の荒野が目の前に広がっている。そして私は、その入口でただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。こういう時、私の好きな作家たちは一体どういう言葉を紡ぐのか。
ディックなら、なんて言うだろう。
伊藤計劃なら、なんて言うだろう。
アジモフや、イーガンや、スティーブン・キングは?
彼らはこう言った感情に、どう決着をつけるのか。
「……うーん」
いや、そういうことじゃないだろう。これは他ならぬ私の問題なのだから。自分の考えで、自分の言葉で決着をつけなくてはならない。けれども、その肝心の私の言葉が見当たらない。私はますます情けない気分になった。今までたくさんの言葉に触れて感じてきたはずなのに、自分の事になるとその一つも出てこないなんて。
私は、私のこれからをどう語るべきなんだろうか?
ベッドの上を右へ左へ転がりながら、私は考える。
「進路か……」
あの後、私は全く同じ質問を色んな人にして回ってみた。長谷川さんや遠藤くんや、その他諸々のクラスメイト達。皆はなんてこと無い様子で、自らのこれからについて語ってくれた。進学。就職。だいたいがその二つの言葉でまとめられるような話だったけれど、そこから感じられる個人個人の夢の形に私は圧倒された。
そこまで、考えていたんだ。
それが私の抱いた、なんとも間抜けな感想だった。よくよく考えればここまできて何もなしの私の方が異常なんだろう。いつの間にか取り残されてしまった私に、焦燥と自己嫌悪だけが静かに寄り添った。
「いつから、私は……」
いつから、私にとって。
将来や、明日や、未来が、厄介者になってしまったのだろう。いつから大人になるのが、嫌なことになったんだろうか。
「あぁ……」
そう言えば私、小さい頃何が好きなんだったっけ……。
それから、一ヶ月くらいが経過して。季節は相変わらず冬だが、しかし学校の中は静かな熱気に溢れている。三年生達は張り出される紙の前で一喜一憂して、教師たちは校内の風紀の引き締めに躍起になっていた。
あれが来年の私達の姿だと思うと少し憂鬱になった。精神的に疲れそうだし、何より本を読む暇が無くなってしまいそうだ。
「……でも、避けては通れないんだろうなぁ」
「は?」
「あ、いや……」
それはそうとして、私たちは相変わらず図書室の住人だった。慌ただしい雰囲気の校内で、ここはいつもの静けさを保っている。それが心地よくもあり、少しさびしい。一体いつまで、ここは私達を受け入れてくれるのだろう。そんなことを考えながら、また今日も私は彼女と雑談に興じる。
「あ、この間借りてたやつ返すよ」
「うん……」
「……どしたの? 難しい顔して」
不思議そうな顔をして、町田さわ子が私の顔を覗き込んでくる。私はハッとして彼女に向き直った。
「いや、すまん。少し……考え事してた」
「考え事?」
「大したことじゃないんだけどな……」
「なになに、気になる」
「その……」
こいつに言っても大丈夫だろうかと一瞬迷ったが、結局私は彼女に今考えていることの一通りを話すことにした。そう言えば彼女の答えもまた聞けていなかったし、それにどこか期待していた節もあったのだろう。日常の雑談として、この不安を押し流せるかもしれない、と言う後ろ向きな期待が。
「あぁー……そう言えば前にそんな話したね」
「あれからずっと考えてみたけど……どうにもよくわかんなくて」
「私はとりあえず大学には行こうかなってぼんやり考えてるけど?」
「それは私もそうだけど……そういうことじゃなくて」
「どういうこと?」
「上手く言えないけど……目的と言うか、将来のビジョンと言うか……」
私が回りくどく、そうやってもごもごと言葉を弄んでいると。
「もしかして将来の夢?」
彼女がこれ以上無いくらいに的確な言葉を返してきた。
夢。
将来の、夢。
言ってしまえば、短くて簡単な音だ。けどそこに詰め込まれた色々な物を考えると、口にするのがなんだか少し恥ずかしい気がしてしまって。だから私は別の言い方を探してみたのだけれど、やはりそのどれもしっくり来る事は無かった。
「……夢、か。そうだな、多分」
「夢ねぇ……私もわかんないなー」
「昔はやりたいこと、たくさんあったはずなんだけどな」
大きくなったら、あんなことをして、こんなことをして。けど成長するにつれてそれが一つ消え二つ消え、今では何も見えなくなってしまった。現実を追い越した理想を持ち続けられるほど、夢を夢として持ち続けられるほど、人間は強く作られていない。
それと同時に、私はそれを受け入れるような潔さも持ち合わせていなかったのだ。余りある時間。可能性という言葉。それらの要素にすがりながら、私は現実に追い抜かれた理想――いや、幻想と呼ぶべきもの――を今でもズルズルと引っ張り続けている。『自分にも、なにか出来るはず』と呪いのように呟いて。
「……これが、大人になるって事なのかな」
人前だと言うのに、嫌なことばかり考えてしまう。言葉を吐く口が重苦しい。
「……もうちょっとシンプルに考えたら?」
そんな私に、少し呆れた様子で彼女は言う。
「神林はいっつも難しく考えすぎだと思うな」
「……そうかな」
「やりたいことやったらいいのに!」
「逆にお前は最高にシンプルだな……」
あっけらかんとそう言い放つ彼女が可笑しくて。
私が思わずクスリと笑った次の瞬間、チャイムが校内に残った生徒を追い立てるように鳴り響いた。
その日の夜も、私はベッドに寝転がり天井を見つめている。結局不安は解消される事無く、私の中にわだかまっていた。
やりたいことやったらいいのに。
彼女の言葉が、まだ頭の中で跳ね続ける。
「やりたいこと……」
私のこれからを構成するであろうモノの数々が、周囲を取り囲んで余計に先を見えにくくしている。
好きなこと。嫌いなこと。
欲しいもの。いらないもの。
望むもの。望まないもの。
やりたいこと。やりたかったこと。
心の中を行ったり来たりしては、意味ありげな言葉で私を惑わしていく。このままでは何も見えやしない。向かう先も、今私が何処に立っているのかさえも。ただ一つだけ、はっきりしていることと言えば……。
「……楽しいんだ、今が」
学校に通って、授業を受けて、図書室へ行って本を読んで、語って。そのなんでもないただの日常が、ただ話せるような相手がいる日常が、こんなにも楽しくて仕方がない。
そうか、私の夢はもう手の中にあったんだ。もう手に入れてしまって、それで満足していたんだ。自らにとっての安息の地を、私はここに見出してしまった。よりにもよって、学校というこの場所の上に。
どうしよう。
かつて無い焦燥感が私を襲う。今、私のいる場所は時間の濁流にいずれ飲み込まれてしまう。その時、私は飛び上がる事が出来るのだろうか?それを可能にしてくれる物は、一体なんだろう?
今の私に足りないもの。これから必要になるもの。
それは一体。
「……言葉だ」
言葉。
そうだ、言葉。
ぱっと頭に思い浮かんだのが、それだった。
人生とは、言葉に他ならない。と勝手に私は思っている。
言葉を紡ぎ、伸ばし、その上を歩いて行くのが、人間であると。
そうだ、それならば。
「……もう一度、やってみるか」
体の奥に火がついたような気がした。今の私は、やる気に満ち溢れている。いてもたってもいられなくなって、私はベッドから立ち上がり机に向かった。
私には今、言葉が必要だった。自分によって語られる、他ならぬ自分のために紡がれた言葉が。
今、私の目の前に広がっているのが荒野なら、そこに少しでも道を作ろう。荒れた大海なら、そこにブイを浮かべよう。言葉にはそれが出来るんだ。自らの人生を言葉によって語ろうとすることは、何も作家や脚本家の特権じゃない。やろうと思えば、誰にだって出来るはず。
それなら、やってやろうじゃないか。今、私がやりたいことを。
今、私が紡ぎたい言葉を。
自分の人生を、作ろうじゃないか。
「……タイトル、どうしよう」
そう一言呟いて、私は引き出しの中に長年放置されていた原稿用紙を取り出した。
それからまた、数日が経った。今日も図書室はその胎の中に私と静寂とを抱え込んでいる。そして私は町田さわ子の到着を待っていた。
「遅いな……」
理由は二つ。
一つは貸した本を返してもらうため。
もう一つは、今私の鞄の中にある物を渡すためだ。ファスナーの奥にいるそれは、静かに黙ってその時を待っている。
「……本当に大丈夫かな」
今自分がしようとしてるのは、実はとてつもなく恥ずかしいことなんじゃないか。そんな思いが頭をよぎる。やはり、慣れないことをするのはとても難しい。今ならまだ引き返せる、このまま封をして何食わぬ顔で過ごすことだって出来る。行くべきか、留まるべきか。
「お、神林ぃー。早いね」
などと考えている間に、町田さわ子が図書室に現れた。来てしまったのだ、ついに。
彼女は私の姿を認めると、すぐにこちらへやって来て本を一冊渡してくる。私の貸していた本だ、見たところ派手な折り目や汚れはない。大切に読んでくれたらしい。
「それで、どうだった?」
「うん、すっごい面白かった!難しくてよくわかんなかったけど……」
いつもの調子で、彼女が答える。
「そんで?今度はどんな本貸してくれんの?」
「こ、今度は……」
私は覚悟を決めて、鞄の中身を彼女に差し出した。
それを前にした彼女は一瞬ぽかんとした表情になる。それもそうだろう、いつもなら文庫本が飛び出すところだが、今回現れたのはホチキスで止められた紙の束なのだから。枚数は約百枚、文字数にして約四万字。分量的には短編小説といった所か。
「……なにこれ?」
「書いて、みた……」
「神林が書いたの?」
「そ、そうだ」
「へぇー……」
まじまじと、私の手にあるそれを眺める彼女。今、私の顔は真っ赤になっているだろう。心臓が拍動を早めて、全身が燃えるように熱くなる。期待と不安と恥ずかしさで、今の私はいっぱいだ。それなりの覚悟をしてきたつもりだが、それでも緊張するものは緊張する。彼女も彼女で何か言ってくれれば良いものを、ただ黙ったままだ。なんだ、くそ、笑うなら笑え。その方がどれほど楽か……。
などと頭の中でぐちぐち抜かしていると、不意に私の手から原稿用紙が離れていった。
「もしかして……この間話した事と関係ある?」
「……お前が言ったんじゃないか、やりたいことやればいいって」
「……これが、神林のやりたいこと?」
「わからない。わからないけど……」
そこから先を続けようとしたけど、何故かいきなり私の胸からこみ上げるものがあって言葉が詰まってしまう。嬉しいでも、悲しいでもなく、僅かな爽快感を孕んだ初めての気持ちが、私の言葉をせき止める。
何故だろう、今、私は泣いてしまいそうだ。
「わからないけど、わたし、はっ……」
その時改めて、ただの紙の束に自分がどれほどの思いを詰め込んだのか私は思い知った。それと同時に、言い表しようのない嬉しさが心のなかに湧き上がった。そこに記されたのが紛れもなく私の言葉と心であると、強く実感できたからだ。何か遠い昔に失ってしまった宝物を再び取り戻すことが出来たような、そんな嬉しさが。
「……神林?」
「っ……いや、なんでもない。それよりも……」
私がしたためたこの物語は、いつかこの気持ちが擦り切れて消えてしまっても、今日が遠い思い出になってしまったとしても、それでもきっとここにいる私を見つけ出すための目印であり、今まで触れてきた物語に対する応答であり、自らに挟むための栞なんだ。
「……よかったら、読んでくれないか。感想が聞きたい」
そして物語には、当然ながら読者が必要だ。同じ物語を共有する、誰かが。
最初は詳細な感想を寄越してくれそうな遠藤くんや長谷川さんに頼もうか、とも思ったけども、どういう訳か私は町田さわ子に見せる事を選んだ。不思議なことに、自分でもその人選に納得しているし、もしかしたら最初からそのつもりだったような気さえしてくる。
「……うん! もちろん!」
彼女は、快く私の物語を読むことを承諾してくれた。私はなぜかホッとして、胸を撫で下ろす。
「……ありがとう」
私の口から不意に出たその感謝の言葉は、本当に心の奥底から生まれてきたような、そんな響きだった。
それはそれとして。
結局その日も私たちは貸した本についての話をしていた。私の書いた小説を今すぐにでも読んでもらいたい気分ではあったけど、彼女が帰ってから一人で読みたいと希望するのだから仕方がない。それに、自分の文章を目の前で読まれると言うのは改めて考えるとなんだか恥ずかしいから、私としてもその方がありがたいかもしれない。
「……私もさ」
話が一段落した一瞬、少し落ち着いた声色で彼女がポツリと呟いた。
「私もさ、あの後考えたんだ。やりたいこととか、将来の夢とか」
「お前も?」
「うん。それでね、一応……私も見つけたんだ! やりたいこと」
彼女がこちらへ向き直って、私の事を見つめてくる。
その目は、どこか吹っ切れたというか、何かを決意したような、そんな色をしている。どうやら今日この日に栞を挟もうというのは、私だけじゃないらしかった。
「私ね……将来は図書館で働きたいな」
その夢は、言ってしまえば漠然として曖昧なものだ。だけど、これが彼女なりの決着の仕方なのだろう。決意表明のように、彼女は更に続ける。
「今まで神林たちとこうやってたくさん……ってほどでもないけど、本を読んできてさ。だんだん本当に小説とかが好きになってきたような気がして……だから、そう言うのに触れる仕事がしたいなー……って感じで」
「……それだったら、出版社とか編集者とかでも良いんじゃないか?」
「そっちはなんか大変そうだもん」
「まったく、お前は……」
どことなくふわふわしたその感じが、いつもの彼女らしくて私は可笑しかった。同時に、その彼女らしさがとても愛すべきもののような気がした。
「ところでさ、神林の書いた小説……タイトルは?」
「タイトル? そうだな、タイトルは……」
おわり。