僕は、金田の言動を心の片隅で気にかけつつも、愛里寿と会うことをやめることができなかった。
僕は彼女のことをすごく気に入っていたし、彼女も僕のことを気に入ってくれていたからだ。
僕は女性との付き合いの経験は浅いが、お互いがどことなく、心の深い部分で通じ合っていることはわかった。
愛里寿と一緒にいることは楽しかった。
彼女はまだ幼かったが、時折、僕よりもずっと知的に感じることがあった。
彼女の、話し方も僕には心地よかった。
子供の背伸びといえばそれまでだが、飾らない、大人びたクールさがあった。
工場の裏手で会うことをやめてからは、もっぱら、駅の裏手の商店街の古びた純喫茶が僕たちの会合場所となった。
サイフォンが置いてあり、モダンジャズをJBLのスピーカーで鳴らしているようなタイプの店だ。
看板には「月曜舎」と書いてあった。
「どういう意味かしら」
愛里寿が首をかしげると、年老いた店主が「六曜舎のパクリさ。大した意味はないんだ」とつぶやいた。
店主は無口な男だった。
お勘定以外で、それが僕たちの聞いた、唯一の彼の声だった。
あるとき、愛里寿が僕に言った。
「ね、ね。総一郎さんは、ボコって知ってる?」
唐突だったので、僕は思わず聞き返した。
「ボコ? なにそれ」
「えぇー。知らないの?」
「うん。残念ながら」
すると愛里寿は、頬を膨らませて、いつも脇に抱えているぬいぐるみを僕に押し付けた。
「えいっ!」
「わぷっ。な、なにするの」
ぬいぐるみをどけると愛里寿のいたずらに笑った顔が見えた。
「えへへ。これがボコだよ」
それは、彼女が年相応にふるまった珍しい機会だった。
僕は、そのあどけない微笑みが単純にすごくかわいいと思った。
「へぇ。いつも抱えてるこのぬいぐるみにそんな名前があるんだ」
「うん。ボコられ熊のボコ」
「ボコられてるの?」
「そうだよ」
あっけらかんと答える。
あぁ、だから包帯なのか。
しかし、ボコられているとはまた物騒な。
「負けてばっかりのキャラなの?」
「うん」
「そりゃ悲しいね」
「そうでもないよ」
「え、なんで?」
すると愛里寿は、すっくと立ちあがった。
「ボコはね、負けても負けてもめげないの! 前向きなの! そんなところが好き!」
なるほど、と僕は思った。
さすが愛里寿。
ただキャラクターのデザインが好きなだけじゃなかったわけか。
「負けてもめげない、か。僕もそんなメンタルが欲しいね」
何気なくつぶやいた言葉に、愛里寿が目を輝かせた。
「それじゃ、今度! 一緒にボコのアニメ見よ!?」
「あ、アニメ?」
「うんっ!」
きらきらと僕を見つめてから、はっと我に返ったように頬を赤らめた。
「あ、ご、ごめんなさい。はしゃぎすぎちゃった。総一郎さん、嫌なら言ってね」
そんな照れたしぐさが可愛くて、僕はちょっと愛里寿をいじめたくなる。
柔らかいほっぺをつんつんしながら言った。
「ぜんぜん嫌じゃないよ。むしろ、愛里寿の子供っぽいところを見れてうれしいかな」
「い、いじわるっ!」
ボコっ。
またボコを顔面に食らった。
※
数日後、僕は愛里寿の部屋にお呼ばれした。
ボコのアニメを見るためだった。
本当は僕の部屋に呼びたいところだったが、僕が住んでいるところは、工場の社員寮だ。
誰かに見られるわけにはいかなかったので断念した。
愛里寿の部屋は、ちいさなアパートの一室だった。
なんとなく、いいところのお嬢さんなのかなと思っていたので、少し意外だった。
もちろん、実家じゃなくてほっとしたが。
「一人暮らしなの?」
やや簡素なその部屋を見渡して僕は問いかけた。
「うん」
愛里寿がうなづく。
「実家は九州なの。大学に行くために上京してきたから」
「あ、そうか」
合点がいった。
しかし、いくらしっかりしているとはいえ、偉いな。
こんなに小さいのに、一人暮らしだなんて。
と同時に、すこし気になることがあった。
「それじゃ、ここって、大学の学生寮?」
僕の心配を見透かしたように愛里寿がほほ笑む。
「ふふふ。そんなに心配しなくても大丈夫。学生向けの安いアパートではあるけど、学生寮ではないわ。誰が出入りしても問題ないよ」
「そっか」
僕は胸をなでおろした。
ほっとした気持ちで、ベッドに腰を下ろす。
降ろしてから、気が付いた。
これって、愛里寿のベッドじゃないか!
何やってるんだ、僕は!
お、女の子のベッドに勝手に腰を下ろしちゃうなんて。
と、心の中で慌てふためいたけれど、愛里寿は気にしていないそぶりだった。
い、いいのかな。
おっかなびっくり、僕はベッドのシーツに手を触れる。
これが、愛里寿が寝ているシーツ……。
やばいぞ、ドキドキする……。
そのとき、壁にかけてある地図に目が行った。
それは、戦場の地図だった。
「これって」
僕の問いかけに、愛里寿がうなづいた。
「うん。戦車道の、戦略地図だよ」
戦車道。
最近はすたれつつあるけど、伝統ある女子のたしなみの一つだ。
そうか。
それは、知的でディーセントで芯の強そうな愛里寿にピッタリであるような気がした。
似合ってるね、と言いそうになって、愛里寿の表情が無表情なことに気が付いた。
「もしかして、何かあった?」
無神経かもしれないけれど、そう問いかけずにはいられなかった。