「もしもし」
やや無愛想な声が耳元に届いた。
それは聞きなれた金田の声だった。
無愛想に聞こえるのは、彼がまだ僕のことを警戒しているからだろう。
僕は、あえて明るい声を出した。
「あの、お久しぶりです。金田さん」
「あぁ、久し振り」
金田がつぶやくように答える。
「最近は、工場でもあまり顔を合せなかったもんな」
それは金田が僕を避けていたからだが、そのことは突っ込まないでおいた。
「えぇ。それでちょっと、久し振りに飲みたいなって思って。どうですか、今夜か、明日でも」
「……」
しばしの沈黙があった。
「……どういう、つもりだ?」
静かに金田が問いかける。
「どういうって、その。他意はありませんよ」
「他意がないだと? ふざけるなよ」
吐き捨てるように金田が言った。
「他意がなく、急に俺を飲みに誘うわけがないだろう」
「そんな。何を言ってるんですか。以前はちょくちょく飲みにいったじゃないですか」
それは事実だった。
僕は、金田とは時折、飲みに行くことがあった。
金田の声が幾分和らいだ。
「……すまない」
謝罪。
「……ちょっと、どうかしていた。でもよ、急に誘ってきて、他意がないことはないだろう? なにが目的だ?」
僕はため息をついた。
これは、僕の選択ミスだった。
他意が無いなどというべきではなかったのだ。
僕は正直に、自分の気持ちを伝えることにした。
「実は、僕は今度、セクションの長に抜擢されました」
「……へぇ」
金田が戸惑ったような相槌を打つ。
唐突の告白に理解が多いつかない様子だった。
「先程、人事からお達しがあったんです。まだ人に言うべきことではないですが、金田さんには伝えておきたかったんです」
そこで一呼吸おく。
こちらの気持ちを脚色せずに包み隠さず言うべきだと思った。
「金田さんには、入社したころ本当にお世話になりました。その金田さんを差し置いて、自分が先に長になる。そのことは、伝えておくべきだと思ったんです。言わないでおいて、嫌な眼で見られたくないと思ったんです」
「そうか」
金田が短く言葉を切った。
彼は、電話口の向こうで思案しているようだった。
何か見えない気持ちを天秤にかけて測っているような沈黙の時間があった。
「わかった。その説明なら納得がいくよ。総一郎は、俺に恨まれたくないんだな」
「言い方は悪いですけど、そうです」
「それを俺に言いたくて、飲みに誘った」
「はい」
「オーケイ。それなら、今から飲もう。出世祝いだ。奢ってやるよ。『芦刈』でどうだ?」
大衆居酒屋『芦刈』は、時折、僕たちが飲む店だった。
金田はその店の常連だった。
「ありがとうございます。ぜひ、行きましょう」
僕は同意した。
19時に店の前で待ち合わせる約束をして、電話を切った。
心に平穏が訪れた。
金田は僕に対する警戒を和らげたらしい。
そのことにほっとした。
※
約束の時間に「芦刈」に行くと、入り口の手前で金田が待っていた。
「よぉ」
金田が手を上げる。
僕も同じように片手を上げた。
「予約、してあるから」
僕との電話のすぐ後、店に予約を入れたらしい。
奥の個室が用意されていた。
「それじゃ、乾杯!」
僕たちは、生ビールをあおる。
きめ細やかな泡が喉に心地よい。
久しぶりに、美味いビールを飲んだような気がする。
これも、心の安寧がなせる業だろう。
店内では、カエターノ・ヴェローゾが流れていた。
そのこともまた心地良い。
ブラジルの海風を心が感じるかのようだ。
「総一郎、その。誤解して悪かったな」
一杯目のビールを飲み干すと金田が頭を下げた。
「いや、そんな。こちらこそ、ちょっと変なことになっちゃって申し訳なかったです」
僕もビールを飲み干し、つぎの一杯をお互いに注文する。
僕は芋の水割りを、金田は吟醸酒を。
農口という、少し珍しい酒が入荷したらしく、金田はそれを美味そうに舐めた。
「あのさ、俺さ。自分の性癖がまずいもんだってのはわかってるんだよ。心の奥底でさ」
なめろうを箸で取りながら、金田が呟いた。
「だからよ、お前とあの女の子の関係を誤解して仲間がいたって思っちゃったし、自分の性癖をばらした後、怖くなっちまったんだ」
僕は、焼酎をあおって、金田を見据えた。
「僕は軽蔑しませんよ」
口からそんなことがするりと這い出た。
ロリータコンプレックスについて、深く考えたことがなかったが、金田に対してそれほどの嫌悪感が湧き上がっていなかったことは事実だった。
「そっか。そっかぁ」
金田がうれしそうにうなづいた。
それから後は、仕事の話が中心になった。
今後、僕がセクションの長になるにおいて、気を留めておくべきことなどを金田は教えてくれた。
「俺も長になったことはないけどさ。見てるとわかる部分、あるだろ。こういうことはして欲しくないとかさ」
僕はうなづいた。
そして、彼が教えてくれることを携帯のメモ機能に書き込んでいく。
酒が入り、指の動きはつたなくなっていた。
文字の間違いが生じているが、あまり気にならなかった。
心が広くなっている。
それは、金田も同じだった。
彼が言った。
「俺さ、お前が正直に、俺がやっかむかもしれんと言ってくれたことに感謝してるんだぜ」
「そうですか?」
「あぁ。正直なやつは信用できるんだ。だから、お前は俺の性癖も人に言わないって確信できたよ」
言いながら、さらに酒を舐める。
銘柄は呉春に変わっていた。
「あのよ。アレだぜ、お前」
金田が机に少し身を乗り出させる。
「セクション長になると給料がぐっと上がるぞ」
僕はそのことに思いが至っていなかった。
そうか。
そういえばそうだな。
給料。
「つぎはお前が奢れよぉ?」
「えぇ。勿論です」
しかし、給料か。
勿論、増えることはすごくうれしい。
だが、趣味らしい趣味がない僕には、使い道がないかもしれない。
いや、待てよ?
給料に余裕があれば。
日々の食費や光熱費で消えていく以上の金があれば。
そうだな。
愛里寿にプレゼントを買ってやれるかもしれない。
ボコ……あのぬいぐるみ。
喜んでくれるだろうか。
「おい、総一郎? どうした、酔ったのか?」
「あぁ……いえ。少し、考え事を」
「なんだ? 彼女のことか?」
僕は頬を赤くした。
「ちょ、なんでそう思うんですか? っていうか、あの子は別に彼女では……」
「図星かよ」
金田がニヤニヤとする。
「総一郎さ。そういう趣味じゃないって言ってるけど、本当はそういう『ケ』があるって」
「な、何ですか、藪から棒に」
「いや、いや、本当に」
金田は顔を真っ赤にしている。
相当酒に酔ってきたらしい。
「でなきゃ、あの女のこのことばっか考えてねーって」
「いや、その」
「見てりゃわかるよ。お前、あの子に気があるんだってよ」
「う、ぁ……」
言葉が返せない。
否定しきれない。
しかし、僕はロリコン的な趣味ではなく、ただ愛里寿が可愛くって……。
「これ、見てみ? 可愛いと思わんか?」
金田がスマホを僕に向ける。
そこには、小柄な少女が写っていた。
先日のような盗撮画像ではない。
ちゃんとした写真だ。
黒い髪の、子供と大人の中間といった美しい少女が、ふわりとしたドレスを来てこちらに微笑んでいる。
その目はひどく冷めた目をしているが、どこか妖艶でもある。
僕はつばを飲んだ。
「たしかに、可愛いですね」
「だろう?」
「この子は?」
「擬似だよ、擬似。犯罪じゃねーんだ」
「擬似?」
「あぁ。冷泉麻子ちゃんっていってな。擬似ロリ系の女優よ」
「女優?」
「こういうこと」
こっそりと呟くと、金田が、スマホで動画を再生する。
そこでは……小柄な少女、冷泉麻子が、男に組みふされて性行為をしていた。
「な、なんですか、これ?」
「だから、擬似だって。この子、体が小さくてロリっぽいだろ? ガキにしか見えねーだろ? これでも大人なんだぜ」
「これは……」
確かに、麻子という女優は、少女にしか見えなかった。
体が小さい。
その細い体躯が、僕の脳裏で、愛里寿と重なる。
脳が、焼けるような気がする。
「夢中で見入ってるじゃん、総一郎」
金田が笑う。
「この手の女優って他にもいてさ。角谷杏ちゃんとか、カチューシャちゃんとか、有名な子がいるけどな。俺はこの麻子ちゃんが好きでな」
僕は顔を上げた。
金田は、あざ笑っているわけではなく、ただうれしそうだった。
「あの」
僕は、気になったことを問いかけた。
「どうして、この子はこんな、学芸会みたいなドレスを?」
「あぁ、そういうシチュエーションビデオなんだよ」
「シチュエーション?」
「そう。ピアノと美少女ってシリーズでな」
金田が、動画を先に進める。
そこには、ピアノの発表会で、椅子の代わりに男の上に乗りながら、ピアノを弾かされる麻子ちゃんがいた。
「こういう、シチュエーションを想定してるわけ。いろんなシリーズがあるんだよ。運動会とかさ、授業参観とかさ」
金田は動画の音を消していたが、耳に、ピアノの音が聞こえてきた。
僕が混乱して周囲を見渡すと、金田が驚いたようにスマホを隠した。
「な、なんだ? 店員が来たのか?」
「あ、いや、違って。その、ピアノの音がって」
「そりゃお前、店内放送だろ」
「あぁ……」
そうだった。
いつの間にか、カエターノ・ヴェローゾが終わり、今はジャズピアノが流れていた。
Guess I‘ll Hang My Tears Out To Dry。
感傷的で、スムーズだが、癖のなさ過ぎる演奏だ。
BGMにはもってこいなのだろう。
「すいません。ちょっと酔ってたみたいだ」
僕は頭を抑えた。
「ははは」
金田が笑う。
「そろそろ、出るか」
会計を済ませ、外に出ると、空気はどことなく涼しかった。
「これからも頑張れよな、総一郎」
「はい」
僕はうなづいた。
金田と別れた直後、携帯が何かを着信した音が聞こえた。
メールか何かか?
僕は深く考えず、帰宅をした。