愛里寿と別れてから……僕の頭の奥底では、何かがうずき続けていた。
それはまるでアイスピックだった。
氷を砕くアイスピックのように、僕の頭の奥を削り続けていた。
削られるごとに、自分の心の表層が剥がれていく。
剥がれていくごとに、僕の知らない自分が現れる。
その、新しい僕は、これまでの僕と違う欲望を持っている。
それは……愛里寿への性欲だ。
僕は、彼女の下着がもっと見たい。
あの子供っぽいボコのプリントパンツが。
そして、首筋やふともも、素肌がもっと見たい。
ボコのプリントパンツの向こう側に隠された大切な部分が見たい。
僕は、携帯電話を手に取っていた。
あるところにコールをかける。
数秒の呼び出しで、聞きなれた声が返事をした。
「どうしたんだ、総一郎?」
金田の声だ。
僕は、金田に、今の自分の気持ちを正直に伝えようと思った。
うまく説明できるだろうか。
言葉は詰まりづまりになる。
センテンスが途切れ、うまく転がっていかない。
それでも僕は、言葉の切れ端のようなものをつなぎ合わせ、金田に、今の僕の欲望を語る。
金田は、感嘆したような声を上げた。
「お前もとうとう、こっち側の人間か」
その声音はどこか嬉しそうだ。
僕はこめかみを押さえながらつぶやいた。
「まさか、自分でも信じられないんです。でも、金田さん。どうやら、そうみたいだ」
「俺はわかってたよ」
金田が言った。
「で?」
「え?」
「そんな告白だけが、目的じゃないんだろう?」
この男はお見通しらしい。
僕は、半ば苦笑いしながら自嘲気味な声を上げた。
「実は、さっきからずっと金田さんに以前見せてもらった写真のことを考えていたんです。冷泉麻子のポルノ動画ではなく。盗撮風の画像の方です」
「ふむ……」
「あれって、どこかから拾ってきたものではなく、金田さん自身が撮影したんでしょう?」
短い沈黙があった。
僕の緊張を打ち砕くかのように、金田が爆笑した。
「いいな! 総一郎! お前は面白いよ!」
「か、金田さん?」
「お前は本当に最高だ。何をそんな、当たり前のことを、慎重に問いかけてるんだ? そうだよ。そう。俺が撮影した」
ほっと胸をなでおろす。
「そ、そうじゃないかと思っていました。その。それで、ですね……」
僕は金田に、盗撮のための機材を貸してくれないかと問いかけた。
僕が今陥っている欲望の状況をつつみかさず話そうとすると、制止をかけられた。
「まぁちょっと待てよ、総一郎。おまえどこから電話しているんだ?」
「どこって」
言われて初めて、僕は往来で携帯電話を握りしめながらとんでもないことを口走ろうとしていることに気がついた。
「そ、外ですね……」
「イかれちまったのか? うちに来い、総一郎。機材を貸して、使い方もレクチャーしてやる」
※
金田の家は、工場から国道沿いに15分ほど歩いた場所にあった。
住宅密集地の一角だが、比較的大きな家だった。
「総一郎、こっちだ」
金田が、二階の窓から手を振った。
「ここが金田さんの家なんですね。完全に地元民じゃないですか。さすが、遅くまで飲んでも帰れるわけですね」
「しがらみみたいなもんさ。あのな、俺の親父もあの工場で働いていたことがあったんだ」
「え? そうなんですか?」
「あぁ。20年ぐらい働いてな、別の仕事に変えたんだが、付き合いは残っててな。それで、高校卒業しててぶらぶらと働いてなかった俺を、あの工場にぶち込んだわけよ」
「ぶち込んだってそんな、刑務所みたいな」
「刑務所じゃない。動物園さ。そうじゃなきゃ精神病棟だ」
言いながら、金田が冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
「俺はなぁ、総一郎」
「はい」
「いつも、こんなんが俺の本当の人生か?って思ってる。お前、そういう感覚ってないか?」
「本当の人生?」
「あぁ。まるで、ここにいる自分が何かの間違いみたいに感じるんだ。すべてがまがい物みたいな。でもよぉ、いくら過去を考えてもよぉ。学校でろくに勉強しなかったのも、将来設計も立てずぶらぶらとして暮らしてたのも、今あの工場しか居場所がねぇのも、全部俺自身の選択なんだよな。俺が選択したはずなのに、何だか俺じゃないみたいなんだ」
僕は首を振った。
わかるような、わからないような気がした。
僕は金田の顔を見た。
頬がほのかに赤い。
そして、テーブルには数本の缶ビール。
僕が電話をした時点ですでに飲んでいたのだろう。
「それじゃ、どうやったら本当の自分になれるんですかね……」
僕の何気ないつぶやきに、金田が答えた。
「そりゃな、よくわかんねぇよ。でもよ、あの、マトリョーシカってあるだろ。名前あってるっけ? ほらあの、ロシアの入れ子状の人形よ」
「あぁ、ありますね」
「あれみたいによ、その。俺の『外側』を一つ剥いじまえばよ、中身が出てくるんじゃないかなってよ。そういう想像をすることがあるんだよ」
僕は缶ビールのプルタブを開け、一口飲んだ。
頭の中で、金田の外側の皮を一枚ずつ剥いでみた。
薄皮を一枚剥ぐごとに金田は涙を流して痛がり、やがて数枚剥いだ時点で、血にまみれた肉塊になって死んだ。
「総一郎」
「なんですか?」
「おかしな話をしちまったな」
「そんなことはないです」
僕は笑った。
「なんかわかりますよ、そういうの」
「そうか」
金田もつられたように笑った。
「それで、どういう撮影をしたいんだ?」
「これです」
僕は、持ってきた箱を取り出した。
「これは?」
「中には、こんな人形が入っています」
僕は、携帯でインターネットに繋がり、そこから、先日購入したボコのぬいぐるみの画像を取り出す。
箱をここで開けるつもりはなかった。
愛里寿に渡す大切なボコを、金田の薄汚れた手で触らせたくなかった。
それを触っていいのは、僕と愛里寿だけだ。
「これを、女の子にプレゼントする予定なんです。このぬいぐるみの中に、ビデオカメラを設置したいんです」
「へぇ……」
金田が僕を見据える。
「こりゃまた、大層なことだな。知り合いを狙うのか」
「いけません
か?」
「いいや。ただ、俺とは方向性が違うなと思っただけだ。俺は見知らぬ他人専門だからな」
「…………」
「そんな怖い顔をするなよ」
金田がすっくと立ち上がる。
飲み終わった缶ビールをもう一本机の上に置き、机の引き出しを開ける。
しばらくがさごそと何かを探しているかと思うと、一枚の紙切れを取り出した。
「これ、やるよ」
「これは?」
「俺が盗撮機材を買う時の仕入れ元だ。ここに連絡して、事情を話すといい。俺はそういう遠隔操作的な機材は持っていない。ここから買うことだな」
「……ありがとうございます」
僕は、じっとその紙切れを見つめた。
そこには、9桁の数字が書いてあった。