いつまでもボコだと思うなよ   作:忍者小僧

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32 記憶を取り戻した僕は

僕は深くため息をついた。

すべて思い出したからだ。

首を回すと少し音がした。

2年前の秋口ごろからずっと首が痛かった。

回すとごきごきと骨が動くような音が聞こえる。

歳をとったのだ。

あのころ……島田愛里寿に夢中になり、西住みほをボコボコにした日から、もう20年が経過している。

あれから、無理ばかりして生きてきたような気がする。

僕は時計を見た。

意外だが、5分も経っていなかった。

しかし、脳の処理速度というのはそういうものかもしれない。

自分の中に、自分の想像を超えた機関があるのが人間だ。

僕が一瞬、茫洋としたように見えたのだろう。

目の前の刑事が問いかけてきた。

 

「おい、あんた。大丈夫か?」

「あぁ、問題ないよ」

「そうかい」

 

僕が淡々と答えると、彼は再びこちらを小馬鹿にするような微笑みを取り戻した。

 

「んで、牧野さん。そのぬいぐるみを見てなんかわかったの?」

 

僕は彼の言葉に促され、手元を見た。

そこにはぼろぼろのボコのぬいぐるみがあった。

僕は小さく首を振った。

 

「いや、なんでもないんだ」

「なんでもないったぁなんだよ、その言い草はよぉ」

 

刑事が舌打ちを撃つ。

僕は眼を閉じた。

 

「言い方が悪かった。観念したってことだよ。確かに僕は犯罪者だ。これで2度目だ。前は女の子を一人ボコボコにした」

「ほぉ……」

 

目の前の刑事が目を見開いた。

それから嬉しそうにこちらに顔を近づけた。

 

「あんた、諦めるの早いねぇ。牧野さん。もっと粘るかと思ってたよ。弁護士呼んだりとかさ、心神喪失の記憶喪失装うとかね」

 

彼の言葉に、後ろ手の中年の刑事が眉を動かした。

彼はつづけた。

 

「ま、こっちは楽でいいわな。いまどき取調室でいたぶることもできん。ゲロせんヤツの相手しても面白くないんだわ」

「僕の方からも一つ聞いていいかな?」

「なんだ?」

「刑事さんさ、取調室で殴ったり蹴ったりするのが楽しくてその仕事に就いたの?」

「あぁん?」

 

目の前の刑事が僕を強く睨んだ。

 

「ふざけたこと言ってるとマジでぶっ殺すぞ、こら」

「単純に疑問に感じただけだよ」

「おぉ、テメェ。あんまマッポ舐めんなよ。あぁ?」

 

その時だ。

取調室の入り口の扉がノックされた。

もったいぶったような遠慮したような鈍いノックの音だった。

刑事たちが後ろを振り向いた。

 

「ちょっと待ってろ」

 

刑事が立ち上がる。

扉を開けると、向こうにいた別の男が頭を下げた。

彼は警官の制服を着ていた。

二人が何かをぼそぼそと話す。

時折、刑事が「あぁ? そりゃどういうことだ!」と怒鳴っているのが聞こえた。

後ろ手に立ったままだった中年の刑事が僕に問いかけてきた。

あの飛行機で出会っていた刑事だ。

静かな声だった。

 

「なぁ。あんた、本当に正気なのか?」

「たぶん」

 

僕は簡潔に答えた。

そう答える他になかった。

中年の刑事は考え込むように顎を撫でた。

 

「俺はあんたがおかしいと思っていたんだがなぁ」

「一枚岩じゃないですね」

「組織ってのはそういうもんなんだ」

「わかります」

「あんたさぁ」

「はい」

「自分をボコだと思い込んでたろ?」

「えぇ」

「そりゃまた、どうして?」

 

僕は少しうつむいた。

自分のことを深く掘り下げるのは少し息苦しかった。

 

「うまく言えないんですけど。……僕は20年前、女の子をボコボコにして。ブタ箱喰らって。そしたら再就職とか。困難で。しょうがないから、自営業でやり直そうって思ったんです。でも、実名報道されてたから。いろいろ、つらくて。気が付いたら、自分じゃなくてボコになってたというか」

 

僕は、いつの間にか、自分を呼ぶ他人の言葉を『ボコ』に置き換えていた。

僕を、『前科者』と呼ぶ声は、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。

僕を、『犯罪者』と呼ぶ声も、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。

僕を、『ワル』と呼ぶ声も、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。

そうして精神のバランスを保ってきた。

そうなんだ……と……思う。

 

「ふむ……」

 

中年刑事が顎を撫でた。

その時、大きな音を立てて、扉の向こうで話していた刑事が戻ってきた。

 

「おい、牧野」

 

彼はとげとげしい声で僕を呼んだ。

 

「釈放だ。あんた、不起訴だってよ」

「え?」

 

僕は驚いて彼を見た。

彼はいかにも不機嫌そうに口元を歪めていた。

 

「相手さんだよ」

「相手?」

「あんたが殴った相手さん。もういいんだってよ。示談成立ってわけだ」

 

彼は、ふざけやがって、と吐き捨てるように言った。

僕はわけがわからないまま、立ち上がった。

少し足元がふらついた。

疲労が蓄積していた。

僕は、刑事の言葉の意味を頭の中で咀嚼した。

不起訴。

相手側がもういいと言っている。

湯浅が?

どうすればいいのか分からず、ぼんやりと立っていると、中年の方の刑事が僕に言った。

 

「ぬいぐるみ。あんたのなんだから忘れないで」

 

僕は曖昧に頷いた。

書類にサインし、ぬいぐるみを手にとって、のたのたと歩いた。

警察署の入り口で湯浅が待っていた。

彼は、顔にいくつものガーゼを張り付けていた。

僕を見ると、微笑もうとしたらしかった。

 

「いやはや、牧野さん」

 

ややくぐもった声で、言葉を区切るように言った。

 

「えらい目に合いはりましたなぁ」

 

彼は目を細めた。

 

「まさかこんなことになるとは思ってもみませんでしたわ。いや何、警察をよんだんは俺じゃありまへんねん。俺はただただ気絶しとってな。ホテルのもんが勝手に呼んだんですわ」

「湯浅さん……」

「社長さんは、大事な大事な契約相手やさかい。怒らせてもうたんはこっちや。今回のことはお互い水に流しまひょ。これからもうまくやっていきましょうや。な」

 

彼は大げさな身振りで僕の肩をばしばしと叩いた。

 

「さて。いろいろついてもたケチを払いに行きましょか」

「え?」

「いややなぁ。飲み直しですがな。仲直りのしるし、させてもらいますわ」

 

続く

 

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