僕は深くため息をついた。
すべて思い出したからだ。
首を回すと少し音がした。
2年前の秋口ごろからずっと首が痛かった。
回すとごきごきと骨が動くような音が聞こえる。
歳をとったのだ。
あのころ……島田愛里寿に夢中になり、西住みほをボコボコにした日から、もう20年が経過している。
あれから、無理ばかりして生きてきたような気がする。
僕は時計を見た。
意外だが、5分も経っていなかった。
しかし、脳の処理速度というのはそういうものかもしれない。
自分の中に、自分の想像を超えた機関があるのが人間だ。
僕が一瞬、茫洋としたように見えたのだろう。
目の前の刑事が問いかけてきた。
「おい、あんた。大丈夫か?」
「あぁ、問題ないよ」
「そうかい」
僕が淡々と答えると、彼は再びこちらを小馬鹿にするような微笑みを取り戻した。
「んで、牧野さん。そのぬいぐるみを見てなんかわかったの?」
僕は彼の言葉に促され、手元を見た。
そこにはぼろぼろのボコのぬいぐるみがあった。
僕は小さく首を振った。
「いや、なんでもないんだ」
「なんでもないったぁなんだよ、その言い草はよぉ」
刑事が舌打ちを撃つ。
僕は眼を閉じた。
「言い方が悪かった。観念したってことだよ。確かに僕は犯罪者だ。これで2度目だ。前は女の子を一人ボコボコにした」
「ほぉ……」
目の前の刑事が目を見開いた。
それから嬉しそうにこちらに顔を近づけた。
「あんた、諦めるの早いねぇ。牧野さん。もっと粘るかと思ってたよ。弁護士呼んだりとかさ、心神喪失の記憶喪失装うとかね」
彼の言葉に、後ろ手の中年の刑事が眉を動かした。
彼はつづけた。
「ま、こっちは楽でいいわな。いまどき取調室でいたぶることもできん。ゲロせんヤツの相手しても面白くないんだわ」
「僕の方からも一つ聞いていいかな?」
「なんだ?」
「刑事さんさ、取調室で殴ったり蹴ったりするのが楽しくてその仕事に就いたの?」
「あぁん?」
目の前の刑事が僕を強く睨んだ。
「ふざけたこと言ってるとマジでぶっ殺すぞ、こら」
「単純に疑問に感じただけだよ」
「おぉ、テメェ。あんまマッポ舐めんなよ。あぁ?」
その時だ。
取調室の入り口の扉がノックされた。
もったいぶったような遠慮したような鈍いノックの音だった。
刑事たちが後ろを振り向いた。
「ちょっと待ってろ」
刑事が立ち上がる。
扉を開けると、向こうにいた別の男が頭を下げた。
彼は警官の制服を着ていた。
二人が何かをぼそぼそと話す。
時折、刑事が「あぁ? そりゃどういうことだ!」と怒鳴っているのが聞こえた。
後ろ手に立ったままだった中年の刑事が僕に問いかけてきた。
あの飛行機で出会っていた刑事だ。
静かな声だった。
「なぁ。あんた、本当に正気なのか?」
「たぶん」
僕は簡潔に答えた。
そう答える他になかった。
中年の刑事は考え込むように顎を撫でた。
「俺はあんたがおかしいと思っていたんだがなぁ」
「一枚岩じゃないですね」
「組織ってのはそういうもんなんだ」
「わかります」
「あんたさぁ」
「はい」
「自分をボコだと思い込んでたろ?」
「えぇ」
「そりゃまた、どうして?」
僕は少しうつむいた。
自分のことを深く掘り下げるのは少し息苦しかった。
「うまく言えないんですけど。……僕は20年前、女の子をボコボコにして。ブタ箱喰らって。そしたら再就職とか。困難で。しょうがないから、自営業でやり直そうって思ったんです。でも、実名報道されてたから。いろいろ、つらくて。気が付いたら、自分じゃなくてボコになってたというか」
僕は、いつの間にか、自分を呼ぶ他人の言葉を『ボコ』に置き換えていた。
僕を、『前科者』と呼ぶ声は、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。
僕を、『犯罪者』と呼ぶ声も、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。
僕を、『ワル』と呼ぶ声も、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。
そうして精神のバランスを保ってきた。
そうなんだ……と……思う。
「ふむ……」
中年刑事が顎を撫でた。
その時、大きな音を立てて、扉の向こうで話していた刑事が戻ってきた。
「おい、牧野」
彼はとげとげしい声で僕を呼んだ。
「釈放だ。あんた、不起訴だってよ」
「え?」
僕は驚いて彼を見た。
彼はいかにも不機嫌そうに口元を歪めていた。
「相手さんだよ」
「相手?」
「あんたが殴った相手さん。もういいんだってよ。示談成立ってわけだ」
彼は、ふざけやがって、と吐き捨てるように言った。
僕はわけがわからないまま、立ち上がった。
少し足元がふらついた。
疲労が蓄積していた。
僕は、刑事の言葉の意味を頭の中で咀嚼した。
不起訴。
相手側がもういいと言っている。
湯浅が?
どうすればいいのか分からず、ぼんやりと立っていると、中年の方の刑事が僕に言った。
「ぬいぐるみ。あんたのなんだから忘れないで」
僕は曖昧に頷いた。
書類にサインし、ぬいぐるみを手にとって、のたのたと歩いた。
警察署の入り口で湯浅が待っていた。
彼は、顔にいくつものガーゼを張り付けていた。
僕を見ると、微笑もうとしたらしかった。
「いやはや、牧野さん」
ややくぐもった声で、言葉を区切るように言った。
「えらい目に合いはりましたなぁ」
彼は目を細めた。
「まさかこんなことになるとは思ってもみませんでしたわ。いや何、警察をよんだんは俺じゃありまへんねん。俺はただただ気絶しとってな。ホテルのもんが勝手に呼んだんですわ」
「湯浅さん……」
「社長さんは、大事な大事な契約相手やさかい。怒らせてもうたんはこっちや。今回のことはお互い水に流しまひょ。これからもうまくやっていきましょうや。な」
彼は大げさな身振りで僕の肩をばしばしと叩いた。
「さて。いろいろついてもたケチを払いに行きましょか」
「え?」
「いややなぁ。飲み直しですがな。仲直りのしるし、させてもらいますわ」
続く