いつまでもボコだと思うなよ   作:忍者小僧

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34 ポイント・オブ・ノーリターン

いみじくも湯浅自身が言い放ったとおり、バー・シンシナティには誰もいない。

ゆえに今回は、目撃者のいない暴行だ。

過去の2回は僕自身、心神喪失に近い状態で現場から逃げ出そうともしなかったが、今度は違っていた。

妙に頭が晴れ渡っていた。

僕はカウンターの向こう側に移動し、手を洗った。

ついでに、体に血が飛び散っていないかも確認した。

シャツに多少の血痕があった。

湯浅の血だ。

左奥の倉庫に移動し、備品を点検する。

従業員用の白いシャツがあった。

平均的な体型のものだったので、着ることができた。

まずまずの状況だった。

バーカウンターに戻るとき、壁にかけてある『AVALON』のジャケットが再び目に入った。

今は、そこに描かれている海峡が、現実の場所ではないような気がした。

どこにもない海峡。

その場所にたどり着くと、もうどこへも行くことのできない陸の果て。

ポイント・オブ・ノーリターン。

僕は馬鹿らしくて頭をかいた。

そういえば、まだブライアン・フェリーが流れているのだろうか、と思って、ふと耳を澄ました。

すると、ピアノの音が耳をくすぐった。

クリアで流暢な音だった。

いかにもイギリスのロックらしいくぐもった太い音質のブライアン・フェリーとは全く異なっている。

いつの間にか次のアルバムに変わっていたのか?

いや……。

ちょっと待てよ……。

僕は頭を押さえた。

脳の深いところを揺さぶられるようだった。

当然だ。

今、この店に流れているのは、≪冷泉麻子が奏でるピアノ≫だった。

曲目はもちろん『Guess I’ll Hang My Tears Out To Dry』だ。

そんな馬鹿な。

僕は激しく頭を掻いた。

そんな馬鹿な。

ありえない。

たしかに、ピアノによるジャズはバーにはお似合いの音楽だ。

だが冷泉麻子はただの素人だ。

あの子はただのピアノが弾けるだけの疑似ロリータポルノ女優に過ぎないんだ。

あれは正規のジャズアルバムではない。

そんなものがここのアイポッドに入っているはずがない。

そうだ。

そんなわけがない……。

僕はきっと勘違いをしているんだ。

『Guess I’ll Hang My Tears Out To Dry』自体は、有名なスタンダード曲だ。

それをソロピアノで流麗に奏でているアルバムなんて、掃いて捨てるほどある。

きっと、たまたまアレンジが似ているだけだ。

どこかのプロの演奏だろう。

僕は深呼吸をした。

深呼吸をすれば、こんな気の迷いのような思い過ごしは消え去ると思った。

しかし駄目だった。

それは、いくら聞いても、あの冷泉麻子の演奏そのものだった。

スムースで、流れがよく、しかし癖がなさすぎる演奏。

ピアノの音が、奏でられた一音ずつ空中に消えて霧散していくようなとりとめのない演奏。

消えてしまうがゆえに、僕の体に染み込み、どうかしてしまうこの音。

 

「くそっ」

 

僕は叫び、バー・カウンターを乗り越えた。

キャッシャーのそばに立てかけられたアイポッドを手荒く掴む。

画面に表示されたタイトルを見ようとすると、画面が見えなかった。

それはのっぺらぼうだ。

僕は、目を凝らした。

何度も何度も目をこすった。

だが、何をどうしようとも、アイポッドの画面がよく見えなかった。

 

「なんなんだよ、畜生!」

 

僕はアイポッドの接続を引っこ抜き、それを思いっきり地面に叩き付けた。

鈍い音が聞こえた。

アイポッドはひび割れ、壊れた様子だった。

そのとき気が付いたのだが、音楽が止まっていた。

店内は、静寂に包まれていた。

ということは……あれは耳鳴りなどの類ではなく、アイポッドの収録されていた音楽なのか?

僕は自分の短絡的な行動を後悔した。

アイポッドを割ってしまったことにより、もはや確かめる術はなくなってしまった。

そもそも、アイポッドの接続を抜いた瞬間に音楽は止まったのか?

思い出せない。

どうすることもできなかった。

 

「くそっ! くそっ!」

 

恐怖のあまり、僕は地団駄を踏んだ。

怖かった。

僕は、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

何が何なのかわからない。

混乱している。

まるで迷宮にいるみたいだ。

僕は、いつからこんな迷路に踏み込んでしまったんだ?

もうずいぶんと前からのような気がする。

 

「うぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

再び頭を掻きむしった。

昨日から風呂にも入っていないためだろう。

ふけのようなものがはらはらと散った。

頭を掻きちぎり、指で脳みそに触れたかった。

自分の感情や感覚のおかしくなってしまったことを、そうやって直したかった。

だがいくら頭を掻いても、ふけが散るだけだ。

血が指先につくぐらいに掻き毟って、嘆息すると、視界に薄汚れたぬいぐるみが入った。

例のボコだった。

それを見た瞬間、急速に頭に血が上るのを感じた。

僕は言葉になりきらない獣じみた叫び声をあげ、そのボコを殴った。

小さなぬいぐるみは簡単に吹っ飛んだ。

僕はそれを拾い上げ、腕を持ち、思いっきり壁に叩き付けた。

ぬいぐるみが裂け、中綿が飛び散った。

多少の快感があった。

 

「さすがボコだ。殴られるのには向いているらしい」

 

僕は薄ら笑いを浮かべ、床に転がったボコを踏みつけた。

ぐりぐりと靴で踏みにじると、さらに中綿がはみ出した。

その様子を見ていて、一つ気が付いたことがあった。

 

このボコは、僕の改造ボコではないのではないだろうか?ということだ。

 

なぜなら、踏みにじられ、中綿がはみ出たそれの内部には、盗撮器も何も備えられていなかったからだ。

 




おそらく、次回最終回の予定でございます。
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