いつまでもボコだと思うなよ   作:忍者小僧

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書き終えましたが、およそ8000字を超えたので、分割します。残りはあとがきも添えて、今夜22時ごろまでに投稿します。


36 最終話① 運命の電話

受話器を置いた直後、後悔の念が襲った。

軽率だった。

いくつか可能性が考えられた。

相手は明らかに不信感をあらわにしていた。

それに電話に出るまでにかなり間があった。

見知らぬ番号からの電話に戸惑ったからではないのか。

次に、電話を切られるまで言葉一つ発することができなかった僕の行動。

せめて自分が何者か説明するべきだった。

そうすれば相手の反応も変わっていたかもしれない。

電話に出るのが伊丹老人だと勝手に思い込んで、とっさの反応ができなかった。

明らかな過失だった。

僕は、自分の周囲が壁で囲まれていくように感じた。

重要なカードを無駄遣いしてしまった。

次にどうすればいいのか、見当がつかなかった。

足元に転がっている湯浅を一瞥する。

死んではいない。

僕はとりあえずまだ、殺人者にはなっていない。

そのことに妙な安堵を覚えた。

バーの壁に備え付けられた時計を見た。

短い針がアラビア文字の4を指していた。

16時だ。

まずいかもしれない。

そろそろ、バーのマスターがやってきてもおかしくない。

僕は自分の胸元を見た。

着替えたので、血痕はついていない。

店を出るしかなかった。

鞄と電話番号の書かれた紙切れを持って扉を開けた。

階段を駆け下りる。

外に出ると、むっとした大気と強い日差しが僕を迎えた。

熱を含んだ湿度に頬をはたかれているようだった。

僕は手のひらで自分の頬を叩いた。

弱気になっている。

気合を入れなければならない。

僕は通りを抜けて、細い路地に入った。

 

 

 

路地に入ると、唐突に≪ジャック・ケルアック≫という単語が頭の中に浮かんだ。

どうしてだろう?と思うと、路地の片隅にそう書かれた看板が見える。

知らず知らずに目に入っていたのだろう。

何の店かはわからない。

だがおそらくはジャズ関連のライブハウスかレコード店だろう。

≪ケルアック≫は、若いころにジャズに夢中になった人間ならだれでも知っている名前だ。

それは、≪路地≫と同義語だ。

路地ではなく、≪≫で囲われた路地。

それは路地を象徴する記号であり、路地そのものではない。

そしてケルアックは、人名が、人物をはみ出して記号としての意味を持つ数少ない一例だ。

僕は看板に向けてウィンクする。

ウィンクを終えると、一目散に駅へと走り出した。

駅への道筋は大体覚えている。

昨日の深夜湯浅と歩いた時とは、少し様相が変わっている。

街というのは不思議だ。

夜と昼で全く違って見えることがある。

だがそんなことは気にしない。

記憶を頼りにずんずんと歩く。

駅に近い中心市街地に近づくほどに、道が広くなる。

都市計画道路というやつだ。

歩道が整えられ、コールタールからブロックタイルに変わっていく。

それと同時に、背の高いオフィスビルが増えてくる。

全面ガラス張りのひときわ高いビルは、まるで東京のオフィスビルディングと変わらない。

東京にはそんなビルが至る所にある。

違うのは、この街にはそんなビルが一つしかないというだけだ。

そのたった一つのこじゃれたビルディングの後ろに、古めかしい建築物があった。

ひび割れた淡いブルーのコンクリート(それは淡いブルーの色ゆえにカビが生えているかのように見える)のファサードに『郷土史図書館』の文字が見える。

 

「図書館ね……」

 

僕はつぶやいた。

そのまままっすぐに通りを進むと、小規模の公園に出た。

まだ日が落ちておらず、公園には木漏れ日が降りそそぎ快適そうに見えた。

僕はふらふらとそこへと向かった。

公園のベンチに腰掛ける。

見渡すと、公園にはほとんど人がいなかった。

平日の16時過ぎならそんなものかもしれない。

たった一人だけ、小学校低学年ぐらいのおさげ髪の女の子が私服で一輪車の練習をしていた。

遠目に見ても体躯が細くすらっとしていて、可愛い子だった。

デニム生地のミニスカートで一輪車に乗っているのでスカートがめくれ上がり、白い下着が露出していた。

だが僕はちっとも興奮を覚えなかった。

ただそこに少女がいる。

ただそれだけだった。

あの子供は、島田愛里寿でも冷泉麻子でもない。

僕を夢中にさせたりはしない。

この時になってようやく僕は、自分がロリコンではないことに気付いた。

先ほどの≪ジャック・ケルアック≫と同じだ。

僕はロリータに興奮していたのではない。

≪島田愛里寿≫および≪冷泉麻子≫に興奮していた。

彼女たちの存在は、彼女たち自身をはみ出してロリータの象徴だった。

だが、それは象徴ではあるのだが、ロリータそのものではない。

≪≫で閉じられたロリータは、ロリータそのものではないのだ。

なんだ、簡単なことじゃないか。

僕はなんだかうれしくなる。

僕を狂わせていた人生の謎が一つ、ほどけたような気分だ。

僕は笑い声をあげた。

それは実に久しぶりの笑いだ。

大人になったら、笑う機会などめったにやってこない。

ここで笑わないで、どこで笑えというのだろう。

ベンチに座り、一人笑いを漏らす僕を、一輪車の美少女が怪訝そうに見えていた。

僕が顔をあげると、彼女はどこかへ立ち去って行った。

ひとしきり笑い終えると、少し気持ちが落ち着いた。

僕はこれからすべきことを整理しなくてはならないと思った。

さて、今の状況は相当にこんがらがっている。

糸が縺れ、わだちは蛇行している。

僕はわけのわからない状況にいる。

とりわけ、僕には二つの問題がある。

 

1、湯浅を再びボコボコにしてしまったことについて

2、過去の出来事の整合性について

 

前者はある程度想像がつく。

もうすぐ、店を開けるためにマスターがバーにやってくるだろう。

その時に湯浅は発見されるはずだ。

だが、だからといって彼らはどうする?

警察に被害届けを出すだろうか?

その可能性は低い。

そもそも、先にこちらに殴りかかって来たのは湯浅のほうだ。

人知れず僕を殴るために無人の店まで用意している。

これこそまさに犯罪のはずだ。

店を利用して僕をはめようとした以上、バーのマスターも湯浅とグルだろう。

共謀的なことをして暴行を支援していることになる。

こんなグレーな案件を、自ら警察に連絡するだろうか?

僕なら連絡しない。

それに湯浅は「やられた分は自分でやり返す性分」だと言っていた。

今後、もしもありうるとすれば、僕に対する直接的な報復だろう。

仕事上の付き合いを通じて、僕の東京の住所は割れているので、報復自体はやろうと思えば何とでもできる。

手間暇さえ惜しまなければ。

それはもしかしたら、きっちりと筋の悪い連中を雇ったうえでの行動になるかもしれない。

いずれにせよ時間がかかる。

今すぐではないだろうし、湯浅がそこまでのことをする人間かどうかわからない。

泥沼になることが目に見えているからだ。

このまま泣き寝入りが関の山ではないだろうか。

となれば、今第一に考えるべき問題は後者の方だ。

僕が先日再会した島田愛里寿は何なのか。

ボコのぬいぐるみにはなぜ盗撮機が入っていなかったのか。

わからないことだらけだ。

僕は、こめかみを掻いた。

また悪い癖が出てきた。

イライラとすると、すぐにこめかみを掻く。

ここ数日ひっきりなしに掻いているせいで、皮が捲れ赤くなっている。

だが、掻くことをやめることができない。

 

どんなに考えても、ヒントも何もない。

誰かの手助けが必要なのは明白だった。

僕は、ポケットに入れていた、くしゃくしゃになった紙切れを取り出す。

やはり、これが蜘蛛の糸だった。

不思議な現象に対して、僕が質問を投げかけることができるのは、この番号しかない。

何とかして、もう一度この番号にコールを投げかけたい。

その時、ふと思い至った。

ちょっと待てよ、僕はバカか?

携帯電話があるじゃないか。

僕は、鞄から携帯電話を取り出す。

あまりにも気が動転していてこんな簡単な方法に思い至らなかった。

先ほどのバーの電話番号は、不審な番号として警戒されているだろう。

だが、僕の携帯電話なら、違う番号だ。

僕はもう一度だけ、やり直すチャンスを得たというわけだ。

深呼吸する。

そして、紙切れの番号をタップ。

今度は数コールで相手が出た。

 

「はい。もしもし」

 

それは鈴の鳴るような少女の声だった。

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