携帯の通話ボタンを押すと、取引先の工場長の声が聞こえた。
「ねぇ、うちで新しい機械を導入したんですよ。少し見に来ませんか? ちょっとした息抜きついでに、工場視察ということで。地元のおいしいものをお出ししますよ」
こういうお誘いは、時々あることだった。
僕の会社は、工場と販売会社の中継ぎ業だ。
工場の方から、自社の設備の売り込みが舞い込むことがある。
僕の会社が契約する工場の多くは、都心から離れた地方にある。
土地の値段や、環境の問題から仕方のないことだ。
その代わり、結果的に、視察に行くと、海の幸・山の幸と、地元料理に舌鼓を撃つことができる。
悪くない提案だな、と僕は思った。
確かに最近、疲れている。
たまには都会を離れるのもいいだろう。
「わかりました。視察に行かせていただきます」
そんなわけで、僕は飛行機に乗り、熊本に飛び立った。
飛行機の隣の席には、青白い顔をした中年が座っていた。
細身の今風のスーツを着ているが、痩せすぎているので、少し貧相に見える。
カルティエの時計が腕で光っていた。
金を持っているのだろうが、女にはモテないタイプだ。
中年が唐突に僕に話しかけた。
「出張ですか?」
「そうですね」
僕は気軽に答える。
「出張というほどのことでもないのですが、取引先の見学に行くのです」
「へぇ。それでは、会社か何かを率いておいでで?」
「どうしてそう思うんですか?」
「ああ、いえ。取引先があるとおっしゃるから」
「下っ端でも取引先に出向はしますよ」
「これは失敬」
中年が笑った。
「では、九州はよく行かれるのですか?」
「いえ、それほどには。例の取引先の関係で何度かは行っていますが、それだけです」
「そうですか」
「あなたは、よく行かれるのですか?」
「私はねぇ……。生まれが鹿児島でして」
「へぇ」
「親は止めたんですがね、どうしても都心に出てきたくて、高校を卒業してすぐに飛び出したんです。それ以来です」
僕は、中年に少し興味を抱いた。
「どうですか? 都心は?」
「息苦しいですね」
中年が答えた。
「足元を見ているとコンクリートばっかりで。気が滅入りますよ」
「そうですか」
僕と反対だなと思った。
僕にとっては、田舎の方が息苦しい。
それは、田舎というものが基本的に濃密な人間関係で出来上がっているからだ。
人間関係を支配・統括するボスがいて、異端は許されないのが田舎だ。
「僕はね、田舎は嫌なんです」
「ほぉ。なんでまた?」
「誰かに支配されたくないからですよ」
「そんな馬鹿な。都会こそ、時間や価値観に支配されている」
僕は首を振った。
「話になりませんね。僕たちはセンスが違う」
「センスじゃありませんよ。プライオリティを何に置くかの違いだ」
中年が食って掛かる言い方をしたので、僕は彼を睨みつけた。
痩せた中年の細い瞳が、アメーバのように歪んだ。
彼は笑ったのだった。
「まぁまぁ。そうカッカなさらず」
その時、飛行機がエア・ポケットに入った。
やや激しく、機体が揺さぶられた。
「おぉっと、危ない危ない。喧嘩両成敗って、天の神様が怒ってらっしゃる」
中年が呟いて、座席に深く身を預ける。
僕も、シートに深く体をうずめて目を閉じた。
そのうちに眠気がやってきた。
夢うつつで、中年の声を聴いたような気がした。
彼はまだ、僕に話しかけていたのだろうか。
「私はね、服の販売をしていたんです。東京で。服というものは、その人の体にフィットするべきものなんです。体を包み込むべきものなんです。けれども、あの街には、ファッションはあっても、本当の服を求めている人間がいなかった。みんな、その日その日の自分をどう見せるかということしか頭にないんです。そういう価値観しかインプットされないように出来上がってしまっている。それで私はまた、街を出たんです……そのあとは紆余曲折の人生を経ましてね、今は全く違う……」