工場長の誘いに、「女遊びか……」と少し憂鬱になった。
もともと人間でなかったからかもしれないが、あまり女遊びが得意ではない。
殊更につきあいのキャバクラなんてもってのほかだ。
僕の一番苦手なもののひとつだ。
しかも、いかにも洗練されていない、田舎のキャバレー?
頭が痛くなる。
僕は、骨休めのつもりで工場の視察に来たはずなのだ。
ゆったりと流れる空気の中で癒され、海の幸に舌鼓を打つはずだった。
それが、キャバクラだと。
いっそ断ってしまいたかったが、仕事の視察できている以上、そういうわけにもいかない。
『付き合い』というものは、人間社会で上手くやっていく上でかなりプライオリティが高い物事だ。
僕はこの数年間でそのことを学んでいた。
嫌なそぶりは押し隠し
「へぇ。それは良いなぁ。ぜひご紹介いただきたいですね」
と言った。
工場長は実にうれしそうに頷いた。
「そんじゃま、ちょいと焼き鳥でも食ってから、お姉ちゃんのお店へ繰り出しましょうか。18時ぐらいにホテルの前に集合でいかがです?」
「承知いたしました」
工場長は、自分の名前を湯浅と名乗った。
「これから一晩、仲良くやるんやさかい、ここはひとつ、俺お前の仲で行きましょうや」
そう言いながら僕の肩を叩く。
「その話し方……鹿児島の方ではないのですか?」
「はは。バレてもうたか。実は大阪出身ですねん。普段はできるだけ抑えてるんですがね。気軽な関係を築きたいと思ったら、ついつい故郷の言葉が顔を出しよる」
「へぇ……」
「もう長いこと九州やのに、なかなか抜けへんもんでなぁ。あ、そや。おもろい話ひとつしまひょか」
「なんですか?」
「自分の名前、湯浅や言いましたやろ」
「ええ」
「それがな、俺が生まれた町の駅前にも大きな電池工業がありましてん。湯浅電池。それやのに、社長さんとは何の関係もあらへん。俺は貧乏人の湯浅やったんですわ」
わはは、と下品に笑う。
僕は何一つ面白く感じられなかった。
お寒い限りだ。
だが、合わせないわけにもいくまい。
小さく唇の端で笑っておいた。
「ま、車に乗ってくださいや」
湯浅が自動車のドアを開ける。
僕はそれに乗り込んだ。
工場から駅前のホテルまでは、およそ1時間ほどかかった。
地方の小さな都市にありがちの駅前は、有り余った土地を利用した広い道路とタクシー乗り場・バス乗り場、そして地域の観光案内板があった。
だが、その広さに反して、ロータリーにはほとんど車はなかった。
観光案内版には、興味が引かれるようなものは何一つ書かれていなかった。
僕は湯浅と別れ、ホテルにチェックインを済ませると、鞄を部屋に置いて街に繰り出した。
18時まで、まだ時間があった。
僕は、出張先で、あまり知らない街を一人ぶらぶらすることが好きだった。
自分の知らない街に身を置いていると、自分が完全な他人になることができるような気がするからだ。
だが、もともとボコだった僕が今は、こうして人間という他者になっている。
それだけでも堯幸なはずなのに。
これ以上何になりたいのか。
わからない。
僕は自分の頬を叩いた。
そんなこと、どうでもいいじゃないか。
ふと目についた雑居ビルに吸い込まれるように入っていくと、そこは思ったよりも小奇麗なビルだった。
施工そのものは30年ほど昔のようだが、管理と整備が行き届いている。
案内を見ると、3階より上層はオフィスビル。
1階は小さな本屋とコンビニエンスストア、2階にはコーヒー屋が入っていた。
僕はエレベーターで2階にのぼり、コーヒーショップの入り口に掲げられたメニューを見た。
ブレンドが300円。
ドアガラス越しに覗いた店内は、静かで居心地が良さそうだった。
僕はそこで少し時間を潰すことにした。
「いらっしゃいませ」
年老いた老婆が、気の抜けた声を上げた。
「禁煙席はあるかい?」
僕が問いかけると、老婆は頷いた。
そして、弱々しい手つきで、窓際の席を指さした。
僕は、促されるまま窓際の席に座ると、カフェ・ラテを注文した。
ちょっとした気まぐれだった。
ホット・コーヒーを頼むつもりだったのだが、不意に口をついて、カフェ・ラテという言葉が出てきた。
やれやれ。
人生は気紛れだ。
だがそれも悪くはない。
僕はハットを取り、向かいの椅子に置くと、立ち上がりレジ脇に積んである新聞を取った。
老婆は恭しくお辞儀をして、奥に引っ込んでいった。
新聞を広げると、実にくだらないニュースが並んでいた。
どれもこれも、新聞が大げさに扱うから問題になるというだけのニュースだ。
世論を無理やりに作り上げようとしている。
だが、それがメディアというものだし、情報というものは、そういう性質のものだ。
それが新聞からインターネットに変わったところで、本質は同じだ。
誰かが騒ぎ立てる。
それが共有され、大勢が加わり争点化する。
その繰り返しだ。
そんなことを考えながらぼんやりとしていると、机の上にコーヒー・カップが置かれた。
老婆が、それを置いたところだった。
僕は小さく会釈して、そのカップを見た。
カップの中には、不恰好なハートマークが描かれていた。
ハートマークのできそこないのラテアート。
風邪を引いたか二日酔いのハートマークだ。
ぐにゃりと歪んでいる。
「わ、わわわ。おばあちゃん、それ、失敗作だから!」
と、厨房から声が聞こえた。
若い女の子が、コーヒーカップを持って、こちらに駆け込んでくる。
ボブの髪をした、かわいらしい少女だ。
「おや、そうだったのかい?」
老婆がとぼけたような声を上げる。
「そうだよ~」
苦笑いをしながら、女の子がこちらに頭を下げる。
そして、新しいカップを差し出した。
「お客様。申し訳ありません。お取替えさせていただいてよろしいですか?」
「あぁ。構わないよ」
僕は微笑ましくて笑いながら、古いカップを差し出した。
その時、女の子が呟いた。
「わっ。ボコだ!」
「え?」
「あ、す、すいません」
頭を下げる。
「あ、あの……つい」
まただ。
またボコだと指摘された。
僕が睨みつけたためだろう。
少女は、しゅんとした表情で僕を伺っている。
まるで小動物だ。
僕は頭を掻いた。
今更ボコと呼ばれることは不快だが、こんな少女をいじめたいわけではない。
「……よくわかったね、もともとがボコだったって」
「あ、あの。ボコの人って、なんか雰囲気が独特で。だからその、わかるっていうか。かっこよくて、私、ちょっと憧れてるんです」
少女は、西住みほと名乗った。
カッコいいとまで言われると、悪い気はしない。
僕は、仕方ないという風情に頷いた。
少女はうれしそうに、お盆を両手で抱えて微笑み、
「あの。ごゆっくりなさってください」
と言い、厨房へと戻っていった。
そのあと、めったに飲まないカフェ・ラテの不思議な甘さと格闘をしていると、視界の片隅に見覚えのある人物をとらえた。
島田愛里寿だった。
窓ガラス越しに見えるビルの外の歩道に、島田愛里寿がいた。
愛里寿は、歩道から、まさにこのビルに入っていった。
僕は立ち上がった。
「すまない。お代は机に置いておく!」
叫ぶと、立ち上がった。
急いで1階へと降りる。
だが、そこには誰もいなかった。
僕は頭を掻いて辺りを見回した。
本屋が目に付いた。
ここか?
本屋の中に入ると、元気のいい女の子の声が聞こえた。
「いらっしゃいませ~!」
カウンターに、茶色のウェーブがかった髪をした少女がいた。
それ以外には……誰もいない。
どういうことだ。
僕は、少女に問いかけた。
名札には、『武部』と書いてあった。
なかなか豊満な胸だ。
「あの、さっき、客が入ってこなかったかな? 小さな女の子なんだが」
「え? い、いえ。来ませんでしたけど……」
「くそっ!」
僕は店を飛び出した。
後ろで、カウンターの少女が、「なんなの一体。やだもー」と言っているのが聴こえたがそれどころではなかった。
夕刻が近づいた街には、にわかに人が増えていた。
愛里寿は見当たらない。
「探しましたよ」
唐突に、低い、いがらっぽい声が聞こえた。
振り替えると、湯浅がいた。
下品な笑みを浮かべて僕の後ろに立っていた。