ーーーーここで見張っていてくれればそれでいい。
混乱の中アイリスがかろうじて聞き取った言葉はこの一文であった。
アイリスは詳しく聞こうとしたが、カイはそれを伝えるや否やでその場を立ち去ってしまって結局聞けなかった。
「見張る・・・・・・?」
何をだろうか。
そもそも見張りが必要なのは自分ではないのか、と彼女は思う。
「・・・・・・」
取り敢えず与えられた仕事はこなそう、と彼女は辺りを見回した。
敵でも来るのか、それとも何か仕掛けられているのか。
真実は全くわからないものの、カイのあの慌てようから緊急の事であることは間違いなさそうだ。
「・・・・・・・・・・・・???」
しかし誰もいない、気配すらない。
ここにきて彼の意図は全く読めなくなっていた。
なにか重大なことが起きる訳でもなく、あるいはアイリスを陥れる罠ですらない。
ひたすら何も無いという、嫌がらせの類を連想しかねないこの状況はいったい何なのか、アイリスはひたすらに疑問符を頭に浮かべるばかりである。
そこでアイリスは思い返す。
彼が見張っていればいいと言ったときの、表情だ。
流石に多少は性格も理解しているから、あの顔は面倒事を押し付けるようなものだと理解できる。
ーーーーまあ、少なくとも何かはある。
そう思って周りをもう一度見回すと、やがて彼女は動きを止めた。
「・・・・・・あぁ」
彼女が納得したような声を漏らす。
別に状況を飲み込めたからではない。
何故自分が「見張り」をさせたのかという意図を理解したのと、見張る対象を見つけたからである。
「・・・・・・なにものだ、おまえ」
敵意、というよりは無垢なる警戒心と言うべきか。
それは確実にアイリスを捉えて放さず、少しばかりのむず痒い感覚を彼女にもたらしていた。
その視線を辿ると、やがてふっくらと健康的に膨らんだ童顔へと到達するだろう。
その次の瞬間には、穢れを知らない、誰が言っただろうかそんな台詞がまさしく一致するかのような整った顔立ちに、触れれば優しく包み込んでくれるかのように思わせてくれる軽そうな黒い髪が目に入ってくる。
彼女は、純粋無垢の化身とも言うべきその青い瞳で一点にアイリスを見つめているのだった。
「アイリスです、こんにちは」
そんな可愛らしい少女に思わず笑顔でアイリスはそう返した。
よく聞くと、その声色にほんの少しの驚きが混じっているのが分かる。
その驚きは、この少女の風貌によるものだ。
黒い髪に青い瞳、黒騎士の顔によく似ているのだ。
「くせもの!!」
笑顔が逆に警戒心を強めてしまったのだろうか、少女は依然強気な態度でもってアイリスをその手に持った剣で威嚇している。
剣といっても、よく見れば木製の玩具であったが。
「ふふっ・・・・・・あはははっ」
そんな子供のままごとが面白かったのかアイリスは口を片手で押さえながら笑った。
「な、なななっ、なにがおかしい!?」
少女は恐怖のあまり泣き出してしまいそうな顔をしていて、頑張ってひねり出したであろう声は裏返っていた。
その光景が最高におかしかったのだろう、アイリスは笑顔のまま頭を撫でた。
「やめろ、やや、やめろぅ・・・・・・」
少女は泣いてしまいそうだった、むしろ目尻に涙を浮かべているその姿は最早泣いているようにも見える。
必死に涙をこらえたせいでその顔は真っ赤に染まっていて余計におかしい、もとい面白い。
「こんな所で何をしているんですか?」
そんな光景に若干の癒やしを感じつつアイリスは少女に優しくそう尋ねた。
ちなみにアイリスの目尻にも涙が確認できるが、これは笑いをこらえた結果である。
「・・・・・・ぅ」
少女が何か呻きのような声を漏らしたのを確認しアイリスはその続き待った。
「ぅぅ」
「・・・・・・う?」
もう何か言った後なのではないか、そう思ってもう一度聞き直そうと彼女が首を傾げた時だった。
なにやら少女の様子がおかしい。
何というか、そう、龍が口から炎を吐き出す時のような・・・・・・、もしくは居合いの達人が抜刀すべく構えた時のような・・・・・・そんな動きだ。
アイリスがそれに気がついたのはそんな動作が一通り全てが終わった後であった。
「う、うぅ・・・・・・ぅぁ」
すなわち手遅れということである。
少女の目尻に凄まじい勢いで涙が溜まってゆく。
「・・・・・・・・・へっ?」
この後何が起こるかを察した彼女は慌てて・・・・・・慌てただけで何も出来なかった。
そんな経験など無いというのに、咄嗟に泣きそうな幼子をあやしてみせろと求めるのは少しばかり酷な話というやつであろう。
「うわあああああああああああぁぁああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!!!!!!」
まさしく堰を切ったように少女は号泣し、ベルキア全土に響かんかというほどの大爆音の泣き声が空を切り裂いていった。
アイリスはこの時耳を塞いだようだが、この圧倒的騒音を前に魔女の鼓膜など紙屑も同然であった。
嵐が過ぎ去ったのはほんの数分の後だ。
耳をふさいでいたアイリスは、安全を確認した後に手をそっと放して泣いていた少女の方を見る。
顔は涙でくしゃくしゃに歪んでいて先程の整った顔とは真反対で、なんとも泥臭い表情だ。
彼女は再び顔を向けられてまた泣き出しそうになったので、放そうとしていた手をまた耳に戻す。
「ひぐ・・・・・・ぇぐ・・・・・・」
少女が再び泣き出す寸前、その時だ。
そこでアイリスは、とあることに思い至る。
ああ、自分は怪しい人なのだと。
「ご、ごめんなさい、大丈夫、大丈夫・・・・・・ですから!」
思い至った彼女は、そっと少女に近づき抱き締めてみせた。
出来るだけ優しく、出来るだけ強く、抱き締めた。
「ぅぁ・・・・・・?」
先程の号泣で泣き疲れてしまっているのか、少女は特に抵抗もしなかった。
「怖かった・・・・・・ですよね、恐ろしかったですよね・・・・・・びっくりさせてごめんなさい」
「ぅぐ・・・・・・ぅぅぁ」
抱きしめられた少女は、結局また泣いてしまった。
ただし先ほどの絶叫とともにくる恐怖の号泣ではなかった。
それは、嗚咽を漏らして不安を吐き出すような泣き方であった。
当然といえば当然だろう。
彼女はきっとカイに会いに来たのだろうから。
いるはずの人物がいなくて、いないはずの知らない人物が立っていたのだから。
「よしよし、大丈夫ですよ、私が守りますからね」
頭を撫でて、アイリスは彼女を抱きしめ続る。
子供は悪意に敏感、とブロッサムが言っていたことをふと思い出す。
そういうときは抱きしめてやれば大体なんとかできてしまうというのが女の特権であると、そんなことを彼女は言っていたのだった。
まさか、適当極まりない彼女からの助言が役に立つとは・・・・・・。
そんな少し失礼な事を考えながらも少女を抱きしめ続けた。
「ぅ・・・・・・ぅ・・・・・・」
抱きしめていた少女の動きが止まる。
大方泣き疲れて眠ってしまったというところだろう。
閉じた瞼に残っている涙を見ると、不思議とどこか切なさを感じさせる。
「・・・・・・・・・」
そんな静かに寝息を立てる少女の頭を、黙って優しくなでるアイリス。
その表情には思わずこぼれてしまったであろう、ささやかな笑顔で満ちていた。
「おお、流石子供が懐くのも早いな」
そんな静かな空間を楽しんでいた矢先、ある意味での諸悪の根元が再びアイリスの目前に現れた。
なにが流石なのだろうか、と彼女は思う。
「カイさん、どうしてこれを私に任せたんですか?」
そう言われて彼は、何故か言葉に詰まった。
客観的に見ればはっきり言って非常に怪しく、キョロキョロとせずに真っ直ぐアイリスを見つめる様はむしろ挙動不審と言うべきだろう。
なにやら言い訳を考えている様子のカイ、彼はやがてこう言った。
「今日は忙しくて、な」
「私とこの子を鉢合わせるのに、ですか」
「ああ、いや」
「だってそうじゃないですか、急にヴァンさんたちに差し入れしようって言ったこととか、差し入れたら狙ったようにお酒を振る舞ったりすることとか、どう考えてもわざとですよね」
反論の余地を与えぬように、絶え間なく論を並べるアイリス。
「どうなんですか」
彼女は最後に強くそう言った。
当のカイ本人は特に動揺することなく澄ました表情だった。
「どうなんですか、なんて言われてもな」
あくまでとぼけた態度をとっているようだ。
そんな彼をアイリスは黙って見つめていた。
それは、分かっているから観念して吐けと脅すような目つきであった。
しばらくの沈黙の後、仕方がないと最初に折れたのはカイの方であった。
「はぁ・・・・・・わかった、吐く、吐けばいいんだろう」
そう言って彼はこの状況に至る説明を始めた。
要点を言えばたった一つだ。
最近、悪戯の頻度が高まりすぎて手に負えなくなってきたので、アイリスにはどんな反応をするのか試してみたかった、あわよくば不審者への恐怖で少しでも大人しくなってくれれば、とのことだった。
「・・・・・・何ですかその適当な理由は」
真顔のまま彼女はそう言った。
腑に落ちないどころか全くカイの言い分を信じていない様子である。
「ほ、本当にこれだけの理由だ、ぞ?」
先程からアイリスを視線から一切外さないことに全神経を集中させていたカイが、ついに目を逸らした。
タイミングとしては最悪も最悪、先ほどの話は全てが嘘でしたと言っているようなものだろう。
「じー・・・・・・」
対して、視線を外された当の本人は目を細めて怪しむように彼を見つめていた。
何かを言いたげな様子にも見えるが、どちらかといえば真実を吐けと再び脅しをかけているようにも見える。
「うぐ・・・・・・」
一方カイはアイリスの痛い視線をのらりくらりとかわしながら、その上で視線は逸らしたままだった。
彼の騎士としての負けず嫌いもあるが、一度視線を外してしまった手前、そう簡単には視線を戻すことは出来ないようである。
「ぐぬぬぬ・・・・・・」
「ふぎぎ・・・・・・」
そんな何の意味もない視線の鍔迫り合いを数分繰り広げていると、アイリスの膝元の少女が「んん・・・・・・」と呻き声をもらしたのが聞こえてきた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人して少女を凝視。
その心の根本には「まずい、起きる」などといった危機感があったというのは言うまでもない。
依然として安らかな寝息が木々を揺らす風と共にこの場を包んでいる。
どうやらまだ起こしてしまわなかったようであった。
そんな確認を取れたしばらく後、アイリスはとりあえずの疑問をカイに対してぶつけてみることにした。
「それで、誰なんですかこの子」
ぶつけられた彼も、特に言い渋ることもなく口を開いた。
「うむ、俺の娘でないのはわかってるだろう?」
「はあ、まあ確かに」
その特徴的な髪と目は、カイの持つそれとは一致しないので特に驚くことでもなかった。
しかし、似ているといえば、とても、いや非常にこの少女に似た男を彼女は知っている。
まさか、まさかとアイリスは思う。
「ヴァンの娘だ」
「!!?」
彼女は思わず後ろに飛び退いてしまいそうな勢いでカイの方へ振り向いた。
さながら悪戯を見つけられた子供のようでなかなか面白い反応だと彼は思ったことだろう。
「娘、ですか」
あらためて少女を見て、彼女はその親であるヴァンを連想しようと試みる。
どうあっても驚きを隠せないといった様子だった。
見たところは3歳か4歳ほどの幼い顔立ち、よもやそんな小さな子供がいたとは。
「・・・・・・うーん」
しかし、普段の重々しい姿からはちっとも父親の姿など想像できはしなかった。