ベルキア騎士の朝は早い。
それは朝の自主的な修練から始まり、昼の合同演習へとつながり、夜遅くまで激しく血を塗り重ねて稽古に励む。
あいた時間には剣と魔法のことだけを考え、死ぬまで戦いに従事する。
などということは別にない、騎士は意外と暇なのだ。
朝は8時までずっと寝ているし、日々の鍛錬とて慣れてしまえば死を覚悟するようなものでもない、昼過ぎに聞き耳を立てれば騎士達の楽しげな話を聞くことができるのも、別に珍しいことでもない。
そんな穏やかな朝、アイリスが少女と鉢合わせになるよりも、少しばかり前の話だ。
足音を殺してヴァンの元へ駆け寄る一つの黒い影があった。
整った顔立ちや、やたら慎重な足捌き、あらゆる動作のどれもが暗殺者を連想させる。
無垢なその姿は、あるいは欠けや汚れのない研ぎ澄まされた刃物のようだ。
巧みにベッド前の荒れたタンス、衣類、書類、それら障害物を足音もたてずに回避。
そして姿勢を低く保ったまま急速に黒騎士へ接近。
この間3秒、我ながら上手い動きだと、自惚れた自慢げな表情は薄暗い部屋でもはっきり分かる。
窓が開いているらしく、朝の清々しさを部屋中に伝えるように鳥たちが歌っているのがよく聞こえる。
「ふん、ふふん」
なんだか楽しくなって、ベッド下の少女もつられて歌い出す。
声は幼い少女のものだった。
「わわ」
いけない、起こしてしまう、と少女は口をおさえて歌を止める。
風でカーテンが開いて、朝日の眩しさに目を細める。
照らし出されたのは、やはり幼い子供の姿だ。
不敵に輝くのは黒騎士のものとよく似た青色の瞳、爛々と朝日を反射するさらさらの黒い髪の毛、人形のように精巧な顔立ちはその少女の幼さをよりいっそう際だたせているかのようだ。
無防備に眠るヴァンの目前にそんな少女の影が落ちる。
「じー・・・・・・」
注意深くヴァンを見ていたが、彼がまだ寝ていることに気づくと表情を緩ませた。
少女は至って笑顔であった。
「ふふっ・・・・・・とうさまだ」
別に何をする訳でもない、ただ寝顔を見て嬉しそうに微笑んでいる。
すると不意に後ろから足音が聞こえてきた。
見れば、いや少女からは見えないが、カイという騎士の姿があった。
「おいクロエ、起こすなよ? コイツまだ疲れが抜けきってないんだからな」
ひそひそと、扉の向こうで声が聞こえる。
クロエ、と呼ばれた少女の顔が露骨に曇る。
しばらくは彼女も無視を決め込んでいたが、カイはあまりにもしつこく注意勧告をしてきたために、少女は心底嫌そうな顔をして、振り向いた。
それこそ、玩具を親に奪われた子供のような不機嫌ぶりである。
「ふん、それぐらいはわかってるぞ!」
苛立ちからか、つい大声になってしまったようだ。
「うるさい、分かってないじゃあないか」
などと、カイが頭ごなしに否定をするからか、少女はむしろムキになってさらに、分かってる!と余計に声量を上げて言い返してしまった。
ーーーーしまった。
少女は恐る恐る振り返ってみる。
「・・・・・・」
少女は、出来るだけ物音を立てないように気をつけながらいろんな角度で観察し、その様子を探る。
どうやらヴァンはまだ起きていない、眠りが深いようだった。
「ふぅ・・・・・・」
安堵の溜め息をつき、少女はカイの方へと向き直る。
「おいカイ、とうさまがおきたらどうするつもりだ」
先程からそうだが、少女はその見た目には全く不釣り合いな口調でカイを責めた。
見た目のせいで全く威圧感はなく、背伸びをした子供、と彼の目には映っているに違いない。
「そもそもなんでオマエまでここにいるんだ・・・・・・?」
顎に手をあてて考え始める少女。
やがて一つの考えに至り、顔を青くして目の前の男を凝視した。
「まっ、まさか、オマエ、とうさまのねこみを・・・・・・」
「襲うかッ!」
あまりの突拍子にカイは思わず声が裏返ってしまったようだ。
つい、声を抑えるのを忘れたため、その失態を誤魔化すようにわざとらしく咳払いをていた。
「朝飯が出来たから呼びに来たんだよ」
さらにその咳払いのわざとらしさを誤魔化すべく話を始めたのだった。
「とうさまをか?」
「お前をだクロエ、ヴァンはまだ寝かしとけ」
寝かせておけ。
そういわれた少女は、どこか不満げに父の姿を見やる。
「なぁ、カイ」
「どうした」
カイに向き直り、少女は口を開く。
言語はもう十分に操れるというのに彼女の口の動きはどうもたどたどしい。
「とうさまが、おきるまで待っちゃだめか?」
カイに話す少女の様子はどこか諦めのあるような暗い調子だった。
「ダメだ、飯が冷めるぞ」
子供にだって分かる嘘の言い訳であった。
彼は別に、少女をぞんざいに扱いたいわけではないのだろう。
そんなことは彼女とて知っているし分かっている。
露骨に少女へ視線を合わせないカイの様子が、それを証明しているのだから。
「・・・・・・わかった」
それが解っているから、彼女は何も言わずに彼について行くのだ。
やはり、どこか寂しそうに。
彼女はクロエ。
黒騎士ヴァンの娘である。
朝食を終えると、クロエはいつものように家の掃除を始めた。
というのも、ヴァンもカイも日中の殆どを外で過ごしており、事実上ではこの家は彼女のモノと言えるからである。
手始めに、まずは窓の近くに干してある雑巾を手にとりあたりを見回した。
「うーむ・・・・・・」
軽く見る限りでは汚れなどなく、部屋はいたって清潔であった。
しかしながら、そこは自称掃除の達人たるクロエである。
彼女はそっと窓の溝を確認し始めた。
こんな所はまず掃除などしない、何故ならば見た目の清潔さにほぼ一切関わらないからである。
「ふふ・・・・・・わたしからにげられると思うなよー」
実に嬉しそうな表情であった。
こんな場所を掃除するのは自己満足の領域ではある。
が、極端に汚れている箇所を綺麗にするとたとえ仕事が雑でも大きな事をやってのけた気分になるものである。
「・・・・・・綺麗だな、まるで掃除する場所がないぞ」
そして大きな気分になった後はその感覚が嘘であれば嘘であるほどに後々虚しい思いをすることになるのだ。
クロエの心境はまさしくそれだった。
「・・・・・・」
しなくてはならないことも無ければ、やりたいことも分からない。
彼女は部屋で一人であった。
「うむ」
おもむろに剣の玩具を手に取る。
そして即座に縦方向に一振り、二振り。
ヴァンの剣を模したものだろうか。
その刀身はやたらと黒く、剣先を見れば玩具の分際でなんとも立派な金属光沢を醸し出しているのが見える。
そんな重厚なみてくれからは、いかに玩具と言えど作りはしっかりしているのが伺える。
「・・・・・・ふんっ、はあっ」
縦、横、縦、横。
つかみ所のない子供の心は実に単純な軌道で振り回されていた。
「せやっ、とぉっ!」
風切り音が部屋中に鳴り響く。
立ち回りを変え、振るう姿勢を変え、緩急をつけながら架空の敵をズタズタに引き裂いてゆく。
だがそれは数回降ったところで止んでしまった。
自分以外誰もいない部屋で、誰に言われるわけでもなく、何か理由があるわけでもなく、ただ剣を振るうその姿。
虚しい、とそう思ったことだろう。
気がつけば彼女は外へと駆け出していった。
意味もなく、とはいえこれまで意味があって行動したことなど一度もないのであるが、クロエは門の近くへと向かっていた。
彼女は門の近くにはカイが居るということを知っている。
恐らく悪戯でも仕掛けて気を紛らわそうという魂胆であろう。
拙い脚で危なっかしく、砂利の上を、石で舗装された道の上を、暴力的にその数を増やした雑草達の上を駆け抜けてゆく。
「はあ、はあ、はあ・・・・・・・」
やがて少女は門の前へと辿り着く。
しかしそこにいたのは、カイでも、ましてやヴァンですらなかった。
この世のものとは到底思えない白いオーラを纏う女がそこにはいた。
異質、彼女が味わったのはまさしくそんな異物感である。
間違いなくこの国の人間ではない、と彼女は思った。
「な・・・・・・な・・・・・・」
声が上手く出ない。
外部の人間に滅多なことでは関わらない生活を続けてきたために、当然こういった国外の人間と触れ合った経験も、ましてや敵対した経験もない。
「・・・・・・なにものだ、おまえ」
辛うじて絞り出した言葉は、酷く震えていた。
「アイリスです、こんにちは」
そういって少女の目の前にいる魔女は手を差し伸べた、それも笑顔で。
ただの気のいい女性だと、子供ならそう思うに違いない。
「・・・・・・!? くせもの!!」
しかしクロエはそこに魔女を見た。
彼女、アイリスの纏う白いオーラが突如として激しく揺らめいたのだ。
思わず少女はその手で魔女を弾いた。
その次の瞬間、腰に身につけた剣に手をかけ一息に抜刀した。
依然として彼女に纏う奇妙な白色の魔女はうっすらと笑みを浮かべている。
「ふふっ・・・・・・あはははっ」
アイリスが唐突に笑い出す。
その笑い声はただでさえ不安定なクロエの心を切り崩すのに十分な破壊力を持っていた。
不安はよりいっそう強くなる。
しかし同時に彼女は思う、ここで折れてはいけないと。
「な、なななっ、なにがおかしい!?」
絞り出した勇気はあまりにもか細いものだった。
その光景に全く動じずに、あろうことかアイリスはその妖しげな手でクロエに触れたのだった。
もうどうにもならない、と少女は結局されるがままの自分の無力に涙する。
もっとも、その得体の知れない魔女のオーラは、クロエに触れた時点で消えているのだが彼女はそれに気づく余裕などなかった。
「う、うぅ・・・・・・」
涙が止まらない。
この爆発の止め方を、クロエは知らない。
自分の口から出ている音だというのに、どこか自分のものではないような違和感に襲われて、その感覚への恐怖で涙を重ねていった。
怖い、怖い、そう怖いのだ。
何が怖いのか、そんなことは彼女にだって解りはしない。
ただ怖い、溢れてくる感情が、止まらない涙が、目の前の不可解が、ただ怖かったのだ。
少女は自分が闇の中へと引きずり込まれる感覚を味わった。
だから叫んだ、みっともない位に泣き喚いた。
しかし止まらない、全く止まらなかった。
「大丈夫、大丈夫ですから」
目の前の白い女は、何を思ったのかクロエを抱きしめていた。
痛いほどに、苦しいほどに。
その感覚は、不思議とクロエの涙を押さえつけていった。
「・・・・・・ぅぁ?」
理解出来なかったことだろう、あれだけ止まる気配見せなかった自分の涙が、単なる抱擁で止まったのだから。
「ぅぅぅぁ・・・・・・っ」
クロエは、自分の心が落ち着くのを感じた。
暴れていた感情は、どういうことかその理性を取り戻しつつあった。
まるで長年の間求め続けてきたもののような、妙な懐かしさを感じたのだ。
「怖かった・・・・・・ですよね、恐ろしかったですよね・・・・・・」
そんなクロエの頭を、アイリスは優しく撫でた。
もう落ち着いているのに、暖かい気持ちであるのに、少女はもうたまらなくなっていたのだった。
「・・・・・・っ」
だから彼女は黙って押し殺すようにアイリスぼ胸元に顔をうずめた。
その後、自分が泣いたのだとクロエが気付いたのは次の朝に目が覚めてからだった。