むー   作:溶けた氷砂糖

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Hell,Yeah!

「がっ……!」

 

 身体に走る初めての衝撃。脳髄が命の危機を懸命に訴えかける。シナプスが弾けそうな熱を持つ。長門に振り回されたことなど比較にもならない、明白な死が映し出される。焼けた地面でも、果てしない青空でもない、ただ何処までも沈んでいきそうな深く青く黒い海。意識を落としてしまえば二度と浮かんでくることはない。そんな気がして必死に唇を噛んだ。

 手に力が入らない。クロスボウを取り落とした。楔を失ったそれは重力に引っ張られて、水しぶきを上げて沈んでいく。それが見えない紐によって回収されるのを項垂れて眺めていた。

 

「大鳳さん、大破ですね」

 

 笑顔を絶やさないのは弓を構えた赤城。肩に装備した飛行甲板に零式艦上戦闘機52型と九七艦上攻撃機が一機ずつ戻っていく。弓を下ろし、余裕綽々といった様子で大鳳に手を差し伸べる。

 赤城に被害は皆無。()()()()()()()()()()大鳳を大破まで追い込んでいた。大鳳は三十機以上を発艦させたというのに、たった一機の零戦で制空権を奪い、たった一機の雷撃機で撃破したのだ。実力の差があることは分かっていたが、まさかここまでとは思いもしなかった。幾ら相手が英雄だとはいえ同じ空母。一太刀浴びせるくらいは出来るものだと信じていた。それが、赤子の手をひねるように倒された。

 赤城に捕まって、よろけつつも立ち上がる。印象は変わらない、柔らかな、戦いとは無縁にすら思える手のひら。それが反対に自分と赤城との間に途方も無い差を感じさせた。どうあがいても敵わない、途方も無い、崖が立ちはだかっている。

 

「まだまだ新入りなんだから少しくらい手加減してやっても良いだろうに」

 

 一対一の勝負を傍から眺めていた長門が苦笑いを浮かべる。艦載機の数を考えれば、本気の欠片も出していなかった筈だ。赤城も頬を膨らませて反論する。

 

「私は十分手加減しましたー。長門さんの教育が悪いんじゃないですかー?」

「ほう?」

 

 長門の眉がピクリと動く。

 

「随分とでかい口を叩くものだな。希望だなんだと褒めそやされて慢心しているのではないか?」

「私が、慢心ですって?」

 

 売り言葉に買い言葉。お互い本気で言っているわけではないのだろうが、逆鱗を撫で回すような言葉の応酬に二人の間の空気がぞわりと背筋を震えさせるものに変わっていく。

 

「どうやら長門さんにも指導が必要なようですね」

「たわけ。私はお前より長く戦っているんだぞ。指導するのはこちら側だ」

 

 悪態をつき、距離を取る。

 

「大鳳。お前は疲れただろうし離れていろ。艦娘の戦いというものがどういうものか見せてやる」

「というか邪魔ですね。巻き込まれますよ」

 

 二人の言葉が発する圧に呑まれ、意識をどうにか繋ぎ止めていた大鳳は、こくこくと頷いて震えながら離れる。遠くからでも空気が歪んで見える。息が苦しい。これは単なる錯覚だろうか。冷たいものが流れる。落ち着かなければと、荒い呼吸を整えようとする。深く息を吐く。頭がちかちかする。衝撃はとうに過ぎていったはずなのに、死が脳裏に焼き付いて離れない。目を閉じて、心を静める。やっとのことで、高鳴った鼓動が落ち着きを見せ始めていた。

 

 同時に何処かで興奮していた。

 

 武器も持たず楽々と深海棲艦相手に立ち回る長門、ほとんど一歩も動かないまま大鳳を圧倒した赤城。二人の実力は桁数を数えることも烏滸がましい。夜空に浮かぶ星の大きさを比べているようなものだ。

 そんな底の知れない二人が、今、本気で戦おうとしているのだ。軍艦として、戦いを求める存在としてこれ以上のショーはなかなか無い。

 

「行きますよ」

 

 二人の動きが止まる。五十メートル程離れた位置。演習を開始する笛が鳴る。

 

 先に動いたのはなんと長門だった。フルスロットルで前進し主砲を構える。赤城が矢を番えるよりも早く撃つ。航空戦などさせはしない。艦隊戦のセオリーを無視した先制攻撃。

 

 虚を突かれたはずの赤城は、しかし焦らない。上半身はまるで砲弾など気にしないかのように弓を構え続ける。当たる未来を見据えるかのように、その眼差しは遠くへ、遥か遠くへと。

 

 そして脚部艤装による素早い転舵で体勢を崩さないまま横へ避ける。艦娘だからこそ出来る、人間らしい動き。言葉にすると簡単そうに思えるが、艦隊戦の記憶が染み込んでいる艦娘には意外と難しい。そうでなくとも急激な方向転換は慣性に引き摺られる自殺行為だ。神経を注がなければならない行動を同時にやってのける、赤城の実力を窺わせる。

 

 さも当たり前のように。全くブレない芯の強さは、速やかな反撃の狼煙を上げる。

 

「一航戦の誇り、見せてあげましょう」

 

 発艦。

 

 弓返しで勢いを増し、一直線に放たれた矢は光に包まれ姿を変える。九七式艦攻が一機、二機、三機と立て続けにプロペラを回す。それから発射された魚雷が尾を引いて長門へと向かっていく。続いて零戦52型も空を飛ぶ。本来戦艦である長門に戦闘機を飛ばしたところでたいした効果は無いはず。そう、長門が普通の艦娘であったならば。

 

 水面を飛ぶ。緩急と転舵を使い分け、実際の大地よりも軽やかに動く。赤城よりもしなやかで力強い動きだ。陣形を組んでいたのならばともかく、一人、それも無数の深海棲艦相手に無傷でやり合う長門にとって見え見えの、魚雷など脅威にもならない。

 ゆえに、長門の意識は上へと向いた。

 

 手に掴んだのは石礫。駆逐艦の装甲を撃ち抜いた自然の弾丸を、今度は対空砲として用いようというのだ。熟練の艦戦は無論、デタラメな対空攻撃など容易に回避する。しかし優勢までは取れても制圧することが出来ない。

 何の変哲もない石ころが、万能の兵器であるようにすら思えた。どれだけ多くの修羅場をくぐり抜けたとして、そんなもので戦おうなどと考えるのは目の前の長門くらいだろうに。本当に目を向けるべきは恐るべき使い手であるのに。

 

 さらに、長門が攻撃するのは上空だけではない。艦戦を飛ばした理由。それは次の一手であろう急降下爆撃、即ち彗星を落とさせないためだ。ならば、そもそも撃たせなければ良い。赤城自身には目もくれず、当てずっぽうに副砲を撃つ。水しぶきが上がり、赤城に二の矢を継がせないために牽制する。

 足元の魚雷を回避し、上空の戦闘機に反撃し、眼前の本体を牽制する。三つの工程を同時にこなしながら、長門は次の手を打つために機関を回し続ける。

 

 近づかせてはならない。赤城もそれは分かっている。空母が近距離では戦いにくい、そんな話をしているのではない。

 

 長門が砲を使わない戦い方を熟知しているように、歴戦の勇士である赤城もたかだか近づかれたくらいで崩れる程やわな存在ではない。それこそ戦艦レ級が相手だろうと、軽くいなして見せただろう。

 ただ、長門の剛力が怖いのだ。付き合いの長い戦友であるからこそ、その危険性が痛いほど理解できる。リ級の装甲を握り潰す握力だ。赤城の艤装などボロ雑巾と相違ない。

 

 手の届く範囲まで、そこまで来られたらどうしようもない。だから意地でも近づかせてはならない。

 しかし、接近を止めることはできない。回転の早い副砲の弾着が赤城に余裕を与えないのだ。正確な発艦は、強力な艦載機の具現化に繋がる。撃つだけなら問題無いが、長門を相手にするだけの威力は見込めない。苦し紛れに撃ち出した艦載機も礫によってその場に張り付けられる

 

「っらあああ!」

 

 既に後数歩で届く距離、攻めあぐねている間に長門はそこまで近づいてきていた。ゼロ距離射撃と表しても問題の無い距離。このまま主砲を放てば先ず当たるだろう。

 

 勝負ありだ、と大鳳は思った。このまま長門が砲撃をして終わり。レベルの高さに比べれば何ともあっけない幕引きだと。

 

 だが、轟音は響かない。長門の拳は固く握られたまま、大きく振りかぶられた。殴る。艦としてあるまじき行為。長門が最も信頼している攻撃。悟ったのか、或いは元から確信していたのか。ともかく、あの距離ですら赤城には当たらないと知っていたのだ。

 

 二人の視線が交錯する。そして気付く。()()()()()()()()()()と。これは演習。何をしたって沈むことはない。そんなことは分かっている。だからこそ全力で殺しに行けるのだから。心配が無いからこそ容赦を捨てられるのだから。

 赤城の口元が緩む。ああ、そうだ。こんな戦いを望んでいた。やはり深海棲艦との戦いでは足りない。長門くらいの相手でなくては、この緊張感は感じられまい。

 

 旭は彼女のことを演習馬鹿と言った。確かに、第六泊地に来たときはいつも長門と演習をしている。だが、彼女の本質はそこではない。

 

 死を感じろ、死を感じさせろ。錨を上げろ、砲火を上げろ、悲鳴を上げろ、嬌声を上げろ。涙の出るような闘争をもっと克明に、もっと鮮やかに。命を賭けて踊れ。死ぬまで踊れ、殺すまで殺せ。

 普段の大人しげな彼女はそこには居ない。限界まで口角を吊り上げて笑う悪鬼が彼女の本性。天性の戦闘狂(バトルジャンキー)

 

────つまるところ、彼女達は似たもの同士なのだ。

 

 もはや一歩の隙間すら存在しない。長門が拳に全身全霊を込めた。

 

 その胸元に鏃が当たる。

 

「なッ……!?」

 

 指が弦から離れる。素手による攻撃すら先読みしていた赤城によるゼロ距離発艦。具現化された52型が長門の鳩尾に突き刺さった。魚雷も爆薬も積んではいない。それは、赤城が自身への被害を最小限に抑えようとしたがゆえの選択だろう。物騒なものを積まなくても、急所を貫く艦載機の質量は相手を揺らがせるのに十分────のはずだった。

 

 頭が揺れる。衝撃が旋毛からつま先まで稲妻のように駆け抜けた。ぼやけた視界に長門の姿が映る。

 レシプロ機が一つぶつかった程度では長門は揺るがなかった。小破しながらも、勢いそのままに放たれた拳が赤城の顎を打ち抜き、数メートル後方へ吹き飛ばす。副砲よりも、主砲の砲撃よりも大きな水柱が生まれた。しかし、まだ終わっていない。長門は主砲の照準を飛沫に隠れた赤城に合わせる。

 

 予想外? 上等だ。

 

 長門もまた笑っていた。丙かと思えば乙へ、乙かと思えば甲へ。想像通りに行かないのが現実だ。いつもいつも最悪の想定をして、そのもう一つ下を行くのか戦争だ。

 ()()()()()力でねじ伏せることに意味がある。足掻け、裏を掻いてみろ。その全てを蹂躙してやる。

 アバラに響く衝撃が、むしろ威力を増大させた。躊躇うことはない。これは戦争だ。やり過ぎなことなどあるものか。

 

 そこに垣間見えるのは、けして大鳳と居た頃には見せなかった狂気。兵器としての必然。艦娘としての異常。自身を殺してでも敵を殺そうという覚悟。戦果のみを求める狂戦士(バーサーカー)

 

 大鳳は自分の体が震えていることに気がついた。武者震いか。とんでもない。怯えているのだ。純粋なまでの狂気に畏怖しているのだ。死にたがりとも思えるほどの殺意は、はたして彼女達がおかしいだけなのか。それとも、いつかは自分もこうなってしまうのか。

 

 自分と長門や赤城の間には大きな大きな隔たりがあると思っていたが、それは大きな間違いだった。距離で測れるものではない。崖なんて生易しいものではない。

 

 住んでいる世界が違う。色彩を反転させたかのように、自分と彼女達では見ている景色が全く異なっているのだ。赤い林檎は彼女達にとっては青いのかもしれない。もしくはその反対なのか。常識だと思っていた自分の中の全てが崩れていく。

 理解していた。この二人に追い着くには、自分を捨てるしかない。自分を失うということは今の自分で無くなるということ。当たり前だが、受け入れ難い事実であった。

 

 主砲の音が雷鳴の如く鳴り響く。いくら赤城でも立て直す暇はなかっただろう。長門渾身の追撃は確かに赤城の飛行甲板を貫いた。

 

「慢心、しましたね」

 

 煙の中で赤城が笑う。傷だらけの姿とは裏腹に、勝利を確信した笑み。

 大破した艤装では艦載機を飛ばす事はできない。艦載機が飛ばせなければ空母に脅威などはない。ならば、その笑いは何を意味しているのか。

 

「まさか!」

 

 弓は折れている。もう引くことはできない。では、矢は何処へ行った。赤城であれば、もう一本、苦し紛れに矢を放つことは出来たはずだ。嫌な予感が長門の心を揺らす。

 

 空を見る、太陽に重なる黒い点が、異様な速度で大きくなる。レシプロ機。

 彗星による急降下爆撃。撃ち落とす余裕は無い。長門は全力で水面を蹴った。

 

 光り、水上が黒く染まる。続けて爆音が大鳳の鼓膜を破れそうな程に揺らした。吹き荒ぶ風に目も開けなくなる。長門がどうなったのか。一刻も早く確かめたいというのに、叩きつける衝撃がそれを許さない。

 

 全てが晴れた後、残っていたのはどちらもぼろぼろになった艦娘の姿だった。

 

「私は轟沈、そちらは……大破ですか。久々に負けてしまいましたね」

「後輩の前で無様な真似は晒せんよ。だがまあ、慢心していたのは私の方だったか。最後のあれにはすぐに気付くべきだった」

「私としては会心の置きだったんですけどねえ」

「お前が笑わなければ気付かなかったかもな」

「あー、私も慢心してましたかー」

 

 演習の状態だったこともあって、目の前で二人の姿が始まる前に戻っていく。戦いの中で見せていた獣の如き狂暴さも影を潜め、そこに居るのは晴れ晴れとした顔の親友同士だ。

 

「ああそうだ。大鳳」

 

 ひとしきり健闘を称え合ってから、長門は立ち竦んでいる大鳳に声をかける。

 

「これが艦娘の戦いって奴だ。参考になったか?」

「参考になるわけっ、ないっ、じゃないですかぁー!」

 

 思わず叫んでしまった。赤城がガーン、と擬音でもつきそうな、ショックを受けた表情になる。

 

「ええ!? 私達真面目にやりましたよ」

「真面目過ぎますよ! なんですかアレ!? アレが艦娘の普通なんですか!?」

「いや、ある程度鍛えればあの位はな」

「嘘だっ!?」

 

 到底追いつけそうにもなく、自分には才能が無いのかと頭を抱える。実際には赤城と長門の実力が飛び抜けているのもまた事実なのだが、残念なことにそれを指摘してくれる一般的な艦娘はここには居ない。大鳳の不運ここに極まれり。

 

 余りに気を落としている大鳳が不憫に思えたのか赤城も慰めるような声で丸くなった背中を撫でる。

 

「ほら、私も艦載機の扱い方とか教えてあげますから、ね」

「うう……そしたら赤城さんみたいに強くなれますかね」

「な、なれますよ! きっと、いや絶対!」

「そうだな。なってもらわないと困る」

 

 いっそ恐ろしい程の清々しい笑顔で長門が言い放つ。

 

「こいつを全力でしごいてやってくれ」

 

 

「なーにやってんのアレ?」

 

 双眼鏡で覗いた先、零戦に追い掛けられて必死に逃げ惑う大鳳の姿が見える。演習の特性上、傷付いてもすぐに修復されてはいるが、猫が死ぬくらいの命はとうに無くしたと考えても良いだろう。軽い気持ちで演習馬鹿(赤城)とやり合ったのが運の尽きだ。

 

「うーん、赤城が大鳳ちゃんに稽古つけてあげてるって感じかな」

「いじめじゃなくて?」

「いじめようとしていじめる子じゃないのは知ってるでしょ」

 

 結果としていじめになってるかもしれないけどね、と弥勒が他人事のように呟く。

 

 遠くからは悲鳴が聞こえ、何処か楽しそうな赤城の喝と笑いっぱなしの長門の声がする。事情を知らぬ人からすれば、いたいけな少女を大人二人でいたぶって遊んでるようにしか見えないだろう。それぐらい酷い。

 

「問題があるならやめさせるけど」

「うんにゃ、さっさと一人前になってもらわないと困る。それに」

「うん?」

「散々資源食い漁りやがって、いい気味だ」

 

 旭がくつくつと笑う。彼女の中では資源を勝手に消費されることが何よりも腹立たしい出来事のようだ。

 

「前から思うけど、清々しいまでの屑だよね」

「お褒めに預かり恐悦至極」

「あっ、これ話聞いてねえ」

 

 言葉が届いていないことを悟り、弥勒も口を閉じる。そして、轟音姦しい三人娘を眺める。

 

「大和さんに武蔵さん。その次はやっぱり長門だろうな」

 

 横須賀鎮守府の第一泊地(大本営)に所属する超弩級戦艦。現在の最高保持戦力とも言えるのが、大和、武蔵の二人だ。しかし、彼女達は横須賀という大きなハンデを背負い、さらには自身の燃費のせいで主力とするにはもはや手遅れだ。代わりに最強の戦艦として名が上がるのは長門、そして伊勢。その内、伊勢は意識不明の重体。

 もし、何か大きな作戦を起こすことがあるのなら、旗艦に選ばれるのは長門でもはや間違いないだろう。

 

 指揮官としての目を開く。事実上最高の戦艦、疑うことなく最強の空母。その両方から教えを受ける最新鋭の装甲空母。希望の光と旗印に上げるには十分な明るさだ。佐世保だけで大規模作戦を決行できる。

 

(それを、君は分かっているのだろうか)

 

 横目で双眼鏡を構えた旭を盗み見る。彼女がぼんくらでないことなど分かっている。解放作戦の槍玉に挙げられる可能性くらい承知しているはずだ。それを、僻地を装って隠れようとしている。敗北主義にすら取れる行為。

 

 得体が知れないのはお互い様である。

 

「なんか言った?」

「いや、今度来るときは監査かなって」

「アタシが何をしたって言うんだよ」

 

 旭が露骨に嫌な顔をする。

 

「叩けば埃がぼろぼろ出てきそうだけどね」

「それはてめえの方だろうが」

「何のことだがさっぱり分からないな。血眼になって探したって台所にゴキブリが出るくらいだよ」

「さっさと殺虫剤かけろ馬鹿。虫けら生かしておいたって害悪しかねえ」

「これが中々泳がす分には都合が良い」

「虫じゃなくて魚じゃねえか」

「どっちでもいいよそんなこと」

 

 双眼鏡を下ろす。腕時計の針は五時を少し過ぎていた。

 

(最後には殺すんだから)

 

 開きかけた口は音を出すことなく揺れて閉じた。

 

 

「ふー、やっと帰った帰った」

「大鳳なんか、最後には悲鳴を上げる気力すら無くなっていたな」

「本当に……疲れました。いじめですよもう」

「艦娘なんてそんなもんだろ」

「偏見ですっ」

 

 弥勒と赤城が夜の船で帰っていき、ようやく一息つく旭達。唯一冷房器具が存在する執務室で旭は椅子の背もたれに全身を傾け、大鳳も足を床に、顎をパイプ椅子に乗せて座っている。長門だけは壁に寄りかかっているが、全く疲れがない、ということもないだろう。

 

「そうそう、そういえば今日面白いことがあってな」

「面白い?」

 

 長門が急に口を開く。旭は怪訝な顔つきで長門を見た。面白くないことばかりの今日に、そんな笑えるようなことなどあるのだろうか。

 

「大鳳がな」

「え? あっ、長門さん待っ」

「お前のこと男だと勘違いしていたらしいぞ」

「はあ?」

 

 なんだそんなことか、と旭は思った。初対面で男に間違えられるなどよくある事だ。もちろん気分は良くないが、自分でも女らしくないという自覚はあるので仕方が無いとも思う。

 

「それも今日指摘されるまで」

「にぇああああ!?」

「ちょっと待った!?」

 

 流石に予想外だったようだ。

 

「こいつ来てからもう三週間経ってるよね? 何、その間ずっとアタシ男だと思われてたの!?」

「そういうことだな、くくく……」

「笑い事じゃない! 衝撃的過ぎるわ!? どんだけアホなんだよコイツ!?」

「私のせいじゃあーりーまーせーん! 男みたいなことばっかしてる提督が悪いんですー!」

 

 アホという言葉にカチンときたのか大鳳も怒鳴り返す。しかし、体勢が体勢だけに説得力が無いし、相手はあの旭である。

 

「誰が男だボケェ! こちとら一度も男らしさなんか意識したことないわ!」

「女らしさだって意識したことないでしょ! 胸も無いし!」

「てめえが言うなこのツルペタ娘ェ!」

「私には未来がありますぅ! 夢も希望も無い三十路のおばさんとは大違いですぅ!」

「だーれが三十路だこのクソガキ! アタシはまだ二十八だ」

「あっとにっねん! あっとにっねん!」

「上等だ表出ろォ!」

 

 疲れ過ぎでテンションがおかしくなったのか、奇声をあげて取っ組み合いを始める二人。巻き込まれないよう、長門は部屋の隅に移動する。さりげなくパイプ椅子を確保している辺りはビックセブンの実力がなせる技か。逆座りして、大鳳が旭にぶん投げられるのを頬杖をついて眺めながら、大きくため息を吐いた。

 

「いちいち気にせんでも、仲良くやれてるじゃないか。何を恐れることがある」

 

 言葉にしてから気付く。恐れているのは私も同じか。

 

「陸奥……お前がいてくれればなあ」

 

 知らずのうちに巾着袋の中身を握りしめた。

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