「やっと帰ってこれたな」
冬の寒さが微かに残る3月の上旬の早朝、
多くの観光客やビジネスマンのごった返す国際空港の前にて、
まだまだ冷たい風に短く切り揃えた髪とくたびれたバンダナをなびかせながら、
薄汚れたスニーカーに継ぎ接ぎのあるズボン、
前を空けて袖まくりしたジャンバーに甲の部分が露出した指貫グローブと言ったいでたちで、
少年『織斑 一夏』が手荷物の使い古されたズタ袋を傍らに置き、
数年ぶりに足を踏み入れた故郷の空気を懐かしんでいた。
「日本の空気を吸うのも久しぶり……それにしてもまだまだ寒いな」
一夏は帰国子女である。
諸事情により1年と数ヶ月前……学年にして中学2年の中頃に日本を離れ、
2~3ヶ月単位で北半球と南半球を跨ぎつつ各国を転々としていた。
そしてつい3日前、最後の滞在地であるベネズエラを後に日本へと帰国してきたのであった。
赤道直下の常夏の国であった為、
春先であっても向こうは暑いぐらいの気温である。
常に太陽が差し込んで温度の高い国から四季の概念がある日本に戻ってくれば、
ベネズエラではむしろ暑苦しいぐらいであった
長ズボンに薄手のジャンバーと言う服装では少々寒い。
だが上腕部まで上げているジャンバーの袖を戻すわけでもなく、
露出した腕を擦りながら小刻みに震えた。
「……まあ、ある程度冷えるのは分かりきってた事だし、そんな事よりも」
一夏は懐から折りたたんだ紙を取り出すと、一夏は紙に書かれていた内容に軽く目を通す。
それは総合格闘技を専門に扱い、これまでに数多くの
世界チャンピオンを輩出した名門ジム『藍越』の入門希望者を募るパンフレットであった。
記載内容はジムである建物と現役の格闘技のチャンプである屈強な男のツーショットを中心に、
ジムに所属する訓練生のコメント、ジムまでのアクセスルート、住所、
電話番号、「俺達と共に世界を目指そう」と言った煽り文句など。
「ぐずぐずしてたら入門テストが始まっちまうな……えっと、バスの行き先は」
そしてお目当てのバスターミナルを探すべく、
傍らに置いていたズタ袋を肩に担いでその場を後にした。
齢にして若干15歳と言う若さの彼が、件のジムへの
入門テストを受ける目的で足を進める……織斑 一夏はプロの格闘家を志す少年であった。
機動武闘伝Iストラトス
第1話「ISを動かせる男 少年格闘家、織斑 一夏」 前編
織斑 一夏はいたいけな子供だった。 家庭的に恵まれていなかった事を除けば。
物心付く前に両親は蒸発し、親代わりとなって
面倒を見てくれていたのは9つ離れた文武両道の実の姉『織斑 千冬』であった。
幼い彼が自信を無くして挫けそうになった時、
何時も彼の側には姉がいて、時には厳しく叱咤し、時には優しく見守り、
強い意志を持った姉の加護の元、一夏少年は健やかに成長した。
そんな彼が格闘家を目指すようになったのは小学生の頃、
とある武術大会にて瞬く間にその名を世界に轟かせた姉に憧れての事だった。
圧倒的な強さで他の選手を圧倒し、尚且つ自らの才能を
鼻に掛けることのない立ち振る舞いは、幼い一夏の心に火をつけるには十分であった。
尤もその頃は今のように明確なプロ意識があったわけでもなく、
子供ながらにヒーローに憧れると言った感覚のものでしかなかった。
しかし、中学校に進学し2年目の中学生生活を迎えたある日、
とある事件をきっかけに一夏の中で大きな変革を迎える事になった。
普通の中学生のように毎日学校に通い学友と共に授業を受け、
部活動に明け暮れるような充実した生活を捨て、
有数の実力者にして世界中から引く手数多である姉に付き添い、
学校に通う事無く世界各国を共に飛び回りあらゆる武術を修めようとしたのであった。
弟には普通の人生を歩んで欲しいと思っていた姉にしてみれば勿論反対した。
しかし普段は姉の意思を尊重していた一夏が真剣な眼差しで食い下がると、
姉もそれを了承せざる終えなくなり、それを切欠に一夏は
住み慣れた日本を離れ、格闘家としての人生を本格的に歩み始めることになった。
そして2年近く経った今日、一夏はかねてから目指していたプロの総合格闘家になるべく、
祖国を第2の人生の出発点として帰国、
名門ジムである『藍越』の入門テストを受ける為に目的地を目指していたのだが……。
「道に迷った……」
そう呟いてため息をつく一夏。
鉄の塊がうなり声と排気ガスを撒き散らしながら縦横無尽に走り去り、
渋滞寸前の交通量を観測するコンクリートジャングルの真っ只中、
一夏は先程の空港以上に人々の往来の激しい歩道にて立ち往生し途方にくれていた。
彼の呟く通り目的地へのルートが分からなくなった為である。
バスに乗った所までは合っていた。 最寄の路線については
パンフレットに書いてあったルートを参考にしながら進んだので間違えようがない。
だが降りた駅がまずかった。 目的地の最寄り駅である場所から
3駅も離れた駅で下車してしまった為、行き先がまるで分からなくなってしまっていたのだ。
尤も彼自身そんな場所で降りるつもりはなかったのだが、
バスが渋滞に巻き込まれてしまった為に、
クラクションの鳴り響く中待ちきれなくなった一夏がついその場で降りてしまっていたのだった。
「知らない駅で降りたりするんじゃなかったな……参ったな」
ちなみに一夏が乗っていたバスは、ご丁寧に彼が降りてから僅か数分後に渋滞が緩和された為、
何事もなかったかのように通常運行に戻っている。
こんな事なら渋滞のじれったさなど我慢しておけば良かったと思うが、後悔先に立たずである。
「まあ……なんだ」
やってしまったことは仕方がない。
落ち込んだところで今すぐに目的地にいける訳ではないので、
実にあっさりと気持ちを切り替えると
兎に角現在位置を確認する為周辺の地図が記載されている案内板を探そうと、
不注意にも辺りを見渡しながら人ごみの中をうろついた。
「あっ!」
「うおっ!」
そして当然の結果と言うべきか、余所見が原因で道行く人に肩をぶつけてしまう一夏。
一般人同士なら軽い接触で済む所が、なまじ体を鍛え抜いている一夏から接触してしまった為、
相手はぶつかった衝撃でバランスを崩してしまう。
だが一夏は接触した相手がこける前に素早く上半身を反らしてぶつかった反対側の肩に手を回すと、
腰をわずかに踏ん張らせながら片腕で抱きかかえるように、
ぶつけた相手が転倒しないように体を支えた。
そして支える腕越しに伝わる華奢ながらもしなやかな体躯、
胸元のやわらかな感触、どうやらぶつかった相手は女性のようだった。
「ご、ごめん! 大丈夫か!?」
「い、いや……私の方こそ不注意だった」
自分の不注意を素直に謝罪する一夏。
だが相手の方も一夏を咎めるつもりはなく、むしろ自分も不注意であった旨を伝える。
一夏は己の腕で支えられながら前のめりになっている女性の方に目線をやると、
「……あれ?」
視界には自身にとって見覚えのある姿が飛び込んできた。
顔立ち良し、スタイルよし、腰元までに伸びたポニーテールである黒髪の美少女、
見た感じ自身とそう変わらないであろうどこか幼さの残る成長途中のその姿。
記憶とは主に体格が異なるが、一夏にとってはそれでも懐かしい顔ぶれであった。
「ひょっとして箒か?」
一夏の問いかけに箒と呼ばれた女性……もとい少女は一夏の方を振り向くと、
「……いち、か……?」
一夏の顔を見るなり驚き呆気に取られたような表情になった。
間違いない、彼女はかつての幼馴染の少女だった。
一夏の記憶の中に、篠ノ之 箒と言う少女がいる。
かつて織斑家の近所にある神社兼剣術の道場の2人娘の妹であり、
彼女自身も実家に伝わる篠ノ之流なる剣術を学んでいた。
幼い頃から武術について並々ならぬ興味があった一夏とは家族ぐるみの付き合いであり、
同じ小学校に通う同級生であると共に彼女の道場にも足を運んだりしていた。
そう言った関係もあってか、剣術にしろ体術にしろ、
一夏から見てみれば箒は良き練習相手であり好敵手でもあった。
だが2人が小学4年生になって間もないある日の事、
箒は家族と共に突然一夏の前から姿を消した。 理由は転校した為。
どうして転校したのか姉の千冬に問いただしてみたが、
姉は何も言わず困惑する一夏に手紙だけを差し出した。
それは箒が一夏へと宛てた書き置きの手紙であった。
一夏との別れを嫌がる箒の気持ちが切実に綴られた、
文字は所々震えて何か水滴が落ちたかのようにしわよった……
恐らくは涙を流していたであろう痕跡が残されていた。
この手紙を残した時、彼女がどんな心情で筆を取っていたかは
幼い一夏でも痛いほどに理解できた。
そしてこの手紙を最後に、一夏と箒は音信不通となったのだが――――――
「まさかこんな所で出会うとは思わなかったな」
「そ、それはこっちの台詞だ」
一度下車したバス停にて一夏と箒は、自身を含めて7~8人は並んでいる
列の先頭にて次のバスを待ちながら、6年ぶりの再会を素直に喜んでいた。
全くの偶然とは言え、
連絡を取りたくとも取れなかった相手とばったり会えばさぞかし話題も弾むだろう。
「それにしてもだな……一夏は今まで何をやっていたのだ?」
「ああ、2年ほど前から武者修行として海外を飛び回ってて、
つい先程日本の土を踏んだばかりなんだよ」
「武者修行……? その間学校はどうしてた?」
箒の問いかけに頭をかきながら困った表情をする一夏。
「諸外国をひっきりなしに飛び回ってたんだ……言うまでもないだろ」
どことなくかったるそうな雰囲気さえ感じられる一夏の返答に、
箒は少しばかり呆れる思いであった。
昔一緒に小学校に通っていた頃から一夏はこの調子であった。
別に日頃から授業をボイコットするような
不真面目な生徒ではなかったが、姉の千冬に触発されてからと言うものの
ひたすら武術を修める事に明け暮れ、盲目的と表現しても
差し支えのないその時の勢いは、同じく武術を、特に剣道を習っていた箒さえも圧倒していた。
一度興味を持つと猪突猛進とも言える一途さをもって物事に取り組む、
それが箒の知る一夏の良い所でもあり、そして悪い所でもあった。
「まあ……元気そうで何よりだ」
「おう、格闘家は体が資本だからな!」
そう言って一夏は箒に右腕を突き出すと、
腕を曲げて上腕部に力を入れ、得意気な表情で自慢の筋肉を強調する。
古傷だらけだが、ステロイド等で不自然に増やした
見た目だけの筋肉とは異なり、薄らと脂肪の乗った適度に引き締まった腕部。
摂生を怠らぬ地道な日々の積み重ねによって鍛え上げられていった
天然自然の賜物、格闘家のみならず一人の人間として理想型とも言えるものであった。
「それに……逞しくて、かっこいいぞ……」
地道な努力を今ここで自慢げに語りかねない一夏を横目に、
つい聞き逃してしまいそうな小さな声で呟く箒の目線はどこか熱っぽさを含んでいた。
よく見ると、頬の部分も気持ち赤みがかっている。
「何か言ったか箒?」
しかし当の一夏はそんな箒の様子に気づく事は無い。
「な、何でもないぞ! それよりも何故一夏は携帯電話を持っていないのだ!」
箒は慌てた様子で片手に担いでいた鞄から携帯電話を取り出して一夏に突きつける。
色こそ女性向けを連想させるような淡いピンク色であるが、
女性によくありがちな大量のストラップやシール類等といったアクセサリはつけられていない。
着飾る事に全く興味が無い訳ではないが、
かといって必要以上に取り付ければ邪魔なだけなので敢えてつけていない、
見た目よりも使い勝手を優先した結果である。
そんな箒の携帯電話を一瞥すると、
「壊れた」
「……は?」
一夏は実にあっさりと携帯電話を破損させた事を箒に言う。 箒は思わず素っ頓狂な声を上げた。
別に一夏自身、情報化社会である現代において
小型端末を兼ねた携帯電話の必要性を理解していない訳ではない。
ただ、一夏は過去に数度携帯電話を入手し、
そのいずれも1ヶ月も経たない内に貴金属のゴミに変えてしまっていただけなのだ。
経緯はこうだ。
1機目、中学時代新聞配達等のバイトでこつこつ溜めて買った中折れ式の真っ黒な電話。
買ったその日に道行く不良に因縁を吹っかけられ返り討ちにするも、
暴れてる最中にうっかり地面に落として踏みつけてしまい、
一度も通話する事無くお亡くなりに。
慰謝料として幾許か相手の財布から抜き取るも、もう2度と携帯は買うまいと拗ねる。
2機目、諸事情により姉の千冬と共に海外留学と言う名の武者修行の旅に。
携帯電話への未練を捨てきれなかった一夏は、最初の目的地である
ドイツにてこっそり日本語を含む多国籍言語対応の携帯電話を買う。
が、道中巻き起こっていたデモに巻き込まれてまたもや破損。
姉が様子を見に来るまで周囲のデモ隊相手に大乱闘。
姉にも派手に暴れ過ぎた事を咎められ、
踏んだり蹴ったりの一夏は再び携帯電話を買わない決意をする。
3機目、ドイツでの滞在後、用事の為現地を離れられない
姉と別れズタ袋片手に一人で海外を放浪する事に。
次の目的地であるイギリスにて再び携帯電話を
買いたい衝動に駆られ、旅費の一部を用いて購入。
だが偶々乗っていた地下鉄にて、
ある自分と年齢のそう変わらないであろう金髪ロールの少女に痴漢と間違えられ、
駅員や他の乗客数名を巻き込んでの揉み合いに、
携帯はその際地下鉄の線路内に落としてしまい、破損。
4機目、先述の騒ぎもあってわずか1週間でイギリスを離れ向かった先はフランス。
既に4機目になりそうな空気であるが、今度は壊すまいと
機能を犠牲にする代わりに少々頑丈な携帯電話を購入。
が、近くで携帯電話の電池が切れて困っている女の子を見つけ、
可愛い子は親切にしろの精神で買ったばかりの携帯電話を貸してしまう。
後日返してもらうと住所まで教えてもらったにもかかわらず、
その翌日に行われた軍事パレードに気を持っていかれ、
貸した携帯電話の事などすっかり忘れたまま
フランスを離れてしまい、国際線の機内にて盛大に後悔する。
5機目、その後、一夏は中国に少林寺拳法を学ぶ為訪れていた。
そして今度こそはと再び旅費の一部から、
ちょっと素性は怪しいが一応正規の認証が通っている廉価な携帯電話を購入。
が、あいも変わらず自転車大国である中国の道路をなめきっていた一夏は、
無謀にも大通りを横切ろうとしたばかりに自転車の大群に巻き込まれる。
往来を激しく行き来する自転車全てを回避するも、
最後に歩道に飛び出した際にポケットに入れていた
携帯電話が飛び出して地面に叩きつけられる。
直後携帯電話は爆発、外枠や基盤の破片と液晶の中身や半田を撒き散らした。
安物買いの銭失いを痛感した一夏は、
兎に角騒ぎに巻き込まれまいとそそくさとその場を後にする。
以上の理由により、一夏はまともに携帯電話を持ち歩く事はなくなった。
でなければこの交通量が多く、しかも入り組んだ町並みを
ろくに手がかりもなく彷徨ったりする事は無かっただろう。
それ故偶然出会った箒の持っていた、
携帯電話に付随する交通状況のナビ機能により同じ行き先のバスが数分後、
しかも遅延無しに定刻通りに来ると確認が取れた事は一夏にとっては幸運であった。
それにさえ乗ってしまえば、5分前ではあるが藍越の入門テストには十分間に合う。
正に仏が天から蜘蛛の糸を垂らしてくれたような、
感謝してもしきれない思いを一夏は抱いていた。
話を聞いていた箒は開いた口が塞がらない思いであったが、
やがて言葉を何とかしてひねり出すと、
「物持ちが悪いというのも考えものだぞ?」
至極真っ当な回答が飛び出した。
「すまない箒」
一夏も箒の呆れた様な態度にただ平謝りするしか出来なかった。
「……でさ箒、お前もこのバスに乗るのか?」
話題を変えようと一夏が一緒のバス停に並ぶ箒に話を振る。
「勿論だ、この駅から2つ先でモノレールに乗り換えるがな」
自分とは1駅違いか、一夏は箒の言葉を聞いて思った。
「乗り換えか、目的地はどこなんだ?」
何気なく箒の行き先を尋ねてみる一夏。
だがその言葉を聞いた途端箒は急に苦虫を潰したような顔立ちになり、
一夏の顔から目を逸らす。
もしかして何か聞いてはいけない事だったのか、一夏は思わず口元を手で押さえる。
「わ、悪い……聞いちゃいけない事だったか?」
「……なんでもない」
そう装いつつも箒の表情はお世辞にもご機嫌とは言えない。
何故行き先を尋ねただけでこうも不機嫌になるのかは一夏には分からなかったが、
少なくとも、自分にとっては何気ない世間話のつもりが、
相手にはあまり気持ちのいい話題でないことだけは理解した。
(それにしてもここまで不機嫌になるなんて……一体箒の奴どこに行くつもりなんだろうな)
そんな事を考えながら周囲に目をやると、
たまたま視界に入った時計の針が次のバスの到着時刻を指していた。
程なくして、箒の携帯電話のとおりバスが唸り声のような
エンジン音を上げて定刻通りに停留所へとやってきた。
道路内に区切られたバスの停車位置にずれる事無く停止すると、
車体中央よりやや後ろについている乗客者の為の自動ドアが開く。
「ほ、ほら箒、バスが来たぞ」
「……ああ」
この場で険悪な雰囲気のまま突っ立っていても後ろに並んでいる客に迷惑だ。
一夏は気まずい中箒に乗車を促すと、共にバスへと乗り込む。
日本から離れて久しい母国のバスの中は既に何席かは人で埋まっており、
かつ車内の空気は文字通りの意味で暖かかった。
まだ春先とあって少し冷えている為であろう、車内には弱めではあるがヒーターがかかっていた。
2人分の空席はないかと素早く車内を見渡すと、
前方は中央通路が大きく開けられ、シートはバスの進行方向に対して
横向きの収容人数を大きく取れる通勤特化のスタイル。
こちらは老若男女問わず一般客で埋め尽くされており、
中には医療用のギプスを右腕と左足につけている怪我人や
上半身を覆うように新聞を広げているサラリーマンの姿がある。
対して後ろ側はまばらに席が空いており、探せば2人分は並んで座れそうな印象さえあった。
別に目的地までは10分程度あれば立ったままでもよかったが、
席がまばらに空いているのであれば特に座らない理由も無い。
それに箒とは少しの時間ではあるが話したい事もあった。
「お、後部座席が空いてるな」
丁度2人分、1番後ろの広い席が空いていた。
一夏が箒を誘導して先に席へと座らせようとするが、
箒の方が降りる駅が一歩手前という事もあり、奥から一夏、箒と言った順番で座る事になった。
そして後に並んでいた他の客が2人、3人、4人と並んで車内へと乗り込む様子が見え、
最後の6人目が乗車券を引き抜いた時にバスの乗車口が閉まった。
直後、バスの中に行き先のアナウンスとディーゼルエンジンの排気音を鳴り響かせながら、
一夏は途中までであるが箒と共に目的地へと再度出発した。
バスの外の景色が一定のスピードで流れるようになっておよそ1分、
一夏と箒は特に会話もなく黙り込んだままであった。
「……(かなり気まずいな)」
何がいけなかったのかは分からないが、一夏にしてみれば
自分の一言が箒を不機嫌にさせてしまったと思い込んでいる為、
話題を振る切欠を見出せずにいた。
だが折角のほぼ6年ぶりの再会にもかかわらず、
気まずい思いをする事を良しとしない一夏は何とか頑張って話題をひねり出そうとする。
すると一夏の頭の中にある記憶がよみがえる。
「そうだ、なあ箒」
箒が無言で一夏の方を振り向くと、一夏は懐を漁ってある紙切れを取り出した。
灰色が混じってお世辞にも上質とは言えないその紙は、
世間では新聞紙の切り抜きと呼ばれているものであった。
「去年の剣道の全国大会、優勝おめでとうな」
「あ……」
一夏の取り出した切り抜きは、箒の剣道日本一について記事のものだった。
1面記事だった為か写真はかなり大きく、
豪快にも相手の選手に飛び掛らん勢いで面をぶち当てた瞬間が鮮明に映りこんでいた。
「昔からずっと剣道やってたもんな。
あの頃から上手かったし、いつかはやってくれると思ってたよ」
「な!?」
思いがけない一夏からの褒め言葉に、箒は赤面した。
茹蛸さながらに顔を真っ赤にしながら食って掛かる勢いで一夏に問いただす箒。
「ど、どうしてその新聞記事を!?」
「い、いや……格闘家目指してるんだからスポーツ新聞ぐらい読むだろ! それに……」
今にも接触しそうな勢いで顔を近づける箒に、
一夏は迫り来る美少女の顔に嬉しくも圧倒されそうになる。
あと数センチ一夏が顔を前に突き出したら唇同士が接触してしまうだろう。
荒くなった箒の呼吸が一夏の鼻先に当たる。
「それに何だ!?」
「……幼馴染が活躍するのは誰だって嬉しいだろ? 一緒に稽古した仲なんだし」
勢いづいた箒をなだめるかのような一夏の仕草。
当たり障りも何もない、共に幼少期を楽しく過ごした2人の間からすれば至極当然な回答に、
興奮していた箒の心が更に沸騰する。
「……うひゃあっ!!!」
「おう!?」
顔をキス寸前まで近づけていた事に気づいた箒は慌てて上半身を仰け反らせる。
いきなり顔を近づけたと思えば直ぐ引っ込める落ち着きのない様子に一夏は再度驚かされる。
そしてそんな2人に対し他の乗客の目線は……
「す、すまない一夏」
「俺の事はいいんだ、むしろ――――」
周りの乗客にこそ言うべきだろう。 その言葉が口に出される事はなかった。
騒がしい2人に注がれるは、
とにかくその口を閉じろと言わんばかりの冷め切った厳しい目線であった。
狭い車内で振るべき話題ではなかった、
2人は白眼視にさらされながら別の意味で気まずい思いをする事になった。
黙りこくっている内に次のバス停に到着する。
降車ボタンを押す人がいなかったので素通りするかと思っていたが、
停留所に数名の乗客が待っていた為、そのまま停車位置に車両を寄せて停止、乗車口を開く。
するとニット帽にパーカーを着用した若い男が乗り込んできた。
だが、空席のある後部へは見向きもせず、
かといってつり革に掴まる訳でもなくそのまま運転席へと足を進めた。
「……?」
何となくではあるが、一夏にはニット帽の男の姿が印象に残った。
「すみません運転手さん、このバスの行き先なんですけど……」
「うん?」
男はなにやらバスの行き先を尋ねている様だ。
ポケットから取り出したこの近辺の地図を広げて指をさしながら行き先を尋ねていた。
だが男の指している行き先を見るに、運転手は首を横に振る。
「ああ、港に行きたいんだね? ……悪いけどこのバスは行き先が違うから」
「そうですか……」
男はうな垂れた。
だが行き先の事なら普通はバスの外側に表示されているしこのバスも例外ではない。
ましてや男の言う港はここから数キロ離れた場所で、方角も丁度真反対なのだ。
わざわざ聞くまでもない事だろうとバスの運転手はそう思ったのか、
何も言わなくなった男をさして気にすることもなく、
バスの乗車口を閉じるとそのままアクセルペダルを他の乗客を気遣うように柔らかく踏み込んだ。
「それじゃあ……」
ニット帽の男が口を開く。
まだ続きを言おうとしているのかと気になった運転手は、
首は前を向いたまま目線を横の男に向ける。
そこには何かをパーカーのマフポケットに右手を入れているニット帽の男と、
「おっと」
前触れもなく現れた、ポケットに手を入れた男の右手を掴む少年……一夏の姿があった。
少年がいきなり人の手に掴みかかる突然の展開に、運転手を含む他の乗客の間にどよめきが走る。
「な、何をするんだアンタ――」
「車内への『危険物持ち込み』は禁止だって」
一夏は手を掴まれて抵抗する男を腕ごと無理やり引っ張り上げた。
「親に教わらなかったか?」
パーカーのポケットから強引に引き抜かれた男の右手。
一夏の腕ごと高々と持ち上げられたそこには、
艶のない黒で全体が覆われた、成人男性の手に収まる引き金付きの物騒な代物が握られていた。
少なくとも日本における日常生活においては、
まずお目にかかることのないであろう『拳銃』だった。
「なッ!?」
運転手は驚きの余り目を見開き、反射的にバスのブレーキペダルを思い切り踏みつけてしまった。
激しいスキール音と車道を走る他の自動車のクラクションが鳴り響く中、
乗客は急激にバスの慣性を殺された勢いで前のめりになったり、
立って吊り革や取っ手を握っていた人もバランスを崩しそうになった。 発車したばかりで速度が乗っていなかった事が不幸中の幸いと言ったところであろう。
「玩具の銃とか言う言い訳は無しだぜ。
樹脂製の銃でも物によっては実弾が発射可能なのもあるし、
第一モデルガンでもそんなもの突きつけようとした時点で
やろうとしてる事は一つしかないしな」
右手を掴んだまま男の背後に回り、反撃に乗り出せないよう手をひねり上げる一夏。
腕の捩れる苦痛に、ニット帽の男はつい拳銃を地面に落としてしまった。
すかさず一夏は落とした拳銃をつま先で押さえながら真後ろへ蹴り、
勢いに乗った拳銃はバスの降車口の段差へと蹴落とされた。
「な、何で気づいたんだ……!!」
苦痛に顔をゆがめる男の問いかけに、一夏はただ不敵な笑みを浮かべて返した。
「まあ、格闘家の勘かな?」
「い、一夏! 大丈夫なのか!?」
後部座席にて一部始終を見ていた箒が、一夏を心配してか気が気でない様子で駆け寄ってきた。
「箒、とにかく警察を呼んで――」
言いかけた所で一夏の表情が凍りつく。
駆け寄ってくる箒の直ぐ後ろ、丁度さっきまで新聞を読んでいたサラリーマンが、
まるで彼女が通り過ぎるのを待っていたかのように、
持っていた新聞紙を投げ捨てて飛び上がるように席を立った。
「箒ッ!!! 後ろッ!!!!」
必死の形相で一夏が叫んだ。 箒も勢いに圧倒されて一瞬立ち止まる。
その隙を背後に立ちふさがったサラリーマンは見逃さなかった。
皮肉にも一夏の叫びで一瞬思考停止に陥った箒は、
背後から腕を伸ばすサラリーマンに反応し切れなかった。
「なっ!?」
まんまと箒はサラリーマンに羽交い絞めにされてしまう。
「離せッ!! 何をする!?」
「まあそうあせるなお譲ちゃん」
男の手から逃れようともがく箒に、サラリーマン(?)は
ポケットから護身用のスタンガンを取り出すと、
それを冷や汗をかいている箒の首筋に押し当てた。
「うっ!!!」
電極部のスパークを押し付けられ、全身を駆け巡るような瞬間的な感電で気絶する箒。
サラリーマンの腕の中で力なく崩れ落ちるその様子は、一夏の冷静さを削ぐのには効果的だった。
「箒ィッ!!!」
腕をひねり上げているニット帽の男を跳ね除け、
一目散になって羽交い絞めにされた箒の元へ突っ走る。
だが、
「箒を離せ――――」
今にも箒を羽交い絞めにするサラリーマンに殴りかかろうとした所で、
風船の割れるような破裂音が鳴り響いた。
それと同時に一夏はサラリーマンに触れる事無くバスの床に顔から突っ込んだ。
「車内では静かにしましょうと」
言葉を発したのはギプスを付けているけが人と思わしき男だった。
彼はギプスを付けている右手を通路側へと突き出していた。
そしてそのギプスの先端には縁の焦げ付いた風穴が開いており、
焦げ臭い煙が細々と上がっている。
「親に教わらなかったか?」
意趣返しのつもりであろうか、一夏がついさっき発した言葉と似たような文面で返す。
そんなギプスの男がまるで健常者のように楽々と席を立ち、右手のギプスを外すと、
そこには先程のニット帽の男が持っていたものと同じ拳銃が握られていた。
乗客の間に悲鳴が巻き起こり、車内は騒然となった。
「騒ぐな!! 静かにしろ!!」
サラリーマン風の男が大声で怒鳴る。
すると大騒ぎになっていた乗客達が恐怖に引きつった表情で震え上がった。
わめき声こそ上げなくなったが、奥歯がかみ合わず音を立てていた。
「……心配するな、こいつは殺っちゃいない」
そう言ってギプスを外したけが人を装った男は、倒れている一夏を足で仰向けに転がすと、
恐らく銃弾が当たったであろう一夏の腹部には血痕がなく、
代わりにダーツのような針が突き刺さっていた。
よく見れば昏倒している一夏は苦しんでいる様子もなく、
ただ無表情で静かに寝息を立てていただけだった。
「麻酔針だ。 人質に傷が付くと困るんでな……だが」
もし言う事を聞かなければ……そう言いかけた所で口を止め、
嫌らしい笑みを浮かべるサラリーマン風の男。
だがこの状況において乗客達は、最早続きを言わずとも彼らの機嫌を損ねるような事をすれば、
自分達がどんな目に合わされるかは分かってしまっていた。
『お前達は人質だ、大人しくしなければ命はない』……と。
「おい、いつまでじっとしてる! 早く運転手にバスの操縦をさせろ!」
「あ、ああ……」
サラリーマンを装った男がニット帽の男に指示を出す。
ニット帽の男はどこか符に落ちない様子であったが、
とにかく今は指示に従うべきだと結論を出し、
降車口に落ちた拳銃を拾い上げるとそれを運転手へ突きつけた。
「さて、このバスの行き先なんですけど……」
「ひっ!」
改めて口調とは裏腹に高圧的な目線を送るニット帽の男。
こめかみに拳銃を当てられる運転手には、
このニット帽の男が言わんとしている事はもう分かっていた。
行き先を改めて聞くまでもなく、運転手は近くの交差点で本来のルートから外れると、
他の乗客同様恐怖に震えながら、今来た道とは反対方向にバスを走らせた。
織斑 一夏、帰国初日にしてバスジャックに巻き込まれる。
続く。
5/23追記:
誤字があったので修正しました。 ご報告ありがとうございました。