『私、風見幽香。 花の十七歳よ☆ 花だけにね!』
「うんうん、いいわね」
とある小さな部屋。
壁いっぱいの本棚。
積まれた本の群れ。
独特の本の匂い。
いわゆる書斎。
書斎の中央に低い木の机。
机の上には紙。規則正しい赤い線がいっぱい。
つまり、原稿用紙。
この部屋は、昨夜、急に出来た。
空間の隙間をちょちょいちょいとして作られた。
作ったのは自身のつづった一文に子どものような笑みを浮かべる八雲紫。
その喜びのまま、手が動く。
『私、今、恋しちゃってるんだ☆』
鼻歌ふんふん。
「――紫さま、私は知りませんよ」
そんな紫に話しかける者。
といっても、紫にさま付けする者は藍か橙以外にはいない。
「今いいとこなの。邪魔しないで」
「それ、どうするつもりですか?」
「もちろん天狗に協力してもらって幻想郷中に発表するのよ」
「もう一度言いますよ、私は知りませんよ」
藍は念を押す。
「一体何だってのよ。どこが不満?」
「不満ではありませんよ。ただ私は紫さまの式として紫さまの安寧を想い、申してあげているのです」
「もういいから、さっさと言ってしまいなさいな」
「でははっきり言いますね。紫さま、後で必ず例の花の妖怪に付け狙われますよ」
「何? 覗いたの? 悪い趣味ねぇ」
にやにやとした笑みで紫は、手元の原稿用紙を手で覆った。
「これは傑作になる予定なんだから、今読んだらもったいないわよ」
「どうせ完結までもってけませんよ」
「何? 途中で私が投げ出すっていうわけ?」
「はい」
藍は決まった事実を述べるように、短くそう言った。
だが、万が一、万が一がある。
「例え、完結したとしてもです」
もしくは。
「紫さまのことだから、途中で我慢出来なくなって話半ばで天狗に持っていくことも考えられます。……まぁ、どっちだろうと関係ないのですけど」
「じゃあいいじゃない」
なんのこっちゃ分からない紫。
「いいですか、紫さま。許可は取りましたか?」
「許可?」
「風見幽香にですよ」
「何で?」
「……知りませんよ?」
「何よ、勝手に登場させるのが問題だっての? そのへんはぬかりないわ。私を誰だと思っているの? 賢者よ? け・ん・じゃ」
けんじゃ。いやじゃと書いて嫌邪。
「ほら、こんなに親しみやすい可愛いキャラクターにしてるのよ? 何の問題があるっていうの? ――っあ、もしかして、感謝の気持ちでいっぱいになった幽香が想いのあまりに私を付け狙うってこと? あらやだ、サインの練習しなきゃ」
「弟子は師匠に似るって言いますが、その通りのようですね。霊夢と同じで、異変でも起こってスイッチ入らないとこの調子なんですから」
「あら、日々を楽しむにはノビノビと生きるのが肝要よ? だから私は本とか書いてみるのよ。別に某さとり妖怪の真似なんかじゃないのよ、うん」
「そうですか。では、その調子で頑張ってください。何度目になるかは知りませんが、私、本当に知りませんからね」
藍が書斎から去っていった。
「……まったく、藍は心配性なんだから」
紫は気をとりなおして、再び原稿用紙に向かった。
夕飯。
紫の顔が硬かった。
「紫さま? どうかなされましたか?」
と、藍が聞いたが、
「……いえ、なんでもないわ」
紫は答えなかった。
その様子に藍は、やれやれとため息をついた。
夜更け。
紫の顔は、薄暗い部屋の中、くすんだ彫刻のようになっていた。
「書けない……」
ずーんと、痛くなること必至な様子で首をもたげている。
「進まない……」
声が深海にまで沈んでいる。
計画もなしに書き始めたのが悪かったのか、それとも恋しちゃってる一七歳ゆうかりんに無理あったのか。
とはいえ、原因を求めるのも意味はない。
詰まっている原因を解消したところで、それが先に進む要因にそのままなってくれるかどうか分からない。
案外解決策というのは、そういった思考のらち外から現れたりする。
「お茶、入れましたよ」
どうせこうなるだろうと見越していた藍は、言葉通りお茶を入れて書斎にやってきた。
「……藍」
振り返った紫の瞳はうるうるしていた。
藍は内心後退した。
「さすが藍ね……。さすが私の式……」
勝手に感極まったゆえに出てきたセリフだと知りながらも、そう言われて嬉しくないことはない。にやけそうな口を押しとどめ、冷静を保とうとする。
「大袈裟ですよ。それより、もうお休みになったらどうですか? この調子だと夕陽が出るころまで寝ることになりそうですよ」
藍が原稿用紙に視線をちらりとやった。
まるで進んでなかった。前に来た時から一行も進んでいなかった。
――心配する必要もなかったか。
藍はほっとした。
万が一、これが幻想郷に広まりでもしたら、と事後処理に駆け回る自分を恐れていたが、この調子ではとてもじゃないがそんなことは起きそうになかった。
このまま諦めてくれ。藍はそんな思いを込めて微笑み、言った。
「今日はここまでにして、次はまた明日にすればいいじゃないですか」
そっと背に手をやる。
「……藍」
藍を見る紫の目には悲しみが映っていた。
「でもね、藍。私、多分このまま寝たらもう飽きて次書くことはないと思うの」
藍の微笑みがぎこちなくなった。
――よく分かっていらっしゃる。
的確な自己分析を下した紫に、藍は苦々しく思った。
「それにね、私、思うの。あなた、もしかして、それを狙ってるんじゃないかって」
「……そんなことないですよ」
藍は震える喉を必死に統制する。
「本当に?」
「えぇ、本当にです」
「そう」
紫は気づいていた。
搭載されている頭脳は一級品どころではない。
問題は使い方である。
思い込み。
今書いているのを続ければ幽香は間違いなく喜ぶはずだという、あり得ない思い込みがその頭脳の使い道をおかしくしてしまっている。
「じゃあ聞くけど、あなたはどうやったらこの話が進むと思う?」
「はぁ」
「はぁ、じゃなくて」
曖昧な返事をうつ藍に、紫は答えを急いた。
もちろん、藍の頭脳も一級品どころではない。
自分と主との齟齬。心配している事柄の差異。それに気づいた。
しかし、そのまま伝えるのは忍びない。
というか、伝わる気がしない。
だから藍はちょっとした賭けにでた。
「主人公の設定がよくなかったのではないでしょうか?」
「え? つまり幽香のせい?」
「あー、そうですそうです、そのせいです」
話を進めるために流した。
「それでですが、主人公を紫さまご自身とするのはどうでしょう?」
「え? 私?」
「はい」
「でも私が主人公になっちゃうと、何でも出来る万能系主人公になっちゃってお話が面白くならないと思わない?」
間違いは正さなければいけない。
藍は使命感に燃えた。
「紫さま、いいでですか? 残念ですが紫さまのイメージでは、黒幕、または黒幕に気づきながら他の者にどうにかさせようとする性格が悪い上に人使いの悪い超ウルトラルナティック性悪妖怪というイメージを持っている者が多いことを忘れてはいけません」
後半になるつれて、語気が強まっていった。
無理もない。
その全ての尻拭いは藍がやっている。
「……なんか最後の方、私情が――」
「入ってません」
「いやでもなんか」
「入ってません」
「そう?」
「はい」
「本当に?」
「えぇ、もちろんです。偉大な紫さまの式である私がそのようなことありえません」
たしかに偉大な賢者の式がそんなことをするとは思えない。
そう思えながらも、どこか釈然せず、自然と視線を下へやった。
すると、長らく変わらないままの原稿用紙が見えた。
にらめっこなら優勝間違いなしだろうってほどに、変化が無い。
息を吐く。
だが重くなった肺は軽くはならない。
――諦めようか。
そんな考えがよぎる。
――いや、まだ。
すぐに打ち消す。
意地というかなんというか、とにかくおさまりが悪い。
すっきりしたい。
再び筆をとった。
そして、原稿用紙のマス目の中に筆先を下ろす。
もう、藍がいるのも頭の外側の外側にまでおいやった。
紫は思考ではなく感覚として、この先筆が動くだろうと思った。
そして筆が――。
「……動かない」
何故だという疑問を溢れる程に乗せられた呟きだった。
「紫さま、やはりお休みになられては……」
心配そうな藍の顔。
紫はため息を吐いた。
「……藍」
紫は静かに立ち上がった。
立ち上がった紫に、藍はほっと安心のため息を吐いた。
「布団はもう敷いてあります。ごゆっくりお休みください」
出来た式に紫の内に感謝の想いが満ち溢れた。珍しく。
「……藍、ありがとね」
「紫さま……」
藍は胸がじーんときた。
「そうよね、いつも頑張ってもらってるものね」
うんうんと紫はしみじみ頷いた。
「紫さま?」
「よし、明日はゆっくり休みなさい。代わりに私が色々しておくから」
「……紫さま?」
「じゃあ、お休み」
書斎から出る紫を見つめる藍の顔は、なんともいいがたい妙な顔になっていた。