名探偵マーロウ   作:ルシエド

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 急なあれこれで投下できる土地にいなくて、投下遅れてすみませぬ


Mにさよなら/マーニーの依頼

 ロイドは今日も警察署を訪れていた。

 メカニックの残党をマーロウが警察に突き出した、という話を聞いたからである。

 ロイドにとってもメカニックは忌むべき敵であり、メカニックが起こした過去の事件は、彼から多くのものを奪い去り、危うく愛娘のマーニーの命まで奪われるところだった。

 

 そんなメカニックの取りこぼしをマーロウが捕まえたと聞いて、ロイドは奇妙な運命と少しの嬉しさを感じる。

 彼は昔のツテで警察署に入れてもらい、カメラを中継に使って取調室の中を見ることができる部屋に入った。

 部屋では警察官が画面を見ていて、画面の中ではメカニックの残党がヘラヘラと笑っている。

 

「どうも、失礼します。奴らは何か吐きましたか?」

 

「どうもロイドさん。奴ら相も変わらず、ペラペラ喋ってますよ。

 重要な所は何も知らされてないようです。

 本人もその自覚があるのか、致命的な情報を喋ってしまうことを恐れていません」

 

 取調室の中では、ケラケラ笑う男が警官の追求にからかうように応じていた。

 

「ガイアメモリ、とはなんだ?」

 

「もう手遅れなんだよ。俺達は何も知らねえ。

 知ってるとしたらあのマーロウってやつだけだ。

 俺達はあいつが持ってる知識とギジメモリってのを奪って来いって言われただけなんだぜ」

 

 ロイドの頭の中で、マーロウが持っているメモリガジェットという道具、拾得物として警察に届けられた例の機械が記憶として想起される。

 『マーロウの持ち物で狙われそうな物は何か?』という彼の推理が真実を掴み、ロイドは嫌な予感がして取調室に飛び込んだ。

 

「ロイドさん、ちょっと!」

 

「おい、そのメモリってのまさか拾得物として保管されていた、USBメモリ状の機械のことか?」

 

「けっけっけ、使えるメモリが一本だけとかシケてやがる。

 でもまあしょうがないな。

 『ここ』には『外』から持ち込まれたメモリしかないって話だったしな」

 

「……警察にまだメカニックの信奉者が居たのか!? おい、確認を!」

 

 ロイドが怒鳴って、慌ただしく警官が確認に動く。

 ほどなく、警官の一人が血相を変えて取調室に戻って来た。

 

「た、大変です! 化石のような外装の付いていたあのUSBメモリ状の機械がなくなってます!」

 

「なんだと!?」

 

「それと、人体にコネクタを作るあの機械もありません!」

 

「あっはっはっはっ!」

 

 男が笑う。

 どこかメカニックに似た笑いだった。

 笑いは真似できても、能力や技能は何一つ真似できなかった者の笑いだった。

 

「バカだよなあ、あいつは!

 記憶をなくしてなけりゃあ!

 自分が落として警察が拾った荷物の中に!

 盗られちゃいけねえもんがあるってことも覚えていてられただろうに!」

 

「……マーロウのことか?」

 

「あいつも終わりだ! もうメカニックに目え付けられちまったんだからなぁ!」

 

 悪党の哄笑が取調室に響き渡り、同時、警察署の外と取調室の間にあった壁の全てが粉砕され、外からこの場所へと続く一直線の道が出来る。

 

「な―――なんだ!?」

 

 その穴から、二つの影が現れた。

 一つは黒色の刺々しい怪物。

 全身の半分ほどをくまなく覆うように生えるそのトゲは、硬い甲殻で出来ているのか、角質の上を強固な皮膚が覆っているのか、はたまた金属製なのか、まるで分からなかった。

 

 そして、もう一つの影は……かつて人々に、『メカニック』と呼ばれた男のもの。

 狂気に満ちたその目を見るだけで、邪悪な方のメカニック・夜刀であることを理解することは、容易なことであった。

 

「ご苦労、『ジョーカー・ドーパント』」

 

 突如現れた、世界の常識を覆す怪物。

 当然のように脱獄を果たしたメカニック。

 それを驚きもせず、ただ喜び迎え入れたメカニックの残党。

 ロイドはそれらを見て理解する。

 この男は、メカニックの夜刀は、投獄されてからも密かに街で悪党を動かしていたのだと。

 

「め……メカニック!?」

 

「待ってましたぜ、メカニック様!」

 

 ジョーカー・ドーパントなる怪物を連れ、メカニックはあっという間に警察署を占拠する。

 残党の言葉を信じるのであれば、メカニックが保有するガイアメモリは、マーロウがここに持ち込んでしまった一本のみ。

 ゆえに怪物も一体のみ。

 だが、その一体のみで『無敵』を名乗るには十分過ぎる戦力であった。

 

「さて、ゲームを始めるか。……まずはお前からだ、三人目のメカニックさんよ」

 

 警察官達を制圧し、ロイドも捕らえ、けれどもメカニックはそれらの誰も見ていない。

 

 その目はどこか遠く、遥か彼方の宿敵へと向けられていた。

 

 

 

 

 

『緊急速報です、今入りました情報によりますと――』

 

『――警察署は占拠され、その時点で警察署内に居た全員が人質に――』

 

『――警察署周辺は近隣警察署からの応援で封鎖され、詳しい状況は――』

 

『――記者会見での発表によれば脱獄した史上最大の愉快犯、メカニックは――』

 

『――要求は未だ――』

 

『――経過を――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 若島津ゆりかは、ニュースを見るやいなやSNSで知り合いに知らせを飛ばし、家を飛び出した。

 ニュースで見た『メカニックに捕まった人質』の中に、マーニーの父親の姿があったことに気が付いたからだ。

 使える移動手段を駆使して現場の警察署近くまで辿り着き、警察が封鎖している外縁に到着。

 集まった野次馬の合間を抜けようとしても抜けられず、ゆりかはむすっとした顔でどこか警察署の様子を伺える場所はないかと、歩き出す。

 

「よう、ゆりか」

「何やってんのゆりかちゃん」

 

「あ、マーロウさん、マーニー! どうなってんのこれ!?」

 

「俺達もそこまで詳しい状況は把握してねえよ。

 だが……警察署を占拠した犯人の要求が、俺とマーニーを呼ぶことだったんだ。

 俺とマーニーが二人だけであの警察署に行かなければ、人質は全員殺すってな」

 

 ゆりかが眉を顰める。

 どうしようもないくらいに罠だ。

 分かりやすすぎるくらいに罠だ。

 が、マーニーの父親も人質に取られているため、応じないという選択肢はないわけで。

 

「……大丈夫なの?」

 

「人質を取るなんて小物のやり口だ。安心して待ってな、ゆりか」

 

「その根拠のない自信っ! ちょっと不安だけど、まあ信じて待ってるよ」

 

 ゆりかは「マーニーをお願い」と小声でマーロウの耳元に囁く。

 

「マーニー、無理はしないでよ?」

 

「はいはい、ゆりかちゃんも余計なことしないようにね」

 

 珍しく本気の心配をするゆりかに、それを軽くあしらうマーニー。

 普段は軽率で軽薄なゆりかにマーニーが真面目な警告をして、ゆりかがそれを軽くあしらうという関係があるだけに、それが逆転した今のこの光景が際立つ。

 マーニーはゆりかの対応の違い、自分とマーニーに対するそれの違いを比べて、"親友だな"としみじみと思った。

 

 ゆりかを置き去りにして、人混みをかき分けながら進むマーロウは、まだ足が治ったばかりのマーニーを守ろうという決意を固める。

 人混みの向こうで野次馬をせき止めていた警察官の一人が、マーニーの姿を視認して、彼ら二人を警察の封鎖の内側に入れてくれた。

 

「来たかマーニー」

 

「毛利さん、状況は?」

 

「警察署の職員は全員無力化され捕まっている。メカニックが署を完全に制圧した状況だ」

 

 どうやらその警察官は、マーニーの知り合いであったらしい。

 とはいえマーロウとは初対面。自己紹介をしたいところだが、今は一刻を争う時だ。

 

「初めまして、毛利だ。時間が惜しい、自己紹介は後回しにして、簡潔に説明させてもらう」

 

 毛利という名の警官は簡潔に状況を語る。

 現在メカニックは警察署の最上階に陣取っており、その部下が一階のエントランスホールに集めた人質を見張っているらしい。

 現在警察署敷地内に踏み込むことは困難で、警察署を肉眼で捉えられる距離に一般人を入れないという対処療法しかできていないのだとか。

 

 他の署から駆けつけて来た警察が何もできないで居る理由は、ただひとつ。

 ジョーカー・ドーパントを名乗る怪物が、警察が動けば即座に現れるからであった。

 

「怪物……? 毛利さん、見間違いとかトリックではないんですか?」

 

「私が先程見た時、撃った銃弾は容易に弾かれた。

 後々問題になることも覚悟で撃ったのだが……歯牙にもかけられず、無視されたよ」

 

「……怪物、か」

 

 マーニーは半信半疑で、けれどのその怪物の強さを認め、マーロウは何故か頭の内側で蠢く記憶の渦に浸っている。

 

「行こう、マーロウ」

 

「……ん? ああ、行くか」

 

 マーニーの折れた足は以前の通りとまでは行かずとも、治っている。マーロウの手もだ。

 二人が互いの怪我の分を補い合う必要は、もう無い。

 補い合うのではなく、力を合わせるべく二人は今肩を並べていた。

 肩を並べて、彼らは警察署に歩いて行く。

 

「奴の目的は私とマーロウであることに間違いはないと思う。

 鴻上さんを釣れたら御の字、くらいの期待はしてるかな?

 何にせよ、人質を解放させた後が本番だ。

 ……毛利さんから聞いた『怪物』から、私達二人だけで逃げ切らないといけない」

 

「だな」

 

 夜刀が人質を解放するかは分からないが、人質の解放は第一目標であり、それを達成してからが本番である。

 そこから先を生き残れるかも問題なのだ。

 マーニーは、今日だけで終わる一つの依頼を口にした。

 

「日当五千円、経費は別で。私の依頼を受けてくれないかな」

 

「お前が、俺に依頼を?」

 

「依頼内容は、『必ず私達二人で生きて帰ること』」

 

 依頼人はマーニー。依頼を受ける探偵はマーロウ。

 考えるまでもなく、彼はその依頼を快諾する。

 

「任せろ。その依頼、必ず達成してみせるさ」

 

 パン、と二人の間で二人の手の平が打ち合わされ、小気味のいい音が響く。

 

 それが、最初で最後のマーニーの依頼だった。

 

 

 

 

 

 正面入り口から入ろうとするマーロウとマーニーの足を、署内備え付けのスピーカーからの声が止める。

 

『裏口から入れ。お前達が最上階まで来た時点で、人質は解放する』

 

 悪のメカニック、夜刀の声であった。

 どうやら施設内のスピーカーは全て掌握しているらしい。

 監視カメラと集音マイクも併用しているのか、マーロウとマーニーの位置や声まで、あらゆる情報を拾っているようだ。

 マーロウは声だけを飛ばしてくる夜刀に、喧嘩腰で声をぶつける。

 

「本当に人質を解放するんだろうな?」

 

『おいおい、信じろよ。

 お前達を呼び寄せた時点であいつらは用済みだ。

 フェアなゲームにしてやろうっていうオレの善意さ。分かるだろ?』

 

 裏口から二人が警察署に入ると、同時に一階エントランスホールで夜刀の部下が人質を解放し始める。

 マーロウ達が階段を登っていくにつれて徐々に人質は解放され、それは階段を登る過程で窓から外を見ている彼らもその目で確認していた。

 

「あ、パパ」

 

 ロイドが解放されたのを見て、マーニーがホッとする。

 彼女が安心するやいなや、夜刀は小馬鹿にするような声色で茶々を入れてきた。

 

『どうせあんなゴミ共は自由にしても問題はない。

 現代の技術力で作られた武器では、この怪物は倒せないと身に沁みてるだろうからな』

 

(怪物)

 

 警察署をほぼ単独で制圧したという怪物。

 銃は効かず、誰も殺す必要さえなく、それなりに動けるはずの警官ですら子供扱いし捕縛したという怪物は、最警戒対象だ。

 理性と力を併せ持つなら、それがおそらく最大の脅威となる。

 二人は最上階に辿り着き、扉を開いて、その向こうに夜刀と傍に控える怪物を見た。

 

「ようこそ、ステージへ。

 相変わらず無意味な情に流されて生きているようだな、マーニー」

 

「夜刀……」

 

「それとそっちの、マーロウだったか」

 

 夜刀の言動は一見楽しそうに聞こえる声色だが、その裏側には怖気がするほどにじっとりとした憎悪が感じられた。

 かつてマーニーの活躍で捕まったのなら、その憎悪も当然か。

 その憎悪の一部は、マーニーの身内であるマーロウにも向けられていた。

 マーロウは夜刀からマーニーを庇うように立つ。

 

「分かる、分かるんだよ。

 お前くらいに分かりやすい奴は見りゃ分かる。

 オレとは絶対に相容れない、気持ちの悪い偽善者だ」

 

「はっ、そうかよ。こっちもお前みたいな野郎と仲良くする気はねえさ」

 

 マーニーは夜刀との因縁故に憎まれている。

 だがマーロウは、その性質故に夜刀に敵対視されていた。

 『擁護のしようもない悪』にとって、絶対的に相容れない人種というものは実在する。

 

「さて、マーニー。お前はかつて、オレをハメるために三人目のメカニックを名乗ったな?」

 

「……そんなこともあったね」

 

 夜刀の口の形が、上弦の月の形から、三日月のそれへと変わる。

 僅かな口の動きからも感じられる狂気と悪意。

 保身も利益も考えず、ただ復讐だけをしようとする空っぽな目。

 マーロウは何にも先んじて、マーニーの命が危ないことを直感した。

 

「メカニックはオレ一人でいい」

 

 鴻上という一番目のメカニックも、マーニーという三番目のメカニックも、夜刀という二番目のメカニックには邪魔でしかない。

 マーニーを殺すつもりの夜刀を、マーロウは鼻で笑う。

 

「一番目と三番目を殺せば、自動的に二番目が唯一無二の本物になる、ってか。

 サル山のてっぺん取るためにボスに挑む猿でも、もうちょい複雑に物事を考えてるぜ?」

 

「探偵マーロウ、強がりはやめろ。

 その挑発はマーニーが心配であるがための挑発だ、そうだろう?」

 

 だが夜刀の切り返しに、返答に窮してしまった。

 他人の弱点を見つける悪辣さと、そこを突く悪意という二点において、夜刀は稀代の犯罪者に相応の能力を持っている。

 

「ゲームをしようじゃないか、マーロウ。

 とりあえずそのゲームに勝てば、お前達がこの警察署から出て行くのを見逃してやる」

 

「ゲームだと?」

 

「鬼ごっこさ」

 

 夜刀は恐ろしい形に口を歪めて、マーニーに手錠を投げ渡す。

 

「マーニー、その手錠でそこの柱に両手を固定しろ」

 

「……」

 

「そうしたら、エントランスホールの最後に残った人質を解放してやる」

 

「……分かった」

 

 マーニーは背中側に手を回し、背中側で手錠を使って両手を固定する。

 手元を隠せるのと、夜刀が近付いてきた時に蹴り飛ばしやすい、という考えでのことだった。

 夜刀はマーニーの両手が固定されたのを確認し、指を振って、無言のまま何も話さないジョーカー・ドーパントを動かす。

 

「マーロウ、お前は俺の部下と鬼ごっこだ。

 こいつに捕まらないようにしてこの部屋に戻ってきて、オレから鍵を取れればお前の勝ち。

 この鍵があればマーニーの手錠は外せる。お前らはこの警察署から逃げられるだろう」

 

「いいぜ、上等だ」

 

「逃げ切れるとは思わんがな。ああ、ハンディをやるよ。

 オレはお前をモニタリングするが、オレの部下にお前の情報はやらないでおいてやる」

 

「後悔すんなよ?」

 

 夜刀はこの怪物の強さに絶対的な信頼を置いている。

 逃げ切れないことを確信している。

 対しマーロウは、身長2mはありそうな怪物にガンつけつつ、一歩も引いていなかった。

 どこか慣れた様子さえ感じられる。

 

 怪物にガンを付けているマーロウをよそに、夜刀はマーニーの耳元に囁いた。

 

「どちらにしようか迷った。最後まで迷ったんだ。

 父親とマーロウ……どちらを目の前で殺せば、よりお前は絶望するかってな」

 

「―――」

 

 夜刀の股間を蹴り上げようとしたマーニーの足が、ピタリと止まる。

 

「結論は出た。

 父親を殺せばお前は家族愛ゆえに絶望するだろう。

 だが、マーロウを殺した時の絶望は違う。

 あの男は、もっと漠然とした……鴻上やお前が信じていたものの象徴だ」

 

 マーニーの顔色が変わり、止まった足が空振った。

 避けた夜刀は、変わらずマーニーに囁き続ける。

 

「正しく生きること、義を捨てないこと。

 大抵の人間が掲げてるくっだらねえ綺麗事の象徴なんだ、あいつは。

 この街に正義の花束があるなら……そいつを殺して、葬送の花にしたらどうなる?」

 

 マーニーの脳裏に、ここ数ヶ月ですっかり街に馴染んだマーロウの人懐っこい笑顔が思い返される。

 マーロウに依頼を達成してもらい、笑顔になった人達の笑顔が思い返される。

 彼に猫を見つけてもらった飼い主、彼に面倒を見てもらっていた子供、奇妙な交流ができた高校生、マーロウと気軽に話していた大人や老人の姿が、思い返される。

 

「探偵マーロウが殺されて絶望するのは、お前一人では済まない気がするな」

 

「夜刀っ!」

 

 マーニーの頭に血が上り、行動を起こそうとしても手錠に阻まれ、夜刀は笑う。

 そう、この警察署という舞台は。

 彼女の前で彼女の大切な人間を殺し、かつて自分に逆らったことを後悔させるためにあった。

 

「ゲームスタートだ」

 

 夜刀が手を振ると、ジョーカー・ドーパントが同じように腕を振るう。

 ただそれだけで、この部屋の壁が粉砕され、粉砕された壁は吹き飛んで別の壁を粉砕し、警察署の外へと繋がる大穴が空いた。

 怪物、と言う他ない膂力。

 

「―――!?」

 

 マーロウは怪物から距離を取ろうとするが、あっという間に距離を詰められ、首根っこを掴まれてしまう。

 

「く、ぐっ……!」

 

 早い。そしてあまりにも速い。小細工を弄さなければ、回避さえ許されないスピードだ。

 

(こいつ……この動き、()()()()人間のそれじゃねえ!)

 

 一も二もなく、怪物は壁の穴からマーロウを外に投げた。

 警察署の最上階の高さから、青年は一気に落下する。

 

「マーロウ!」

 

 マーニーの悲痛な叫びと夜刀の笑い声を耳にしながら、マーロウは腕のスパイダーショックを素早く操作した。

 

「う、おおおおおっ!」

 

 腕時計から放たれた蜘蛛糸が、最上階の手すりを捉える。

 スパイダーショックが落下速度を減速させつつ、マーロウの体をゆっくりと地面に降ろす―――かに、見えたが、そう上手くは行かなかった。

 ジョーカー・ドーパントの全身から生えたトゲが、刃となって蜘蛛糸を切る。

 結果、マーロウは勢いよく背中から地面に落ちてしまった。

 

 コンクリートの路面が、彼の背中を強打する。

 

「がっ―――!」

 

 肺から空気が叩き出され、横隔膜が痙攣し、呼吸が止まった。

 

(息ができねえ……! いや、落ち着け!

 背中を打って息ができないのは、"息が吸えない"だけだ!

 こういう時は連続で短く息を吐く。息を吐けば、自然に生理作用で肺に新しい空気が――)

 

 マーロウはうめき声を上げながら、必死の思いで膝立ちになる。

 

(――この知識、俺はどこで教わったんだっけ?)

 

 その記憶がどこから来たのかを考える間もなく、マーロウは横に跳んだ。

 一瞬前まで彼が居た場所に、怪物が落下してくる。

 銃弾を弾く強度と硬度の肉体は、落下の衝撃でコンクリートの路面を粉砕しつつ、何のダメージもなさそうにマーロウに狙いを定めた。

 

「っ!」

 

「逃げてもいいぞマーロウ! その場合マーニーがどうなるかは分かってるだろうがな!」

 

 最上階から夜刀が煽ってくるが、元より逃げるつもりなど無い。

 マーロウはふらつく足で、迷いなく警察署内に戻った。

 既に人質も全員解放された署内は、マーロウの味方など誰も居ない処刑場となっている。

 

「見えるか? マーニー。奴が縊り殺されるところもこれでちゃんと見ることができるぞ」

 

「……本当に、悪趣味な!」

 

「そう、その顔だ! その顔が見たかった!」

 

 少女の苦悶の顔を見て高笑いする夜刀は、彼女の指摘通り悪趣味極まりない人物だった。

 

「知ってるかマーニー? あの男はな、おそらくあの怪物と戦っていた男なんだ」

 

「……え」

 

「あの化石のようなメモリを持っていたということは、そういうことだ。

 今日までの日々の中、奴の記憶は蘇りかけている。

 ドーパントと戦えば戦うほどに、奴の内にはかつての記憶が蘇る。

 お前達が最終的に無様な逃走を選んだとしても、結末は変わらないだろう」

 

 イカサマ師(メカニック)と呼ばれた男の仕込みは、いつだって綿密だ。

 そして夜刀に限ればその仕込みは悪辣だ。

 

「記憶を取り戻した奴は、必ずお前から離れていく。

 ……その前に奴が、命惜しさにお前を見捨ててここから逃げ出すかもしれないがな」

 

「―――」

 

「お前達に待つ不可避の結末は、永遠の別れだ」

 

 夜刀は()()()()()()()を、マーニーの目の前にチラつかせる。

 マーニーはその言葉に動揺しているフリをしながら、夜刀が警察署全体を見張るために持ち込んだモニターを見つつ、体で隠したスマホでメールを送信する。

 メールの送り先はマーロウ。

 このために彼女は、わざわざ後ろ手に両手を手錠で固定したのである。

 

(後ろ手にはメールを送ることもできる……私は、私にできることを!)

 

 ただし、計算外が一つだけ。

 

 動揺したフリをして夜刀の目を欺こうとしたマーニーの心は―――()()()()()()()に、本人の予想以上に動揺してしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛む背中を抑え、マーロウは警察署内に飛び込む。

 ジョーカー・ドーパントもその後を追うが、マーロウの姿を見失ってしまっていた。

 

「どっち見てる、こっちだ!」

 

 左から聞こえた彼の声に、ドーパントがそちらを向く。

 "マーロウの声を出したフロッグポッド"の方をドーパントが見た瞬間に、マーロウはその背後から――フロッグポッドとは逆方向から――、怪物の後頭部にバットショットを投げつけた。

 

(行けっ!)

 

 マーロウの投擲で初速を得たバットショットが、フルに加速し時速120kmで怪物の後頭部へ激突する。

 後頭部は指折りの人体急所だ。

 相手が人間だったなら、確実に脳まで潰れる一撃であった。

 

 だが、ジョーカー・ドーパントは後頭部を打たれた直後、ダメージを食らった様子も見せずにバットショットに手を伸ばす。

 素早く鋭い手の動きが、空中で姿勢制御を行っていたバットを捕らえ、握撃でそれを破壊した。

 更には囮役になっていたフロッグポッドも、怪物の足に踏み壊される。

 

「くっ……!」

 

「……いい、とても素敵だ、このメモリは。

 力が無限に湧いてくる。いや、力以上に技の完成度が増してくる!

 普段の僕にはできないような技が、動きが、こんなにも簡単にできるなんて!」

 

 酒に酔ったような――薬に脳を侵されているような――怪物の言動が、妙に子供のようであるこることに、マーロウは疑問を持つ。

 

「……子供か?」

 

 ジョーカー・ドーパントの動きが止まった。

 怪物がその左眼に手をやると、左眼からメモリが排出され、怪物が人間の姿に戻る。

 メモリを体外に排出した、ただそれだけで、怪物は童顔の少年へと戻ったのだ。

 

「そうさ、僕は浮井和雄。

 君の仲間のマーニーが通ってる学校に、去年まで通ってた一人だ」

 

「夜刀の野郎、こんな子供を怪物に……!」

 

「違うよ……僕はただメモリに一番適合してただけ……怪物になったのは、僕の意志だ」

 

 浮井和雄。

 マーニーと直接の面識はないが、マーニーの二つ上の先輩であり、メカニックにそそのかされて殺人事件を起こし、マーニーがその事件を解決する前に失踪した少年である。

 

「そうだ、僕の意志だ!

 怪物になったのも! 小さい頃に僕を虐めた男を殺したのも!

 何もかも僕の意志で決めたことだ! そうだ、復讐は僕の意志!

 夜刀さんは僕が選びたいと思う選択肢を、いつだって僕の前に置いてくれる……!」

 

「! ……お前、あいつにそそのかされて、人を……」

 

「違う! そそのかされたんじゃない! これは僕の意志だ!」

 

 道を踏み外した少年。

 大人は子供に道を踏み外すなと言う。

 社会のルールを守っていれば、社会のルールが守ってくれると耳にタコができるほど言う。

 それは何故か?

 嘘つき、卑怯者……そういう悪い子供こそ、本当に悪い大人の餌食になってしまうのだと、大人は知っているからだ。

 

「だから! 後悔なんてあるわけない!

 人を殺したことも! 怪物になったことも! 僕が後悔するわけない!

 何も怖くないから後悔なんてしていない!

 メカニックは、夜刀さんは何も悪くない! 僕も悪くない! だから後悔なんてしないんだ!」

 

 必死な顔でそんな言葉を必死に叫んでも、本心は絶対に隠せない。

 人を殺して悪の手先となった少年を見て、マーロウの心中に湧き上がるのは、激しい怒りと静かな悲しみ。

 少年を利用し操っている夜刀への怒りと、少年に同情する心が生み出した悲しみだった。

 

(こんな子供に罪を重ねさせやがって……!)

 

 良太郎達の時とは違う。

 浮井和雄には数えるべき罪があり、罪と向き合っていないがための苦悩があった。

 

 あと二年もすれば成人するであろう少年は、自分が犯した殺人という罪の罪悪感をしっかりと感じ、殺人者が社会の中でどう扱われるかをしかと認識している。

 自分の罪がそこにあることを分かっていながらも、その罪から目を逸らし続けている。

 逃げ続けている。

 大人の一歩手前という年齢が、苦痛に蝕まれる少年に逃避を選ばせていた。

 

 そんな風に苦しんでいる子供を操るのは簡単だ。

 囁き、煽ればいい。

 「その罪は償えない」と囁やけばいい。

 「この社会には受け入れられない」と囁やけばいい。

 「割り切れ」と囁やけばいい。

 「オレの言うことを聞いていればいい」と囁やけばいい。

 「オレがお前を部下として使ってやる」と囁やけばいい。

 「でなければまともに生きていけないぞ?」と囁やけばいい。

 

 そうすれば、人の心は容易に縛れる。

 殺人の罪悪感という首輪を一度付けてしまえば、何もかもが簡単だ。

 社会に出たことがない未成年が相手であるために、その難易度は更に下がる。

 

 夜刀はそうして、少年の心を操り怪物に変えた。

 マーロウはそれを理解した。

 怒りと悲しみが、マーロウを力強くそこに立たせる。

 

「……Nobody's Perfectだ。誰も完全じゃない。

 互いに支え合っていかなけりゃ、人一人にできることなんて限られてる」

 

「そうだよ! 僕は完璧なんかには程遠い!

 だから、"メカニックの助け"がなければ、僕にできることなんて何も――」

 

「だがな。完璧でないことも、弱いことも……

 悪党に与する免罪符にはならねえ。

 悪いことをしていい理由にはならねえ。

 ましてや、自分で選ぶことを諦めて誰かに自分の運命を委ねるなんてもってのほかだ!」

 

「――っ!」

 

「弱い奴にも半端な奴にも!

 諦めない権利と、誘惑してくる悪党の顔に唾吐く権利くらいはあるんだからな!」

 

 マーロウという男に特殊な体質はない。特別な能力もない。特異な技能も無い。

 だがその心は、いつだって悪に立ち向かい、間違ってしまった者を立ち上がらせるべく手を差し伸べ続ける。

 

「そして、罪は逃げるもんじゃねえ。償うもんだ」

 

「償、う……」

 

「償うのはやり直すためだ、浮井」

 

 夜刀に凝り固められた、夜刀にとって都合のいい心の形が、浮井少年の内側でぐらつく。

 

「復讐なんてもう終わってるってのに、いつまでそいつにしがみついてるつもりだ!」

 

「……うるさい。うるさいうるさいうるさい!」

 

 生まれついての悪でもなければ、人間は自分が"悪いもの"であることに大なり小なり苦しみを覚えるように出来ている。

 「後悔なんてしてない」と浮井少年は言った。

 「助けて」と言っているように、マーロウには見えた。

 ならば、選択肢は一つだ。

 

「浮井!」

 

 浮井和雄の背中を押し、殺意でなかった感情を殺意に変え、その背中を押したのは、夜刀という汚れた悪だった。

 悪に触れれば触れるほど、悪に助けられれば助けられるほど、自分の心も体も汚れていく実感があって、少年は自分を自分で見下していった。

 

「メモリを捨てろ! お前がこれ以上人を傷付ける必要なんてねえんだ!」

 

「うるさいって、言ってるだろっ!」

 

 汚れて、汚れて、汚れて……その果てに、少年は"きれいなもの"を見た。

 今ここで、悪に染まらない"きれいなもの"を見た。

 "きれいなもの"は自分に手を差し伸べていた。

 手を伸ばせば、汚れた自分の手も取ってくれそうだと、浮井少年は思った。

 

「僕が信じるのは、僕を助けてくれたあの人だけだ!

 僕の心の底の願望を見抜いて、背中を押してくれたあの人だけだ!

 僕が一番辛かった時に助けてくれもしなかった奴が! 僕の心を乱すな!」

 

 そう思ってしまった自分を、嫌悪した。

 

「そんな目で、僕を見るなッ!」

 

《 JOKER! 》

 

 少年の眼球が裏返り、白目に刻まれた生体コネクタがメモリを飲み込む。

 

「止めてやるよ、俺が……俺達が! お前はまだ、やり直せる!」

 

《 STAG 》

《 SPIDER 》

《 DENDEN 》

 

 怪物に変わった少年に、マーロウは再び飛びかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジョーカー・ドーパントが壁を破壊する音が響き渡る。

 技と力を併せ持つドーパントの攻撃をスタッグフォンが避け、回避されたパンチが警察署の壁を紙切れのように千々に砕いていた。

 マーロウは瓦礫の陰に身を隠しつつ、スタッグフォンを下げ、代わりにスパイダーショックとデンデンセンサーを前に出して撹乱に動かす。

 

 着信を受けているスタッグフォンをキャッチし、マーロウは物陰に隠れたまま通話を繋いだ。

 

「前置きはいい、すぐに報告頼む」

 

『警察署内にマーロウ、マーニー、メカニック、怪物以外に人影五人』

 

「サンキューな、天。気になってたんだ。

 あいつが『この怪物と鬼ごっこ』じゃなくて『俺の部下と鬼ごっこ』って言ってたのが」

 

『まだ増えるかもしれない』

 

「引き続き頼むぜ、ライダーガール」

 

 スタッグフォンに電話をかけてきたのは、舞城天であった。

 ゆりかがSNSで話を回してくれたお陰で、マーニーとマーロウに好意的な人間が何人もこの警察署の周辺に集まってくれていた。

 そして、力を貸してくれていた。

 

 舞城天もその一人。彼女は山を登り、最適な位置から望遠鏡を使い、遠方からずっと警察署の廊下の窓を覗いている。

 彼女経由で、マーロウは敵の人数を把握した。

 

『警察官はやっぱり子供探偵の僕相手だと脇が微妙に甘くなりますね。

 警察署で人質に取られていた人の名簿照会が終わったらしいです。

 今、署内で人質になってるのはマーニーさんだけで間違いないです、マーロウさん』

 

「サンキュー、良太郎」

 

 久儀良太郎からの情報で、予想外の人質がないことを確認。

 

『マーロウさん、怪しい車がいくつか封鎖されてる地区の外側ウロウロしてるんスよ。

 もしかしてメカニックはこいつのどれかにこっそり乗って最後には逃げるつもりなんじゃ』

 

「危ねえ、見逃したら逃げられるところだったな……お手柄だぜ、雪彦」

 

 黒屋雪彦からの情報で、敵の手札を何枚か透視する。

 

『うちの陸上部の後輩にその手の機械に詳しい奴が居るんですよ。

 そいつによれば特定周波の電波が煩いくらい警察署の周り飛んでたそうです。

 後輩に頼んでそいつを妨害させてましたが、構いませんよね? でなければ止めます』

 

「ナイスフォローだ、那智。助かる」

 

 那智勇一を通して、夜刀とその部下達の通信手段の一部を妨害する。

 

『卒業した先輩と浮井先輩の家族に、浮井先輩の話聞いてきたよ。

 メモる余裕も二回聞く余裕も無さそうだから、一回聞いて覚えてね』

 

「ああ、悪いマキ、少しゆっくりめに言ってくれ」

 

 警察署の周辺には来なかった真希田マキも、マーロウの頼みで浮井和雄(ドーパント)の情報を集めてくれていた。

 最後に緑川に――探偵の腕を信用している彼女に――電話をかけ、警察署周辺の細かな状況を教えてもらう。

 

『警察署周辺の人混みの中にメカニックの仲間が混じっているぞ、マーロウ』

 

「警察署の内外にメカニックの部下が居んのかよ……」

 

『あいつが脱獄したという話が広まれば、まだ増えるかもな。

 奴らは外側から警察を見張っているようだ。

 警察が変な動きをすればすぐにでもメカニックに連絡が行くんじゃないか?

 奴らが警察を、私が奴らを見張っている形になっている……と、思う』

 

「そっちは頼む。いざとなれば、警察に話を通して捕まえてくれ」

 

『もう警察に話は通してあるぞ?

 後は事実上の人質になっている、お前達がそこから逃げ出すだけだ』

 

 唯一探偵として動いてくれている緑川に頼りがいを感じつつも、マーロウは彼女のその洞察力が自分に向けられている自覚を持っていなかった。

 

『……無理はするなよ』

 

「おいおい、心配性か――」

 

『アバラが折れた奴の声ってのは、それ相応に変に聞こえるもんだ』

 

「――ぬ」

 

 通話が切れる。

 マーロウは骨が折れた胸に手を添え、何もかもを分かった上で援護してくれている彼女に、心の中で感謝した。

 

「……敵わねえな、ったく」

 

 マーニーのメールをスタッグフォンで確認し、自分の姿を見せないままジョーカー・ドーパントの位置を確認、見つからないようにマーロウは移動する。

 

(バカなお人好しばっかりだ。その助力のお陰で、俺もまだ生きて居られている)

 

 マーロウの『バカ』という心の声には、『好き』という心の声に似た響きがあった。

 

(こんな化け物、俺が一人だったらすぐに俺を殺せてただろう。

 なのに俺はまだ殺されてない。

 俺が怪我してもなお、こいつは俺を殺せてない。

 きっと俺の命と体が半分なくなってしまっても―――あいつらが、その半分を補ってくれる)

 

 マーロウはきっと、体の半分を吹き飛ばされても止まらない。

 

(立ち回りを考えろ。失敗すれば、おそらく一瞬であっさりと死ぬ)

 

 ジョーカー・ドーパントは最上階へ繋がる道をきっちり警戒している。

 少しは怯ませないと、マーニーを夜刀から助け出すことは不可能だろう。

 マーロウは仲間達の援護を受け、ガジェットを回収しつつドーパントの背後を取り、襲いかかった。

 

 そして、信じられない超反応を行った怪物に迎撃されてしまう。

 

「今の僕は超人……いや、神に近い!

 なんでもできる! なんでも分かる!

 もう我慢しなくてもいい……悪夢も見なくていいんだ! 僕は強くなったんだから!」

 

 ドーパントのパンチを、マーロウは余裕をもってかわす。

 その圧倒的な拳圧が、かすってもいないのにマーロウの黒帽子を上方へと吹き飛ばした。

 続き怪物は足払い。

 マーロウは跳んでそれをかわして、そのまま空中で左手を帽子のキャッチ、右手を変形させたデンデンセンサーを投げるのに使う。

 

「道具で強くなる心なんざあってたまるか!」

 

 投げられたデンデンセンサーは、ドーパントの目に張り付いた。

 

「デンデン! 目を潰せ!」

 

 このガジェットは暗視を可能とするガジェットだ。

 つまりセンサーが得た光学的情報を、光量を増幅して出力することができる。

 日中の光を最大倍率で増幅し、ジョーカー・ドーパントの視界を一時であっても潰す……それがマーロウの作戦であった。

 

「あはっ」

 

「―――っ!」

 

 だが、通じなかった。

 ガジェットの光はドーパントの目を焼くには力が足らず、メモリが一般人でしかない浮井の技を極限にまで引き上げることで、デンデンが光で視界を塗り潰した状態でも、怪物は何の問題もなくマーロウに攻撃を仕掛けていた。

 ノールック・アタック。

 古来より格闘技の達人の技として、様々な形で語られる秘奥である。

 

 ジョーカー・ドーパントが視界に頼らない拳撃を放ち、咄嗟にスタッグフォンがその拳撃に体当りして、拳の軌道を逸らす。

 スタッグフォンの大顎がへし折れ、軌道がズレたドーパントの拳がマーロウの右腕の袖口にかすった。

 袖口は破壊され、一瞬服ごと引っ張られた右腕が、右肩からゴキンと外れる。

 

「くっ、ぐぁっ……!」

 

「あ、はははははは! 小細工沢山してるみたいだけど、僕にはまるで敵わないじゃないか!」

 

 かすっただけで人間離れした破壊を起こす。

 銃弾も効かない。ガジェットだけで勝つのも極めて難しい。

 これが、ドーパントだ。

 人並み外れて頑丈なマーロウでもなければ、その前に立つことさえ許されない。

 

 ジョーカー・ドーパントは自分の目にひっついていたデンデンセンサーを剥がし、強く握ってバキンと機体を破壊する。

 これで完全に破壊されたガジェットが三つ。

 破損して戦えなくなったガジェットが一つ。

 満足に動くガジェットはスパイダーショック一つのみ。

 

「……? ちっ、面倒な……」

 

 だがマーロウは、ドーパントがデンデンを破壊するためそっちに意識を割いた一瞬に、既にその場を離脱していた。

 追い込めば追い込むほどしぶとくなっているようにすら感じるマーロウのあがきに、ドーパントは思わず舌打ちする。

 そのしぶとさは、既に強さの域だった。

 

 

 

 

 

 ゴキッ、と体内に伝わる鈍い音と共に、肩の脱臼をはめ直す。

 

「っ」

 

 途方も無い激痛を、なけなしの気合いとやせ我慢で乗り越える。

 折れた骨や脱臼した肩の周辺は痛く、熱い。動きも悪く、遅い。

 されどもその目は死んでいない。

 スパイダーショックだけでどう奴を突破するか、と考えるマーロウの元に、楽しげな夜刀の声が届く。

 

『やあ、ごきげんいかがかな? 名探偵マーロウ』

 

「……てめえ、夜刀!」

 

『お前の声は集音マイクで、こちらの声はスピーカーで届く。楽しくお喋りと行こうじゃないか』

 

「高みの見物かよ、いい趣味だな」

 

『そう言うな。今のお前の位置を浮井和雄に教えていないのは、オレの善意だぜ?』

 

 この男の『善意』ほど、信用できないものもない。

 

『少しお喋りでもしようじゃないか。

 そうだな……トマス・モアの"ユートピア"を知ってるか?』

 

「ああ、お前の性格が少し分かった。

 お前知識自慢や世界の汚さ知ってる自慢で、会話でマウント取ろうとするやつだな」

 

『そう言うなよ、寂しいだろ』

 

 獲物を前に意味もなく遊び、いたぶり始める。

 やり口は下衆で邪悪で三流だが、その隙を補う程度の知力は夜刀にも備わっていた。

 

『トマス・モアが提唱したユートピアは、どこにもない場所という意味の言葉だ。

 変じて、理想の社会を意味する言葉でもある。

 外側の無い閉じた世界。

 社会全体が一斉に決まった時間に食事を摂る。

 労働の時間は決まっていて、皆が割り振られた仕事をしなければならない。

 食料等の消耗品は皆で作り、皆で溜め、皆で共有し皆で消費する。

 堕落する娯楽は存在しない。

 休日は文化的な活動を行うべきと定められている。

 国民全てが軍人として活動できる訓練を義務付けられる。

 全員が同じ価値観を持ち、個性はほぼなく、争いは起こらない。

 完成された社会であるがために、社会に変化が起きることもない、そんな理想郷さ』

 

「おいおい、それは理想郷じゃなくて、地獄って言うんだろ」

 

『いいや、理想郷だろうさ。

 もしもこの理想郷を作った誰かが居れば、そいつにとってこれはまさしく理想郷だ』

 

 良心や人情というストッパーはなく、ただひたすらに権力と支配を求め、邪悪な感性を満足させようとする危うい犯罪者。それが、夜刀という男の本質。

 

『素敵なもんだろう?

 製作者が定義した価値観以外は許されない理想郷。

 人間のためのシステムではなく、システムのために人間を変えるこの思考。

 人間から自由に生きる権利と平和に生きる権利を全て奪った世界こそが、ユートピアだ』

 

 マーロウとは絶対に相容れない、自由と平和を奪う悪そのもの。

 

『一度くらいは作ってみたいもんだな。山奥辺りに一度遊びで作ってみるか』

 

 夜刀と話しているだけで、マーロウの胸の内に湧き上がる力と、頭の隅で刺激される戦いの記憶があった。

 

「一人きりの理想郷で満足してろ、クズ野郎」

 

 マーロウと話しているだけで、夜刀は苛立ちと忌々しさを胸の内に積もらせていく。

 

「人が生きるのに理想郷なんて要らねえ……街一つあれば、十分だ」

 

『本当に趣味が合わねえな、オレとお前は』

 

 やがて、ジョーカー・ドーパントがまたしてもマーロウの前に現れる。

 

「どいつもこいつも……!

 お前も! 僕のことを嫌ってるんだろう!

 人を殺して犯罪者になった僕のことなんて、軽蔑してるんだろう!

 それならもう僕が生きられる場所は、メカニックさんの傍しかないんだよ!」

 

 浮井和雄のその思い込みを、マーロウはマキ経由で手に入れた情報で打壊した。

 

「そう思ってんのはお前だけだ!

 お前の家族は、まだこの街に居るだろう!」

 

「―――あ」

 

「今でも、お前の帰りを待ってる!」

 

「―――え?」

 

「お前を心配してる奴はまだ居る。

 お前の居場所は、帰る家は、まだ残ってる。

 俺だってお前を嫌ってなんかねえさ。罪は憎んでも、人は憎まねえ」

 

 怪物の動きが止まる。夜刀に変な思い込みを持たされ、思考を固定されていた心に、ゆらぎが生じる。

 マーロウは怪物に、怪物になってしまった少年に、手を差し伸べた。

 

「さあ、もう終わりに……」

 

『本当にお前に帰る場所があるのか? そいつが嘘をついてるんじゃないか?』

 

 だがそこで、夜刀が茶々を入れる。

 罪を犯した人間を正道に戻す人間が居れば、正道を歩いている人間に罪を犯させ、犯罪者にする人間も居る。夜刀はまさしくそれだった。

 

『なあ、お前は恨みで人を殺しただろう?

 どう殺した? 覚えているよな?

 何せオレの部下を手引き役に遣わしてやったんだ、忘れてるわけがない』

 

「夜刀! 黙れ!」

 

『黙らせたければ最上階までくればいいだろう。そこのドーパントを倒して、な』

 

 行けるわけがない。

 この怪物をどうにかしなければ、最上階に行くことなどできはしない。

 

『お前の家族は、お前が恨みで人をどう殺したか知っても、受け入れてくれるかな?』

 

「……あ」

 

『人殺しが何故重罪か知ってるか?

 してはいけないことだからさ。

 普通の奴は、実行に移せないからさ。

 お前は普通の人が思い留まることをやらかしたんだ、自分の異常さは自覚してるだろ?』

 

「あっ、あ……!」

 

『お前の居場所は、オレの下だけだ。

 迷うな、オレがお前に怪物として役立つ舞台を与えてやるよ』

 

「夜刀ッ!」

 

「あああああああああああああああっ!!」

 

 ジョーカー・ドーパントが絶叫し、マーロウへと襲いかかる。

 

「ちくしょう……なんでこうなっちまうんだよ!」

 

『ははははははははは! もう少し楽しませてくれよ、名探偵!』

 

 折れたアバラの痛みを抑え、マーロウは逃げる。

 だが逃げた先の曲がり角を曲がったところで、とうとうドーパント以外の夜刀の部下と出会ってしまった。

 仲間のナビゲートでここまでずっと避けていたというのに、浮井の説得に時間をかけすぎてしまったのだ。

 

「居たぞ!」

「例の探偵だ!」

 

「次から、次へと!」

 

 夜刀の部下は二人、両方共に銃を持っている。

 だが反応はマーロウの方がはるかに早く、銃が構えられる前に片方は足を蜘蛛の糸に取られ、マーロウの腕に引かれて転ばされていた。

 

「がっ!?」

 

 転ばされた男は頭を打って気絶し、その手を離れた拳銃が宙を舞う。

 仲間が倒されたことで生まれた敵の隙を突き、マーロウは一瞬で踏み込んだ。

 彼は宙を舞う拳銃を蹴り飛ばし、もう一人の部下の顔面に当て、痛みで回避を封じてから首筋に蹴りを叩き込む。

 

「あぐっ!?」

 

 流れるように二人を無力化したマーロウだが、これは致命的なタイムロスだった。

 

(やべえ、ドーパントが……ん?)

 

 怪物に捕まることも覚悟していたマーロウであったが、怪物の視線は別の方向へ向いていた。

 その視線の先にある曲がり角から、新たに三人の部下が現れ、怪物は何故か一も二もなくその男達へと襲いかかっていった。

 

「僕の……僕の仕事を、邪魔するな!

 夜刀さんに僕が使えるってところを見せられなかったら! 捨てられるだろうがっ!」

 

「なっ、何?!」

「ば、馬鹿野郎!」

「どうなってんだ!? う、浮井の奴はこんな性格じゃ……ぎゃあああっ!」

 

 何故浮井がそう考えたのか、理解できなくもない。

 どうしてその行動を取ったのか、分からないでもない。

 だが、決定的に破綻した思考であった。

 明らかに正気を失った結論であった。

 

 熱に浮かされたような言動、ドラッグを服用したかのような精神状態、正常な状態からかけ離れている在り方。

 これがガイアメモリの副作用であると、夜刀の部下達は知りもしなかった。

 

「メカニックにとって利用価値がある者は、僕だけでいいんだ!」

 

「ひっ、た、助け……!」

 

 銃を奪われ、攻撃され、あわや殺されるかと思った夜刀の部下が命乞いをする。

 ドーパントは止まらない。

 だが、背後からその攻撃をマーロウが止めた。

 スパイダーショックの特殊ワイヤーがドーパントの腕を絡め取り、敵であるはずの夜刀の部下の命を救ったのだ。

 

「っ、探偵……!」

 

「これ以上、お前に罪を重ねさせるかよ!」

 

「犯罪者は……人殺しの犯罪者なんて、死んでもいいやつのはずじゃないか! なんで守る!」

 

「死んでもいい人間なんて居るわけあるか、この馬鹿野郎!」

 

 これ以上罪を重ねさせない、という強い意志。

 殺させない、という強固な信念。

 それは頭で考えて生み出すものではなく、記憶がなくとも彼の心の奥底より湧き上がるもの。

 

 人殺しは殺されても文句は言えない、と思い込み絶望していた浮井少年は、マーロウのその言葉に救われた気持ちになった。

 そして同時に、『死んでもいい人間なんて居ない』という言葉が、人を殺してしまった罪悪感を倍加させる。

 許されているという嬉しい気持ちと、許されていないという苦しい気持ちが、まぜこぜになって少年の胸の奥をかきむしる。

 

 良心が残っているからこそ、人を感情で殺してしまう弱さがあるからこそ、苦しい。

 

 これがガイアメモリ。

 ()()()()()し、精神を狂わせ、心の中に最初からあった思考を増大させて、体だけでなく心までもを化け物へと変える悪魔の端末。

 ある者はこれを、『メモリの形をした麻薬』と呼んだという。

 

「その目を、やめっ……そんな目で、僕を見るなあああああっ!!」

 

 怪物は絶叫し、またしてもマーロウに襲いかかった。

 マーロウが立ち向かい、怪物の一撃がスパイダーショックを砕き、怪物は狂乱する。

 誰の目から見ても明らかな、地獄絵図だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モニターを通して、その全てを夜刀は見ていた。

 人間を正道から蹴落とし自分の同類にすることにも愉悦を感じるのが夜刀だ。

 自分の反対側の存在を見れば苛立ち、その存在が説得に苦心してボロボロになっていく姿を見れば喜ぶ。彼がモニターを見ている理由は極めてシンプルだった。

 

「浮井の説得という策も失敗。万策尽きたか?」

 

 口元を歪める夜刀の言葉を、マーニーは冷たい声色で切って捨てた。

 

「夜刀。マーロウは、そんな策なんて考えられるタイプじゃない」

 

「ん?」

 

「あの人は本気で、あの怪物に罪を重ねさせないため、救うため、戦ってるんだ」

 

「……はっ、愚か者の代表者みたいな男だな」

 

 夜刀は嘲笑し、スピーカーを使って廊下を歩くマーロウへとまた語りかけた。

 

「頑張るな。そんなにマーニーを助けたいのか?

 こいつにそんな価値は無いぞ。むしろ、オレの同類の殺人者だ」

 

(こいつ、今度は何を……)

 

『マーニーとお前が同類とか、天地がひっくり返ってもありえねーよ』

 

 訝しむマーニー、鼻で笑うマーロウをよそに、夜刀は言葉を続ける。

 

「マーニーはな、お前にも隠してる秘密がある。

 学校の誰にも話していない、親友にも話していない過去がある。

 何故話さないか? 話せば、自分から離れて行ってしまうんじゃないかと恐れてるのさ」

 

「―――、夜刀! 黙れ!」

 

 マーニーの顔色が、さあっと青くなった。

 

「怖いかマーニー?

 そうだよな、知られたくないよな。

 こいつに幻滅されたくないんだよな?

 いい顔だ、オレに逆らった奴がそういう顔をするのはとてもいい」

 

「夜刀!」

 

 だが、後ろ手に手錠で捕縛されている現状では、マーニーは夜刀の語りを止められない。

 

「昔のことだ。マーニーが小学生の頃だったかな?

 オレはマーニーを含む21人の子供達を誘拐した。

 子供達に爆弾を付けて、マーニーだけを見せ、マーニーの父親含む刑事達にオレは言った。

 オレに手を出すなと。マーニーを助けようとするなと。

 そうした場合、別の場所に隠した子供達の爆弾を起動する、ってな」

 

『―――!?』

 

「ハハハハっ、あの時は最高だったぜ。

 犯罪者を捕まえられなくて歯ぎしりする刑事達!

 20人の子供のために、自分の娘を見捨てるロイド!

 いい歳こいた大人が、見知らぬ子供のために愛娘を見捨てて泣く!

 正義の味方気取りの刑事の内側で、正義感と心が折れた音が聞こえるようだった!」

 

 それは、多くのものが壊れ、多くのものが失われたある悪夢の日の話。

 

「その後マーニーに言ったのさ。

 選べと。

 20人の命と自分の命、どちらか選んだ方だけを助けてやると。

 選ばなければ両方殺すと。燃える街を見渡せるビルの屋上で、オレは彼女に問うた」

 

 夜刀という悪魔が語る過去を、マーニーは血相を変えて止めようとする。

 

「夜刀っ! やめろ!」

 

「静かにしてな、マーニー。

 分かるだろ? マーロウ。マーニーはお前の同類じゃなく、オレの同類なのさ」

 

 20人の子供の命と、自分の命。

 爆弾とナイフを突きつけられ、選択を迫られ、過去のマーニーは選んだ。

 

「マーニーはそれで、自分が助かりたいと、涙を流して選んだんだ」

 

『―――』

 

「くははははっ! 最高だろ?

 その時もな、マーニーは他人を犠牲にする選択なんてできないと信じてた奴は居た。

 だがな、マーニーはその信頼すら裏切ったんだ! 死にたくない、という気持ちだけで!」

 

 それはかつてマーニーが犯し、今でも心の奥にこびりついている過ちの記憶。

 

「こんなやつ見捨てればいい。

 隠し事してたやつなんて見捨てればいい。

 そうすればお前の命だけは助かるぞ?」

 

 見捨てろ、と夜刀は言う。

 

 恐怖があれば人は折れる。

 絶対的な恐怖の前で人は自分らしさを貫けない。

 恐怖(テラー)とは全てを律し全てを圧する、一種の王のようなものだ。

 夜刀は恐怖で他人を縛り、恐怖で他人を操るやり方を好む男だった。

 

 過去を語れば、マーニーに対し幻滅させることができる。

 怪物に殺される恐怖を煽れば、マーロウだって思うように動かせる。

 マーニーを見捨てさせることができる。

 夜刀は、そう思っていた。

 

 それは、正しさと善を一度はそのやり方で折ったという成功体験から来る、信用された成功パターンのようなもの。

 子供の頃のマーニーという、鴻上(メカニック)を変えたほどの善人を、恐怖で折って思い通りに動かしたという過去が、夜刀にこのやり口を愛用させていた。

 

『ああ、そうだな……』

 

 だが、マーロウは――

 

 

 

『お断りだ』

 

 

 

 ――いつだって、予想外の場所から、悪党の思惑をひっくり返す男だった。

 

「おいおい、まだ偽善者気取りで意地を張るのか?

 それとも自己犠牲に酔ってるのか?

 正義のヒーローさんは死ぬまでそんな道化で居続けるのかよ?」

 

『偽善とか、自己犠牲とか、そういうもんじゃねえよ。

 ただの……探偵の矜持だ。俺の依頼人は、命をかけても必ず救う』

 

「―――」

 

『誰が正義を謳おうが知ったこっちゃねえ。

 誰に正義と呼ばれようが知ったこっちゃねえ。

 俺が探偵の矜持を捨てるわけねえだろ、このタコ』

 

 忘れてはならない。今はマーニーが依頼人で、マーロウはその依頼を果たそうとしているのだ。

 依頼内容は、『必ず二人で生きて帰ること』。

 マーロウは転ばない人間ではなく、転んでも必ず立ち上がる人間であるがために、他人の失敗や罪に優しくなれる。

 "罪を犯した人間"と、"悪党"が別物だということを知っている。

 

 記憶がなくても、その心が知っているのだ。

 

『悪党と被害者の違いが分からねえのはバカだけだ。

 被害者の手を汚させるよう仕込みをした悪党が

 「こいつも最悪なことしてたんだぜ?」

 とか言ってても、単にその悪党に対して腹立つだけだろうが!』

 

 過去語りでマーニーに幻滅などするものか。

 湧き上がるのは、小さな女の子にそんなことをさせた悪党への怒りだけだ。

 

『よう、マーニー』

 

 集音マイクを通して、マーロウがマーニーに語りかける。

 マーニーは何を言われるかという怯えから、肩をビクッと動かしてしまった。

 

『それがお前の、始まりの瞬間(ビギンズナイト)だったんだな』

 

 とても優しい声だった。

 

『お前が困ってるやつに優しい理由が、少し分かった気がするぜ』

 

「……あ」

 

 モニターの向こうでマーロウが笑い、帽子を深くかぶり直す。

 

「おいおいマーロウ。

 善性ってのは多少揺さぶられたくらいで捨てるもんなのか?

 そりゃ弱さだろ! マーニーが悪でないってんなら、そいつはただの弱さだ!」

 

『それが弱さだとしても、俺は受け入れる』

 

「……は?」

 

『そいつが、ハードボイルドな男の流儀だ』

 

 甘っちょろいその在り方はハードボイルドでなくハーフボイルドだと、マーニーは思った。

 彼がハーフボイルドであることに、マーニーは感謝した。

 その言葉に、マーニーは救われた。

 救われたのだ。

 

『待ってろマーニー。すぐにハードボイルドに助けてやるからよ』

 

「……うん」

 

 マーロウがどんなにズタボロでも、不安はなかった。

 ここに来て助けてくれるという確信があった。

 信頼があった。

 

「はっ、ジョーカー・ドーパントを突破して、ここまで来れるわけが……」

 

「来る! 必ず来る!」

 

 夜刀はマーニーの前でマーロウを殺し、彼女を絶望させようとした。

 だが、それは間違いだった。

 

「私の……私達の切り札(ジョーカー)は! お前の切り札(ジョーカー)なんかに負けない!」

 

 夜刀は、自分の目的を達成したかったのなら……マーロウだけは、絶対に関わらせてはいけなかったというのに。

 

 

 

 

 

 マーロウは歩く。

 もう走るのも厳しくなってきた。

 じんわりと内出血は酷くなり、折れた肋骨は今にも内臓に刺さりそう。

 外れた肩は腫れてきて、動かすのもキツい。

 手元に残ったメモリガジェットも、大顎が折れて戦えなくなったスタッグフォンだけとなった。

 

(仲間のナビゲートがなけりゃ、とっくに死んでたなマジで……)

 

 ジョーカー・ドーパントに仕掛けることを諦めない。

 マーロウは警察署の一室に隠れ、その辺りを物色して武器を手に入れようとしていた。

 その過程で、電話番号が書かれた紙が貼られた金庫を見つける。

 

「? なんだこれ?」

 

 その番号は、どうにも警察の共用の電話の番号に見えた。

 誰がこの紙を貼ったのか、ひと目見ても分からないようにする工作だろうか?

 個人所有の携帯電話の番号を書けば、夜刀程の相手には全て見透かされてしまう可能性があるとはいえ、用心深いことだ。

 マーロウは、その番号に電話をかける。

 

『君ならそれを見つけてくれるだろうと、信じていた』

 

「……ロイドのオヤジさん!?」

 

『奴らに取られないよう、怪物に捕まる前にその箱の中に隠したのさ。

 一番頑丈で、一番開けにくそうなやつに。

 僕にはまるで使い方が分からなかったが……君になら、分かるかもしれない』

 

「この箱の中には、一体何が?」

 

『君が忘れた、忘れ物だ。金庫の番号は19550420』

 

 マーロウは番号を入力し、箱を開ける。

 

 中に入っていたのは、警察が回収したものの中から、浮井が使ったガイアメモリと生体コネクタ設置手術器を除いたもの。

 通常のガイアメモリとは違う、夜刀には使い方が分からなかったもの。

 純正化されたガイアメモリと、その稼働機(ドライバー)だった。

 

「……こいつ、は」

 

 スタッグフォンを耳に当てたまま、マーロウは絶句する。

 急速に蘇る記憶があった。

 劇的に漲る気力があった。

 地球の記憶(ガイアメモリ)変身用のベルト(ロストドライバー)を掴むマーロウの耳に、ロイドの携帯へと吹き込まれる皆の声が届いていた。

 

『あ、ちょ、待っ、携帯取らな――』

『おいマーロウ! まだか! 心臓に悪い、早く戻ってこい!』

『マーロウさんマーロウさん、TV中継来てますよ! ここはかっこよくなんかやって!』

『そっちはどうですか!? オレ殴り込みましょうか!?』

『警官隊の人が踏み込むべきか迷ってるけど何て言う?』

『いえーい私ゆりかだけど声聞こえてるー? 頑張ってー!』

 

 皆の声が聞こえる。

 どいつもこいつも、どこか彼の記憶を刺激する者達だった。

 男が居て、女が居て。子供が居て、老人が居て。

 誰も彼もが、マーロウとマーニーを応援している。

 

 するとその時、ジョーカー・ドーパントが部屋のドアを破壊して飛び込んで来た。

 吹っ飛ばされたドアはマーロウをかすって壁にぶつかり、壁に大穴を開ける。

 怪物が開けた大穴が、部屋の風通しをよくしてくれていた。

 

 大穴から入る風が、部屋の飾りの風車を回し、マーロウの背中を優しく押してくれる。

 

「なんだ? 切り札になる仲間でも来てくれたのか? 僕には勝てないけどねぇ!」

 

「来てもらう必要なんてねえよ。声だけ貰えれば十分だ」

 

 少年はもうガイアメモリの侵食で、喋り方さえ怪しくなってきた。

 もはや救えないのか。

 それとも救えるのか。

 どちらでもいい。

 彼は既に、少年を救うと決めているのだから。

 

 救えないのなら、その運命さえ覆せばいいだけの話。

 

「俺自身が―――切り札(ジョーカー)だからな」

 

《 JOKER! 》

 

 マーロウの左手が、ガイアメモリを励起させる。

 マーロウの右手が、腰にロストドライバーを装着させる。

 今、この瞬間に。

 彼の記憶は、その全てが蘇った。

 

「変身」

 

《 JOKER! 》

 

 マーロウが変わる。

 全身黒の超人へと変わる。

 黒と棘の怪物がジョーカー・ドーパントの個性であるのなら、極限まで余分な装飾を取っ払ったスマートな姿こそが、その超人の個性だった。

 赤き複眼も、銀の触角も、紫のラインも、全身を覆う黒の体色を鮮やかに彩っている。

 

 怪物を倒すがために人が身に着けた、怪物と似て非なる正義の力。

 

「……なっ」

 

「俺は、俺の記憶(メモリ)を取り戻したぜ」

 

 思わず、浮井は後退った。

 何故自分が後退ったかも分からない。

 だが、意識せずとも本能的に一歩引いていた。

 『勝てない』という一言が脳裏を駆け抜けて、反射的に少年は叫び声を上げる。

 

「なんだ……なんなんだお前は!?」

 

 青年は、静かに応える。

 

 

 

「―――左翔太郎。仮面ライダージョーカーだ」

 

 

 

 浮井和雄のように、神や仏が救わなかった人間はどこにでも居る。

 彼らは救われないのだろうか? いや、救われる。

 救おうとする者が居れば、きっと救われる。

 信じるものは救われる。だから信じればいい。

 

 神や仏が居なくても、人を救う仮面ライダーは、街のどこかに居るのだと。

 

 

 




『M』にさよなら
この街に正義の花束を

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