ロイド・インベスティゲーションにその日舞い込んだ依頼は、まさに街をすり抜ける一陣の風だった……と、マーロウは脳内でナレーションをする。
「最近引っ越して来た二つの家族を調べて欲しい?」
「はい。とはいっても、自分も最低限の近所付き合い程度にしか知らない家なんですが」
依頼者は井上と名乗る、神経質そうな雰囲気と優しそうな顔つきを持つ男だった。
少し話した感じでは、他人のことを気にしすぎる優しい男、という印象を受ける。
彼の依頼は、最近近所に引っ越してきた木村という家族と、林という家族について、調査して欲しいというものだった。
「見た感じの印象だと、親が三十代、子が小学生……に見えます。
彼らは山間の田舎の家から出て来たらしいんです。
人も居ない、物もない、店もない。
派出所もなく、食べるものを買うだけでも車で片道一時間以上かかるようなところから」
「ヤバい限界集落みたいなところだな……
そんなところに若い親子が住み続けていたなんて今時珍しい」
「そう! そうなんです! 自分もその話を聞いた時はそう思ったんですよ!」
信号も無いような道を車でかっ飛ばして一時間以上、それも『品揃えがいい店』ではなく『最低限食べ物が売ってる店』まで一時間以上かかるとなれば、相当な田舎だ。
現代でも携帯電話の電波が届かないほどの田舎である可能性が高い。
マーロウはそんな所に若い家族が居たことに物珍しさを感じたが、話を先に進めさせた。
「二つの家族の家族構成は両方共に父親と息子のみ。母親は居ないらしいです」
「父子家庭というわけですね。それで、何故我々に依頼しようと思ったのですか?」
「二つの家族がすれ違う時、異様な雰囲気があるんです。
上手く言葉にできない、背筋がゾッとするような雰囲気が。
こう言うと笑われてしまうかもしれませんが……『殺気』が、あったような気がするのです」
殺気とはただごとではない。
木村という父子家庭と、林という父子家庭。
まだ何も事件が起こっていないのなら、警察も動いてはいないだろう。
依頼者の井上も"何か起こるかもしれない"とは思っているだろうが、"必ず何か起こる"という確信は持っていないに違いない。
だからこその、探偵への依頼だ。
依頼者は探偵に二つの家族の写真と、その二つの家族が元々住んでいたという村の住所のメモを渡して頭を下げる。
「それが彼らのプライバシーに関わるものであったなら、私に報告する必要はありません。
そちらの方で握り潰して貰って結構です。勿論その場合も、依頼料はお支払いたします」
依頼者は真実が知りたいわけではない。
問題が無いならないでいい。問題があるなら警察への通報でいい。
彼が求めているのは、真実ではなく平穏だった。
「分かりました、お引き受けします」
ロイドが依頼を受け、探偵事務所の三人で挑む依頼が始まった。
ロイド、マーロウ、マーニーはまず木村家に向かう。
林家の父親は今日は休日出勤中で、親子揃っているのは木村家だけという話を聞いたからだ。
ロイドの車で木村家に向かい、家の前の塀でグローブとボールを用いて壁当てしている子供を発見し、マーロウは子供の方へと向かう。
「マーニー、オヤジさん、先行っててくれ。俺はこの子にちょっと話を聞いてくからさ」
「気を付けてね」
大人が隠していることを子供がポロッとこぼすこともある。
子供に聞きに行くのは悪くない選択だ。
依頼対象に探偵が探っていると気付かれないのであれば、ある程度踏み込んだ調査をするのも探偵の動きとしてはアリだろう。
ロイドとマーニーは車を止め、ロイドは車の中から気付かれないよう木村家周辺を開始。
マーニーはその辺りを歩いて調べつつ、ロイド同様気付かれないように木村家を覗く。
近場に高台と公園があったため、そこから双眼鏡を使えば家の中を覗くことができた。
(父、母、子で家族三人の写真。背景は山?
飾ってあるのは家族三人の写真だけで、父子だけの写真はない。
お母さんが亡くなられたのが最近? それともお母さんのことを忘れないように?)
家の中にはポツンと置かれた写真立てがあった。
特におかしなものではないが、マーニーはそれが妙に気になる。
家財道具や庭の状態から引っ越してすぐであるということも分かった。
(家に引っ越してきたのが最近というのは間違いなさそうだ。
引っ越しのきっかけも最近あった何かなのかもしれない。
なら最近まで車で片道……二時間くらい? の距離を移動して、子供を小学校に送っていた?)
険悪になった切っ掛けはここから見ている分には見当たらない。
マーニーは個人的に父子家庭での虐待も疑っていたのだが、家の中の状態からもその可能性は排除された。
(街中なら何かあれば目撃者が居てもおかしくない。
でも田舎なら?
そこで起こったことが当事者以外の誰に知られてなくてもおかしくはない。
同じ場所から二つの家族が引っ越して来たなら、仲違いの原因はそっちで起きたことかな)
木村家の父は、何故か林家がある方向を警戒している。
家の前で壁当てをしている息子とマーロウがキャッチボールを始めたのもチラッと見ていたが、林家がある方向しか警戒していない。
露骨に警戒心の配分がおかしい。
とはいえ警戒心があるのは確かなことで、これでは探偵の仕事も少々やりづらい。
(なんでか警戒してるなー。
これだと気付かれないように調べられる場所が限られちゃう。
台所くらいしか……ん? 包丁は有るけど、フライパンが無い?
一番多用してる痕跡があるのは、レンジと電気ポット、それにヤカンか……)
台所は料理の道具を壁に並べられる、一応棚にも入れられる、そういう構造になっていた。
木村家は料理道具を全て壁に並べているようで、ほとんどの料理道具は壁に見えるのだが、包丁が見えるのにフライパンはない。
マーニーの家も父子家庭だ。家事を普段からやっている彼女には、なんとなく気になるものが見えているらしい。
「ナイスボール! いいぞその感じだ! 投げる時はそんなに足開かなくてもいいぞ!」
真面目に気を張って分析していたマーニーだが、木村家の方からマーロウのよく通る声が聞こえてきて、なんだか気の抜ける心持ちになってしまう。
しかも子供から話を聞くため、子供の心を開かせるために始めたキャッチボールに熱中しすぎたらしく、家から出て来た木村家父と顔を合わせてしまっていた。
(探偵が調査対象者と会ってどうすんの!)
マーニーは心中にて叫んだ。
「すみませんね、うちの息子が」
「いえいえ、俺は子供が一人で遊んでるのが気になっただけですんで」
これでマーロウは迂闊に行動できまい。
何度も彼に姿を見られれば、"最近うちの周りをうろついている怪しいやつ"と認識されて調査に参加することが難しくなってしまうからだ。
マーロウは取り繕って、子供にひと声かけて立ち去っていく。
「忘れんなよ坊主!
キャッチボールは自分の気持ちを投げて、相手の気持ちを受け止めるんだ!」
「うん!」
去り際のマーロウのその言葉が、異様に危うい雰囲気を纏っている木村家の父の心に、不思議な感傷を引き起こしていった。
「……気持ちのキャッチボール、か」
「パパ?」
「なんでもない。そうだな、もう最後なんだ、お前とちゃんと遊んでやるべきか」
父と子は一緒に遊び始め、マーロウはマーニーに電話で怒鳴られ呼び出される。
「もう何やってんの!」
「悪いな、収穫もあんまりねえ。
核心的なところを聞こうとするとあの子だんまりでな。
時間かけて心開いてやらないと、本当のところは何も教えてくれなさそうだ」
「しかも収穫なしって!」
「ただ、何かあるってことは確信が持てた。これは依頼人の勘違いじゃなさそうだ」
む、とマーニーは口を噤む。
「子供が
『お父さんは正しいんだ』
って自分で言い聞かせるように言ってたんだ。
普通に暮らしてる子供の口からは、滅多に聞かない台詞だと思うぜ」
事件が起こるか半信半疑だった彼らが、事件が起こる可能性をしかと認識した瞬間だった。
二人仲良く公園から見張りをする二人をよそに、ロイドは車内で警察の人間と連絡を取っていたらしい。
"警察から面白い話を聞けた"と、ロイドに二人は呼び戻され、車に乗って動きのない木村家から離れていた。
「警察に毛利って知り合いがいるんだ。
確認を取ったが、特に事件の報告があったわけでもないそうなんだ」
「今のところ手がかりになりそうな事件はない、と」
「だが、依頼の時に調査対象が居た村の場所を聞いただろう?
その村のことを話したら面白い話が聞けたんだ。
どうやらその村の老人が何人か、痴呆症などを理由にこちらに運ばれて来たらしい」
「なるほど、その人らに話を聞ければ……」
「ここに引っ越してくる前にあった出来事を、聞けるかもしれないね」
運転席のロイドの話を聞きながら、マーロウは助手席で
「田舎の村の方には既にバットショットを飛ばしてます。
距離を考えれば、もうそろそろスタッグに画像送信できる距離まで戻って来てるはず……」
バットショットは最高速を維持できれば、一時間ほどで片道60kmの道のりも往復可能なほどの速度で飛行する。
車で山中を走って一時間以上かかるような田舎村も、あらゆる信号・渋滞を無視し、曲がり道も回り道も無視できるバットショットならもっと早く着けるだろう。
バットショットは村全体を動画・画像でくまなく保存し、それを持って帰還する。
「マーロウ、バット君戻って来たよ」
「おお、戻って来……まさかお前、ゆりかのせいでそのあだ名定着仕掛けてるとかないよな」
バット君のために窓を開け、飛び込んで来たバット君を操作し、画像と動画を確認してマーロウは目を見開く。
「ロイドさん、マーニー、この村……既に廃村だ。人っ子一人見えやしねえ」
「「 ! 」」
誰も居ない村。
病院に運び込まれた痴呆老人。
殺意すら感じるほどに険悪な二つの家族。
ロイドはハンドルを握る力を強め、病院に到着してすぐに二人を降ろした。
「これは思ったよりヤバい案件かもしれない……二手に分かれて調査を急ごう。
僕はこの廃村に向かってみる。マーニー、マーロウ、病院での聞き込みを頼めるかな?」
病院での老人への聞き込み、村での現地調査。
ここで必要になるのは、離れていても発揮される連携力。
「マーニーにおまかせを」
「分かりました。ボケ老人相手に聞き出せるか分かりませんが、やってみます」
「頼んだぞ」
ロイドは半分閉じた車窓から拳を突き出し、マーロウの胸に軽く当てる。
「マーロウ、くれぐれもマーニーを頼む」
「オヤジさんに貰ったこの名前にかけて、必ず」
父親から娘を預かったという責任感を胸に抱き、車椅子を押すマーロウ。
休日だからか、患者を入院させる設備も整っているその大病院は、かなりの数の人でごった返ししていた。
「私が受付行って病室聞いてくるから、マーロウはちょっと待ってて」
「ああ」
対人演技・会話能力・嘘をつく技能で言えば、マーニーはマーロウの数段上を行く。
素の自分で接して仲良くなる技能ならマーロウの方が上だろうが、嘘をついて入院患者の老人に話を聞ける状況を作るなら、マーニーが話した方がいいだろう。
マーロウはマーニーを常に視界に入れつつ、病院内をうろつく。
「って危ねえ!」
が、そういう時にも誰かの危機に駆けつけてしまうのが彼だ。
階段から落ちそうになっていた車椅子と子供が目に入り、考える前に彼の体は動いていた。
高い瞬発力が風のように体を動かし、ひっくり返った車椅子から落ちて来た子供を受け止める。
そして階段上に跳ぶように現れた白衣の男が、車椅子を上から掴んで落ちるのを止めた。
この手の車椅子落下事故は、重い車椅子ともみくちゃになって階段を落ちて行くので、本当に凄惨な事故現場になることが多いのだが、マーロウと白衣の男のおかげで子供には傷一つ付いていなかった。
「ひゃ、ひゃっ、あ、ありがとうございます……!」
「せ、セーフ……!」
「セーフ、セーフ……!」
「あ、あんた、ここで働いてる人か。助かったぜ」
「いえ、こちらこそ助かりました……」
車椅子の子が礼を言い、マーロウと白衣の男も礼を言い合う。
「階段の近くでは気を付けなよ、って皆いつも言ってたよね?」
「す、すみません、ぼくよそ見してて……」
どうやら白衣の男はここで働いている人間らしい。
子供を軽く叱って、子供をしょんぼり反省させていた。
子供を叱った後は、マーロウに頭を下げてくる。
「すみません、こちらの監督不行き届きで……」
「あんたのおかげで助かった命だ。胸張っていいと思うぜ」
謝る彼の肩を叩き、マーロウがそのインターセプトを褒め称えると、横合いから子供が飛び出してきた。
顔つきが白衣の男によく似ている。親子なのかもしれない。
「そうだよパパ!」
「お前のパパか? もっと褒めてやりな。この人は今、一つの命を救ったんだ」
「いや、そんなに褒められると……まいったな……」
照れる白衣の男を尻目に、車椅子の子は去っていく。
「本当にありがとうございました!」
子供の言葉に少し売れそうに鼻下をこするマーロウだったが、その時不意に白衣の男が胸に付けたネームプレートが目に入り、事務所で見た写真を思い出した。
服が違うからすぐには分からなかったが、この男は……
(……こいつ、さっき行った家の親子と険悪だっていう、林家の親子じゃねーか!)
しかもよく見ると、木村家の父親に感じた危うい雰囲気をこの男からも感じる。
依頼者が言っていた「殺気があった」という評価にも納得の雰囲気だ。
またしても調査対象にうっかり見つかってしまったマーロウは、林家の親子との会話を打ち切るべきか、ここで深く探るべきか、一瞬迷う。
直感は探るべきではない、と言っている。
「当病院には誰かのお見舞いでいらっしゃったんですか?」
「あ、ああ。まあな。そっちは子連れで仕事してるのか?」
「いえ、私はここでの仕事。この子は見舞いを終えて帰るところです」
「うん!」
そして直感を信じ、会話を打ち切った。
「ありがとうございました、それでは」
「じゃーね帽子のお兄さん!」
ああ、これはあいつに怒られるだろうな、とマーロウは思った。
親子と別れ、振り返ると、少し離れた場所で他人のフリをしているマーニーが居た。
マーニーは責めるような目つきで、マーロウを見つめていた。
「……だから調査対象者と顔合わせるなと……」
「俺としたことが、こうも連続にうっかりミスっちまうとはな」
「……マーロウは、大一番以外では結構うっかり多くない?」
「言うな!」
またしても調査対象者に見つかったマーロウに呆れ、マーニーは窓の外を見る。
八月の空から、ぽつぽつと雨が振り始めていた。
雨粒が数を、大きさを、勢いを増していく。
痴呆で入院した老人から話を聞くことは難しかったが、マーニー&マーロウのコンビにかかれば一時間半ほどあれば十分だ。聞きたいことはまるっと聞けた。
ロイドも車を飛ばしたおかげか、現地での調査を既に終えたらしい。
マーロウとロイドは、電話で情報交換を行う。
マーロウは真実に辿り着いていた。
ロイドも真実に辿り着いていた。
だから情報交換はただの確認作業でしかない。
確認作業を経て確信に至る。彼らが辿り着いた真実は、やはり同一のものだった。
「……マジっすか。警察には?」
『連絡してある。これはもう、本来探偵だけで丸く収められる事件じゃないな』
「ですが俺達も放ってはおけねえ。依頼を途中で投げ出すわけにはいかねえはずです」
『……かも、しれないな』
「今ガジェットを全部動かして二つの家族を探してます。まだ見つかってませんが」
『マーニーは?』
「俺の近くに。流石にこの状況でマーニーを一人にさせるのは怖いんで」
『そうか。娘を守ってくれてありがとう』
この事件が始まってから、どうにもロイドの様子が変だとマーロウは感じる。
言葉のニュアンスや、行動の選択がどうにも違和感を感じるのだ。
特にマーニーに対する行動や言動にマーロウは特に大きな違和感を覚え、ロイドが娘のことを特に意識しているのでは、と推測してしまう。
「何かあったんですか? それともこの事件に何かあるんですかね?」
『どういうことだい?』
「ロイドさんの様子が、なんつーかおかしかったんで」
気にしなくてもいいことを気にするから、"自分には関わりのないことだ"と切り捨てられないから、ハーフボイルドと天に呼ばれてしまったのだというのに。
心配そうにマーロウが声をかけてくるものだから、ロイドは電話越しに苦笑してしまう。
『彼らが両方共に父子家庭だから、他人事に思えなかったのかもしれないな』
面と向かっては話せなくても、電話越しになら話せることがある。
『僕は昔酷い父親だった。
いや、今も変わらないかもしれない。
昔警察官だった僕は、その仕事に誇りを持っていた。
妻も僕も仕事に熱中しすぎた挙句、幼いマーニーを家に一人残してばかりだった』
「最低だったんすね」
『うっ、ストレートに言うなぁ』
「ロイドさん自身が最低だと思ってるんじゃないですか?」
『……それもそうだ。君の言い分は正しい。
娘の呼びかけを鬱陶しく思って、怒鳴ってしまったこともあった。
あんな最低なことを平気でしていた僕は……正義の味方気取りで居たんだろう、きっと』
正義の味方は優しさを忘れてはならない。流れる涙を見逃してはならない。
そうでなければ、正義の犠牲になった者は泣くしかないからだ。
……ロイドが語ることはないだろうが。ロイドが娘を任せるほどにマーロウを信頼する理由は、
『そんな時、"メカニック"って犯罪者が起こした事件にマーニーが巻き込まれたんだ』
「メカニック?」
『記憶喪失の君は知らないだろうな、その名前を。
それが引き金になって、僕は妻と別居した。
僕は部下を殺された責任を取って警察を辞めた。
今の事務所、町外れのボロ屋だった所に引っ越さないといけなくなった。
マーニーはよくないものを色々と見てしまって……笑えなくなってしまっていた』
「……」
『マーニーが笑うようになったのは、ゆりかちゃんと会うようになってからだ』
自責の念。ゆりかへの感謝。妻への複雑な感情。マーニーへの罪悪感。正義への後悔。
電話越しにも伝わる複雑な感情が、マーロウに"彼という父親"を理解させていく。
マーロウはロイドをお人好しで穏やかで娘を溺愛する父親、という印象を持っていた。
だが彼はそうなるまでに、随分と遠回りをしてしまっていたようだ。
『だから決めてるんだ。
子供を泣かせる親を見逃さないようにしようと。
泣いている子供が居たら、それを見過ごさないようにしようと』
ロイドは探偵として、父親として、本気でこの事件に臨んでいる。
マーロウは、それが何故だか嬉しかった。
「ハードボイルドですね、オヤジさん」
『……ありがとう、マーロウ』
通話を切って、窓際から外を見る。
雨脚は段々と強くなってきていた。
夏場のじめっとした空気が、陽光を遮る分厚い雲が、不快指数を跳ね上げる雨が、無性に不安をかき立てる。
「パパとの電話終わった?」
「おう、終わったぞ」
マーニーはマーロウと話したそうに近寄って、開けた窓に近寄ったところでマーロウに押し戻される。
「もうちょい下がれ、雨が当たる。女の子が濡れてもいいことねえぞ」
「おっ、その行動はポイント高いよ。普段からできれば」
「何のポイントだよ……」
だがマーロウの視線はマーニーの頭部に向かう。
「しっかしお前の頭湿気で凄いことになってんな。モンジャラみてえだ」
「どーしてそういうデリカシーの無いこと言うかなこのハーフボイルド!」
だからお前はモテないんだ、と暗に言うマーニーのハーフボイルド呼びに、「なにおう」とマーニーは食って掛かる。
「……パパ、何か言ってた?」
「推理の答え合わせ。それと、お前を守ってくれってよ」
「そ」
「何があろうとお前は守るさ。お前が大怪我でもしたら、涙を流す奴が多過ぎる」
マーニーは少し嬉しそうにして、けれどそれを隠すため、話題を戻すフリをして話題を変える。
「パパの話だけどさ、昔は『僕』とか言ってなかったんだよね」
「そうなのか?」
「今でも昔の知り合いに会う時は『オレ』って言ってたり」
「へぇ……」
「パパは気にしいなのさ。昔のことをずっと気にして、引きずってる」
「……」
「私はパパのことを嫌いだと思ったことはあったけど、好きでなくなったことはなかったのに」
プラスの感情は、マイナスの感情が生まれたからといって消えるわけではない。
マイナスの感情は、プラスの感情から生まれることもある。
人はシンプルな想いだけでは生きられない。
「パパとママの道は別れちゃったけどさ。
でもパパもママも、互いへの愛が無くなったわけじゃない。
ただ、そのまま一緒に居たら両方共幸福になれなかった。それだけなんだ。
子供の頃の私はそれが分からなくて、納得できなくて、何度も癇癪起こしてたなあ……」
ロイドとマーニーは、最初から何の欠点も無い親子関係ではなかった。失敗があり、間違いがあり、罪があった。罪を数えて、償いと反省の先に出来上がった親子の関係があった。
「でも今は、そうじゃない。そうだろ? マーニー」
「もう何年も前のことさ。マーロウとも出会ってないくらい前、何年も前のこと」
ロイドとマーニーという父子は、木村と林という家の父子を救おうとしている。
マーロウは探偵親子のその意志を、絶対に形にしようと決意している。
彼の手の中でスタッグフォンが震えた。
デンデンセンサーが雨の中、調査対象者を見つけて知らせてくれたようだ。
こんな雨の日には、カタツムリの活躍がよく似合う。
「見つかったぞ。さあ、止めに行くぜ」
雨の中、二人は傘を握って踏み出した。
「入院した村の老人の話と、パパが村で見つけた日記が、私達に真実を教えてくれた」
「村っていうのは、時に壁が無いだけの閉鎖空間になってしまう」
「村八分という言葉があるように、閉じた空間は世界から切り離された異常な世界を作る」
「その村もそうだった……らしい。私は、それを直接見たわけではないけれど」
「始まりは村に残った二つの家族の対立だった」
「村が好きで最後まで残った若い夫婦を含む、二つの家族。家族構成も同じだった」
「祖父母が一組、夫婦が一組、そして息子が一人。木村家、林家、両方の家族がそうだった」
「最初は木村家がきっかけだったらしい。木村家の祖父母が林家の家族を不快にさせた」
「でもそれは個人の感性で判断が別れる程度のもので、木村家は悪口を言ったつもりは無かった」
「そして林家が嫌味を返す。木村家からすれば、突然の悪口だ。不快になったことだろう」
「悪口はエスカレートし、互いの家族が互いを憎み合うまでになった」
「そして、その日が来た。林家の祖父母が、木村家の車の鍵を肥溜めに捨てたんだ」
「店も無い田舎だ。買い出しに使う車を使えなければ、餓死するしかない」
「林家の祖父母は、それで木村家が泣いて謝ると思っていた」
「自分の家の、林家の車を借りに来ると思ってたんだ。それで鬱憤を晴らそうとした」
「でも、違った。木村家の祖父母は、それを林家の殺害宣言だと受け取った」
「飢えて死ねと言われていると、そう思ったんだ」
「だから木村家の祖父母は、林家の祖父母を殺した。殺される前に、殺したんだ」
「おそらくは、自分の家族を守るために」
「木村家の祖父母が林家の祖父母を殺した。
その反撃で、林家の奥さんが木村家の祖父母を殺した」
「鍵を肥溜めに捨てたくらいで人を殺すなんて、ともっともらしい理由を付けて」
「林家の奥さんが木村家の祖父母を殺した。
だから、木村家の旦那さんと奥さんが林家の奥さんを殺した」
「もうここまで来るとパニックだ。
『あいつらが悪いのに』『家族が殺された』『殺される前に殺さないと』
とほぼ全員が思っていただろうね。そしてこの村に、暴走を止める警察は居ない」
「林家の旦那さんは、ここで切れた。
愛する妻を殺された林家の旦那さんは、木村家の奥さんを殺し返した」
「両方の家の祖父母と奥さん、合計で六人が死んだ。
パパの調べによると、家の裏に埋められた六人分の死体が見つかったらしい」
「もう警察にもそれは通報された。明日には大変なことになっているだろう」
「心的ショックで痴呆が進んだケースもある。
痴呆老人の入院は、この惨劇を見てしまった心的ショックが原因だったんだ。
事件の目撃者の総入院。これが最終的に村から全ての人を消すトドメになった」
「林家の旦那さんは、ここでほんの少しだけ正気に戻った。
だから逃げるようにして村を出て、昔のツテで病院に勤めるようになった」
「木村家の旦那さんはそれを許さなかった。
スペアキーで車を動かし、すぐに林家を追って引っ越しした」
「だから木村家には
カップ麺やレトルトを作る道具ばかりに使われた跡があった。
そりゃ当然だね。木村家の方の引っ越しは、突貫工事にもほどがあったんだから」
「木村家が追ってきて、林家も腹を決めた。
こんなにも諦めず追ってきて殺しに来るなら、逆に殺してやるんだ、ってね」
「林家は木村家が全部悪いと思ってる」
「木村家は林家が全部悪いと思ってる」
「互いを憎んで、家族も皆死に、家族の仇すら多くがもうあの世に行っている」
「これが真相」
「彼らは両方が被害者で、加害者で、復讐者だ」
雨の中、二人の男が対峙する。
自分が幸せに生きる道も、愛する妻も、目の前の男に奪われた哀れな二人だ。
木村と林という違いはあれど、それ以外は全てが同じ。
もはや復讐をしていなければ、彼らは立っていられない。
「お前に殺された妻は! 俺の子を身ごもっていたんだ!
お前は……俺の妻ごと、俺の新しく生まれてくるはずだった子を殺したんだ!」
男が叫ぶ。
「お前に殺された私の妻は、物心ついた時から一緒だった!
最初は幼馴染で、その後が妻で……親よりも長い時間を一緒に過ごした、半身だった!」
男が叫ぶ。
「祖父母をお前らに殺された後の、俺の息子の涙が、忘れられない……!」
男が叫ぶ。
「まだ親孝行も何もしてなかったんだ! 私も妻も、老人になったあの二人を、ずっと……!」
男が叫ぶ。
プラスの感情は、マイナスの感情が生まれたからといって消えるわけではない。
マイナスの感情は、プラスの感情から生まれることもある。
人はシンプルな想いだけでは生きられない。
家族を強く愛しているものほど、家族を殺されれば大きな憎しみを抱くだろう。
この復讐劇の殺し合いに、正義はない。ハッピーエンドも無い。
現場に辿り着いたマーロウとマーニーは、彼らにかける言葉を見つけられずにいた。
雨は降り続いている。
雨の中、木村と林が包丁を突きつけ合っている。
マーロウは傘を閉じ、雨のシャワーを防いでくれる帽子に感謝しつつ、閉じた傘をマーニーに渡す。
「マーニー、ここを動くな。絶対にあそこに近付くんじゃねえぞ」
「……マーロウ」
「俺達にできることは……」
マーニーを離れた安全な場所に置き去りにして、マーロウは歩を進める。
何を言えばいいのかも分からない。
何をすればいいのかも分からない。
ただ、何もしないことだけは、その心が許さなかった。
雨に濡れるマーロウが、二人の男の間に割って入る。
「何だお前は! ……いや、お前は、息子とキャッチボールをしていた……」
「邪魔をするな! ……あ、お前は、病院で車椅子の子を助けていた……」
包丁を突きつけ合う二人の間に割って入ったマーロウは、二人の包丁を強く握った。
「!? ば、バカなことはやめろ!
そんなことをしたら、下手したら一生消えない後遺症が……」
包丁は動かそうとしてもピクリとも動かない。
マーロウが包丁を握る手から血が流れ、降り注ぐ雨の中に溶けていく。
木村と林の脳裏に、自分の家族が殺された時の光景が……『何の罪もない人間が殺された時』の光景が、苦悩と共にフラッシュバックする。
「やめろ……やめてくれ……!」
虫も殺せないような人間も、憎しみがあれば人を殺せる。
逆に言えば、人を殺した人間でも、憎しみを剥げば人を殺す覚悟さえない人間に戻せる。
マーロウの流した血と赤い想いが、地に流れて彼らの正気を引き戻していた。
「あんたらが互いを傷つけようとする限り、俺は間に入って止める。何度も、何度でも!」
この包丁が人を傷つけるために持ち込まれたなら、自分以外の誰も傷付けさせはしない。
それが、マーロウが胸に秘めた覚悟であった。
「ただし、覚悟しろよ。お前らの復讐相手と違って、俺は簡単に刺し殺されてなんてやらねえぞ」
二人が気圧され、包丁を手放す。
マーロウも包丁を手放せば、血塗れになった二本の包丁が、流れた血で真っ赤に染まった泥の中にボチャリと落ちて行った。
「い、痛くないのか……?」
「痛えに決まってんだろ……だがな!
あんたらの秘密と家族のことを知った心の痛みに比べりゃ、大したことねえんだよ!」
「―――」
「こんな痛みをこれ以上増やしてたまるか。あんたらにこれ以上罪を重ねさせてたまるか!」
雨がぶつかるマーロウの顔が、何故か泣いているように見えた。
手から流れる赤い雫が、何故かマーロウの涙に見えた。
この男は自分達のために泣いてくれているのだと、木村が思った。林も思った。
「根っからの悪党じゃない人が!
薄汚え欲望で罪を犯したわけでもねえ人が!
憎しみに背中を押されて罪を重ねちまうなんて!
……悲しいだろ! 誰も救われねえだろ! 誰の涙も止まらねえじゃねえか!」
マーロウは、救われて欲しいのだ。
それが殺人という罪を犯してしまった男達であったとしても。
「その気持ちは嬉しい。だが、もう、止まれるものか……!」
血塗れのマーロウに心を打たれ、されど復讐者達は止まらず、懐からナイフを抜く。
マーロウは血塗れの手で拳を握り、なおも二人の復讐の刃をその身で止めようとする。
そんな彼を見かねたのか、マーニーまでもが突っ込んできた。
「無茶しないでマーロウ! そういうのホント困るから!」
「マーニー! 危ねえからこっち来んなって言ったろ! お前に何かあったらオヤジさんに……」
「じゃあマーロウが無茶するのやめなっての!
パパはマーロウに『大怪我してでもマーニーの安全優先』なんて絶対言ってないでしょうが!」
マーニーはマーロウから預かっていたメモリガジェットを全て起動し、自分の肩や頭や膝の上に乗せている。
マーロウが救われない者達のためにここに立っているのなら、マーニーはマーロウを守るためにここに居る。
「……あ」
そんなマーニーを見て、林と木村は思い出す。
自分を守ろうとして、自分を庇って殺された妻の姿を思い出す。
マーロウを守るマーニーの姿が、夫を守る妻の姿と重なった。
復讐心が吹き出すが、復讐心よりもよっぽど大きい悲しみが、心の全てを塗り潰す。
悲しみが手を止め、足を止める。
止まった父親の背中に、隠れてこの復讐劇をずっと見ていた二人の子供が抱きついた。
「パパ、もうやめて!」
「パパ! 嫌だよもうこんなの!」
「なっ」
「な、なんで……」
息子にまで止められてしまい、彼らの中に燃えていた復讐の炎は、決定的に熱を失ってしまう。
そして村から車をかっ飛ばして来たロイドが、遅れて現場に現れる。
「頼む。その刃を、下げてくれ」
ロイドは一人の父親として、妻の敵討ちをしようとする二人の父親に、言葉を渡した。
「子供はいつだって親の背中を見てる。
親の失敗を、親がしてしまったことを覚えている。
あなた達も人の親なら……子供に見せる『父親の姿』くらいは、選んでくれ」
本物の父親にしか言えない言葉。
心揺らがす、実感のこもった言葉。
それが、男達の手の内からナイフを滑り落とさせた。
涙が流れる。
復讐相手を許してもいない、復讐心も悲しみも消えてはいない、怒りにまだ心を蝕まれている、なのにもう復讐を続けることができなくなった……そんな男達が流す、心の涙だった。
「うっ……ううっ……ぐっ……くうぅっ……!」
マーロウはやりきれない顔で、彼らに最後の一言を送る。
「あんたらの復讐は終わりだ。……さあ、お前達の、罪を数えろ」
数えられた罪が、いつの日か全て償われることを願って。
父親の探偵