社会人になって思うこと、それは休みがあろうがなかろうが一日は24時間で一時間は60分で・・・、要するに確実にそれは平等に過ぎていく。
眠くなるし腹は減るし
会社は祝日は休みにはならない。
表に出している休日は『日曜・年末年始』で祝日は営業だ。
編集は業務の関係で土曜に休む場合が多いけど営業や物流はそういうわけにもいかず、ましてや広報などは月曜から土曜まで時間をきっちり公表してフリーダイヤルを開けている。
しかし編集だって土曜に休むことが多いとはいえ、校了前は曜日関係なく業務をするし、イベントがあれば日曜の休みもつぶれる。
人数の少ないエメラルドは、イベントともなれば担当関係なく駆り出され、結果年休の消化もままならない状況になっている。当然有給消化までは手が出ないけど、過労死出すのは真っ平だし過酷な重労働でブラック企業認定、労働基準監督署に目をつけられたくもないという井坂さんの方針で、年末年始は強制的に一斉に休みになっていて、祝日があるわけでもない夏休みの場合も有給がつくので各自部署内で調整をして休む。
消化しない場合は休みを取らなかった報告書の提出が義務付けられているほどの徹底ぶりはさすがに井坂さんと言わざるを得ない。
そうしなきゃ状況的に休みなんて取れないからね。
しかし一方で、会社の義務としての全国的なお休み『年末年始や盆休みと』異なるゴールデンウィークは、有給が付くわけでもないために会社としての休み押しはない。
祝日だから取次会社、特にグッズ関係の会社などは長期で音信不通になり、週刊誌は合併号になったりするがエメラルドは月末発行の月刊誌なのでその期間も通常運転だ。
それでも今年のエメラルド編集部では夏休み同様部署内で交代で休みを取る事になった。
小さい息子さんのいる美濃さんと、ご本人の希望で木佐さんはカレンダー通りに休んで、わざわざ祝日に休みを取る理由のない俺や羽鳥さんは一応ゴールデンウイーク明けに休みを取る事にした。
これには理由があって、高野さんが都合で一週間ほど休まざるを得なくて、ついでだからと有給休暇を使うチャンスがあまりないので等しくそうしようと決めたのだ。
特別な用事のない俺は連休を取らなくてもいいのだけど、休む人たちが心苦しく思わないような配慮も含んでいると思ったため、『休まない理由』もないので従うことにした。ワークホリックではない。年末年始などはなんとなく気忙しいけど、今のシーズンならやれることはいくらでもある。
部屋だってすぐにカオスになるし・・・。
そもそもの高野さんの用事とはおばあさんの七回忌の法要だそうだ。
そのために連休が終わった週明けの月曜日から一週間留守をすることになっている。
日程的にはエメラルドが校了を迎える少し前になる。
二人きりの時に『連休にやれればよかったのだけど集まる親戚の都合がつかなくて』と少し面倒そうに言っていたのが思い出される。
以前香川の旅行の時に高野さんと一緒におばあさんのお墓にお参りをした。
本当は今のこの状況をおばあさんの墓前にもご報告をさせていただきたいと思うのだけど、可愛い孫がこんな男に引っかかったって知ったらビックリさせてしまうだろうと思う気持ちもあるからそのあたりはもう少し時間をかけた方がいいのだろうな・・・。
逆に何もかもお見通しだったら申し訳ないな・・・。
お空の上ではどの程度情報が開示されているかわからないけど・・・。
高野さんはその場所のことを『居心地は悪くなかった』と言っていた。でも実際のところ高野さんにとってあの時期とはどんな心情だったのだろう。
俺が心を死なせたまま過ごした時期、高野さんは家庭の色々なこともあってどうにもできないままにあの場所にいたはずだ。
失恋したと思い込んでいた俺と異なり、決定的な何かの無いままにただいなくなった俺の事は(回し蹴りをしたらしいけど・・・。)先輩の心の中にどの程度のウエイトを占めていたのだろうか。探したとも言ってくれていたぐらいだから少しは恋しく思ってくれていたのだろうか・・・。
香川に住んでいた時には杏ちゃんのことは知らず、つまりはまだ二股疑惑は発生していなかったはずだ。
嵯峨先輩が高野さんとなっておばあさんの家に行く事になった時、俺がまだ先輩と付き合っていたなら俺はどうしただろう。
泣いて行かないでと先輩に縋っただろうか?
いや・・・、俺にそんなことを言えるわけがない。心の中では嵐のように感情を暴れさせても悲しみを堪えて先輩の下した決定を受け入れ、行ってらっしゃいと作り笑顔で言っただろう。
では先輩はどうしただろう。
それ自体は諦めの感情だったとはいえ、両親に対して物分りの良い息子だった先輩が行きたくないとわがままを言ったりはしなかっただろう。
だからやっぱり香川には行ったに違いない。
必ず戻って来ると俺に約束を残してくれただろうか。
香川という言葉を聞いてから、俺はずっと昔・・・、まだ織田律だった頃の自分に戻ったような気がして『もし、そうだったら』と、そんな事ばかりを考えている。
そしてまた高野さんも思うところがあるようで、旅立つ日まで、二人の間にはなんとなくぎこちない雰囲気が流れていた。
夜も『お前を抱きしめて眠りたい』と言った高野さんは、しかし俺を引き寄せても身体を求めることはせず、まだストーカだった俺が恋した遠くを見ている嵯峨先輩のような黒目勝ちの瞳をしていた。
そして法要が近づくほど高野さんは俺に強くは触れようとせず、ここ数日は俺の方が抱きしめるような姿勢で寝ていた。
弱い人・・・。
その弱さが俺の中のオスを呼び覚まし、俺は触れ合う以上の行為に進めない今の距離に辛を感じた。あなたを俺の中に
旅立ちの時、瞳で挨拶を交わすと高野さんは何も言わず俺の頬をサラサラと撫でたあと、勢いよく俺の身体を引きギュっと強く抱きしめた。
その瞬間は久しぶりの強引さに驚きを感じたものの、愛しい人からの抱擁に緩く身を任せる。高野さんの顔が目の前に落ちて来て、俺の唇は先ほどの強引だった人のモノとは思えないほど優しく塞がれ、続きを促すように軽く唇を開くと高野さんは唇をスッと放した。
不満げに眉を
駅まで送るという俺からの提案は仕事もあるために前の晩に却下されていて、見送りは玄関でとなった。
高野さんは荷物を抱えドアを出る前に一度振り返り、じゃあ行ってくると張り付いたような笑い顔で言い、俺はそれに対して励ましの言葉も粋な返事も返せずに、高野さんの肩を軽く一回さするように叩いて「気をつけて行ってきて下さい。」とだけ告げたのだ。
高野さんが向かった場所は峡差峨先輩と高野さんが邂逅する場所だ。
いくら恋人とはいえ血筋ではない俺がうかつに関わることなどできようがない。
特に今回は親族でなにやら少し込み入った話があるとのことで、法事のあと数日高野さんは滞在すると言っていた。
そして当然だけど法事には疎遠になっている高野さんのお母さんも来る。別段虐待をされたというわけでもないのに、俺はその人に少なからず負の感情を持っていた。
冷静に考えてみれば、当時の夫婦は離婚間近で不和、女性としてはバリキャリで仕事に脂が乗っている時期に反抗どころかさして文句も言うことのない優等生の息子に気持ちを割く余裕などなかっただろう。
親とて人の子なのだ。雑事があればあるほどそちらに気がそがれる。キャパは人それぞれでも有限だ。そのときの母親に子の寂しさをなぜわかろうとしなかったと責めるのは酷なのだろう。
でも、俺にはそれを受け入れる事はできない。俺が高野さんにした仕打ちは棚上げにしても・・・。
高野さんが行ってしまってから俺はずっとあの弱々しい人を一人で行かせてしまったことを後悔し続けている。
確か、法事の前日に到着するように出かけると言っていたからもう法事は終わったのだろうに、送ったラインメッセージは既読にはならないし電話をしても高野さんがそれに出ることはなかった。
あまり頻繁にメッセージを送るのも迷惑だろうと思って、結局俺は翌日から連絡を取る事をあきらめた。
込み入った話があると言われていたのだ、気持ちの余裕がないのだろう。何か面倒なことで時間を取られているのかもしれない。
俺は必死でそう自分に言い聞かせ続けた。
本当は・・・、たとえ俺からの着信が他の履歴に埋もれてしまうことがあってもラインのメッセージはそんなことはない。俺のページをみれば一目瞭然だ。
辛い内容の話だったらなお更高野さんは俺に連絡をくれるはずだと思い込んでいた。
それは高野さんは必ず俺のところに帰って来るという愛されている事へのうぬぼれで、そして今その自信は不信に塗り替えられようとしている。
結局高野さんからは電話どころかメッセージの一つもなく、明日で高野さんの休みも終わるのだ。
はじめは高野さんが帰ってくる日は高野さんの家で到着を待っていようと思っていた。
でも高野さんが俺を避けている今、俺の居場所は急に宙ぶらりんに感じ隣の部屋への距離がひどく遠く感じる。
俺に触れようとしなかった間、高野さんは何を思っていたのだろうか。俺に縋っても俺を腕に収めても俺では高野さんを癒してあげられないということだったのかもしれない。
そうして俺は今もまだ送ったラインメッセージは既読にならないことに絶望し続けているのだ・・・。
どうして?
なんで?
モヤモヤとした思いが膨らんで、だんだんと嫌な色のモノが形成されていく。
高野さんがいないだけで俺はこんなに弱くなっている。高野さんが信じられなくなって、世界に自分が只一人で取り残されたような気になっている。
明日、高野さんが帰ってきたときに高野さんはどんな顔をしているのだろうか。俺はどんな顔をして会えばいいんだろう。
高野さんがいない間、抱きしめて眠っていた高野さんのパーカーからはもう愛しい人の香りはしない。もはや抜け殻と化した布切れは不要な暖しか与えない。寂しくて悲しくて高野さんの吸っているタバコに火をつけて煙を吸い込んでみたけど、むせてしまって涙しか出ない。
一人で生きていた時、俺はどうやって一日を過ごしていたのだろうか。
もしこのまま俺など要らないと告げられた時に俺はどうやって俺を形成していけばいいのだろうか。
今回は俺と高野さんとは休みはずれている。
周りの希望優先で休みを入れたので、俺の一週間の休みは今日始まった。幸いにも今回先生たちは無事に入稿を終えてくれていて、デッドな入稿が定番の吉川先生さえも無事に原稿を上げてくれたのだ。
しかし・・・、俺は自分の休みについてどう予定立てるべきなのかをずっと決めかねていた。
高野さんは帰ってくる日を俺に告げずに行ったのだ。
俺はあなたの帰りを待っていない方がいいのでしょうか。
ため息ばかりが静かな部屋に積み重なっていくように感じた・・・。
▽
旅にでかけよう。
そう思い立ったのは相変わらず既読にもならないラインアプリを開いて確認をした直後だった。
高野さんがいない間、俺は仕事が忙しいにも関わらず無心で部屋を片付けた。
いらないものはきれいに処分して、
本も本棚にきちんと並べ、食器も大きさ順にきれいに積んだ。
窓の桟の埃をきれいに拭いて、ラグとカーテンを爽やかな生成りに変えた。
特に朱子のリネンの布帛のカーテンは、オーク色で形成された少し暗めの印象だった部屋をなんとも涼し気に変え、主の俺でさえまるで自分の部屋じゃないみたいに思わせてくれた。
常にスマホを持ち歩いて一秒ごとに既読にならないラインを確認するのには疲れた。いつから人は待つことができなくなったのだろうか。
注文した商品は翌日には届き、連絡をすれば時間単位で返信は来る。
交通手段もなく、遠方との通信手段も郵送しかないような昔、人ははどのような心情で便りを待ったのだろうか。
もう携帯を見たくない・・・。
片時も放すことの無かった携帯の電源を落として、洋服を入れてある木製のチェスとの一番奥に押し込むように仕舞い、とにかくこの監獄のような自室から外に出かけることを決めた。
さてどこに行こうか。そう思いながら最寄り駅に来た。
ゴールデンウイークも明けて夏休みにはまだ日がある。平日の昼間、独りならば新幹線の空席も探すほどでもないだろう。苦しい恋心には鉄道の旅が似合いそうな気がする。
いったいどれくらいの時間乗れば自分が気が済むほど遠くに行けるのだろう。そんな事を思いながら行き先を告げる電光掲示板を見つめていると、また高野さんのことが脳裏に浮かんだ。
どうして高野さんは俺を連れて行ってくれなかったんたろう。
どうして高野さんはあんなに辛そうだったのに俺に何も言わなかったのだろう。
湧き続ける疑問は、どんなに理性的な言い訳を自分に言い続けても納得していないことの証だ。
ずっと好きだと言われていたから俺はまたうぬぼれていたのかもしれない。
高野さんは恋の残り香に惑わされていただけで本当はもう俺のことなどなんとも思っていないのかもしれない。
もう俺はのことはいらなくなったんだろうか。
いや、はじめからいらなかったのかもしれない。
そう思いながら俺が俺に問う・・・。
疑うの?
疑ってるんじやない。違うんだ・・・。
ただ寂しくて、悲しくて・・・、ここに高野さんがいないことが、つらい・・・。
じやあ信じてるの?
もう絶対に離れないって信じてる?
信じてる?
信じたい。
信じてる?
信じてる・・・。
じやあ何でそんなに悲しい顔をしているのさ。
ガラスに映った自分の顔が苦痛にゆがんで見える。
昔、鼻で笑われたと思ったあの時・・・、俺は先輩に『お前なんていらない 』って言われたくなくて、決定的な事を確かめたくなくて、 先輩に会うのが怖くて、学校に行けなくなって、それでも心のどこかでは先輩はきっと俺を迎えに来てくれて、それは違うよって言ってくれると願っていた。
だけど 先輩はとうとう迎えには来てくれなかった。
もう苦しくて辛くて生きることにさえ絶望していたあの時でさえ、最後にどうしてももう一度顔だけでも見たくて、こっそり先輩の家に行った。
俺の事なんてなんとも思ってないって分かってたけど、それでも先輩の顔を見たかった。
それほど好きだった・・・。
だけど先輩は引っ越したあとで、初めて肌を重ねたあの家はそこにはいなかった。
もう本当に先輩に髪をさすってもらうことはないんだ。
律って呼んでもらうこともないんだ。
俺は本当に先輩にとってどうでもいい人間だったんだ。
突き付けられた現実は最後にほんの少しだけ残っていた願望を打ち砕いた。
先輩に好きだと言ってもらえない自分からも先輩と過ごした学校も、先輩を思い出す町並みも何もかもが怖くて、遠くに、できるだけ遠くにと逃げた。
そう、できるだけ遠くに行きたかった俺は
海を越えた・・・。
怖い・・・。
本当の事はいつも怖い。
やっと自分の気持ちを認めることができたのに、一人になるのは怖い。
何で俺も一緒に行くと言わなかったんだろう。
どんなにだめだと言われてもついて行けば良かった。
高野さんに会えないまま何かが終わってしまったら、そう思うと居ても立っても要られない。
国境をも越えて逃げたあの人を今は俺が痕跡を追う。
西に向かう。
もう一人だけで勝手に傷つくなんて嫌だ。
何があってもすがり付いてやる。
平日の昼間の新幹線は人の想いを乗せて高速で風を切って進む。どこまでたどりつけるんだろうか。車窓の外の景色はどの町もそれほど変わらず、たまに海になったり山になったりしている。
なのに冷静な俺はこんなところまで来てどうするつもりなんだと俺に問う。
お墓参りは高野さんに連れられてした事があるけど一人ではたどりつけっこないし、そもそもどこで集まりをしているのかも知らない。
おばあさんの家はもう更地になっていた。
どんなに高野さんに逢いたくて行ってもそこに今回もまた家は無いのだ・・・。
そう思ったら身体から力が抜け腹がグーッと鳴って、俺が空腹だったことを奇しくも俺本人にそう告げたのだった。
▽
その後俺は乗り換えをするはずだった駅で降りて街に出てその駅の近くをぶらりと散策した。
駅中を通り過ぎるだけのここの街では高野さんは市街地に降りたりはしていないだろう。そもそも今回は飛行機に乗ったのだからこんな回りくどい旅はしていないはずだ。
このあと海峡を越えてもいいのだけど、女々しい想いに振り回されている自覚が羞恥を生んでそれ以上先に進む気持ちを止めた。
逡巡した結果、俺は名物と書いてある料理店で一人で食事をして、同じく名物と書いてある土産物の団子の箱を一つ買ってから今日中に帰れるように元来た道を戻ることにした。
帰りの新幹線の車窓もやっばりどこの町も似たり寄ったりで変わり映えはなく、たまに現れる山や海は相変わらずきれいだった。
今の俺は彼から遠ざかっているんだろう、そう思うと不思議な気持ちになった。
人との距離はどこを起点にすれば適正なんだろうか。
そうか・・・、俺にとっての『彼』は、本当は関係ないんだな。
彼が帰ってきても帰って来なくても俺は俺の場所に居るしかないのだ。
俺の場所には多くの人が訪れて去って行くのだろう。その中には彼もいる。
仕事の人たちだって両親だってそちらに起点を置けば俺はその人たちにとってどの位置なのかと距離が気になるけど、自分を視点に自分からの目線さえしっかりしていればその距離感にも心地よさを感じるはずだ。
俺は彼を永遠に待つのかもしれないし、もう待つことをやめるかもしれない。
そして待つことをやめたからと言って俺の中のこの気持ちはなくならないし、彼にもう要らないと拒絶されようとも俺は俺のままでいればいいのだ。
いつだって俺の気持ちは
そして俺の中の気持ちは主語が自分以外の何かにすり替わるくせにそれを認められず、どんどん相手を追い詰めていく。俺の気持ちはあくまでも俺のモノなのに同等をもとめてしまう。
彼が揺れるのであれば俺はフラットでありたい。でも、竹のようにしなやかすぎて衝撃に反り返り打ち返すことはしたくない、水面のようにしぶきを上げることもしたくない。
物事の衝撃を多少の窪みを持って受け止められるような、クレイのような存在になりたい。
▽
新幹線は東京駅に定刻通りに到着した。さすがは日本の路線だ。一分のずれもない。自宅の最寄り駅に到着するように地下鉄に乗り換えるべきところを最寄りの駅とは違う駅を目指して俺は昔なじみの色の電車に乗り込んだ。
そして降り立った駅の出口から俺は古い記憶を頼りにその道を歩く。
桜並木は無い・・・。
アイボリーの薄手のセーターの背を俺はいつも見ていた。
セーターの網目の隙さえ見逃さないように、揺れる黒い髪の一房一房を焼き付けるように。
正面からの顔は見ることができなかった。覚えているのはいつだって揺れる髪の・・・、後ろ姿ばかりだ。
大きな建物は俺が通っていた学校。
俺も高野さんも卒業しなかったこの学校。
俺は未だにこの学校の門をくぐることができない。
留学のご挨拶に行った日、俺は一歩進むごとに足が震え呼吸が荒くなってしまってとうとう門から中に入ることができなかった。
見かねた母は俺を車に残して挨拶に行った。
一人取り残された俺は、『もうこの学校に来ることはない、何もかも忘れよう。そうすれば苦しい思いをしなくても済むのだ』と止まらない涙を袖口で拭き続けたのだった。
▽
マンションに戻ると、散々俺をヤキモキさせていた彼は帰ってきていたようで、見上げた部屋には明かりがついていた。
帰路では、彼から遠ざかっていると思っていたのに何のことはない、俺は彼を目指していたのだと思うと苦笑せざるを得ない。どこで交差したんだろう?俺と高野さんは?ばかばかしく感じるほどのオチに気が抜けながら、彼の部屋には寄らず家にもどると、ほどなくして俺の帰宅に気づいたらしい彼が俺の部屋のチャイムを鳴らした。
「携帯家に忘れてったからごめん。出る寸前に上着を変えたから上着に入れっばなしになってた。電話番号とか携帯ないから分からなくて連絡できなかった。」と彼は言い訳をツラツラと俺に告げた。あれほど連絡を待ち焦がれていた彼の携帯は、実際には彼の部屋にあったのか・・・。
そう思うとそれはそれで滑稽だと思えた。あんな小さい塊に俺は何日気持ちを奪われていたのだろうか。
そして言い訳はともかく、携帯は彼の意思で寂しく家に置きざりにされたのだろうことも理解できた。
俺からのラインが何通も何通も到着していたのを見て何を感じたのだろうか。
それは少しは彼の自尊心や承認欲を満足させたのだろうか。
「分かりました。お疲れ様です。」と返事をして、「荷解きもあるでしょうから俺に連絡をしなかったことは気にせず片付けをしてください。」と家に上がることを拒否する態度を示すと、彼は瞳を揺らしたけど「分かった。」と部屋に戻っていった。
彼は久しぶりに会った恋人に『おかえりなさい』と喜んで欲しかったのだろうか。それとも連絡も寄越さない不実な恋人に『何で』と怒って欲しかったのだろうか。
しかし俺はあえて期待に副うような態度は取らずそのまま自室で読みかけの本を読むことにした。
西に向かって行った先のあの駅の売店で、なんとなく買ったミステリが面白くて、こっちに戻ってきてから駅前の書店でシリーズの三冊を一気に買ったのだ。
これは夜更かしする事になるかもしれない。そう思うとわくわくとした気持ちが鼓動までも高鳴らせる。
そうだ、明日は久しぶりに都心の大きな書店に行こう。天気もよさそうだし公園のベンチで本を読みながら近くのおいしいあのパン屋さんで、鳥ごぼうのフォカッチャを買って食べよう。
公園には水鳥がいるからパンの耳なんかも買って行けば楽しめるかもしれない。
そんなことを考えていると、ずいぶん遅い時間にも関わらず部屋のチャイムが鳴った。
こんな時間に訪れる人など一人しか思い当たらない。
ドアを開くとそこには予想通りの人が立っていた。
「お疲れ様です。」もう一度そう告げると彼は中に入れろと言わんばかりに手に持っていた紙袋ごと俺を強く押したので、俺はかかとが玄関の三和土の枠にあたってバランスを崩し、玄関マットの上に尻もちをついてしまった。
高野さんが俺を見下ろして「何で何にも言わねーの?」と眉間に皺を寄せるので「言われている意味が分かりません。」と押し付けられた紙袋を抱えたまま立ち上がって尻をパンパンと手で払って言った。
今までなんにも言わなかったのはあなたでしょ?
心の声は鋭く彼を糾弾しそうになるけど、それを今この人に告げる気持ちはない。
少しの刺激でもドカンとはじけ飛びそうな緊張を孕んだ空気に、ため息だけ一つ残して部屋の奥に行こうとクルリと後ろを向くと、高野さんが俺の腕をつかんで今度は強く引いた。
再びバランスを崩して高野さんの腕の中にポスリと俺が納まると、不遜な顔が少しだけ緩んだような気がして「寂しかったんですか?」と類をなでると「うん。」と俺の髪に顔を埋めた。
「なら俺を試すようなことをしないでください。」少し不満げにそう言うと「帰って来てすぐにお前の部屋に入ったらきれいに片付いていて、電話も繋がんねーし、もう二度と戻ってこないんじゃないかと死にそうな気持ちになった。」と泣きそうな顔で言った。
彼もきっともう俺が彼から離れることはないと過信していたに違いない。
「ずっと俺の事を放置してたくせに。」
「お前に逃げ込みそうで、ひどい事をしそうで自分が怖かった。」
「ひどい事って?放置される以上にひどい事って何があるんですか?」
いじわるな言い方だとは承知していた。でも俺はあなたじゃない。あなたの辛さも悲しさも察して我慢し続けることなんてできない。あなただって俺の辛さや寂しさを分かってくれない。
そう、二人は共に痛みを分かち合えない関係だと思い知らされるばかりなのだ。
肩に頭を乗せている彼に頬ずりをするつもりで首を傾けると、きつく抱きしめていた掌が背中からザっと動いて後頭部をわしづかみにして、荒い息とともに高野さんの唇が俺の口を塞いだ。
ぐいぐいと顔ごと強く押し付けられて息もできなくて、胸をどんと強めに押したけど逆効果だったようで逃がさないようにか腕の拘束はさらに強まっていく。鷲掴みにされた頭は少しも動かすことができず、熱を持った舌が深く差し込まれてあの旅立ちの日に拒否されたことが脳裏をかすめる。
いつだって勝手なんだから・・・。
俺はここに居ます。あなたが俺を疎ましく思っても、不要だと告げてももうどこにも行きません。不安に思うことはありません。
あなたからこの舌が解放されたらあなたにそう告げよう。
そして、あなたが嫌になったらあなたが俺から逃げてください。今回のように追いかけたりはしません。あなたの気持ちはあなたのものなのですからと心の中だけで思うことにする。
俺の心の旅は終わったのだから。
▽epilogue▽
高野さんのキス攻撃からやっと解放されて、部屋で高野さんが好きだと言っていたコーヒーを入れていると「お前今日から休みだったんだよな?」と高野さんは周りを見渡してから不思議そうに言う。
「そうですけど?なにか?」
「いつこんなにきれいに片づけたんだ?校了前で忙しかっただろうに。」
そこか、不思議そうな顔の理由に合点がいった。
一日や二日で片付くような部屋ではなかったことは承知の高野さんだ。
俺が居なくなったのかもしれないと思ってもおかしくはないだろう。
「今回は作家の皆さんも順調でしたのでそれほど困りませんでしたよ。校了は一応まだですけどお休みに合わせてくれたかんじでした。」
と答え、コーヒーとお菓子を目の前のテーブルに置くとそれを見てまた高野さんが目を丸くした。
「きび団子、そんなに珍しかったですか?」
それは乗り換えのために降りた駅で買った団子で、確かにご当地ものだろうけどそんなに目を丸くするほどのものだとは思えない。
「いや、俺も今日買おうかと思ってたから。でも香川に行って別の県の名物買うのもなんだと思ってさ。なんでお前がって思っただけで・・・。」
「ああそれですか。今日行って来たんで。」
「は?」
「朝から新幹線に乗って日帰り旅行してきたんです。昼飯も食ってきました。」
「・・・。」
「豪華な旅行でしょ?それより高野さんも新幹線で帰って来たんですか?」
「ああ、飛行機がうまく取れなくて早く帰りたかったから。」
俺の行動に何か思うところがあるようでうつむいてムグムグと団子を食べながら言う高野さんの姿が何だか可笑しかった。
そうですよ、あなたが恋しすぎてそこまで行ったんです。
そうか・・・、俺たちは同じ場所に同じ頃にいたんですね・・・。
その事実は、運命の神様がまだ俺たちを見放していないと言われたようで、些細な偶然がこうやって重なって俺たちをつないでいるようで、とてもうれしかった。
「高野さん、明日までお休みですよね。お疲れでしょうけど明日は俺とデートしませんか?」
「デート?」
「ええ、面白いミステリを読んだので他に楽しい本を発掘したくなりました。それから美味しいフォカッチャのパン屋さんがあるので公園で食べませんか?」
そう、たった一日しかないけど二人の連休をやり直そう。
そう告げて高野さんの横に腰かけたら高野さんは久しぶりに晴れやかに笑った。
End