今年でもう三十余年生きたはずの私は、最近自らの情緒が不安定に過ぎることを思って、忸怩たる心持ちであった。
ある組織の首長になろうという者が、まして部下の命を背負おうという者が、この体たらく。而立之年をいくらか過ぎた私は、今日も今日とて生まれたての小鹿ぶりに磨きをかけていた。庁舎内執務室へと続く扉の前で突然に襲ってきた格別の動揺が、今まさにノブへと手をかけた私の手を縮こまらせている。
今日この日、着任初日に艦娘たちとの顔合わせがある。
この扉の先に、彼女たちが待っているのだ。
昨日私は医務室で、割と前向きな気持ちに浸っていた。
初めて顔を合わせる艦娘たちもいることだ、できる限り良い印象をもってもらおう。最初はやはり快い挨拶だ、などとあれやこれや企みながら眠りについた。
ーーそのはずだったのだ。
これが何時からなのかは分からない。
或いは早朝目を覚ました時か、或いは制服に初めて腕を通して鏡を見た時か、或いは先刻津田さんに「皆さんもう待っていますよ」と、執務室へ促された時か、判然とはしないのだが、どうにも心がざわついて悲しいほどに寒々しい。
昨日のは、あの白昼夢と同じように、夢だったのかーーー。
半ば逃避的な思考に陥る程、私の心は今、強烈な不安に支配されていた。その正体がわからないこともまた、随分と私を苦しめていた。そうして情けなくも、木製のドアに手をかけた姿勢で、蝋で固められたかのように身じろぎ1つできないでいたのだった。目の前の黒茶に塗られた扉がいまや、1人では絶対に開けられぬ鋼鉄製に見えていた。なぜ私がこうまで苦しまねばならぬのか、と若干の苛立ちすらあった。
その姿勢のまま、たっぷりと5分は固まっていただろうか。遂に弱虫の蝋人形は、意を決して手に力を込めた。古ぼけたドアは、長年まともに整備を受けなかったと見えて、存分に悲鳴を上げながら開いた。一歩進んで部屋に入ると、モルタルの床を革靴が打ち、その音が部屋の中に響いて反った。音に気付いて、視線がいくつか振り返った。その先には10個・5対の瞳が凸凹に並んでいた。
一番低い位置にあったのは、ヒトミさんーーー私と目が合うと、小さく会釈してきた。
一番高い位置にあったのが、赤城さんーーーこちらは薄く笑みを投げて寄越した。
ハギカゼーー恐らく駆逐艦〝萩風〟ーーさんは、昨日のことがあったためか、もう見るから嫌悪に敵意剥き出しで、じろりと白目を向けてきた。
まだ名を知らぬ者が2人。彼女らは心配の多分に混じったような表情であった。丁度さっきの私の様だ。
一方は茶色がかった髪を頭の上に2つ、可愛らしいお団子にしていてーー恐らく昨日神通さんが言っていたナカちゃんこと、同型艦の〝那珂〟であろうーー神通さんや前任基地の川内とよく似たセーラー服に身を包んでいた。艦娘たちの服装は、何ゆえか、同型艦で統一されているのだ。
もう一方は、まだ名前がわからない。完全に初対面である。赤城さんにも劣らぬ艶を持った長い黒髪を後ろに流し、両耳の横からは紅、白、金の錦からなる目出度い髪飾りでおさげを作って、西陣織のような上等の和服を着ている。
神通さんに至っては、もう顔も向けてこない。無言で空を睨んでーー睨むべき目は眼帯で隠れているがーー佇んでいるばかりだ。
赤城さんとヒトミさんはともかくとして、他の4人は銘々が、凡そ悪感情といえるものを、銘々なりのやり方で私に浴びせてくる。期待感などありはしない。私は私で、背中に冷たい汗を流すばかりだ。自分の足に極太の蔦が絡みついたかのように、次の一歩を踏み出すのに苦労した。ゆっくりと歩を進め、執務机に相対するように横隊を形成した彼女らの目の前で立ち止まった。
小さく息を吐き。彼女らに向かい。挨拶を。最初が肝心。最初が。
どれだけ嫌われても、これから何とかしていくのだ、これからなのだーーーここに来てから何度となく繰り返した、早々とめげそうになる自分への激励、或いは説得だった。
「本日。11月1日より、本泊地の部隊司令官に就任致しました。樋口幸平1等海佐です。前任基地におきましては、主に水雷戦隊の指揮を担当しておりました。
この基地におきましても、精力善用務めさせて頂きます。よろしくお願いします」
そこで、敬礼。自分のできる最高の礼をする。すると彼女らはーー長い間、敬礼などしていなかったのか、或いは、私の行動を思ってもみなかったのかーーばら、ばら、ばらと返してきた。
一番早かったのが、神通さんと赤城さん。彼女ら2人は、実に軍人然・武人然とした目の覚めるような動きで、礼も美しく整っている。
ヒトミさんはーーやはりおっとりした性質なのだろうーー前の2人よりも反応がコンマ3秒程遅れてしまった。丁度初めて会った時のようだ。
那珂さんと、名前のわからぬ西陣織さんは周りの様子をみて、慌てた様子で返してくる。
萩風さんは心底不服といった塩梅で、不承不承に形式だけの礼をした。
ーーー君たち一応元海軍の艦だろう、とか、言いたい言葉は飲み下す。最初が肝心。
当時は船だったわけだし、前の上官に対する不信感が相当ある様子だし、そもそも統一感がないのはこの基地の艦娘だけではないし、などと無理な理屈で納得しつつ、また私は口を開いた。
「では、楽にしてください」
私は礼の姿勢を解き、元々けっこう楽にしていた彼女らに「休め」を促して、続ける。
「この基地が非常に特殊な立ち位置にあることは、既に伺っています。普段はシフトを組んで主に近海の哨戒、同時に遊漁船の護衛任務をされている、という風にも聞いています」
先に津田さんと会い、受け取っていた業務日誌。執務室までの道すがら眺めたそれには、この基地での活動記録が書き記されていた。ほぼ毎日「異常認メズ」の一点張りだったが。漁業支援と銘打たれたその任務は、各艦娘が1日1人海へ出て遊漁船を護衛する、というものだった。
遊漁船の護衛ーー漁業支援と言えば聞こえは良い。しかしその実際は、早い話が釣り船屋の付き添いである。深海棲艦が蔓延る海域までは、絶対に行けっこないような、小さな小さな船しかない。まだ陸地の目と鼻の先で、ぼちぼち釣って、ぼちぼち帰ってくる。このご時世にちょっとのんびりしすぎだとも思うが、安全な場所で必要以上に怖がるのは不健康だ。
深海棲艦が現れて以来、釣り人達には我慢の時代になった。できそうなのは、川釣りか磯釣りくらい。海沿いでは、のんびりと糸を垂らしてもいられない場所すらあるし、背に腹は代えられぬ、と暫くの間は水辺から離れていた。しかしこの辺りは、日本海側でも特に平穏だ。過去の業務日誌と現在とを比べるにつけ、出動回数が徐々に増加しているのが見受けられる。
この町は釣り好きにとっての数少ない穴場として、多少人気になり始めているらしかった。
「基地の特性上、他と比べて余計な苦労をしてこられたかと思います。何か困ったことなどありましたら、遠慮せず相談してください。皆さんと良い関係を築くことができれば、嬉しく思います」
緊張の割に、今日は口の滑りが良いではないか。いつもの私ならもう3回ほど、科白を噛んでいよう。ほんのり嬉しくなった。
「さて、何かご質問、乃至この場で言っておきたいこと等、ありましょうか」
沈黙があって、それだけだった。
「ちょっとしたことでも、いいのです。業務の進め方はこうしてほしい、とか。今迄こうだったからこういう風に改善して欲しい、とか。若しくはもう少し砕けた質問でも、なんでも」
やはり沈黙が場を支配した。
別に今言う必要もない話だが、私はただ、会話を試みただけだった。ちょっとしたお喋りだ。まだ〝ぺーぺー〟だった私が、前任の基地に初めて着任した時、大島海将とした気軽な会話で随分肩の力が抜くことができた覚えがあるから、ここでも試してみたのである。
誰かに何かを尋ねることは、会話を試みることだと思う。つまり、その人を知る初めの一歩、とっかかりなのだ。趣味嗜好、仕事の進め方、価値観や考え方など、話してみて初めてわかることがある。
彼女たちと、会話をできる機会を設けたつもりだった。特にありません、といった一言もなく、その機会は放棄されてしまったが。
新参者を爪弾きにしようとしているのか。そもそも私という存在に興味があまりないのか。話すことが嫌いなのか。或いはーー誰かと親しくなるのが怖いのか。
きっと最後のやつだろうな、と私は思った。とりあえず、こんなに少人数で、話し手が促したとあっても、気軽な話や、ちょっとした質問をできる雰囲気にはなれない集団らしい。少し寂しくなりつつも、それでは、と話を先に進めてしまう。私は我慢弱い質で、この沈黙にも耐えられなかった。
「本日はわざわざお集まりいただき、ありがとうございました。各々の業務に戻って下さい」
私が促すと、何人かが動いた。
一番は、萩風さんだった。険しい顔で私に一瞥をくれると、大股歩きで部屋を出て行ってしまった。
そんな彼女の様子にびくびくしながら、西陣織さんと、那珂さんが続いた。2人は小さな声で、失礼します、とだけ言って扉をくぐった。
最後に赤城さんが出て行った。扉の前で少しこちらを振り返り、小さく礼をしたので、私も返した。その表情からは、何も読み取ることはできなかった。
部屋には神通さんと、ヒトミさんが残った。
「シフト表は、確認されていますか?」
神通さんの第一声がそれだった。私は思わず背筋を伸ばした。相変わらず氷柱みたいな声だ。冷たく、鋭い。
「シフト表、此れでしょうか」
業務日誌の表紙裏、型紙に糊付けされたB5のコピー用紙には、「11月 第1週」と手書きで記されている。
「ええ、それです。本日は、この神通が秘書艦を務めます」
相変わらずの平坦さで、よろしくお願いします、と言われたので、私も返した。それにしても彼女には、なぜこうも正確に私の動作がわかるのか。此れですか、と聞かれて、それです、とすぐさま答えるのは、視力を失っている者には不可能ではないか。若干の寒気を覚えつつ、シフト表に目を落とした。そこには艦娘たちの名前が連なっていた。本日の担当はーー。
11/1 ……
月
秘:終日 神通 ……
護:深夜 伊13 ……
護:午前 萩風 ……
護:午後 赤城 ……
「見方は分かりますね?基本的には、その表の通りに業務をこなします。変わってもらいたいときは、個人で相談します」
神通さんが説明してくれる。
「この深夜、午前、午後というのは……?」
「読んでの通り時間帯です。1日3便、遊漁船が出発する時間に合わせて、私たちの護衛任務が発令されます。1便4時間程度で帰ってきます。深夜は2時間程ですが」
いくら平穏な海域とはいえ、この時代に民間の船が深夜の海へ……?なんとまあ命知らずなことかと思った。同時に昨日空母棲姫、もとい赤城さんが真夜中に現れたのはこの深夜任務の帰りか、と納得した。
「出港を控えさせたりはしないのでしょうか……?幾らなんでも深夜に海へ出るのは危険では?」
疑問を口に出すと神通さんは、やはり抑揚なく答えてくれた。
「2回、勧告しました。1度は地域の漁協に、1度は遊漁船の所有者に。しかしどちらも、今迄一度も現れていないのだから、と言って聞きませんでした」
下手をすれば地域の公民館と間違うくらいの、吹けば飛ぶような規模の基地だとはいえ、自衛隊の勧告に対して随分強気なものだ。田舎の人間の強みというか弱みというか。この時代独特の商業機会を得て、俄かに活気づきはじめた田舎町が町興しをやめろと言われて、はいそうですかと止めるわけにも行かない。確かにそれは切実に理解できるのだが、命あっての物種とも言う。今平穏だといってもこれからずっとそうだとは、断言できないはずだ。
ーーー深海棲艦の発生がない海域といっても、海の上なら移動できるはずだ。いずれはこの周辺海域も、のんびりしていられなくなる可能性があるはずだった。
「なるほど………。それで放っておく訳にもいかず、と」
「そういうことです。幸い、暇な基地ですし」
幸い、と言った直後から急に、平坦だった彼女の声に悔恨の色が現れた。彼女は自分自身に向けて、皮肉を言ったのだった。
こちらが悲しくなる声だった。
悔しさと、怒りと、やるせなさの溶液を無理矢理嚥下し、飲み込み切れずに嘔吐して、
口からはみ出た吐瀉物をまた無理に飲み込もうとするような、堂々巡りの苦しみが私の腹に食い込んだ。
「え、と。い、1艦で護衛とは、少々厳しいのでは?複数で艦隊を組んだ方が、漁船も艦娘もより安全だと思いますが……」
気まずくなった私は、すぐに話題を変えた。
「ああ、そんなことですか」
また先ほどの氷柱声に戻った彼女は、私の疑問を切って落とした。そんなこと、って……と呆ける私に彼女は続ける。
「どうせ現れても、はぐれのイ級が関の山ですよ。その位なら1艦で対応できます。
反対に1艦で対応できない規模の敵艦艇群が現れてしまったら、ほとんどこの基地の壊滅と同義なので、そちらも問題ありません」
いや。
いやいやいや。
問題ありだ。大ありにも、ありである。
捨て鉢になりすぎではないか。両極端にも程があろう。
「し、しかし、ですね」
私がなお不満とみて、彼女は追い打ちをかけた。
「毎度毎度2艦以上で海に出て居たら、ここでは凍え死ぬんです」
「と……言いますと……」
意図が汲み取れず聞き返すと、彼女は止めの一撃をくれた。
「燃料がないのですよ。灯油にまで、手を出す羽目になります」
彼女なりの冗談なのだろうか、灯油で艦艇は動かない。しかし、基地の厳しい財政事情を引き合いに出され、もう私は閉口するしかなかった。
「あ……あのぉ………」
さっきから完全に存在を無視されてしまっていた可哀そうなヒトミさんが、おずおずと声をかけてきた。
「わ、わた、し……深夜シフトの……報告、を…そのぉ」
恐る恐るに我々の会話に割って入って来た。意外と勇気のある人なのか、それとも神通さんの酷薄な雰囲気になれているのか。彼女の言葉を聞いて、また神通さんはいつも通りの平坦な口調に戻った。
「……そうですね。では、樋口海佐。ひとまず、本日の執務を開始いたしましょう」
まだ何かありましたらこの後伺います、と彼女はそう言って、執務机横にある秘書艦用らしい椅子に腰かけ、ペンを持った。
「わかりました……。では、ヒトミさん、報告をお願いします」
私は執務机に座り、机に備え付けられたノートPCのロックを解除。報告書様式の文書ファイルを開いた。前任基地でも幾度となく繰り返した、手慣れた作業である。
ーーーもうずっと、こんなことしていなかったな。
ヒトミさんの小さな口から発せられる、小さな声の報告に耳を傾け、それを文書におこす、その作業の最中にふと、そんなことを思った。
突然の、シフト表。
最初の1週間が始まりました。
どうなることやら。
10/2 文章の一部に、本筋とは関係ない矛盾があったため、修正しました。
2/10 ご指摘ありがとうございます。修正しました。