虹を潜れば夢が叶う、という迷信がある。
虹の正体は所詮、大気光学現象に過ぎないと勘付いた科学者たちが、悪戯にでっち上げた迷信だ。
虹は、決して潜れない。望んだものは、手に入らない。
近寄れば近寄った分だけ、嘲笑うかの様に離れるものだ。
***
べちょ、という感触と共に、暗転した世界の中で、果たして私は意識を保っていた。
「………あら?」
闇の中で、瑞穂さんが頓狂な声を発したのが聞こえた。暗がりから、勢いよく何か飛び出して、私の顔面に張り付いたのである。その何かは、ほんのり暖かで、じんわり湿っている。また、若干の異臭を放ってもいる。獣臭さと磯臭さだ。真っ暗な視界の中でも、呼吸音と拍動だけは感じられたから、何かの生物と見当がついた。
両手を掛けて頭から引き剥がすと、その正体はすぐに知れた。何のことは無いーー犬である。
見たところ飼い犬で、首輪には名前らしきものが書かれてある。
〝おもち〟
名は体を表すという諺は、この泥と埃で黒ずんだ彼には適用できないようだった。見た目がどうであれ少なくとも、彼はオスで、犬種は柴犬だった。
動物に好かれるのは、些かも悪い気はしない。顔に張り付かれて視界を塞がれるのも甘んじて受け入れるし、獣臭さもそこまで気にしない。普段なら猫可愛がりーーおもちは犬ーーする所だが、今はどう多めに見ても、そういう場合ではない。
そこにいた全員が、しばし、無言であった。
「あの……これ、ですか?」
「えっ………い、いやぁ………」
那珂さんの反応は微妙だ。彼女らとしても、おもちの登場は想定外であったようである。少なくとも、隠し事とはおもちの存在ではないらしかった。先ほど小さな軋みを見せた場の雰囲気は、良くも悪くも、壊れてしまっている。その原因を作った小さな闖入者は、怯えているのか凍えているのか、体を震わせている。息も少々弱い気がするし、衰弱している様子だ。
なにはともあれ、彼のおかげで、場が弛緩したのであった。
ーーなるほど、おもち。
阿呆なことを考え始めた阿呆の私も、すっかり毒気を抜かれていた。
「………後にしましょう。今は、この子を」
「………うん」
微妙な表情の2人に鍵を閉めるよう頼んでから、私は浴場へと向かった。兎にも角にも、震えるおもちを温めねば。
ぐぉるるる……。
官舎に向かおうと踵を返した私の背後から、あの音がまた聞こえて消えた。
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浴場で、冷え切ったおもちを洗ってやった。
緩やかにしか流れ出ないボロシャワーのぬるま湯は、ここぞとばかりにおもちの汚れを根こそぎ落としていく。おもちは、白柴であった。土と埃で五平餅のようだった彼はーー疲弊していたのであろうーー浴場の床にへたり込んで、今や伸し餅である。
埃はともかく、土が格納庫内であれだけ付着したとは考えづらいし、恐らく迷子だ。暫く外をふらついていたが、この頃の気候に堪えかね、身を隠す場所を探した。氷餅となる前に、何とかあの格納庫に転がり込んだはいいが出口が閉ざされ、出るに出られずーーー。
いや、待て。おもちはそもそも、どのようにしてあの倉庫へ入り込んだのだ。
格納庫の出入口は1つしかなく、1日3回しか開かれない。それも、艦娘たちが艤装を片付けている、ほんの少しの間だけである。震えるおもちが、その僅か数十秒の間に、誰にも見咎められることなく、格納庫の中へ入って身を隠したというのか。確かにあの倉庫、奥に進めば身を隠す場所の100や200、幾らもあろうとは思う。だが、扉が開いているならば必然、入り口付近には艦娘の誰かがいて、艤装の格納作業をしていたはず。また、鍵を持っているのが基地の人間だけである以上、外部の者がおもちを格納庫に入れたとは考えにくい。
艦娘の誰か、或いは津田さんが、おもちをあの中に招いたのだろうかーー。
と、私の思考は脱衣所の方向から聞こえた声で、一時中断された。
「私だけど……入っていい?」
那珂さんだ。どうぞ、と返したら、キュルキュルと音を立てて浴場のガラス戸がスライドした。見ると彼女の腕には、大きめのタオルが抱かれていた。
「その子、大丈夫そう………?」
裸足の彼女は、足をぺたぺたいわせながら、風呂場に入ってきた。
「温めてやっていますが、震えが止まりません。風邪、でしょうかね……。腹も空かせているかも知れません」
「そっか………この基地、ドッグフードなんてないけど、どうしようかな」
おもちは初対面の者にも怯えた様子は見せない。元々人懐っこい性格なのか。或いは嫌がることも出来ない程、弱っているのか。人間ならお粥なのだろうが、犬の場合はどうだろう。雑食だし食べられないことはないと思うが。那珂さんはしゃがみ込み、おもちの頭を撫でながら、心底心配そうな顔をしている。暫く洗ってやったおもちは見違えるようだ。まだ伸し餅状態だが、結構まるまるとしている。この脂肪があったからこそ、このところの寒さにも暫く耐えられたと見える。首輪を指しながら、那珂さんに問うた。
「何処の子でしょうか。心当たりありますか?」
「私たち、町中にはあんまり出て行かないから、分らない………艦娘が基地から外出するには許可がいること、知ってるでしょ?」
彼女は首を横に振った。何となく予想はついていたから、そうでしたね、と返してシャワーを止めた。タオルを受け取っておもちの体を拭いてやる。湯冷めさせるわけにはいかない。首輪に書かれた名前をみて、あぁ成る程ー、といって得心顔の那珂さんに聞いてみると、このタオルは私物なのだという。確かにほんのり桃色、花柄、女物だ。タオルにはおもちの白い毛が相当量、付着しているし、もう使えないだろう。別に私が悪いわけではないのだが、それを聞くと何とはなしに、申し訳なくなった。
「それは……何と言いますか、すみません………。こういうことに使ってしまって」
「大丈夫、大丈夫。タオルなんて、また買えばいいんだから」
あっけらかんとした彼女を見ていると、この基地の誰かが格納庫におもちを招き入れ、外から鍵をかけたというのは、どうしても不自然に思えた。いくら何でも不親切。おもちが寒さに震えていたのは明白で、土まみれだったろうし、まずは湯を浴びせてやるくらいはすると思う。浴場の使用を良しとしなかったとしても、わざわざ格納庫に閉じ込めるようなまね、する必要は何処にもない。やはり、おもちが自らの力であそこに入ったというのが、自然だ。
しかし、そうすると先の矛盾がーーーいや、そうか。前提を間違えたのだ。
〝格納庫に入り口が1つしかない〟という前提が、恐らく違うのだ。犬一匹、入り込めるくらいの隙間があって、そこから入ったとしたらどうだ。あの掘っ立て小屋はどう見てもぼろだし、そんな場所があってもおかしくない。それなら誰にも見咎められることはない。きっとそういうことだ。
心配する那珂さんを余所に、私は些細なことに1人で悩んで、1人で勝手に納得していた。
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おもちをタオルに包んだ後、那珂さんと連れ立って浴場出て、事務室に向かった。偶にくしゃみをするから、彼はやはり、風邪の様である。
「おや、おもちくんじゃないですか」
首輪を見る前に名前をいい当てた津田さんは、ほっこりおもちの首あたりをわしゃわしゃとなで始めた。
「知っているのですか?」
「ええ。いつもお世話になっている八百屋さんの家の子です。息子さんが自衛官だったと言うので、毎回良くしてもらってましてね」
よかった。取り敢えず、返すあてが見つかった。基地で飼う訳にもいかないし、どうしたものかと途方に暮れていたのであった。聞いてもないことをペラペラ話す津田さんに鍵を返し、事情を説明したら、お粥を作ってくれるという。犬もお粥を食べるのだとか。昔飼っていたことがありますので、とのこと。
今おもちは、洗いたてのタオルにくるまって、ほっこりしている。それこそ鏡餅のような、まるまるもちもちの体躯を横たえ、うとうとし始めた。
「ああ、そういえば海佐。格納庫の中は如何でした?」
事務室隣の湯沸室で、棚をごそごそ漁る津田さんが、何とはなしに尋ねてきた。言葉に詰まった私を見て、彼は訝しげな顔だった。そう言えば彼は、中の様子を知っているのか。彼女らが必死になって隠さんとしているものが何か、分っているのか。彼の口調からして、あまり深刻に思ってはいないようだが。
「酷い散らかりようでした。近いうちに片付けなければいけませんね」
チャンスだ、と思った。那珂さんは今、官舎の談話室に、米を取りに行ってもらっている。結局おもちの登場で、うやむやになって今に至るのだが、肝心なところがまだ見られていない。鍵を管理しているということは、津田さんだって中に隠されている何かーーあの唸り声のような音の正体を、知っている可能性がある。
「しかし、肝心のものは、まだ何も」
それを背中で聞いた津田さんは一瞬動きを止めて、そうですか、と短く答えた。
「教えてください。あそこには何が?」
やっとこさ鍋を見つけた津田さんは、私に向き直った。
「質問を質問で返しまして恐縮ですが。那珂さんに止められたのでしょうか。あの場所で」
「ええ、瑞穂さんが偶々帰って来まして。色々あったのですが、この子が現れ、結局有耶無耶に」
おもちの方を向いて、答えた。津田さんは思案顔だが、ややあってから訥々と語り始めた。
「中央から来て、観察なんて仕事をしてはいますがね?私もこの基地、結構長いですから。こう見えて意外と、彼女らに感情移入しているのですよ」
良い娘たちでしょう、と問われた。それに関して特段否定する材料を、私は持ち合わせていなかった。
艦娘は基本姿勢が、一所懸命だ。
大なり小なり性格の違いはある。真面目なのも居れば、物ぐさも居る。言葉がきついのも、活発過ぎるのも居れば、世間知らずも居る。それでも彼女らは、皆が皆、強く、優しく、逞しいのだ。それだけは知っている。この基地に来て、色々言われることもあったが、この基地の艦娘たちだって例外ではないと、本当にそう思う。彼女らの心の根元にはきっと、逞しくも美しい芯が一本通っていると、私はそう信じたかった。
申し訳ないのですが、と一拍おいて、津田さんは続ける。
「正直に申しまして。海佐と、彼女たち。どちらか、と比べてしまうとどうしてもまだ、彼女たちに天秤が傾くわけです」
「彼女らが是としないことを、私だけ抜け駆けして是とするのも、正直どうかと思ってしまう訳です。一番苦労しているのは、あの娘たちなのですし」
「余り焦らず、もう少し待っていただければと、のんびり行きましょうよと、思っていますよ。私としては、ね」
それきり、2人は無言になって、那珂さんが米を抱えて戻ってくるまで、しばらく事務室の音は無くなった。隠れお喋り好きの彼にしては、随分言葉を選んで言っているのが伝わった。
津田さんは、優先順位の話をしたのだ。私よりも彼女らの意見を優先する、とそう言った。
基地の最高責任者たる私は、取りも直さず、津田さんの上官に当たる。津田さんが中央から派遣された人であろうと、この基地の構成員に含まれる限り、それは変わらないはずだ。つまり先刻の言は、上官に歯向かう意思表示、と受け取られても仕方ない程の行為であるわけで。実は先の行為は、凄まじいことであると漸く理解したのは、お粥が煮立つのとほぼ同時だった。
津田さんは犬向けに薄味・水多めで作られた、大根おろしみたいなお粥を冷ましている。犬が珍しいのだろうか、那珂さんは興味津々だ。米は栄養価が高いのですよ、と犬講釈をぶつ津田さんは、酷く痩せて見えた。
彼は望んで、この基地にやって来たのだろうか。
神通さんと赤城さん、そして、彼女らの上官ーー。片手で足りる程の人員しかいない、寒い土地の寂れた基地にやって来て、能天気でいられたとは到底思えなかった。最初に会った時の暗い雰囲気の津田さんと、いま楽し気に那珂さんとお喋りしている津田さんは、どちらが本当なのだろう。家族は居ないのだろうか。父は。母は。配偶者とか、息子、娘。ペットは昔飼っていたそうだがーーー。
事務室の椅子に腰を落ち着け、思案していた私の視界に、ふと1枚の写真が入りこんだ。
津田さんの机の写真立て。プラスチック製のカバーに蛍光灯の光が反射して、キラキラと私の網膜を刺激した。
私は何か綺麗なものに魅せられるように、そこを凝視してしまった。かけがえのない思い出が、そのまま切り取られて永遠になっているような。そういう神秘が、机上に山と積まれた書類の間からSOSを発したように、不思議な力で私の視線を吸い込んだ。
海水浴に来ているのだろう。バックは海で、映り込んだ人たちは皆、水着だ。全員朗らかに笑っている。まず、津田さんだ。恐らく若いころの姿ーー白髪がほとんどない。そして、女性が3人映り込んでいる。1人は津田さんの奥さんであろうか。結構な美人で、切れ長の目が印象的だ。
そして最後に、ヒトミさんが2人ーー2人?
待ておかしいぞ、どういうことだ。彼女は、忍者の類か。分身の術は妖精さんですら会得しているか怪しい所だ。食い入るように写真を見ていると、突然後ろから声がした。
「似てますでしょう?ヒトミちゃんに」
犬講義は終わったらしく、しゃがみ込んだ那珂さんは、寝入ってしまったおもちを撫でている。津田さんがいつの間にか、私の後ろに佇んでいた。
「ご家族の方ですか?」
私の問いに頷いた津田さんは、いつになく柔らかな微笑みを浮かべていた。
「妻の綾香と、双子の娘です。こっちが姉で、こっちが妹。幸い二人共、私ではなく妻の方に似てくれましてね。
けっこう前に、家族で海水浴に来た時の写真ですが、なかなかのもんでしょう?」
津田さんは、親ばかの様相、私は再び写真に目を遣る。見れば見る程ヒトミさんだ。年の頃は、中学生か高校生くらいだろうか。子どもを取り上げて、なかなかのもん、と言われてもピンとこない。だが、確かに双方、切れ長目の美人の面影を受け継いでいるようだから、順当に育てば然もあろうか。多感な時期で、反抗的になる少年少女が多い年頃と聞く割に、この2人は、家族みんなで海水浴に来て、あまつさえなんの衒いもなく笑んでいる。
穏やかな環境で、のんびりと育ったのだろうと想像できた。写真の津田さんを見ると、十数年前であろうと見当がつくから今は2人とも、大学生か社会人になっている辺りか。
それにしても、既婚者だったのか。こんなに美人な奥さんに、娘が2人。子煩悩らしき津田さんは単身赴任。些か酷にも思えるが、家族とはきちんと顔を合わせているのだろうか。
「たまには、家の方に帰れているのですか?」
「ええ、たまにはね。ついこの間、3人の十三回忌があった所ですよ」
〝3人の十三回忌〟。
さらりと投下された爆弾は、私の口から言葉を奪った。それが意味するのは、つまりーーー。
「え………あ、亡くなっ、て……?」
「あぁ、言ってませんでしたっけ。3人とも、事故で。男やもめに半ば自棄を起こし、危険手当のある任務を志願したら、この基地へ配属になりました」
けろりとした津田さんは、躊躇いもなく言い放った。気まずくなって謝ったら、大丈夫です、と返された。津田さんの家族はもう、永遠の人になっているようだった。写真の中で笑う彼女らは、いつまで経っても年を取らずに、笑顔で津田さんの仕事ぶりを見守り続ける。それを寂しいと思う者は、どうやら周りだけらしかった。いや、ひょっとしたら津田さんはーー。
「やはりどうしても、ヒトミちゃんには甘くなってしまいますね。ほら、よく能く、似てますから」
照れくさそうに頬を掻く彼は、充分喋って満足したのか、自身のデスクについて事務仕事を再開した。
***
「さて、海佐。そろそろ、瑞穂さんが待っているかと」
おもちのことは、津田さんが面倒を見ておいてくれると云うから、私はそそくさと事務室を後にした。さっきの今で、いたたまれなかった。那珂さんは名残惜しそうにおもちと別れ、私の後に付いてきた。
津田さんは普段、ヒトミさんだけ〝ちゃん〟付けで呼ぶ。
ひょっとしたら津田さんは、知らず知らず、抑え込んでいるだけなのかも知れない。心の奥につっかえた棘が、無意識下で何か大切なものを引っ掻き続けて、それが何時しか取り返しのつかぬ大きな傷になっていやしまいか。数年前、この基地で初めてヒトミさんに出会った時ーーー今は亡き我が子に瓜二つの彼女に出会った時、彼の心には何が渦巻いたのだろうか。
今。彼は、どんな気持ちでこの基地にいるのだろう。何を思ってこの場に立つのだろう。
聞けばわかる。でも、聞かなかったし、聞けなかった。
お待たせしました。
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