一日の業務を終え、私室の戸を開けたら仰天した。
部屋の中に、あのときの妖精さんが居たのである。
ただ居たのではない。戸をあけた刹那、上から猫くらいの物体が「ぼと」と落ちて来たものだから、気が気でなかった。天井の梁にのぼって、遊んでいたようだ。それに驚いた拍子に足が縺れ、盛大にスッ転んだのを誰にも見られなかったのは、不幸中の幸いであった。
部屋が寒い。見回すと、窓が開け放たれていた。不用心にも鍵をかけ忘れていたようで、彼女は此処から入ったらしかった。
ラベンダー色の瞳をクリクリさせる闖入者は、私の姿を見て、宛ら飼い犬のように駆け寄って来た。平生の私ならば頬を緩めて、撫で殺さんまで撫でるはずだが、今回ばかりは体を硬直させた。
つまり私は、あの白昼夢とその後の強烈な頭痛とが、再び惹起されることを危惧したのである。萩風さんに誤解を受ける原因でもあったわけだ。少なからぬ恐怖の記憶は、熱い鍋に触れた手を引っ込めるように、半ば反射みたいなものとして、私の生理に組み込まれていた。
しかし結局それは、杞憂に終わる。膨大な波濤に押しつぶされるような感覚も無ければ、目の前が暗転することもなかった。ほんのり暖かい、綿毛みたいな感覚が脛の辺りを包んだだけであった。見ると彼女は私の足にすがり、ズボンの裾をもみくちゃにして、遊んでいる。
妙に懐かれたものだ。ここに来てから、妖精さんたちに菓子の類を与えたことは、なかった様に思う。あの時手慰みに遊んでやったのが良かったのか。或いは、人間と交流すること自体、物珍しいだけなのか。何にしても、妖精さんと打ち解けることは基地全体にとって良いことであろうから、歓迎こそすれ忌避するようなことではなかった。そういう理由で私は、制服の裾が刻一刻としわくちゃにされていく様を、黙って眺めたのである。
「………靴下、臭くないか?」
自分でも下劣な質問だと思うが、心配したのは本当だ。何せ今日は、普段より汗をかいている訳だし。だが、彼女は嗅覚を持ち合わせていないのか、私の顔をキョトンと見上げるばかり。確かに妖精さん、鼻らしきものはない。
何でも良いが、私はさっさと風呂に入るべきである。バスタオルと着替えとを持って、浴場に移動する間、後ろからテコテコついて来る者があった。無論彼女ーー妖精さんである。
「君ね、私は今から、風呂に行くんだぞ」
やんわり諫めても首を傾げるだけで、やはり追い縋ってくる。私が散歩にでも行くつもりと、勘違いしているのじゃないか。風呂の前で立ち止まって、ちら、と見遣ってもやはり、彼女はクリクリの視線で見上げるだけだ。そもそも入浴という行為を知らないのか。教えてもくれないし、深く考えるのを止めにして、聞いた。
「じゃあ、一緒に入るかい」
風呂の奥と、私の顔とを交互に見遣って、おずおず踏み出した。イエス、という意味だろうか。では話もまとまった所でーー私が一方的に話しただけだがーーいざ今日の疲れを癒すため、風呂への一歩を踏み出さんとした時、今度は風呂の中から出てくる者が居た。
「おや。どうも今晩は。瑞穂さん、神通さん」
「あ、今晩は……」
「………」
冷えますね、と世間話をしかけたが、えぇ全く、と短く答え、2人は足早に去ってしまった。何処かよそよそしい感じがした。気を取り直して風呂へと進む。脱衣所での妖精さんは、キョロキョロウロウロ、辺りを見回し、徘徊しては、また見回しと、随分落ち着きがなかった。やはり初めて入るのだろう。服を脱いだ私に伴って、浴室に足を踏み入れても、それは変わらなかった。男2人の為に、大浴槽を使うのは勿体ない。浴槽に湯を張るのは、2日に1回。それも大浴槽の隣にある、ごく普遍的な大きさの湯船である。普段は殆どシャワーを浴びるだけの私にとって、湯につかって足が伸ばせるだけで、十二分の贅沢だったが。
ふと見ると、妖精さんは浴場のど真ん中で、所在なさげに佇んでいる。風呂を知らぬ彼女は、何をしたら良いのだか分からない風に、こちらを見ていた。
「ここに入るんだ」
ジェスチャーなら伝わるだろう。見かねて手招きをしてやる。招いたまでは良しとして、妖精さんにとっての適温とは、どの程度のものだろう。かの、おもち君を洗うときは微温湯を使ったが、とかく小動物を風呂に入れる際には、温度に気をつけよと聞く。妖精さんは果たして、小動物扱いを許すだろうか。不安げな足取りで近づいて来た彼女を、持ち上げる。このまま肩まで浸かって100まで数え、というのが相場だが、事はそう単純ではない。そもそも彼女は、服を着たままなのであった。
私の妥協点は、足湯にあった。彼女を浴槽の縁に座らせてやる。生物すべからく、水に浸いた足はバタつかせるのが本能で、妖精さんも例外ではなかった。脚に伝わるお湯の感触が心地よいのと、跳ねる水飛沫が顔にかかるのが面白いのもあるだろう、キャタキャタと子どもっぽく笑いだした。それも暫くすると疲れたようで、静かになる。そこで、じわりと蕩けるように表情を緩めたから、風呂がもつ本来の機能に、彼女も気付けたようであった。
私が体を洗う間、今度は湯を手で掬って遊び始めた。やはり湯の感触が好きらしい。掬った雫が水面に当たり、パチョ、パチョ、と規則正しく鳴るのを確認して、また掬ってを繰り返している。
もしまた一緒に入る時があれば、手で水鉄砲をやる遊びを教えてやろうと思う。それと、浅めのタライでも用意してやるとしよう。そう思って風呂を出た。
私はバスタオルで体を拭く。彼女にも与えたが、どうやら無用らしい。というのも、服から手足に至るまで、その一切が、濡れていないのである。妖精さんは撥水加工であった。今、彼女はタオルで簀巻きになって遊んでいるーーもとい蠢いているーーさながら白いナマコだ。本当に人間の子どもの様で、何から何まで新鮮な反応をするものだから、私もささやかなやり甲斐を感じるのだった。
さて。
私の肩に乗っかって、部屋に着いた白ナマコは、私の布団の隣に陣取った。此の部屋で、一夜を明かすつもりなのであろう。別に構わないが、帰る家とかないのだろうか。艦娘たちの艤装や、工廠・入渠ドックの類いが、彼女らの住み処とも言えようが、何処の所属か判らない。だが神出鬼没の妖精さんだーーひと晩所在が分からなくなったとて、大騒ぎする者も居るまい。
心地良い眠気に包まれた私は、思考するのが億劫で、部屋の電気を消してしまった。
妖精さんの眼が光っているのにも、大して興味は湧かなかった。
白ナマコが外皮を脱ぎ捨て、再び部屋を徘徊し始めても、咎めようとは思わなかった。
彼女が闇の中で何かを手に取って弄んでいたのも、放っておいた。
カチ、という妙な音がしたのも、意識の外に追い遣った。
翌朝その音が、目覚まし時計のアラーム機能を切った音だと気付いた時には、既に始業の10分前であった。うぎゃあ、とかいう見本みたいな悲鳴を上げ、私は飛び起きたのだった。
***
油断した。
この事態を招いた無邪気な犯人を恨めしく思ったが、彼女は煙のように消え失せて、しわの寄ったバスタオルだけが残されている。肌寒さを感じて部屋を見回すと、閉めたはずの窓が、やはり開け放たれていた。
全くこういう時は頭が真っ白になるもので、妙に思考が冷え切っている。寝坊など久しぶりだなとか、総員起こしのない基地も珍しいなとか、シフト制の弊害だなとか、傍観者染みた私が一方にいて、もう一方には、死物狂いで準備を進める私もいた。
隊においては5分前行動が原則なのだが、予期せぬ非番を命ぜられた件の目覚まし時計は、今日だけはせめて妥協せよ、と無言の佇まいを以て申し立てている。早い話がもう5分を切っていた。身だしなみを確認し、布団をーー序にバスタオルもーー畳んだ。
いざ出発となり戸を開けたら、うぎゃあ、とまたもや悲鳴を上げることになった。
本日の秘書艦ーー瑞穂さんの顔が、目の前にあったからだ。彼女もやっぱり悲鳴を上げ、2人揃って尻餅をついた。彼女はノックの体勢だったーー朝食にも姿を見せなかった私を心配して、訪ねてくれたらしかった。情けないやら申し訳ないやらで、一頻り恐縮した。それで結局、始業時刻には1分ほど遅刻したのであった。
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本日未明のシフトをこなしたのは、萩風さん。出来る限り早足で執務室へと向かったが、彼女の姿は見えなかった。着任数日で朝寝坊をかました司令官にいよいよ愛想を尽かしたか、と青い顔をする私に、しかし瑞穂さんは、大丈夫ですよ、の一点張りだ。別に始業時点で報告をすると、決まった訳ではありません、そんなに忙しい基地ではございません、というのが彼女の主張。説得を受け、一応私は冷や汗を引っ込めた。萩風さんは、昼頃にまた来ます、という言伝を残したそうだ。折角まともに対話できそうな兆しが見えたというのに、それを台無しにしてしまったようで後悔した。彼女が来たら謝ろう、と決心した。そして同時に、午前の仕事が完全になくなったことに気づき、途方に暮れた。
ーー何をしようか……。
ここに来てから、たびたび時間の潰し方に悩まされる。贅沢な悩みとは思うが、自分の引き出しの少なさを自覚することは、辛いものだ。資料は粗方漁ったし、有意義な過ごし方と云えば、トレーニングをこなすことくらいしか思い至らない。入院したときも、こんな気持ちだった。個室ではなかったし、テレビ、音楽、音の鳴る類の娯楽は控えさせられた。病院での楽しみといえば、読書くらいしかなかったのだが、今はそれすら出来ないーーというかそもそも、仕事中ずっと読書して過ごすのは、仕事なのだろうか。もういっそ、溜まりに溜まった年休でも、消化してやろうか。午前は訓練室で過ごし、午後に休みをとるーー報告の時に居合わせれば仕事になるのが現状だし、緊急時に顔を出せるようにしておけば、問題ないのではなかろうか。休める時には休んでくださいと、口うるさく言う側が休まないのも、おかしな話かも知れない。モノは相談、津田さんに聞いてみようと、席を立った瞬間だ。
ぐぅ、と腹が鳴った。私は椅子に座り直し、深く項垂れる。
嗚呼、やめてくれ、瑞穂さん。その、躓いて転んだ我が子を眺める、慈母みたいな笑顔は。朝ごはん抜かれてましたものね、という言葉も大変効く。
何かお作りしましょう、と彼女が言った。固辞しようとしたが、瑞穂さんは引き下がらなかった。
「秘書艦は退屈なのです。せめてものお勤め、果たさせてください」
お勤め、と彼女は云うが、秘書艦任務の業務内容は、かなりぼんやりしている。事務処理を任せられることもあれば、作戦立案に意見を求められることもある。
ただ少なくとも今の状況に於て、朝食を用意させるのは筋違いだと思う。好意を断るのは、その人との関係を断るも同然だと祖父に教わったが、いまこの場では適用出来るまい。有り難いのは確かだが、寝坊したのは私なのだ。
しかし、瑞穂さんも頑なだ。また倒れられても困りますから、と痛いところを突いてくる。私は私で、さっさと折れれば良いのに譲らない。腹は鳴る。唯でさえ回転の遅い頭は、栄養不足でいつもよりのんびりだ。
押し問答がいくらか続いて、漸く二人の妥協点が見つかった。私が後日、きちんとお返しをすると約束して、話がまとまったのであった。
***
5分後、我々は事務室にいた。津田さんがいつも通り業務を遂行する隣に座って、瑞穂さんの調理風景を眺めていた。
今、彼女の身を包むのは、ピンクのエプロンだ。その目に痛い蛍光色は、見る人によってはクドく映るかも知れない。しかし、そこは流石に素材の良い瑞穂さんーー如何な衣装もそつなく着こなすもので、器用な手付きで沢庵を刻むその姿は、並ならず画になる。さっきあれだけグダクダぬかした割に、ちゃっかり眼福を享受する辺り、私も男だった。
「そのエプロン、自分で選んだんですか?」
「いいえ。〝ねっとつうはん〟で、那珂さんに選んで頂きました」
「成る程………今度から、赤城さんあたりの趣味を参考にするのが、好ましいかと思います」
「は、はぁ。そうですか………?」
我々のやり取りに苦笑いを浮かべつつ、津田さんが私に尋ねて来た。
「そう言えば、今日の朝はどうしましたか」
「………。昨晩、来客がありまして」
信じて貰えるか微妙なところだが、正直に白状することにした。案の定、津田さんは首を傾げた。彼の云うところ、この基地の妖精さんが人前に姿を現すのは、珍しいらしい。普段はあのごみ集積場ーーもとい格納庫ーーに屯していることが多いそうだ。生憎この基地、艦の数や艤装、施設の充実具合にかけては、悪い意味で他の追随を許さない。妖精さんだってより良い生活環境を求め、他基地に移住するのだろう。数が少ないのも頷ける。
「そういえば、見た目に特徴のある子ですよ。肌も髪も真っ白で、丁度、深海棲艦の様なーー」
そこまで話した時、瑞穂さんが勢いよくこちらを振り返り、驚愕のまなざしを向けて来た。私の顔を凝視したまま聞いてきた。
「も、もう…彼女に会って……?」
「もう、と言われても……彼女以外に、妖精さんを見かけたことないですが……」
「そう……ですか。やはり貴方は……」
その時、津田さんが突然、血相を変えて叫んだ。
「ちょ、ちょっと瑞穂さん!指、指……!」
「え……。あ、あら?」
彼女の中指からズルリと血が流れ、さっきまで黄色かった沢庵と、その下のまな板を真っ赤に染めていた。料理中に指を切ったにしては、血の量が多すぎる。相当深くやってしまったように見えた。
「救急箱……いや、高速修復材のほうが良いか。持ってきますので、待っていてください」
津田さんは格納庫の鍵を持ち、急ぎ足で出て行った。当の本人は不思議と落ち着いて、流し台へと消える血の流れを見送っている。彼女の態度に違和感を覚え、私は声をかけた。
「瑞穂さん……?大丈夫ですか。結構深いみたいですが……」
彼女は、痛がる風でもない。艦娘だから、怪我には幾らか慣れてもいようが、顔を歪める様子すらないのだ。ただぼんやりと、血と傷口とを眺めている。ややあって、ふ、と表情を緩め、呟いた。私は彼女の云った事を、直ぐには理解できなかった。
「久しぶりです。生きていると、実感するのは。こうして、流れているものがあるのだと。まだ私に、暖かさが残っているのだと……そう、実感するのは、久しぶりです」
「はい………?」
手の傷口を胸に抱えながら、彼女は噛みしめるように目を瞑った。
「中間体は、失っていくのです。大切な何かを。生きている頃にあった、何かを」
「そうして、死んだように生きていく………心に傷を、抱えたまま」
「その筈、でした。でも……」
「ヒトミさんは、取り戻した。或いは私も、と。そう思わずに、いられませんでした」
彼女は最後に、そっと見せてくれた。柔らかく隠されていた、心の傷を。
「私が〝痛み〟を感じなくなって、2年ほど経ちます」
小動物良いですよね。
さて、今日の秘書艦は、瑞穂さんです。
会って数日。踏み込みが凄い人ですね。